今日はウソはなしでいこう。
俺がそう、思ったのは母さんがちぎった3月のカレンダーの下にあられた桜の絵を見たとこのことだった。
カレンダーの左上に記されたでかい4の文字。
これは、勝負だ。
俺はウソをつかない。
そんなことを考えて一人燃えている俺の前に、マーガリンの上にイチゴジャムをぬったパンと目玉焼きの下にレタスをしいた皿と、ホットミルクの入ったマグカップの朝食セットを母さんは置いていく。
学校のある平日はチョコフレークオンリーなのを考えると、春休みバンザイだ。
昨日の皮の焦げたサケは辛すぎて微妙だったけど。
「いっただきまーす」
行儀よく手を合せた俺に合わせて、机をはさんで前にある椅子に座った母も手を合わせる。
薄いまくの下で半熟気味に光った黄身が何ともおいしそうだ。
目は目玉焼きにとらわれたままだが、手だけは動かしてパンを牛乳でで押し流していく。
パンを食べ終え、手持ち部分のプラスチック部分にクマの絵が描かれたフォークでレタスを口に突っ込んだ俺は目玉焼きを見つめつばをのむと、にっこりと笑った。
「今日はどこか行くの?」
黄身の部分をさけて白身をさしたフォークを口の中につっこむ。
よし。まだ、あったかい。
好きなものを最後に残しておくクセは、好物が冷めてしまうことがあるから考え物だ。それでも、やはり好きなものを最後にまわすのを止める気はないのだけど。
「ひぃふふぁんふぉ、っふぉふひぇんふぇあふぉぶ」
「口の中のもの食べてから喋りなさい。ほら、口からこぼれちゃってるじゃない」
「……はーい」
今度はしっかり飲み込んでから返事をする。
「まったく、あんたは返事ばっかね。いったい誰に似たんだか」
あえて言うなら父さんじゃないかな。だって、父さんも新聞広げっぱなしで「うんうん」って言ったくせに、次の日になったら約束のことなんて何も覚えてないんだから。
だが、しかし今日の俺はそんなことはない。
俺は学ぶ男。
俺が今日ものを食べながらしゃべることはないのだ。
疑わしそうな目で俺を見た母さんは「で?」と言い直しを要求してきた。
まったく、俺と何年つきあってるんだか。
これくらいの何を言っているのか分からなくなってしまうなんて、がっかりだ。
「しんちゃんと、公園だってば!」
「へー、そうなの」
自分から聞いてきておいて、何ていい加減な返事だ。
ああ、もっと優しくてできたお母さんが欲しい。荘司のおばちゃんみたいな。
ついでに、父さんも辰吾の家のおじちゃんみたいにかっこよくて、机とか犬小屋とか作ってくれて、キャンプにも連れて行ってくれるようなお父さんならいいのにな。
ていっても、母さんができた人な分、荘司は嫌な奴だし、きっと親子って言うのはそうやって釣り合いがとれるようにできているのだろう。
辰吾はおじちゃんによく似てていい奴だけど。妹の理子があつかましくてムカつくガキだから、その辺で釣りあってるんだと思う。
だから、母さんと父さんの出来の悪さと釣り合うために、俺がとってもできた人間だということなのだ。
がははは。
冷めないうちに白身の部分を口の中にほうりこみおわった俺は、ついに黄身に手を出す。
フォークに押されるように曲線を描くコハク色に透けたまくがふつりと破れ、とろりとした黄身があふれてくる。
素晴らしい。なんてキレイなのだろう。
やはり、タマゴは半熟に限る。
黄身が固まっている周囲の白身からあふれ出さないように、フォークで黄身をすくって食べていく。ソフトクリームを食べる時にコーンにたれたクリームをなめていくのと同じ要領だ。
舌の上でこびりつくようにとろけるうすしお味の味わいがなんともまた素敵だ。
うまうま。
「ちょっと、智矢。聞いてるの?」
母さんの声に俺は顔を上げる。まったく聞いてなかった。
