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マイ・ファニィ・バレンタイン

作者:野々花子
 ほんの悪戯心だったのだけれど、チョコで元カレを殺してしまいました。
 もちろんそんなつもりは毛頭なくてホント茶目っ気というか、ごめん、嘘。少しは死ねって思ってましたし、実際死んだら面白いなと思って、まさか死ぬわけないと思ってたんですけど。
 順を追って説明しますね。えっと、彼とは三年も前に別れてたんですよ。その前に私たちは二年ほど付き合ってまして、別れてからも私はむちゃくちゃ引きずってて、でも忘れなきゃ忘れなきゃって思ってですね、連絡とかしないようにしてたんです。あ、別れたのは彼に新しく好きな人ができたからです。ひどいですよね。まあ、そんで私も別れる時は泣いたり怒ったり寂しがったりすがったりしたんですけど、結局ダメで。彼の意思は固くて。そりゃあもう石のように固い意志で。もともと頑固で真面目な人で、そういうところが好きではあったんですけど、敵に回るとこんなに厄介かと。で、私は最後は潔く別れて、いい女演じるのに早過ぎる年でもなかったので、いい女演じて「お互い、ちゃんと幸せになろうね。もう連絡しないから」とかなんとか言ってムーヴィンオンウィザウチューしたんですね。悔しいから私から。で、実際きっぱり連絡断って前向きに生きてたんです。でも彼のことをひきずってたせいもあってなかなか新しい恋には踏み切れなくて。そうこうしてる間に三年ですよ。年取ると月日が速く過ぎるって本当ですね。その間にアラサーになりました。そして彼が結婚するという話を風の噂で、ごめんなさい、嘘です。ネットの噂で知りました。ストーキングまでは行かない程度にフェイスブックとかツイッターとかあるじゃないですか。全然ストーキングではないです、はい。
 それで三年ぶりにメールしたんですよ。「結婚するって高橋君から聞いたよ! おめでとう!」って。高橋君は共通の友人です。高橋君とも三年連絡とってなかったんですけど、ちゃんと彼に連絡する前に高橋君に「彼、元気にしてるのかな? 私結婚するから、一言連絡とりたくって」って見栄っ張りな嘘までついてアリバイ工作。技術は昔から5でした。なので、ちゃんと彼からは「久しぶり。うん、俺も高橋に聞いたよ。マイも結婚するんだって?」「そうなの。お互い、いい人見つかったんだね。被るもんだね」みたいな微笑ましいメールのやりとりをしてたら電話したくなったんですけど「さすがに電話は今の人に悪いからさ、お互い」みたいなことを彼は言うんです。真面目だから。でもこっちは今の人なんていないわけですよ。アリバイのハリボテなわけですよ。だからそのうちだんだん腹立ってきまして。これ以上やりとりすると罵詈雑言を吐きかねないな、やっぱり私超引きずってるなと気が付いて。そんでまた「じゃ、本当、これが最後ね」ってかっこよく再度ムーヴィンオンウィザウチューしたんですね。でもマジムカつくじゃないですか。眠れないわけですよ、その晩は。
 眠れず悶々寝返って考えてたんですけど、三年間ずっと引きずってる引きずってるって思ってたんですけど、それって、やっぱり彼が好きとか、もう一度彼と会いたいとか、そういうプラスの感情じゃなくて、恨みや嫉妬の感情だな、マイナスの感情だなと気が付いて。私が三年間新しい恋ができなかったのも、仕事とかもいまいちパッとしなかったのも、振り返ってみて大した思い出がないのも、みんな彼に振られたせいだな、と。もちろんそんなわけはなくて、自分の努力不足だとは分かってるんですけど、でもやっぱしちょっとは彼にも責任あるじゃないですか? 少なからず私の人生の歯車を狂わせたんですから。あのまま彼と付き合ってたら、もうちょい楽しい思い出があったはず。もしかしたら結婚もしてたかも。なのに、彼は違う女と結婚するのだという。多少は彼がひどい目に遭ってもいいと思いません? それくらいの弱さ狡さ脆さ儚さは許容範囲で誰でも持ち得るものですよね? あなただって明日は我が身だと思うんですよ。誰だって堕天しちゃう可能性はあるんですよ。漫画でだって、すごい良い子ちゃんの味方が弱い心付け込まれて敵になったりするじゃないですか。その展開って盛り上がるじゃないですか。で、私も盛り上がっちゃったんですね。
