中篇【壱】 灰色の君と、
評価、感想、作者の糧をよろしくお願いします。
ぴぴぴぴぴ、ぴっ。
なんとも単調すぎる目覚まし時計の電子音を、たった六回鳴らしただけで止めることができた僕はなかなか目覚めが良いほうだと思う。この間『私は目覚ましを止めたことすら気が付かないよっ』と豪語していたお惚け少女とは大違いだ。
暑さで汗をかかないようにと思って薄っぺらくした掛け布団をがばっと剥ぎ取り、うーんと一度だけ手足を伸ばして起き上がる。
シャーっと窓に備え付けてあるカーテンを開け、ついでに窓も開く。何とも晴れ晴れとした太陽が僕を照り付けるのを感じる。しかしまだ七時と早い時間のためか、暑さを感じさせないほどのひんやりとした気持ちいい風が僕の部屋の中に入り込む。
その風で、昨晩から置きっ放しにしてしまっていた、何かが所狭しと書かれた机の上のノートがパラパラと捲られる。
「あー……しまわなきゃ」
目覚めは良いと言ってもすぐに思考能力が回復するわけではない。ぼうっとした頭でそう呟く。
ノートを手に取りすぐさま閉めようと思うが、何とはなしに中身を見てみる。
絵。絵。絵。このノートに描かれている三分の二はすべて自分の描いた絵で埋め尽くされていた。山、海岸、町並み、空。思いつく限りの風景画がそこにはあった。
横を見ると、このノートに描かれているものと同じ場所が写っている写真が大量に散らばっている。自分の絵の原画だ。
――昨日は眠たかったからなぁ、……出来が悪いや。
昨日の日付になっているところのノートを見て、苦笑しながら感想を漏らす。
しかしそこで、いつもと何かが違うことに気が付いた。昨晩確かに自分が描いた絵なのにどこか違和感がある。
それは何か、じっと見つめるまでもなく、深く考えるまでもなくわかった。
――また、端っこに言音の絵が……。
これはもう癖と言ってしまったほうが正しいのではないかとさえ思う。僕はあまりも大量に言音の絵を描いてしまったばっかりに、暇なときや集中しないでぼうっとしているときやわからない問題があるときなど、自分の意中の人物を無意識の内に描いてしまうらしい。この間、自分が自動的に絵を描いているときに意識を取り戻し、これまでにないくらい驚愕した覚えがある。……病気かな、僕。
そんな自分にちょっと失意やら失望やらのマイナスの感情が込み上げてきたとき、何故か急に言音に会いたくなってきた。無性に、あの若干ツッコミ体質のあるチョーク被弾少女に会いたくなってきた。
「学校が、楽しみだっ」
もちろん目的は、あの髪艶美人だ。
「よう、ユッキー」
僕がそそくさと家を出てから数分たって、そんな声が背後から聞こえてきた。
声にしたがって振り向くと、身長にかなり差のある男女の二人組がいた。高いほうである一人は昨日、一緒にケーキ屋に寄ってから帰った友人だ。今声を掛けたのも彼。片手をポケットに手を突っ込んだままもう片方の手を挙げ、こっちに向かって小走りで近寄ってくる。
「やあ」
それに僕も応え、片手を軽く挙げる。
「あ、ユッキーさん!」
もう一人は、突然彼が小走りになったことに少し驚きながらもトテトテと僕の友人の後ろについてきていて、僕に元気な声を掛けた。彼女は、僕と彼が一緒に買ったケーキを献上されてパクパクと貪ったと思われる、彼の妹だ。その効果もあったのか、二人には昨日彼が言っていたような険悪な雰囲気はない。女の子は甘いもので機嫌が直るとは聞いたことがあったが、そんなものは男が作り出した妄言に過ぎないものとばかり思っていた。是非メモしておこう。言音のときに使え――ゲフンゲフン。
「俺たちと会うなんて珍しいな。今日は早いんじゃないか?」
