前篇【壱】 ボクの絵は、
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僕は絵が好きだ。
クリムト、マネ、ドガ、ルノワール。モネにゴッホにパブロ=ピカソ。
このような世界史で習うほどの有名人が描いたもの、ではない。これらを特別に嫌悪すると言うわけではないが、やはりあまりにも完成されすぎていてどこか面白くない。
そういう、一般人が二、三回人生をやり直しても手の届かないくらい高額な値段がつくような絵画ではなく、僕と同年代の子――つまりは高校生――たちが描く絵が好きなのだ。稚拙な筆使いや色合いだが、時折見せる素朴で純粋なところのある稚拙美が、僕の心を、まるでゲームセンターにあるクレーンゲームのような確率で、ピンポイントに鷲掴みにしてくる。
こんなことを思う人は少ないかもしれない、というか、僕だけかもしれないが、それでもいい。そのほうがいい。この楽しさを知るのは、僕だけでいいのだ。
趣味というのは人それぞれ。例えそれが周りの人間から奇異の視線で見られたとしても、僕はそれを批判したりしない。
そう、だから。
アイツを描くのは僕だけの楽しみであり、暇つぶしであり、唯一の安如の地なのだ。たとえ周りや当人からとやかく言われようが、やめるつもりなど皆目ない。
今日も僕は、憎たらしくて愛らしい、あの女を描くのだ。
「ここがサインだから――――ここで微分すると――――コサインになり――――」
かっかっか、とチョークを黒板に滑らせる音と共に、ウチの学校の数学教師の声が静まり返った教室内に響く。
「ディーエックスが――――ディーワイで――――」
若くて美人、それに加えて教え方が上手いということで現在学校内で最高評判を受けている教師の、ソプラノの声。
「よってここをユーと置き換えると――――」
朝一番に起きたときに聞こえるウグイスのさえずりのような可愛らしい声で行う数学の授業は、男女を問わず生徒たちの心を掴んでやまない。
まあ、僕には関係ないけどね。
空は快晴。すじ状の巻雲がところどころ水色を覗かせ、壮大に広がりながらどちらともなくゆっくりと進んでいる。まだ四歳くらいの幼稚園児が蒼色だけ使えと言われて出鱈目に書き殴ったような惚れ惚れとするくらい青々とした空は、夏の名残を未だに拭いきれていない気分で照りつける太陽と協定を結んだらしく、この唸るような暑さに更に拍車をかけている。
いつか見たことのあるような鳥が視界の隅を飛んでいるが、その種類はもう思い出せない。
黒板を打つチョークの音の他には、生徒たちのノートとシャーペンが生み出すカリカリという音しか聞こえないが、その中には、真面目に授業を聞いていたら発するはずのない音も混じっていた。
さっさっさ、というシャーペンの先端をノートの上で大きく滑らせるように移動させる音である。
普通なら気付かないくらい小さな音でも、そのゆったりとした動作から生み出される音は明らかに周りから浮いており、一メートルも離れていない隣の席の生徒からさえも横目でちらちらと様子を窺われるくらいである。
さっさっ、かりかり、ごしごし、すうっ。
たった一人の生徒の空間からは、様々な種類の音響が溢れてくる。
途端、多様な音を奏でていたシャープペンシルがぴたっと止まり、それと共に今まで発生していたすべての音もスッと止んでしまう。
そして、この場に一番似つかわしくないであろう音が控えめに響いた。
「ふぁ〜……――――あふっ」
欠伸である。全く授業を聞いてない上に、欠伸なんぞを漏らしている学生らしからぬ行動をとっている生徒がここにはいた。
なんと僕だった。
――……ふうー……こんなもんかな
軽く深呼吸をしながら、自分がノートの上に描いた絵に再び目を落とす。そこにはよくよく見知った人物の顔面が薄いタッチで描かれていた。
白と黒しか使用されていないはずの絵だが、筆圧の強弱を上手く利用し、濃淡がはっきりと出て、何種類もの色を使ったかに見える。まつ毛の先端まで綿密に表現されたその人物の瞳は常人よりも大きく、くりくりとした印象を受ける。鼻と唇は現実のアイツのように小さく描いた。縦と横しか存在しない二次元の中でできるかぎり立体的に描くように心掛けたので、頬はふっくらとなった。
――髪もいつもより上手にできた、かな?