ていうか、俺の半熟タイムをじゃまするな。
「なに?」
「もう、いいわよ」
疲れたようにため息をついた母さんは、コーヒーをのみながらテレビをつけて視線をはなす。
俺がテレビをつけたら怒るくせに。
大人って勝手だよ。
母さんの行動に機嫌を損ねながらも、最後の一口に固まっている黄身の部分を食べる。うまうま。
一口のおいしさに機嫌を直した俺を単純だというやつはいまい。
ああ、おいしかった。
「ごちそうさまでした」
手を合わせて俺は目玉焼きののっていた皿におじぎをする。
おいしい目玉焼きさん、今日もありがとうございました。
「はいお粗末さまでした」
テレビを見ながら母さんが手をふる。
母さんに言っちゃいないさ。だいたいおそまつさまって誰だ。
「んじゃいってくるから」
椅子から降りた俺は、残っていた牛乳を飲みきって玄関へとつながる扉に向かおうとしたのだが、母さんに腕をつかまれ足を止める。
「え、あんたどこ行くの?」
さっき言ったじゃないか。
「公園」
ぽかんとした表情で母さんは「あ、そう」と言って、やっと手をはなしてくれた。
玄関に行ってクツをはいている間、俺の口は曲がっていた。
ひひ。お母さんのあの顔。いい気味だ。
素直な今日の俺におそれおののくがいい。
俺は母さんに勝っているのだ。
「くひひひひ」
「なに笑ってるのよ。気味悪いわね」
いつの間にか、後ろには母さんが立っていた。
まだ、なにか言いたいことでもあるのだろうか。
「なに?」
「昼には帰ってくるの?」
「うん」
当たり前だ。昼には帰ってこないとおなかがすくじゃないか。
「そう、それじゃ行ってらしゃい。車には気をつけるのよ」
はいはい。今はやりの後光レンジャーのプリントの入ったマジックテープ部分をはりつけて俺はドアについているノブをひねって外へかけ出る。
「いってきまーす!!」
よく晴れた空に、Tシャツのうえにはおったジャンパーが熱くなるくらいのあったかさ。
四月のはじまりにぴったりのいい日だ。
土手をへだてたコンクリートの壁を曲って直進していくと小さな畑があり、その先をさらに進んでいくと一軒の家家のつぎに信号のない車一台半分くらいの道路があり、道路の反対側には公民館がある。公民館をすぎると、公民館の分へこんでフェンスに囲まれた公園が見えた。
公園にはもう、辰吾と順一に荘司と靖延もそろっていて、サッカーボールをけって遊んでいる。
「お待たせー」
手を振って公園に入った俺に辰吾が気付いて、足もとで受けたサッカーボールを蹴りながら近寄ってくる。
「おせーよ!とも」
「悪い悪い。寝坊しちった」
といっても起きた時点では、約束の時間を数分過ぎた程度だったのだ。
それなら、朝ごはんなんてぬかしてさっさと家を出ろて思うかもしれないが、朝ごはんは大事なのだ。
「え、じいちゃんがぎっくり腰で階段から転げ落ちて救急車呼んでたとかじゃなくて?」
辰吾の後ろから顔を出した順一が頭をひねる。
そんな三日も前に言ったことを覚えているとは、草食動物みたいな顔に似合わず執念深い奴め。
「俺んちじいちゃんにねーよ?」
ひひ。顔がゆるみそうになるが、我慢だ。我慢。
ひひひひひ。
納得いかないように頭をひねり続ける順一の隣で、辰吾が心配そうに俺の顔を見る。
「調子でも悪いのか?」
「別に?今日も花丸に健康」
朝は目玉焼き出し、天気はいいし、むしろ、いつもより絶好調なくらいだ。
「本田。そんなウソツキほっといてボールまわせよ」
でた、イヤミ眼鏡。
不機嫌そうにしわの寄ったみけんの下には汚れたようなそばかすがちっている。
ハッキリ言って俺は、こいつ嫌いだ。
人のことウソツキ呼ばわりするようなやつ好きになれるわけがない。そりゃ、ウソはつくけど。ムカつくものはムカつく。
