アリア
冬の童話祭2015に参加するために書いた作品です。
とても寒い夜でした。ベッドの中のアリアは暖かったけれど、ベッドの横に座ってアリアが眠るのを見守っていた母は、きっと寒かったでしょうね。
それでも母は、身を縮こませることもなくアリアを優しげに見つめていました。
「おかあさん、何かお話をして」
「それじゃあ赤ずきんを」
「ちがう。あかずきんのお話は知っているわ」
「それじゃあ灰かぶり姫のお話を」
「それも知っているの。ねえおかあさん、何かお話をして」
微笑みはそのままに、母はアリアに少しだけ顔を近づけました。
「可愛いアリア。それじゃあ、アリアも知らないお話をしてあげましょうね」
想像してごらん、と母は静かに言います。聞いたことのないお話の始まりに、アリアは胸をときめかせました。
「あるところに、裕福な生まれの娘さんがいました。美人ではないけれど、白いドレスの似合う大人しい娘さんでした」
アリアは、母の言う通り目を閉じて想像してみます。それは、白いドレスを着たアリアと同じくらいの年の少女です。
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ピアノにバイオリン、バレエにもちろんお勉強も。習い事は全部辛かったけれど、エリーナは何不自由のない暮らしをしていた。両親は優しく、家は暖かい。幸せだった。
彼女の街には城がある。王様や王女様や王子様が、すぐ近くで暮らしていた。
そして、エリーナの父は王様と遠い親戚だった。
だからなのか、城にお呼ばれしたこともあったし王子様やその親戚の子達が家に来たこともあった。親戚といっても血の繋がりはなく、エリーナの家と王家の暮らしはまるで何もかもが違っている。エリーナは彼らが苦手だった。
王子様はエリーナと同じ年で、リーといった。彼が、狭い視野の中で貴重な同年代の異性であるエリーナを好いていることをエリーナは知っていたが、どうにもそういう対象としては見ることができない。そんな十代だった。
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目を開けて、アリアは唇を尖らせます。
「どうしてこの女の子は王子様を好きにならないの?」
おとぎ話のお姫様は絶対に王子様に恋をすべきだ、という強い主張をはらんだ問い。母は優しく微笑みました。
「なんででしょうね。もしかしたら、ずっとお城にこもっている王子様が自分よりもモノを知らないっていうことが、つまらなかったのかもしれないわね。わからないわ、人の気持ちって」
わかったわ、続けて、とアリアはまた目を閉じます。
「それから、彼女にはお友達がいたわ。狼の子供で、彼女はその子を弟のように可愛がっていたわ」
「ええ、おおかみの子は可愛いものね。大人になるとこわいけれど」
「狼の子も、彼女のことを姉のように慕っていた」
「でもどうかしら。狼と人間で、姉弟のようになれるかしら」
「そうねぇ……どうでしょうね。ほら、想像してごらん」
そう言われて、アリアはもう一度ドレスを着た少女を想像してみます。今度はじゃれつく子犬のような狼も一緒です。
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狼の子には名前がなかったから、エリーナが「アル」とつけた。「AL」でアルだ。彼は気に入ったようで、自分の事をしきりにアルと呼んだ。
「アルは、エリーナの友だち?」
「そうよ。アルはエリーナの友達だし、エリーナはアルの友だちよ」
アルは森で、家族と共に暮らしていた。昼になると決まってエリーナの家に来る。
エリーナの両親は黙ってアルに肉を食べさせてやり、アルの家族の分も包んでやった。
だけれど夜になると、エリーナの両親はエリーナに言うのだ。「あの子は狼だから、本当は家にあげてはいけないんだよ」と。
いい狼もいるかもしれない、とエリーナが言うと、両親は決まって困ったような顔をした。そして次の日も、エリーナはアルと庭を駆け回るのだ。
そうして七年の月日が経った。
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「アルはいい狼だったのね?」
眠たげに目をこすりながらアリアはそう尋ねます。そうねぇ、と母は微笑みました。
「きっと可愛い狼だったのね」
それなら私も飼いたいわ、とアリアは言います。ペットではないのよ、と母が今度は苦笑いをしました。そう、エリーナという少女にとって、アルはよき友であったのです。
「それからどうなるの?」
「七年経って、エリーナは十八歳になるのよ」
「もう大人ね」