僕は誰に問うでもなく心の中で一人ごちる。
肩よりも少しだけ長く伸びているその髪は一寸の迷いも無い線で表されており、これを描く者の練習量を思い立たせる。実際、いつも一番苦労しているのはこの箇所で、もう何度この曲線を描いたかわからない。絹のようなアイツの髪の毛は一概に表現することができないほど美しいので難しかった。
――うーん、どうしようかなぁ……
僕が迷っているのは、この絵をどうしようかということだ。
何度も何度も描いている絵なので、いつもなら、何の躊躇もせずにごしごしと消しゴムで跡形も無く消し去ってしまうのだが、今回は少し事情が違った。
自分で言うのもなんだが、今までで一番の出来のような気がするのである。コレを消すのは勿体無い。そう思い始めたのだ。
――このページだけ破って、保管するか?
実は以前にもこのような出来事があり、何枚かそういう良い出来の絵はとっていたのである。今回もその中に加えておくことにしよう。
数学のノートだけど仕方ないよね、などと自分に対する言い訳としかとれないことを心中で思いながら、一枚だけを破こうとノートの端を押さえ、ピンと張る。
せーの、と一思いに切り取ろうとすると、
「――――となるからぁ、積分すると、……じゃあここを……ユッキー!」
そのタイミングを見計らったように、数学教師が黒板から振り向きざまにビシーっと人差し指を僕の方に向け、名前を呼んだ。
まったく。いくら自分の担当のクラスだからって、勝手に人をあだ名で呼ばないで欲しいね。生徒と教師の隔たりを全く感じさせない、というのがこの教師の人気の一端であるのだが、限度というものがあるだろうに。
しかしそうは言っても相手は年上。年上を敬うのは至極当たり前のことだし、完璧に無視を決め込むわけにもいかないので、絵のことは後回しにして、とりあえず「はい」と相手に不快感を与えない程度に気だるげに返事をし、椅子を後ろに押し出しながらその場で起立する。
質問はなんだったか、と、絵を一心に描いていたので聞いていなかった先程の授業内容を思い返しながら、今言うべき言葉を探し出す。
結論。
「わかりません」
ちゃんと考えていたら即答できたかもしれないが、質問自体を聞いていないのだから答えようがない。
「……んーと、どこがわからないのかなー?」
そう言って、数学教師は首を傾ける。
しまった、『聞いていませんでした』と答えるべきだったか。この教師の、理解するまで教えるという極限なまでに無駄なお節介具合を失念していた。
「え、と……」
しかし今更そんなことを言うわけにはいかない。この状況をどうやって回避すべきかということに考えをめぐらしていると、呻き声のような不自然な言葉が無意識の内に出てしまう。
「…………」
数学教師はその僕の沈黙をどう解釈したのか、僕以上に困ったような表情を作って首をますます傾げる。
おそらく、地味な生徒によくある、あのイエスかノーかもはっきりしないもじもじした態度を僕がとっていると思っているのだろう。実際、教室にいる皆にもそう見えているに違いない。
「えーっと、……じ、じゃあユッキーは後で先生のところに質問に来てねー! わからないところをビシバシ教えちゃうからー!」
この状態のままでは埒が明かないと思ったのか、数学教師は困惑から焦燥へ表情を変え、後で教えることを約束する。それから質問を取り止めて僕へ着席を促し、次の質問の相手を、教室全体を見渡しながら模索する。
「じゃあ……えー、次はー――」と無意識のうちに出たと思われるそんなことを呟きながら、数学教師は次の相手を探すためにきょろきょろと教室の隅々まで見ている。すると突然、ある一点を見るやいなや、キュピーンと瞳が光ったように思えた。その眼光の鋭さと言ったら、さながら百獣の王のよう。
ああ、またか。
またもや犠牲者が。
若くて美人、加えて教え方が上手というこの学校で最高級位の教師は、チョーク投げという、もはや現代日本でそんなことをやったら上の方から何か言われるんじゃないかと言うまで劣化してしまった技術も、最高級に上手かった。
故に、授業中に寝ているやつなんかがいたら即座に『石灰チョークの舞う頃に祭(命名アイツ)』が炸裂すること請け合いだ。
ひゅおおお、とまるで太極拳のような意味深な動作でチョークを構える。それによって、これから起こることを改めて悟ったのか、周囲の生徒は机の上にあった教科書類をさっと顔の前に持ってきて自分を守る。この数学教師の卓越したチョーク投げはもはや学校中に広まっており、その技術の精密さを疑うものなど誰一人としていないのだが、やはりその某北斗七星を思わせる構えの迫力から自分を守ろうとせずに入られないのだ。