それに、なんといっても自分にはっきりと敵意を示してくる相手を好きになれるもんか。
「そう言うなって」
にらみ合うように視線を突き合わした俺と荘司の間に順一が入ってくる。
縦に長い顔と同じで身長も縦に長いやつだから、目の前に立たれると反対にいる荘司の顔は見えなくなった。
「どけよ、竹本」
「そういわれてもな……」
順一の向こう側では荘司がまだ、俺にケンカを売りたがっているようだが、俺よりも身長の低い荘司は順一より頭一つ分ほど小さいから押しても順一の体はまったく動かない。
1年の時から水、金に公民館で行われている柔道に通っているのも、順一の体格の良さのもとだろう。
敵じゃなければ、いい壁だ。
「しょーじ。朝から、かっかっすんなって」
口では反抗できずとも、体はてこでも動かさない順一にむきになっていた荘司の手が、辰吾の一言で止まる。
「かっかっなんてしてない」
文句を言いながらも、荘司は俺と順一から距離を置いた。
顔の見えない相手にケンカを売りつづけるほど俺は怒りやすい性格でもないので、もう荘司に対するムカつきはどこかへいってしまっている。
それでも、荘司の顔を見ればまた同じようなことのくりかえしになるのを、いつものことから分かっていた俺は辰吾と話している荘司から目をそらすように公園の中に目をむける。
「辰吾さまさまって感じか」
それまで、何も口をはさまないから気付かなかったが、荘司よりも遠くでボールを追っていた靖延が俺のうしろに立っていた。
母さんと言い、こいつといい。
俺が背後に気を配らなさすぎるのだろうか。
「辰吾の信者なんだよ。あいつ、辰吾にいじめられてるの助けられてるから」
「へえ、意外だな。辰吾はいじめっ子側のがあってそうなのにな」
普通そういうのって口にするか。
思ってるだけにするだろ、友達ならなおさら、
「顔はな。中身はうざいくらい正義のヒーローだから」
「そうなんだ」
感心したように辰吾を見ていた靖延は、荘司を見た後に俺に視線を向けて、にやりと笑う。
「そうなんだ……」
二度も同じことを言うなよ。
靖延は順一と同じクラスということで、去年の夏休みから顔を合わせるようになったやつなのだが、このにやり笑いと急にいなくなったり、出てきたりするわけの分からないマイペースさが苦手で、俺は少し苦手だ。
こういう複雑そうなやつよりかは、荘司のような単純短気なムカつくやつのほうがまだましな気がする。
靖延と目を合わせているに耐えられなくなった俺は辰吾にかけよる。
「なあ、しゃべってないで、つづきしよーぜ」
「お前なあ。ともの遅刻のおかげで、中断してんの分かってんのかよ?」
呆れたと言うような辰吾の顔から、足元へ視線を流し俺は辰吾の足の下で転がっているボールを奪いとる。
「タイム終っわりー」
「あ、くそっ。油断した。追うぞ荘司」
「この卑怯者」
いや、荘司くん。声がマジで怖いんですけど。
振り返った俺と目があった順一が辰吾と荘司の前に立ちふさがる。
やはり、良い壁だ。素敵だぞ。
後ろの三人に気を取られて足元がおろそかになっていた俺は、足元からボールをける感触がなくなっていることに横を通り過ぎて行った靖延を見てやっと気がつく。
もしかして鈍いのか、俺は。
「待てい!」
靖延の背を追う俺の顔が赤くなったのは、動いてるからだけじゃない。
何を喜んでいるのだ荘司、人が後ろを向いている時にボールをさらっていくとは、そいつこそ卑怯者じゃないか。
結局、順一と一緒になって靖延に踊らされていた俺たちは、荘司という小さいわりにねばっこい壁と、辰吾にほうられたパスの高さに苦戦もむなしく敗北した。
悔しいぞ、こんにゃろう。
第一、2対3なんて卑怯じゃないか。靖延のやつ。