いつも始業ギリギリに学校に着く僕とは違い、この二人は割と早く家を出るらしい。前に一度だけ登校中に出会ったことがあったが、いつも面倒くさがり屋な彼がこんな早くから起きていたなんて、と少し失礼な驚き方をしたのを覚えている。
なんでも、毎朝妹にせかされているらしい。つくづく甘いなぁと思う。
「今日はなんとなくそんな気分でね。早く家を出てみたんだよ」
言音に早く会いたかったからです、なんて馬鹿正直に言うやつがいたら、そいつは恥という言葉を知らないのだろうね。
「相変わらず気分屋だな、お前は」
「君には負けるよ」
「何を言う。俺ほど計画性の高い男はいないだろうよ」
「ケーキで機嫌を取るのは、その計画の一部かい?」
「む……」
それには流石に言葉が出ないのか、ちょっと悔しそうに顔を歪める。それを見ていた妹さんはケラケラと笑っていた。
「笑うな貴様」
そんな妹に強めな態度をとる兄。貴様、なんて二人称は普通に生活していてそうそう聞けるものじゃないと思っていたが、彼にはこれが普通らしい。ちょっとでも怒りを感じたり照れ隠しをしたりするのときなんかに良く使っている。
妹もそれをわかっているのかいないのか、全く気にしていない様子で言う。
「だって昨日のおにぃおもしろかったんだもーん」
「何だと?」
「『すまん奈々。昨日は少し、調子に乗りすぎた……』だってーっ! おにぃのしょんぼりとした表情可愛かったなーっ!」
アハハっと妹さんの笑い声が更に強くなる。
彼女の兄のモノマネがすごく似ていて少し笑ったのは内緒だ。
「おにぃが謝るなんてホントに珍しいよねー。昨日の奈々、そんなに怒ってるように見えた? だとしたら、奈々の演技力も上がったってことかなー?」
「――っ」
「おにぃもまだまだだねー。そんなんじゃ母さんに怒られちゃうよ?」
「…………」
あ、やばい。震えてる。これは、怒ってる。
……ご愁傷様、妹さん。
「もしかしたら父さんにも」
「奈々は確か――――」
「え?」
「最後にお漏らしをしたのは小学校五年のときだったか……」
「……え? …………え、えええええええええええ!?」
「誰にも言わないでって可愛く懇願されたものだ……」
「ちょ、ちょっと待ったああああああああ!!」
「それを無視して母さんのところに行く、って言ったときの裏切られたような表情と言ったら……」
「待てって言ってるでしょー! バカおにぃーっ!」
「……馬鹿?」
耳がピクリと動いて反応する兄。それを見て、妹は顔をさあっと青くする。
もう遅いよ、妹さん……。僕はアーメンと別にキリシタンでもないのに十字架を切りたくなった。
「い、今のは違う! ご、ごめんなさ――――」
ぐるん、と獲物を見つけた獣のような素早さで妹のほうを向く兄。
「ひいっ!!」
二人の少しだけ前方を歩いている僕からはわからないが、妹さんの化け物を見たような反応からすると、彼はものすごい形相をしていたに違いない。
「それを言われたら、黙ってられないなァ、妹よ……」
じりじり、と妹に近づく。それ呼応して妹も一定の距離をとろうと同じ速度で遠ざかる。
「誰が、馬鹿だって?」
両手を掲げ、手の形がワキワキと別の生き物のように動いている。
「あ、あ……」
妹さんの表情は、さながらB級のホラー映画のヒロインのよう。目の前の対象に完全に恐怖していた。
するとトス、と背中にコンクリートの感覚が。後ろを振り向いても、やはり行き止まり。
ぺた……ぺた……。
背後に闇のオーラを背負っている兄が、それでも容赦なく接近してくる。逃げられない。
「いや、……いやあああああああああああああああああああああああああ!!」
絹を引き裂いたような、あらん限りの叫び声が木霊した。
「じゃ、またね……ユッキーさん……」
先程の出来事は、魂の抜け殻のようになってしまった妹さんのためにも黙っておいたほうが良いと思う。
