勝手にさせたれ
女子生徒は彼の名を呼んだ。甘ったるい声だった。彼は一度、あえてその声を無視した。机の上のノートに目を落としたまま、けれど口角が上がるのを抑えることは出来なかった。
「◯◯君ってばぁ」
彼女は彼に近付き、誘うような声で言う。「なんだよ」と彼は振り向きざまに言った。ぶっきらぼうな言い方だったが、笑みを隠しきれていない。
「もう、一緒に帰ろうって言ってたじゃない」
「言ったっけぇ? そんなこと」
「言っ、た!」
彼女はぷくぅと頰を膨らませて怒ってみせた。しかし、恐ろしさが微塵も無い。むしろ彼女の小動物的な可愛らしさが爆発していて、彼は耐えられなくてもうトロけそうだった。
「ねぇ、帰ろ?」
「ちょっと待って!」
凛とした声が教室に響いた。前に向き直ると、教室の出入口の所にもう一人の女子生徒が立っていた。彼女はスラリと背が高く、少しキツそうな顔立ちをしていた。黒く長い髪をなびかせて、彼の方へとツカツカと歩み寄る。すぐ近くで立ち止まると、甘い匂いがふわりと香った。
「◯◯と帰るのは私なの。あなたは一人で帰りなさいよ」
「はぁ?」
初めの女子生徒は警戒の色を顔に出した。まるで威嚇するシマリスのようにクリクリした目で彼女を睨む。
「◯◯君と帰るのはあたし! 朝約束したんだもん! ねぇ? ◯◯君」
「バカ言わないでよ! ◯◯は私のことが好きなの! ◯◯と帰るのは私!」
二人の女子生徒は同時に彼を見た。キッと睨んで「どっちが好きなの⁉︎」と迫る。
ーーそんなこと言われたってぇ。……困っちゃうなぁ。
彼はデレデレとした顔で二人の見比べた。スイートでキュートなロリ系彼女か。クールでビューティーなモデル系彼女か。
ーー二人の美少女が俺を取り合ってケンカしてるぅ……究極の選択だぁ……困っちゃうなぁ困っちゃうなぁ……へへへ……。
その時、彼の携帯電話が鳴った。
彼はVRマスクを外して画面を見た。
『ご飯だよ』
母からのメッセージを確認すると彼はゲームを一時中断、セーブして、リビングへの階段を降りていった。
*
「ただいま」
彼がそう言うと、ソファに座っていた彼女は笑顔で振り向いた。
「おかえりなさい」
「水を一杯くれるか」
「はい」
彼女は台所へ向かい、コップに水道の水を注いだ。彼はネクタイを緩め、テーブルに着く。
「今日はどなたと飲んでたの?」
「◯◯と二人で」
「高校時代の友達ね」彼女はそう言って水を差し出した。
「そう」彼は水を一気に飲み干した。
「どんな話をしたの?」
「うん、◯◯のヤツは相変わらずゲームばっかりやってるみたいでね」
「ゲーム」
「そう。ドリスク、ってやつ」
「『ドリームスクール』。バーチャルリアリティゲームね」
「うん。ヤツが言うには、学生時代を不幸に感じてた訳では無いけれど、恋愛を経験しなかったことを後悔しているらしい。だから、ゲームででも学生時代特有の恋愛を疑似体験できるのは楽しいんだと」
彼女は笑みを浮かべて頷いた。
「ヤツはうっとりした顔で言ってたよ。休みの日は一日中部屋に引きこもってゲームして、それが不健康だっていう自覚はあるんだけど、でも幸せなんだって。自分はモテたことがないから、ゲームの中の可愛かったり美しかったりする女の子に言い寄られるのが、たまらないんだって」
彼は頭を掻いた。心配しているような顔には、小馬鹿にしたような笑みが差し込んでいる。
「まぁ個人の勝手だけどさ。どうかと思うよ、いい年して恋愛ゲームに熱中しているだなんて……」
「人の幸せの形は人それぞれ。そうでしょ?」
彼はコップの底を見ながら鼻で笑った。「模範解答だな」
「あなたは幸せ?」
「……あぁ、幸せさ。仕事にはやりがいを感じるし、給与にも満足している。両親は元気だし、身体は五体満足健康だ。この部屋は気に入ってる。それに、君がいる」
二人は目を合わせた。「私のことを、愛しているの?」
「愛しているさ」彼は言った。「君はどうだい」
「もちろん。あなたを愛しているわ」
「君は、幸せかい」
彼女は微笑んだまま、じっ、と彼を見つめていた。艶めく両の眼が、彼を写していた。
彼女はいつまでも何も言わず、まばたきすらもしなかった。彼は立ち上がると歩み寄り、彼女の顔の前で掌を振った。
「故障か」
彼はそう呟いた。