 だから、ちょっぴり悪戯することにしたんですよ。近々バレンタインデーだったので、こっそり彼にチョコを贈ろうと。彼のね、職場は変わってなかったので、あのカフェだって知ってたので、さすがに別れてからは行ったことはないんですけど、ええまあ、転職してない異動もしてないってのはフェイスのブックでアイノウだったので。職場にこそっと行って、見つからないように、彼のファンのお客さんとか同僚の誰かかな? って勘違いしそうな「いつもお疲れ様です」だけの匿名のメッセージ付きでね、彼の三年前と変わってないロードバイクにね、引っかけておこうと思ったんです。こっそり。いや、事前にね、二月の二日くらいにね、自転車や駐輪場だけ下調べに行ったんですよ。そしたらすべてが三年前と同じだったので、こりゃ楽勝じゃんって思って。あ、匿名で控えめな感じにしたのは、彼が怪しがって捨てたり食べなかったりするギリギリのラインを狙おうと思ったんです。差出人も書いてないし、なんかヤだな……って思って捨てられたならそれでオッケー。その場合、私の負け。お、誰か分かんないけどチョコくらいまあもらっとくかって思って食べたならそれはそれで良し。その場合、私の勝ち。そういうルールを決めたら俄然面白くなってきまして、ゲームだったらやっぱり罰ゲームがいるよねという発想がムクムクと湧いてきまして。最初はわさび入りとかどうかなって思ったんですが、イマイチぬるい。私の三年間を思うとお腹くらいは壊してほしいじゃないですか。二、三日、のたうち回るくらいのことはしてもらってもいいんじゃないかな。ようし、毒だ。毒入れてみよう。
 グーグル先生は何でも知っているので「毒 簡単」で検索したんですね。そしたら出るわ出るわ、キノコとか煙草とか洗剤とか、私たち毒にまみれて暮らしているのですね。それで色々「致死量」とか聞いたらぽんぽん答えてくれるし、グーグル先生はもうちょっと倫理感あってもいいんじゃないかと思いつつ、メチルアルコールでいくことにしました。何でも、大さじ一杯で致死量、小さじ一杯で障害が残るレベルらしいです。しかも、アルコール中毒と間違えられることが多くてバレにくいんですって。消毒用アルコールだからその辺で買えるし、殺し屋さんとか、ターゲットの飲み物にささっと入れるらしいですよ、トイレに立った隙とかに。うかうかトイレも行けませんね。
 メチルアルコールもアルコールなわけだし、ウイスキーボンボンに決定~♪ というわけでメチルボンボンを自作して、ちゃんと売り物っぽくラッピングして、うっかり死なないようにそれと味が美味しくなるようにちょっとラム酒も入れて、チョコ作りに使ったアイテムや毒物はちゃんと証拠隠滅で即ゴミの日に出して、十四日の朝に彼の職場に行って、ロードバイクが停めてあるのを確認して、可愛い紙袋に筆跡変えたメッセージカードとともに入れて、成功を祈って二礼二拍手一礼して、ロードバイクのハンドルにひっかけて、誰にも見つからずミッションコンプリート。そうしたら、なんか三年間彼のことを引きずってたのが嘘みたいにすっきりしたんです。想いを昇華させるのって大事ですね。
 彼があのチョコを食べても食べなくてもどうでもいい。いや、うっかり死ぬかもしれないし食べないでほしい。ちゃんと幸せになってほしい。でも考えてみると、彼は真面目で実直な人だったので、あんな怪しい贈り物に手を付けないと思うのです。結婚を控えた彼女さんもいることですしね。私も来年のバレンタインはあんなメチルボンボンじゃなくて、ちゃんと新しく好きな人にフォンダンショコラあたりを作ってあげたいなあ! なんて思って、ああ、すっかり新しい恋に向かっていけそう。