「そう……そうね。でも十八歳のエリーナは、大人じゃなかったかもしれないわよ?」
「なぜ?」
想像してごらん、と母はささやきました。もう一度アリアは目を閉じます。もしかしたらそのまま眠ってしまうかもしれない、という予感を抱きながら。
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十八歳になったエリーナに、例の王子様がプロポーズをしてきた。その頃には王子様も知識をつけて、エリーナから見ても素敵な紳士になっていた。
エリーナはドキドキしながら「明日まで考えさせて」とひとまず返事をした。答えは決まっているはずだった。だけれど交際もなしでいきなりのプロポーズだ。すぐに返事をするのははしたないことのように思えた。
「どうしよう。どうやって返事をしよう」
何か特別なお返事がいいのかしら、とエリーナは頭を悩ませる。そんな特別な発想なんて、エリーナにはない。
こんな時に限って、とエリーナは思う。
「こんな時に限って、アルは来ないのね」
相談をしたかったのだけれど、アルはその日、夜中までエリーナの家にはこなかった。
そしてその日の夜、十二時の鐘が鳴る頃。
アルは泣きながらエリーナの家に現れた。窓からその様子を見て驚いたエリーナは、急いで外に出る。
「どうしたの、アル。あらひどい怪我」
「追いかけられたんだよ。アルが狼だからだ。じゃあどうすればいいんだろう。わからないよエリーナ」
まさか、とエリーナは思う。狼だからっていうだけで、追いかけられて怪我を負わされるわけがない。
しかし怪我をしているのは事実だし、アルはひどく怯えている。
「可哀想なアル」
「こわいよ」
近頃、確かに狼への風当たりが厳しくなっていた。狼は危険な生き物だ、という認識を新たにしなければならないような事件が続いたからである。でもそれは、アルとはまるで関係がない。
「こわいよ、エリーナ。きっとまた追いかけてくる」
「それじゃあ逃げなきゃ」
「いやだよエリーナ。アルは、エリーナのこと好きだ」
上目遣いで見られたエリーナは、どぎまぎしてうつむいた。エリーナもアルのことは好きだ。
「じゃあ、一緒に逃げましょう」
「ほんとう?」
明日には。
王子様にプロポーズの返事をしなければならない。王子様はきっと待っているだろう。エリーナはプリンセスになる。だけど、
すっかり大きくなって狼そのものの風貌になったアルを見つめる。
きっと王子様はエリーナがいなくても大丈夫。でも、アルにはエリーナがいなければならない。
そう強く思った。だから、
「この町を出ましょう。大丈夫、ちょっとしたら帰ってくればいいわ」
アルを追いかけている人たちが飽きる間、ちょっと出かけていればいいのよ。
そう心の中でうなづいて、エリーナはそのままアルと町を出たのだった。
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アリアは思わず身を乗り出して母の話を聞きました。
「王子様にプロポーズされたのに?」
「ええ。お友達が困っているんですもの。エリーナは放っておけなかったのね」
そっかあ、とアリアはもう一度ベッドに横になります。一番仲良しの友達の顔を思い浮かべて、「それじゃあ仕方ないわね」と呟きました。
「それからどうなったの? アルを追いかけていた人は追いかけるのをやめたの?」
「どうでしょうね。エリーナにはわからなかったと思うわ。だけど確かなのは、初めての暮らしにエリーナがすっかり夢中になってしまったってことよ」
どうして? とアリアが不安そうに尋ねます。アリアにとって「新しい暮らし」というのは不安なものだったからです。
「今までエリーナは、優しい両親がいて何不自由ない暮らしをしていて、とっても幸せだったでしょう? だけどきっと、誰にも『これをやれ』『あれをやれ』って言われない暮らしも楽しかったんだと思うわ」
「そうね、それは楽しいわね」
「エリーナは帰る気がなくなってしまって、ずいぶん長い間アルと暮らすの」
アルはとてもいい子だったし、一緒に暮らすのは楽しかったのね、きっと。想像してごらん。
母の言う通り、アリアは目を閉じて想像します。十八歳の女の子と、狼の子の家です。パイのいい匂いはしただろうかとそればかり気になりました。
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森の奥の壊れかけた小屋で、エリーナとアルは暮らしていた。本当に姉弟のように仲良しだった。
暮らすためには働かなければならなかったし、自分で何もかもしなければならない。それでもエリーナは、家に帰りたいとは思わなかった。今の自由を手放すことができなかったのだ。