僕たちの高校と彼女の中学へと別れる交差点に出たとき、口から白い煙でも吐いているんじゃないかと思ってしまうくらい生気のない妹さんは、僕と彼女の兄に別れを告げて、自分の学校への道にふらふらと歩いて行った。
「さっきは見苦しいところを見せてしまって、すまんな」
妹をあんなふうにした当の本人は、全く悪びれる風もなくそう言った。心なしか顔が艶々しているように見えるのは決して見間違いじゃないと思う。妹をあんなふうに出来て機嫌がよさそうだ。
「君は実の妹にあんなことが出来るのかい?」
「実の妹、だからこそだ」
呆れる僕に対して、嗤いながらそう言う彼はかなり怪しい。いつか犯罪者になったら面会に行ってあげようと思う。
ククク、と悪役中の悪役中といった感じの雰囲気を醸し出していた彼は、ふと、何かを思い出したらしくいつもの無表情に戻った。しかしそこにはいつもの、見方によっては不機嫌な表情は見受けられない。
非常に珍しいことだが、これは彼が真剣な話をするときの合図だ。自分で気付いているかどうかはわからないけど、僕はそれをこの数ヶ月の付き合いで覚えた。
「どころで」
そう言って切り出した話題は、少なからず僕の心に衝撃を与えた。
「まだ、まごついているのか」
何のことかは考えずともわかった。
彼が知っていて僕がまごついていて、彼が唯一真剣になってくれる話など、これくらいしかない。
「言音のことかい?」
「ああ」
そう答える彼の声はやはり真剣味を帯びている。
彼に相談してから実はまだ日が浅く、一月経つか経たないかといったところだ。それ以来ずっと時あるごとに僕の話を聞いてもらっている。その間だけは始終真剣で、平生の彼とは似ても似つかない。こういう切り替えの早いところだけは尊敬に値すると思う。
一月前に相談を持ちかけたとき、何故か、滅多に笑わない彼に大いに笑われたが。曰く、「俺が気付かないとでも思ったか、馬鹿め」らしい。
自分が馬鹿と言われたら怒るくせに自分で言う分にはいい。彼がそんな得手勝手な考えを持っていると知ったのはこの時だ。
「いい加減、正直に言ったらどうだ」
「…………」
僕は、何も言えない。
「好きで好きでたまりません。貴女の奴隷にしてください、と」
「勝手に僕の気持ちを捏造しないでよ」
いくら真剣な場面であっても冗談を忘れないのは彼の性分であろう。
「じゃあ、俺の雌豚になれ、か?」
「…………ははっ、そんなわけないじゃないか」
「なんだその間は」
こんな風に冗談を交えながらも、僕たちはだんだんと話の核心に迫っていった。
「僕だって、このままじゃいけないと思っているよ」
「…………」
僕は言音が好き。これまでにないくらい大好きだ。これはもうはっきりと言える。
……でも、
「この関係が壊れるのが、怖くてね……」
授業が終わって、笑って、触れて――――何の気兼ねもせずに、言音を見ていられる。
絵を、描いていられる。
「断られたらって思うと足がすくんで、勇気が……」
笑っちゃうよね。
そう言って友人を見ても、笑う様子など微塵も見せない。相変わらずの無表情だ。
――ま、こんな話をしても、反応し辛いよね……。
そう思っていると、隣の彼はおもむろに口を開いた。
「勇気、か……」
何やら憂いの表情を見せる。考えたこともないが、何か自分でも思うところがあるのかもしれない。
しかし次の瞬間には元に戻っていて、急に何か悪巧みを企てている少年のような顔になった。
「お前はあいつが好きで、付き合いたいのか?」
「うん」
答えるまでもない。
そう言ってやると、
「それじゃあお前の後押しをしてやろう」
その言葉の意味がわからず、登校中ずっと、その時の彼のニヤニヤした顔を忘れることができずにいた。