 だから私は高橋君から聞いて再登録した彼の連絡先を消し、フェイスブックやツイッターも彼のアカウントを消し、完全に彼の影を生活の中から消しました。そして一晩眠ると、びっくりするくらい彼のことを考えなくなって、生まれ変わったような心地でした。
 二ヶ月後、その年の春にはずっと迷っていた転職にも踏み切りました。仕事の内容は、社会人向けの留学コンサルタント。元々、自分が留学経験者だということもあって、ずっとやりたかったんです。三十前になってから新しい業界に女が飛び込むのは、初め風当たりも強く辛かったのですが、生まれ変わった私は毎日がんばりました。すごく厳しい先輩がいらっしゃって、はじめはいじめられているのかな、って思ってたんですけど、一年が経つ頃にはすっかり仲良くなっていて、先輩も私を一人前にするためにあえて厳しくしてくれていたこともよく分かりました。なかなかできないことですよね。そうして転職して二年目にはすっかり自信もつき、業績もそれにともない上がってきたんです。人生、ひとつ歯車が嚙み合うと、自然と他のものも噛み合ってくるというのは本当で、その時期に留学の相談をお受けしたあるお客様の方と、お付き合いすることになったんです。最初は本当、顧客とコンサルタントの関係で。半年の留学に旅立たれる時にもそんな雰囲気はなくって、でも、留学を終えて彼が帰ってきてから、連絡をくださって。留学先で感じたことを話したいから、ってご飯に誘っていただいて目黒のイタリアンに行ったんです。で、その次の月には付き合っていて、それから半年でさくっと籍を入れることになって、運命の人っているんだなあ、って。それから何年かは私も仕事を続けていたんですけど、やっぱり子どももほしかったんですね。年齢的にギリギリかなって思ったんですけど、三十五の時に授かったので、そのタイミングで休職して、出産と育児で三年間休みをいただきました。本当は三年経ったら復職するつもりだったんですけど、結局そのまま退職してしまいました。その間に何回か大きな地震があったので、関西に引越したんですよね。ほら、オリンピックの前後です。テロ騒ぎも増えてたし……。彼の実家が兵庫の北の方で、田舎と言えば田舎なんですが、穏やかでいいところなんです。お義母さんもお義父さんもすごく優しくって、私のことも息子のこともすごく大事にしてくださって。だから、私もうここに骨をうずめようと決めました。東京でガツガツしてたのが嘘みたい。お正月にはお義母さんお義父さん夫私息子の五人で近くの城崎温泉に行くのが定番になって、すっかり足湯巡りにも詳しくなって、四年目からはそこに娘も加わって。四十でも全然産めますよ、本当、最近医療も進歩してますから。そうしているうちに戦争が起きて、息子が小学校に入って娘が幼稚園に入って、お義父さんにガンが見つかって、でも放射線治療で事なきを得て、アメリカが二つに割れて、娘が小学校、息子が中学校に入って、夫が右腕を失う大ケガをして、戦争が終わって、ワールドカップが再開したらなんと日本が初のベスト4に入って、その影響で息子がサッカー部に入って高校は九州にサッカー進学したいって言い出して夫と相談してたらお義父さんのガンが再発して今度はすぐに亡くなってしまって、でも亡くなる前に六人で最後に城崎温泉に行けて良かったね、ってお義母さんとも息子や娘とも話していたんです。結局、最近政情面で東アジアの不安が増しているから九州は怖い、サッカー進学はいいけど別のところにしなさい、という夫の意見にしたがい、息子は滋賀の古豪の高校にサッカー進学して、二年生の時レギュラーで全国ベスト8まで行ったんですが、三年の時は残念ながら県大会準決勝で負けてしまい、スカウトなどにも引っかからず普通受験で大学に進学し、教育学部に進んで体育の先生になりました。