エリーナもアルも、二人きりで全く寂しくなかった。毎日窓辺にとまる小鳥とお話をしたり、森を散歩したりするのは何より楽しかったのだ。
ずっとこのまま暮らしていけたら、なんて思っていたわけじゃないけれど。きっとこのまま暮らしていけるんだろう、と思っていた。
アルが連れて行かれてしまった日を思い出すと、エリーナはそれからずっと後になっても俯いてしゃがみこみたくなるのだ。
それは、エリーナがお仕事から帰ってきた時だった。
エリーナが鼻歌をうたいながら家路へと急いでいると、エリーナたちの住処に男の人が入っていくのが見えた。泥棒かしら、と背筋が凍る思いがして、エリーナは恐る恐る近づいていく。
すぐに男たちが小屋から出てきた。アルをしっかりと抱きながら。
「待って!」
思わずエリーナは駆け寄る。男の人たちは立ち止まってくれない。
「エリーナ! エリーナ!」
男の人の腕の中で、アルがもがいた。
ようやく追いついたエリーナは、男の人の腕を掴んでなんとかアルを取り返そうとする。可哀想な狼の子は、殴られたのかもしれない。少しぐったりしていた。
「どうして連れて行くの? わたしの友達なのよ」
不意に、アルを抱いた男の人を通すために別の男の人がエリーナのことを捕まえた。足掻いてもどうにもならない。アルはどんどん遠ざかっていく。
「どこに行くの? アルをどうするの? やめて、お願い! やめて!」
泣きながら手を伸ばすエリーナに、エリーナを捕まえている男の人は憐憫の視線を向けた。
「エリーナさん、ご家族がお待ちです。王子様も心配されていますよ」
そんなの。
キッとエリーナは男の人を睨む。
そんなのまるで関係ないわ。アルと私には、関係ないわ。
アルが見えなくなった頃、男の人はエリーナを離して逃げるように去っていった。
エリーナは丸一日塞ぎ込み、次の日の朝に故郷へと発った。
家へ戻るためではない。その頃には新しいガールフレンドを妻として王様になっていた、王子様に会うためである。
久しぶりに会った王子様……いえ、王様は、もう立派な大人になっていた。きっと自分も大人になったのだろうと、エリーナは不思議な気分になった。
「エリーナ! 一体今までどこにいたんだい? 僕が嫌だったのならそう言えばいいのに……逃げなくても」
「違うの。そうじゃないの。ごめんなさい」
「君が謝るところは見たくない。僕は君の笑顔がとっても好きだったんだよ。今では僕の妻には勝てないと思うけれどね」
「あら……嬉しいことが三つあるわ。一つは『笑顔が好きだった』って言ってもらえたこと、二つ目はあなたが幸せそうなこと。三つ目はあなたが随分おしゃべりが上手になったことね」
懐かしさに任せてエリーナは微笑む。王様も、まるで昔のように笑ってくれた。
「それで、今日はどうして僕なんかに会いに来てくれたんだい?」
「……ただ、会いたかったの。本当よ。でも、お願いがあるのも本当よ」
言ってごらん、と王様は優しく微笑む。エリーナは、ちょっと緊張しながら口を開いた。
「ずっと弟のように暮らしてきた『アル』っていう狼がいるの」
「狼?」
「連れて行かれてしまったのよ。狼っていってもいい狼だわ。いい狼もいるのよ。ね、助けてほしいの」
「……だけど、君がいないあいだにこの国で狼は暮らしちゃいけない決まりになったんだ。見つけたら退治しなきゃならないんだ。狼は危ないから」
「そんな……そんなのってないわ! いい狼もいるのに。みんなやっつけちゃうなんて、頭がいいとは思えないわ」
そうだけど、と王様は困った顔をする。ダメかもしれない、とエリーナがしゅんとすると、慌てて王様がエリーナをなぐさめた。
「もちろん頑張るよ。君の大切なお友達なんだろう? そしたら僕の友達でもある。任せておいて」
「ほんとう?」
「本当さ!」
ありがとう、と何度もお礼を言うエリーナに、王様は「その笑顔がとても素敵だよ」と言った。
「わたしもあなたのこと」と言いかけてやめる。かわりに、「あなたがいつまでも幸せなことを願っているわ」と言ってお城を後にした。嘘偽りのない言葉だった。最後に見た王様の顔が、今にものろけだしそうだったのでちょっと笑う。
それから口づてに王様が「いい狼もいるんだから、この決まりは変えたいな」と言っていることがエリーナの耳に入ってきた。とっても嬉しくて、全てが上手くいくような気がした。アルも帰ってくるし、エリーナはまたこの町で家族と一緒に暮らして行ける。王様とは昔ほど気軽に会えないだろうけど、きっといいお友達になれる。そう、思っていた。
しばらくもしないうちに、王様が事故で亡くなったという知らせが入った。