バーカバーカ。靖延のアホー。
ぜーはーあらい息をしながら尻と両手をついて仰向けに座り込んでいた俺が靖延に向かって罵倒をはいていると、それに気がついたみたいに顔をあげた靖延と目があい、俺は焦る。
声には出してないぞ。
だって、しゃべれるような状況じゃないもん、俺。
靖延は心の中で汗をかいている俺に気づいているのか、気づいていないのか勝者によく似合う顔でにやりと笑った。
わー、やっぱムカつくよあいつ。
「とも、息あらすぎ。春休みだからって昼寝ばっかしてからだよ」
余裕な顔で、公園の端にある二本の木の間にゴールを決めた辰吾が俺の手を蹴る。
それ以前に、運動量が違うだろう。
ボールを持って逃げた後に、靖延を追って走り回っていた俺と、ほとんど変わらない位置でパスを待っていたお前では。
たった、一週間や二週間ごろごろしてたくらいで、体力が落ちてたまるか。
「ふん、グーたらなやつ。そんなんじゃどうせ、宿題だってしてないんだろう」
「そんなのお前以外のやつはやってないっての」
やっと落ち着いてきた息を大きく吸って俺は言う。
なんたってまだ、一週間以上休みは続いてるんだぞ。
「あ、俺はやったよ」
おれの隣で一緒にしゃがみ込んでいた順一が手をあげる。
落ち着いた息から、しゃがみ込んでいたのは付き合いからだったことがよくわかる。
これは、きっとこいつが柔道を習ってるからだ。けっして、俺が運動不足だからってわけではない、はず。
他の奴が自分ほど息を荒くしていないことに、不安になってくる。
いやな感じだ。今日から、昼寝はやめることにしよう。
やはり、正しい生活習慣って大事だ。
「俺も」
靖延は立ち上がり、服に付いた砂をはらって言う。
このいい子ちゃんどもめ。
間違っているのは俺の方なのか。
「俺もまだやってねーや。ま、入学式の前の日にでも手分けしてやろーぜ」
にんまり笑って辰吾が差し出してきた拳に、砂がくっついたままの左手で作った拳をぶつける。
俺の味方は、辰吾だけだよ。
不優等生バンザイだ。
上から聞こえてきた荘司の舌打ちは無視して、ぶつけあった拳でそのまま辰吾に腕を引かれて立ち上がる。
「あー、なんか走りまわったら腹減ってきた。俺帰るわ」
言ったそばから、あっさり靖延はその身をひるがえしてそのまま去って行こうとする。
思い立ったが吉日ですかい。お前の頭の中は。
「昼飯食ったら帰ってこいよ!リベンジしてやる!!」
「ほいほいっと」
振り向きもせずに靖延はひらひらと手を振った。
「昼から、何かあんのか?」
地面に転がったサッカーボールを拾い上げた辰吾が、俺を見る。
「何にもねーよ」
「ふーん、ならいけどさ」
納得のいかないような顔で公園を出て行った辰吾の顔に、俺が頭をひねってる間に荘司も辰吾の背中を追って出て行った。
今の会話、何かおかしかったような。
なんだろう、なんか、俺がおかしかった気もする。
「じゃあな、智矢」
背中をたたかれ、去っていく順一に俺は手を挙げる。
「ああ、また後でな」
苦笑いを浮かべた順一が手を挙げかえしてくる。
「またな」
「あら、なに帰ってきてるのあんた。ごはん作ってないわよ」
家に帰ってきた俺に、あわてて玄関まで出てきた母さんはあっけにとられたような顔をした。
なんだとー。
俺の昼ごはんが、ない。
チーンと父さんの部屋にあるじいちゃんの仏壇にある金の器を鳴らされたような気分になる。
ありえない。お先真っ暗だ。
目の前を真っ暗にした俺の心が顔に出たのか、母さんが台所に走って行く。
「ちょっと待ってなさい、今から作るから。もう、あんたが帰ってこないって言うから油断しちゃったわ」
「俺帰るって言ったよ!」
「ほら、言ってるじゃない」
あ、あ―――――っ!!