一方の娘ですが、これがなかなか大変で、誰に似たのか小さい頃から絵ばっかり描いていて、中学校を卒業すると「アニメーターになる」って言い出して聞かなくて。せめて高校は出なさいって喧嘩して、そのせいで私と娘はほぼ一年間冷戦状態で、ちょうど旧アメリカと新アメリカの冷戦がはじまったのと同じ時期ですね、我が家も冷戦状態で。夫は右腕を失って以来、なんだか性格も頼りなくなってしまって、お兄ちゃんは大阪の大学行ってるしで、娘が心を開くのはおばあちゃん、つまり私にとってのお義母さんだけという感じだったんです。おばあちゃんは娘が絵の道に進むことを応援していたのですが、いくら今日本が観光産業とアニメ輸出で成り立っていると言っても、アニメーターはどうかと私思ったんですよね。人気職業なだけに競争率も激しいし。でも無闇に否定したいわけじゃなくて、応援はしてあげたい気持ちもあって……。それで、私なりに調べてみたんですね、アニメのこと。そうしたら、たまたまインターネットで娘がエッチな漫画を描いているのを見つけてしまって。もう、そこから大喧嘩ですよ。何考えてるの! まだ十五歳の女の子が! って怒ったんですよね。そうしたら娘の方は開き直って「私はこの作品だけで数万人のフォロワーがいるし、ちゃんと面白いって認められてるの。それに性的だからダメとかおかしい、ちゃんとストーリーもあるんだから! ママは表面しか見てない!」「でも、あなたまだ未成年でしょ!」「だから、そういう表面だけじゃなくて!」「ちゃんと子供らしいものを描きなさい! 本当に才能があるっていうなら、そういうものだって描けるでしょ!」「子どもらしいって何!? 自分の表現をぶつけて何がいけないの!? そんなこと言うママには、人に自慢できるような才能があるわけ!?」「話をすり替えないの! 漫画やアニメが悪い、あなたに才能がないなんて言ってないでしょ、ただ、十五歳で描く内容としては不適切だってママは言ってるの!」「今の十五歳の私にしかこれは描けないの!」って私たちがケンカしていたところに夫が「おい、やめなさい、外にまで聞こえているぞ」って帰ってきて、ちょっと二人ともクールダウンして、それでも私も娘も睨み合ってたら、さらに夫が「もう、お前ら頭冷やせって。とりあえず、どっちか風呂でも入ってこい」って言った時に私も娘もハッと気が付いたんです。
「おばあちゃん、お風呂ずいぶん長くない?」
 そう、私たちがケンカを始める前すでにおばあちゃんはお風呂に入っていて、それから私たちはずっとかれこれ一時間は言い合いをしていました。
「おばあちゃん!」
 娘が先に駆け出しました。
 冷えた脱衣所から熱い湯船に突然入った温度差、いわゆるヒートショックでした。お義母さんはその後救急車で運ばれましたが、翌朝には帰らぬ人となってしまったのです。
 皮肉にも、このことが私と娘に和解をもたらしました。私は、アニメーターになりたいというなら、成人するまでは応援する、けれど、その間はやはりエッチな漫画は描かないでほしいと伝え、娘もそれに了承しました。娘は結局アニメーターではなく、漫画家として、それも同人誌作家として大成するのですが、お義母さんのこともあり、私は娘の進む道に関してはできるだけ否定せずに応援を続けました。それが、お義母さんへの償いのような気がしていたのです。
 息子は大学を出てそのまま大阪で中学校の体育教師になり、サッカー部の顧問になりました。娘は、大手同人サークルの看板作家として、毎年夏と冬に大忙しの日々を送っています。六人で行っていた城崎温泉にも、夫と二人では足が遠のき、そうこうしている内に私たちも還暦を過ぎました。元々、三十五と四十で産んだ子どもたちです。もう少し若くに産んでいれば、もっと娘の気持ちを理解し素直に応援してあげられたのかしら。そうすれば、お義母さんもあんな形で亡くなることはなかったのかもしれません。その時初めて、もう少し早く結婚、出産していれば……と思いました。