可哀想な王様は、馬車でお城に帰る途中に深い崖に落ちてしまったのだという。だけれどみんな、王様を可哀想だとは言わなかった。狼を庇ったために、王様は実は狼が化けている姿だったのではないかという噂まで流れていた。
新しい王様が、待ち構えていたかのようにすぐに現れたという。
「……嘘でしょう?」
急いでエリーナはお城へと向かい、門を叩いた。誰も出てこない。何度も王様の名前を呼んだ。返事はない。
泣きながら門を叩いた。この世界で誰も、エリーナの味方になってくれないような気がした。
しばらく門の前で泣き崩れていた。不意に視線を感じて顔を上げると、こちらをじっと見つめている男の人がいた。
間違いない。あの日――アルが連れていかれた日、エリーナのことをずっと捕まえていた男の人だ。
ふっと男の人はエリーナから目を離し、背を向けた。そのままゆっくりと歩き出す。
「待って! 待って、あなた、アルはどこ? ねえ、アルは今どうしてる? リーは? リーは本当に……ねえお願い待って」
男の人があまりにもゆっくり歩いているために、エリーナはすぐに追いつくことができた。焦燥感と混乱から、エリーナは彼が答えられるはずがない問いも繰り返す。
「答えて。お願い。全部わたしが悪いの? わたしはどうすればよかったの?」
追いついた拍子に、エリーナは男の人の背中を殴る。小さな拳で何度も。だけれど男の人は何も言わなかったし、振り向いたりもしなかった。ただゆっくりと歩いているだけだ。
泣きながら何度も殴っていたが、エリーナは疲れ果ててその場にへたり込んでしまった。
エリーナがついてこないことがわかると、男の人はスタスタと歩いていってしまった。さっきまではゆっくりで、エリーナと同じくらいの速さだったのに。
空を見上げて気づいた。あの人はきっと、エリーナに殴られるためにゆっくりと歩いていたのだ。どうして?
不意に視界が遮られる。布切れのようなものが差し出されていた。
「君のせいではないこと、覚えておいてほしい」
それを告げるために、彼は戻ってきたのだろうか。エリーナはその布を受け取り、そっと涙を拭った。
「ありがとう。殴ってごめんなさい」
「全然痛くなかったですよ」
静かに彼は言った。微笑みをたたえた、優しい顔をする。
「きっとあなたの手は、誰かを殴るためじゃなくて誰かを守るために使われてきたのでしょう。だからまったく、痛くなかったですよ」
彼の名前は、アンクといった。
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あくびまじりに、アリアは母を見ます。
「アンクって、お父さんと同じ名前ね」
「あら……偶然ね」
少し驚いたように母は口元を隠しました。アリアはもう眠くて眠くて、それでもお話の続きが気になるので頑張って起きていました。
本当は、お話の内容の半分も頭に入ってきてはいなかったのですが。
うとうとしながら母の腕を掴みます。
「エリーナは幸せになる?」
母は力強くうなづきました。
「なるわよ、絶対に」
そう、とアリアは安心して言って、静かに寝息をたて始めました。夢の中で幸せなエリーナのお話の続きを見るのでしょう。
母はそれを愛しげになでて、起こさないように小さな声で続きを話し始めました。
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エリーナとアンクは、二人であのちっぽけな小屋に暮らし始めた。きっとアンクはエリーナのことが心配で、エリーナはそれをきっぱり断る気力がなかったのだ。
エリーナはアンクのことが嫌いではなかった。だけれど、アルのことを考えると簡単に仲良くするわけにもいかない。それを知っていて、アンクもわざとエリーナに優しくしたり、馴れ馴れしく話しかけたりはしてこなかった。
仲良くできない二人暮らし。そんな不思議な生活は長く続いた。
もう、エリーナはちゃんとわかっていた。アンクがとても優しくて、素敵な人だということを。
それでも好きだと言えなかったのは、アンクを許していないからじゃない。エリーナがアンクに好意を向けた途端に、アンクがエリーナのだめなところを全部見つけて離れていってしまいそうな、そんな気がしていたからだ。
アンクは何も悪くない。エリーナのそばにいなくてもいい。だからこそ、そのことを親切にアンクに教えてしまったら、アンクはエリーナの元からきっと離れていってしまう。
それが怖いから、エリーナはアンクを許していることも、愛していることも言えない。
言っておけばよかった。
その後悔は、恐らくエリーナの人生で一番に大きい。