帰る前に辰吾との会話に抱いた違和感の原因はこれか。
母さんも、辰吾も、俺が今日はウソつかないって決めたことを知らないから、ややこしいことになってるんだ。
しかし、ここまできて今日はウソつかないんです。なんて、言うのは何かカッコ悪いぞう。
そんなのヤだなし。
ご飯はないし、辰吾たちには勘違いされてるみたいだし、げっそりだ。
「インスタントものきれちゃってるわ。お米もまだ炊いてないしねえ、買い物行くは夕方に行こうと思ってたから、冷蔵庫の中いいもの残ってないわねー。学校に行く前にいつも食べてるのじゃダメかしら?」
ぐへー、何でそんなすっからかんなんだこの家は。
真昼まにチョコフレークなんてしょぼ過ぎるよ。
「もう、いい」
「え、なにー?」
玄関で言った言葉は、台所にいる母さんには届かなかった。
何度も聞き返されるのって、嫌いだ。
「もういいって!!」
そのまま衝動に任せて俺は玄関のドアをもう一度開いて外に飛び出た。
あのまま、家にいたら食欲に負けてチョコフレークに手を伸ばさない自信がなかったからだ。
ううう、お腹がすいた。
走って公園にもどてきた俺は泣きたい気分でベンチに座り込む。
まだ、お腹がならないことが不思議なくらいの空腹感。
ベンチの横に植えられている木を見上げて、その緑の葉っぱに見入る。
葉っぱって野菜なんだよな。
でも、一度これからご飯が食べれると思っていたのにスカぶりした体には、木を登るような動く気力残っていない。
おれの心は、昼飯にありつけなかったことでくじけてしまったんだ。
このまま、ご飯も食べれず俺は餓死するのだろう。
すごく、そんな気がしてきた。
風が冷たくて、さっきまであたたかかった日差しも雲に隠れてしまったのではないかと、空を見上げるが、そんなこともなく太陽は空がまぶしすぎて白く見えるくらいに光っている。
きっとバカな俺を笑ってるんだ。
ウソをつかないなんて思いつくんじゃなかった。
誰もが当たり前みたいに俺の言葉を反対にとって納得してしまっているから、本当の反対で、本当で言ってる今日の俺の言葉が反対に受け取られてしまっているわけで。
なんて、ややこしいジレンマなんだ。
考えてて、何かわけ分かんなくなってきたぞ。
つまり、子供は素直なほうがいいなんて嘘だったことだ。
俺が素直にしてみたって、ややこしくなって失敗しただけじゃないか。自業自得っちゃ自業自得だけど。
でも、やっぱりそんなの嘘だ。
ベンチの上でゴロゴロやっていた俺は、その目に公園の遊具近くに備え付けられた水飲み場をめにして、立ち上がる。
ご飯がないなら、水で腹を満たしてやる。
腹に入ればなんだって、同じだ。
ラーメンにはいった卵食べたいよー。
ケチャップで落書きしたオムライスが食べたいよー。
親子丼でもいいから食べたいよー。
よだれが流れそうになる口を拭きながら水飲み場までたどり着いた俺は、水の出てくる真上に顔を近づけて口を開けて蛇口をひねった。
「あれ、智也!何してんのお前?」
「わっぷ、げへっごほ」
突然遠くからかけられた声に振り向こうとして、蛇口から噴出された水を顔面に受ける。
最初に口に入っていた水も驚いたせいで気管に入ってしまったし、苦しい。
「な〜に、やってんだよ」
急にお前が声なんか掛けてくるのが悪い。
せき込んで水を外に出そうと咳をするのに忙しい口でそういう代わりに俺は、声の主を、うらめしさ100%の目で睨みつけてやった。
て、おい。なんで、ここに靖延がいんだよ。
俺が、本当のことを言うと、本当の反対で嘘だと勘違いされるわけだから、こいつがここに居るのはおかしいよな。
忘れ物でもしたのか。
頭をひねる俺の視線を無視して、靖延は背中をたたいてくる。
「うーうー」
そこは普通、ポンポンだろ。背中からはバンバンと力一杯の平手の音がする。
喉にもちでも詰まっているのならそれでいいのかもしれないけど、おれの気管に詰まっているのは水だぞ。
止めろって。そんなにたたかれたら、背中にあとがつく。