 そんな私を見かねたのか、夫は老境に差し掛かって、これまでより私に優しく接してくれるようになりました。もちろん、結婚して三十年、ずっと優しい夫だったのですが、子どもも両親もいなくなり二人きりになったからでしょうか、より私を気遣ってくれるようになったのです。二十一世紀も折り返し、老いぼれた私には理解できないほどに進んだテクノロジーによって、夫の右腕は元通りになっていました。言われなければ、誰も義手だとは分からないでしょう。夫は、その義手を使ってレコードを聴くようになりました。これまでてんで音楽なんて興味がない人だったのに。私と出会った頃は、当時大流行していた大人数のアイドルグループにハマっていた人だったのに、ジャズですって。笑っちゃう。
 夫が義手でかけるレコードは、私たちが還暦の頃には十枚もなかったのが、古希を迎える頃には、三百枚以上になっていました。それも、全部百年近く前のジャズばかり。確かに音楽は二十一世紀初頭で進化を止めてしまい、いわゆるメロディーや歌というものがある曲は、二十年ほど前からはほとんどカバーばかりになってしまいました。娘は最先端の音楽とやらを聞いていますが、私たち旧世代の人間には耳に痛いヘンテコな祭囃子としか思えないのです。だから、今や音楽通を気取る人々は、二十世紀までのクラシック、ジャズ、ポップス、ロックンロールなどを聴くのです。夫はジャズを選びました。きっと友達にすすめられた程度の理由でしょう。何事にもそんなに教養のある人ではないのです。ただ、品はある人です。悪く言えばかっこつけ。だからジャズ。私は彼が夫で本当に良かったと思っています。夫に付き合ううち、私もジャズに少しだけ詳しくなりました。ピアノが好きです。ビル・エヴァンス、ハービー・ハンコック、チック・コリア、ええと、あとはあんまり知りません。夫に笑われますが、彼だって似たようなものなのです。三十年前に、彼は私の紹介で留学に行き、留学先でもなんとか46くらいしか聴いていなかったような人なんですよ。ええと、なんでしたっけ、あれ、坂の名前が付いていた気がします。モーニング娘。はすぐに名前が出てくるのですが、幼い頃聴いたものの方が、年を取ってから記憶は鮮明なのですね。
 息子が結婚し、子どもが生まれ、私たちはおじいちゃんとおばあちゃんになりました。息子とお嫁さんと私と夫と孫の五人で、再びお正月は城崎温泉に行くようになりました。また戦争が起こり、九州で何百人という民間人が亡くなりました。息子に「あんた、九州の高校行くって言うてたことあったねえ」と話し、お嫁さんは「初耳です」と言いました。「サッカーで行きたい高校があったんよねえ」でも、息子があの時九州に行っていたら、このお嫁さんには出会わなかったかもしれませんし、もしかすると今度の戦争で犠牲になっていたかもしれません。私は、あの時九州行きを反対した夫に改めて感謝しました。
 娘も何年かに一度、温泉に参加します。娘には、ある時レズビアンであると告白されました。私も夫も、今の時代、珍しいことではないから、今度お付き合いしている方を連れておいで、と言いました。娘の恋人さんはとても可愛らしい女性で、娘はあまり顔立ちの整った方ではなかったので、夫と二人で「うちの娘でいいのかい」と冗談を言いました。娘の恋人さんは、「いえ、とても可愛らしい方なんです」と微笑んでくれたので、私はとっても安心しました。なんでも彼女は娘の漫画の昔からのファンだったそうで、私が何十年も前に怒ったあのエッチな漫画の頃から読んでいるのだそうです。色々なことが長い時間を経てつながるものです。
 私は病気になりました。二〇三〇年頃から増え始めた脳の病気です。難しいし怖いので、お医者さんの言うことを聞いて、脳の機能が馬鹿になる前にゆるやかに自宅で安楽死する道を選びました。夫も息子も娘もそれでいいと言ってくれました。私は、来年のバレンタインデー頃に死ぬそうです。
「そう言えば」
 カウチにもたれて、私はレコードを選ぶ夫の背中を眺めながら思い出話をします。