ある日のことである。鍋をコトコトあたためながら、エリーナはアンクの帰りを待っていた。いつからなのかエリーナにはわからないけれど、アンクは仕事を変えたのだということはエリーナも知っていた。アンクは靴屋で働いている。大人になってから仕事を変えるのは慣れなくて大変だろうけども、アンクが家で愚痴を漏らしたことは一度もなかった。
エリーナがご飯を作るようになってから数年。アンクは「いただきます」と「ごちそうさま」と「美味しかった」をいつも言うようになった。それと「おはよう」「おやすみ」が彼らの交わす会話の全てである。
もしも「行ってらっしゃい」「おかえりなさい」とエリーナが言ったら、「行ってきます」と「ただいま」も言うようになるのだろうか。そんなことを考えながら、エリーナは鍋をかきまぜる。美味しい匂いが鼻をくすぐった。
ギイ、と戸の開く音がする。エリーナは火を弱くして、鍋から離れた。
「お、おかえりなさい!」
初めて言った言葉。だけれど返事はない。
よく見ると、アンクはひどく傷ついているようにみえた。
「アンク……? あなた、どうしてそんな怪我をしているの? 痛くないの?」
途方に暮れて、エリーナはそう尋ねる。返事はない。ただゆっくりと倒れていくアンクを、エリーナは慌てて抱きとめた。
「どうしたの? ねえ返事をしてアンク」
今さらに、アンクがひどく危険な状態だということにエリーナは気づいた。お医者さんに見せないと、と思っても、エリーナにアンクを背負うことはできないし、ここは森の奥だ。お医者様の家は遥か遠い。
それでも行こうとするエリーナの手を、アンクが掴む。
「行かないで、ください」
膝から力が抜けてしまって、エリーナはただこくこくとうなづいた。
「あの時君の大切な友達を連れていってしまったこと、俺は今も深く後悔しています」
どうして今、そんなことを言うの? あなたはこんなに怪我をしている時に、どうして人のことを気にするの?
エリーナの涙をぬぐいながら、アンクは静かに口を開いた。
「俺が最初に見た君も、泣き顔でしたよね。もし俺を許してくれるのなら、せめて最後は笑顔を見せてほしい」
エリーナは必死で笑顔を作った。だけれどそれが本当に笑顔になっていたかは、エリーナにはわからない。
アンクにしか、わからない。
できれば笑顔に見えていますように、と願いながらエリーナは涙をこらえる。
「あなたを許している」「今までの我がまま、許してほしい」「あなたを愛している」この想いも一緒に、届けばいい。
アンクはいつの間にか、深い深い眠りについていた。
呆然としていたエリーナの目が、彼のコートの中の膨らみを確認するのは数分後だ。億劫な腕を伸ばして、エリーナはアンクのコートに手を突っ込んだ。指を噛まれる。
「え……」
優しくそれを抱き上げると、大きなあくびをした。
小さな、狼の赤ん坊。女の子だった。
不意に涙がボロボロこぼれてきた。とめどなく、大粒の雫が赤ん坊の頬に落ちる。
「わたしが……、わたしが……」
わたしが、アルを連れ出して、守ることもできなくて、リーだってそのせいで。
アンクに罪悪感を抱かせて。わたしが、アンクを死なせたんだわ。
だけど、
『君のせいではないこと、覚えておいてほしい』
アンクはきっと、この言葉をいつも隣で思い出させるために、一緒にいてくれたのだから。
「わたしが……、自分を責めたらアンクが嫌がるわ」
赤ん坊は、堕ちてくる雫に一々驚いた顔をしながら――笑っていた。
アル、リー、アンク、ありがとう。いつだって、わたしを幸せな気持ちにしたのはあなたたちだったわ。
「……アリア、あなたの名前はアリアよ。さあ、行かなくちゃ」
エリーナは自分の名前を捨て、赤ん坊を抱いて遠い国へ逃げた。
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「それから十年、狼の赤ん坊はすっかり可愛らしい女の子に成長しました――――」
そう呟いて、母はアリアの頬を優しくなでます。健康的な寝息が聞こえました。長いまつ毛が微かに震える様子を見ながら、母は微笑みます。
たくさんの願いは「未来へ、未来へ」と持ち越され、そしてバトンは繋がれました。
「アリア……あなたが幸せでいる事こそが、わたしの、わたしたちの生きた意味よ」
そうして一つずつでも、この世界に幸せを増やすことだけが、彼女に残された唯一のつぐないの方法でした。
「あなただけは、わたしが絶対に守るわ」
不意にアリアが唇を震わせ、微笑みのような表情を作りました。天使のような笑みでした。
だから母は、何があっても頑張れると、今日も眠りにつくのです。
もちろんハッピーエンドにしようと思っていたのですが、これより幸せな結末にどうやってもなりませんでした。さすがにこれをハッピーエンドというのはおこがましい気がします。