「はいはい」
俺の抵抗むなしく靖延は背中をたたく手を止めない。
「ごほごほっけへっ止めん、かい!」
のどにやっていた手で、隣にあった靖延のどたまをぶったたいてやる。
結構本気で叩いたから痛かったのか靖延は頭を抱えて、俺の背中を叩くのをやっとやめた。
一応、心配してくれたのだし申し訳ないことをした気もしたが、真っ赤になっているであろう俺の背中のことを思うと、いい気味だ。
でも、お互いさまということで許してやろう。
心やさしい俺は、咳のしすぎで痛みはするが本調子に戻った喉をなでながら靖延を見下ろす。
「なにしに来たんだよお前」
「てー、それは俺が聞きたいよ。ったく、人の親切をあだで返しやがって」
俺は靖延を座った目で見つめ、無言でジャンパーとTシャツをまくしあげ背中を見せる。
「ぶっ」
笑いごとなのかよ。
親切も度を過ぎれば一種の暴力ってことだ。
「くっくっくっくふっふっふ、わ、悪い……」
笑いながら言われると、ムカつくことこの上ないんだが。
「で、お前こんなとこで何してんだよ?何か忘れもんでもしたのか?」
やっと笑い終わった靖延に声をかけた俺を見て、靖延はにやりと笑う。
「は?なに言ってんの。リベンジするってったのお前じゃんか」
なんの嫌味だこれは。
だから、こいつのにやり笑いは嫌いなんだよ。
「んな、顔すんなって。本当だから」
「何が?」
「俺は、お前を待つためにここに来たわけ」
「……辰吾たちも来るのか?」
「あいつらは、じゅんちの家でジェイソン見るってさ」
「………なんでお前ここに居んの?」
辰吾たちがここに来ないということは、勘違いされていると考えた俺の推察はあっているということだろう。
だったら、辰吾たちと一緒に順一の家に行けばいいじゃんか。
「俺はね、約束したら守るの」
なんだよ、それ。
ていうか、今日俺がいて驚いてたってことは。俺がこなくても来てたってことなのか。
だったら、だってら、なんだよそれ。
「ばっかじゃねーのお前?」
「なんとでも。俺はそれでいいの」
ひらりと顔の横で手をまわした靖延の顔は、本当に気にしてないって顔で、俺は困る。
俺の知らないとこで、俺のウソに付き合ってたってことかこいつ。
しかも、そんなの俺全然気がついてなかったし。
「辰吾たちが、止めただろ」
あいつらは俺がウソつくのよく知ってるし。
「お前の言うことは、反対に聞いたら本当なんだってやつか」
わー、なんだその攻略法は。これは、勘違いされるはずだ。
「お前面白いよな。一から十までウソばっかで。俺ならめんどくさくって途中で飽きるわ」
分かってんじゃん。
なら、なんで、お前ここに居るんだよ。
「ウソツキとした約束なんか守りに来るなよ」
あ、自分で自分のことウソツキとか言っちゃったよ。
本当のことだけど。人から言われたらムカつくのに、認めたみたいじゃんか、これじゃあ。
「お前の場合、約束の反対が本当の約束なんだろ」
そういえば、そうなのだろうか。行かないって言った時には、行ってるし。
「そこまでいくとさ、ウソって言うより言葉遊びみたいなもんなんだろうな」
そんなことを言われたのは、はじめてだ。
みんな、俺のウソに仕方なく付き合ってくれているから。
言葉遊びでウソばっかついてるって、俺すごいガキみたいじゃないか。
さっきから、カッコ悪いことづくしだ。
朝は絶好調だと思ったのに、今の俺、絶不調だよ。
「だから、お前がウソつくのは別にいいんだけどさ。俺は駄目なんだ」
「駄目って、俺はウソはつかないぜっていう?」
あ、やべ。ちょっと馬鹿にしてるみたいな言い方してしまったかも。
「そう」
俺の杞憂を吹き飛ばすみたいに、いつも通りの顔でにやりと靖延は笑った。
「それに、別に一人で時間つぶすのとか平気なんだよ」
「でも、一人で時間つぶすのと、人待つってのは違うだろ?」
「違うのかな。ま、そうかもしんないけど、別に一人で待ってってもなんてことないんだよ。あ、クラスで一人とかはもちろん嫌なんだけどな」