「あなたに黙っていたことがあって」
「へえ」
 夫は背中で答えます。
「五十年もヒミツにしてたことがあるのかい」
「そうなの。死ぬ前に聞いてくれる?」
「ぜひ聞かせてほしいな。BGMはない方がいいかい」
「いいえ、ピッタリの音楽を選んで。話すね。あなたと出会う前の恋人の話」
「確かにそういう話はあまり聞いた覚えがないね」
「でしょう」
 私は目を閉じて、五十年前の、二十代終わりの自分に還ります。
「あなたと出会う前の恋人とは二、三年付き合っていて、別れた後もなかなかひきずっていたの。今思うと、当時の私はメンヘラってやつだったのよね」
「今や死語だね」
 夫が背中で笑いました。
「差別用語扱いよ。でね、別れた後に彼が結婚するって聞いて、その時に復讐しようと思ってバレンタインに毒入りチョコを贈ったの」
「ほう」
「あ、あなたに毎年作ってたフォンダンショコラとは全然別物ね」
「安心した」
「あっちには毒は入れてないから」
「久しぶりに食べたいな」
「来年のバレンタインにまだ生きてたら作ったげる。それでね、本当に、比喩とか冗談じゃなくて、本当にチョコに毒を入れたの」
「毒なんてどこで手に入れたの」
「なんとかってアルコール。消毒用のやつ? 飲んだら死ぬのがあるの」
「メタノールだね。今はあまり売ってないんじゃないかな」
「ほら、まだオリンピック前の時代だし」
「じゃあ、売ってたかもね」
「それを入れたチョコを、彼の職場にこっそり持って行って、置いて帰った……確か自転車に置いたかな。名前も書かず、誰からか分からないように細工してね。食べたら私の勝ち、食べなかったら彼の勝ち」
「そこだけ聞くとロマンチックだなあ」
「そこはほら、メンヘラですから」
「そう言えば、ヤンデレって言葉もあったね」
「それは覚えてない」
「賭けの結果は?」
 夫は、レコードを決めたらしく、取り出してプレイヤーに載せました。大きな紙ジャケットはもう百五十年人類を魅了しているし、これからもするのでしょう。本当に素敵だもの。
「私の勝ち」
 夫が針を落としました。
「じゃあ、その彼は毒に当たったの?」
「うん。死んだの」
「そりゃすごい秘密だ」
 夫は笑いました。ビル・エヴァンスのピアノ。
「冗談でもなんでもなく、本当に死んだの。でも、誰にも私がやったってバレなかったの。後から聞いたんだけど、彼はその晩飲みに出かけていて、帰りに酔っぱらって車に轢かれて死んだんだって。共通の知人から聞いた」
 たしか、高橋君。
 ちょっとエヴァンスらしくない、躁状態のような速いフレーズ。それを追いかけるギター。それに置いて行かれないように私は続けました。
「たぶんね、彼は酔っぱらってなんてなくて、きっと帰りに毒入りチョコを食べて、それで苦しくなってフラフラして車に轢かれたんだと思うの」
「確証はないんだろ?」
「でも、確信はあるの」
 私は黙り、夫も黙る。ビル・エヴァンスの速いピアノ。追いかけるギターの人は誰だったかしら。
「それが本当なら、僕は五十年間ずっと殺人犯と暮らしてたのか」
「後悔した?」
「いいや、多分、君が毒入りチョコを彼に贈らなければ、僕と君は出逢っていなかったんだろう」
「そうね」
「じゃあ、それが僕らにとっての最良だったんだよ」
 誰かにとっての最悪であっても。
 私がいまいちビル・エヴァンスらしくないと思うこの曲は、「マイ・ファニィ・バレンタイン」。夫の選曲センスはイマイチだと思う。ジャズを聴き始めたのが六十からだから仕方ない。私のお葬式でビル・エヴァンスをかけてもいいけど、同じマイなんとかでもさ、なんだっけ、ええとそうだ、あれ、「マイ・フーリッシュ・ハート」にしてほしいな。私の愚かな恋心マイ・フーリッシュ・ハート


(「マイ・ファニィ・バレンタイン」了)

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