チッ、と何かが擦れた様な音がした、と普通の人が聞いたらそう思うのだが、ここにいる皆は知っている。コレはチョークを投げたときに生じる摩擦の音だ、と。
あ、チョークを投げたな、と皆が認識する前に、実に生々しい蛙を踏み潰したような悲鳴が教室内に大きく響いた。
「あいだあああああああああああああああああああああああああ!!」
チョークを脳天に叩きつけられた生徒が、女という性別を微塵も感じさせないような声を上げる。その耳を劈くような音量は、虎の咆哮にも負けじ劣らないほど強大だ。もう毎度毎度の出来事となってしまっているから当たり前のこととも言えるが、やはり改めてみると、クラスの皆が耳を塞ぐときの素早さは尋常でないと思う。
机に突っ伏して寝ていたその少女は、衝撃でパコーンと強制的に真上を向けさせられていた。もともと静かだった教室に更なる沈黙が襲い掛かる。数学教師はチョークを投げたままの格好で止まっており、女子生徒もただただ天井を向いているばかりである。
先に動いたのは数学教師で、勝ち誇ったような笑みを浮かべて可愛く言い放つ。
「こらっ! 言音ちゃん! 居眠りはダメだぞ♪」
セリフの語尾を高くし、更にはパチっとウインク付だ。
何年も前のかわい子ぶりっ子のような仕草がこの人物にはとても似合っているのだが、今の光景をまざまざと見せつけた後にその態度は無いと思う。一部の男子生徒には、それだけでチョークのことさえも忘れられる、という猛者もいたのだが、そいつらは頭の構造がどうにかなっているだけだと思う。
というのも、その痛みが半端ではないからだ。実際に、チョークを当てられた少女は、その言葉ですぐに我に返ったあと、半泣きになりながらも当然のごとく抗議をし始めた。
「何するんですかぁああああああ!! 脳みそが飛び出たかと思いましたよぉおおお!! そんなことになったら教室全体がモザイクだらけになっちゃいますよぉおおお!?」
実に大きな声である。彼女は今が授業中だということをわかっているのだろうか。
「わかりませんでしたかー? 私はチョークを投げつけたのですよー」
少女の高テンションにもかかわらず、数学教師は自分ののほほんとしたマイペース加減は存続させるらしい。
「そのくらいわかってます!! ていうか投げつけたなんてレベルじゃないでしょう!? 投射じゃなくて発砲です! もはやあなたのチョーク投げはショットガンに匹敵しますよぅ!」
「あらあら、ありがとうございますー」
「褒めてません! もう、毎回毎回先生はっ! 投げる前に一声かけるか揺すって起こしてくれるくらいの優しさは無いのですか!?」
「ないですよー」
「そうでしょう? それなら次からは――――ってないの!? あなたに優しさは欠片も存在しないの!?」
「はいー、一ミクロンも存在しませんー」
「黒! 意外と腹黒いですね先生!」
「はいー、私は昔ゴスロリファッション界の女王と呼ばれていましたー」
「わけわかんねぇ!!」
チョークを当てられたことに文句を言いながら律儀にツッコミを入れるこの少女は、なんだかんだでノリノリである。数学教師の、ボケとも天然ともわからない発言にわざわざ大げさに反応していた。
言音ちゃんと呼ばれ、脳天に白いチョークという名の弾丸を被弾した少女は、実は僕の右斜め前に座っていた。大きな瞳と、一本一本が細いために流動性の高い髪の毛は、自分が描いた人物に限りなく酷似している。
そりゃそうだ。僕はコイツを描いたんだから。
「それはさておき、言音ちゃん。この問題、わかるかなー?」
急に授業モードに入った数学教師が、言音に質問を投げかける。先程僕が答えられなかった問題と同じところだ。それに対して言音はわからなかったのか「うっ」と短く唸り声を上げ、黙ってしまった。寝ていて聞いていないのでわからないのは当たり前のことだが、コイツのことだ、もしもこの授業中誰よりも真面目に聞いていたとしても理解できていなかっただろう。
「言音ちゃーん? どうしたのかナー?」
数学教師もそれを知っているのか、その綺麗な顔には到底似合わない不敵な笑みを浮かべ、更に問い詰める。それに反応しながら「うううう」と唸ることね。ここからでは言音の表情は伺えないが、さぞかし悔しそうな顔をしていたことだろう。
そしてもう諦めることにしたのか、はあ〜、と長々しい溜息を吐いてから答える。
「……うー、わかりません」
数学教師はその発言を待ってましたと言わんばかりの表情を顔一杯に浮かべ、
「うん、自分でわからないと言えることはいい事だねー。じゃあ言音ちゃんも放課後、ユッキーと一緒に職員室に質問に来てね!」
などとのたまった。
新連載したからって、怒らないでね……?
す、すぐ終わるからぁーっ!(泣)