俺だったら、10分は待ってもそれ以上こなかったりしたら、待たないぞ。
「それにさ、お前がそういうやつだって分かってきたから、最近はこーゆーのも用意してきてるんだな」
ジャージのポケットやら腹や背中から、漫画や駄菓子をぼろぼろとこぼしていく靖延は投げやりなマジシャンのようだった。
確かに、これだけ持っていれば最初から一人で時間をつぶす気満々だったのだろう。
「てことで、俺はお前のウソに付きあっても、損したとか思わないわけだ」
「でも、やっぱ馬鹿だよ、お前」
そんな一人で時間つぶしたりするくらいなら、辰吾たちと一緒に順一の家に行った方が楽しいのに。
「馬鹿はお前の方だよ。最後まで聞けっての」
「馬鹿って先に言ったほうが馬鹿なんだよ」
イーと歯をかみ合わせて口を開けた俺は、言い終わった後で気づく。
バカって先に言った方が馬鹿ってことは。
「つまり、お前が馬鹿ってことだ」
にやりと笑った靖延は、俺の胸を手の甲で叩く。
くっそー。またそれか。
ていうか、俺の馬鹿。あ、また認めてしまったぞ。
こいつ話してると、すごく自分がだめな人間に見えてくる。
ウソつきだし、ガキだし、馬鹿だし。
うう、自分をやめたい。
「今日、お前がここにいて、俺は嬉しかったよ?」
そりゃあ、毎回約束するたびにこないやつを待ってたてら、来たときの感動は倍かもしんないけどさ。
でも、それじゃあ、俺すっごくひどいやつじゃないか。
「そんでもって、俺は自分のそういうとこ嫌いじゃないなってこんな時に実感できる。だから、今日もお前との約束を守ってよかったって思ってるよ」
もしかしたら、こいつはすごいやつなのかもしれない。
俺は記憶が残っている一番小さい頃にはもう、父さんとの約束をとっくにあきらめてしまっていたから、そう思った。
守られない約束を守り続けるなんて、馬鹿みたいだけど。
結構、カッコいいかもしれない。
「ったく、サッカーボール忘れてきたなんて信じられないやつ」
「はいはい、さっきまで人の菓子全部食ってマンガ読みあさってたやつが文句言わない」
「ううっ」
だって腹は減ってたし。サッカーボールもないんじゃ、こいつと顔を突き合わせてなにしゃべればいいかとか分からないし。
おれなりに頑張ったすえのそれなのだ、お菓子のことはおいておいて、靖延がサッカーボールを持ってこなかったことでおじゃんでいいじゃないか。
公園の出口の前に立った民家と民家の間から光だけで存在感をしめしている夕日が、これまたまぶしい。
「なあ」
「んあ?」
間の抜けた返事を返した俺を靖延は、笑う。
俺は、こいつの笑っている顔ばっし見ている気がする。
無表情ってわけでもないし、感情表現が乏しいわけでもないけど、大抵こいつはどんなことでも笑ってすませてしまうから。
俺は、ムカつかされて怒ったり、悔しがったり、困ったり、焦ったりして疲れているのに、何か卑怯だ。
不平等だ。
いつか、こいつが怒るのリアクションをせずにいられないウソをついてやる。
「明日も来るんだろ?」
今日一日で、いやになるほど見せられた、にやり笑いだ。
この顔一つで、俺はまた悔しくなるんだ。
なんか、本当負けてる。
でも、だからこそ、明日こそは勝ってやるのさ。
「こねーよ」
俺の一言に靖延は噴き出したまま笑い始める。
笑い上戸なやつだ。
自分がウソをつくのが駄目で、人を信じるのが大好きな笑い魔。
その顔に屈辱を刻み込んでやるぜ。
「あ、明日は、忘れ、ずにボール。持ってきてやる、よ。くはっははっ」
「だから、こねーっての!」
笑いで震えた声が、ムカつく。
「すねんなって、兄貴の菓子箱からまた、なんか適当なのとってきてやるから」
あのお菓子おまえのじゃなかったのかよ。
なんかこいつって、想像してた異常に、複雑なやつみたいだ。
まったく、俺はこんな馬鹿なやつ大嫌いさ。
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