嫁入り道具
元亀三年(1575年) 十一月下旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
『四海波静かにて 国も治まる時つ風 枝を鳴らさぬ 御代なれやあひに相生の松こそ めでたかれ げにや仰ぎても 事も疎かや かかる代に住める 民とて豊かなる 君の恵みぞ ありがたき 君の恵みぞ ありがたき』
能役者が高砂を舞っている。目出度い歌だ、これで確か二度目だな。十一月は酒人座が能興行の当番だが竹の婚約、そして子が生まれた事を高砂を舞う事で言祝いでくれているらしい。何と言っても大事なパトロンだからな、気を使うわけだ。後で祝儀を弾まねばならん。
ま、目出度いのは確かだ。朽木家以外でも飛鳥井の伯父は権大納言になったし一条権大納言は内大臣になった。竹が関白の養女になれば近衛との繋がりはさらに強まる。これで従妹姫が西園寺実益に降嫁すれば万里小路とも縁が出来る事になる。宮中にしっかりとした繋がりが出来たと言えるだろう。大いに目出度い。
見物席には大勢の人間が居た。俺の周囲には綾ママ、小夜、雪乃、子供達、辰、篠。そして平井加賀守、弥太郎親子、進藤山城守、目賀田次郎左衛門尉、気比憲直、蒲生下野守、黒野重蔵、竹若丸の傅役、竹中半兵衛、山口新太郎が並んでいた。他にも国人衆や家臣達が大勢見物していた。小夜と雪乃はそれぞれ赤子を抱いている、幸せそうだ。平井加賀守、気比憲直は時折赤子を覗き込んで満足そうにしている。
小夜と雪乃は十一月の頭に子を産んだ。小夜が先に娘を産み雪乃が二日遅れで息子を産んだ。八幡城は大騒ぎだったな。まるで籠城戦でもしている様な騒ぎだった。初めて立ち会ったが無力感と疲労感、焦燥感だけが募ったわ。生まれた時は喜びよりも安堵感が強かった。二人には悪いが二度とこんな事は御免だ。次は何か用事を見つけて留守にしよう。
二人ともそれぞれ望んでいた娘と息子を授かって大喜びだ。小夜の産んだ娘には百合、雪乃の産んだ息子には万千代と名付けた。小夜も雪乃も良い名だと喜んでくれた。そろそろ松千代にも傅役を付けねばならんなあ。如何したものかな、誰にすれば良いか……。軍略方から一人、兵糧方から一人。或いは朽木の重臣から選ぶという選択肢も有るが……。
待てよ、主殿にするか。ずっと俺のために地味な仕事をしてくれている。そういう人間を付けた方が良いだろう。松千代は竹若丸を助けて朽木を支える男になるのだからな。主殿の下に軍略、兵站に詳しい人間を付けよう。誰が良いかな? 軍略は長左兵衛綱連にするか。兵站は伊右衛門は石山に送ってしまったからなあ。……石田藤左衛門にしよう。三成の親父だ。後で小夜に相談して決定だな。
軍略方と兵糧方に人を入れよう。これから忙しくなる筈だ。兵糧方には蒲生忠三郎を入れよう、それと鯰江左近だな。この二人は補給の重要性を教えた方が良い。軍略方には日置助五郎、宮川重三郎、荒川平四郎、長沼陣八郎を入れる。鍋丸、岩松、寅丸、千代松、そろそろ朽木の中枢に入ってこい。待っていたんだからな。
竹が無心に能を見ている。分かっているかな、お前の婚約を祝ってくれているという事が。月が変わったら塩津浜、朽木に行かねばならん。竹若丸も朽木に行きたがっている。一緒に連れて行こう。朽木は元は八千石の国人だったと教えなければ。今の朽木を当然と思うなと。そうなれば六角、北畠、畠山のように滅ぶのだと。
そしてもう一つ、名門今川が滅びかけている。織田は月が代われば軍を動かす。朽木も水軍を派遣する事になった。三国同盟にとっては厳しい試練だ。今の所織田は朽木、上杉との友誼を壊すつもりはないらしい。もしかすると関東での上杉の勢力は縮小すると見ているのかもしれない。それに代わって勢力を伸ばす。
甲斐、伊豆、相模。その先は武蔵……。駿河も入れれば百万石は超えるんじゃないかな。織田の勢力は尾張、美濃、三河、遠江を入れれば二百五十万石を軽く超えるだろう。となると上杉の領地は越後、越中、飛騨、それに上野、信濃、そんなところか。二百万石くらいだな。織田が飛騨に攻め入らなければこのまま協力体制は維持出来るかもしれない。
小兵衛から妙な報告が上がった。播磨の英賀に宇津右近大夫頼重が名を変えて居るらしい。どうやら丹波を逃げ出して播磨の英賀に潜伏したようだ。当然だが顕如の黙認の下の筈だ。おそらく朝敵の宇津を石山に匿えば本願寺討伐の口実を与えると思ったのだろうな。本願寺は内部がごたついていた。口実を与えるのを避けたわけだ。
英賀はやる気満々だそうだ。仏敵基綱、第六天魔王基綱と叫んで気勢を上げているらしい。笑わせるな、お前らこそ破戒僧だろうが。お前らに罵られても褒め言葉にしか思えんぞ。連中は播磨で反朽木連合を組もうと動いている。勿論その後ろには足利義昭、安芸の毛利と顕如が居る。煮詰まって来たよな、戦国も。これからが本番だ。
大叔父と伊賀の藤林長門守から面白い報告が有った。土佐ではとうとう池四郎左衛門頼和が謀反の罪で長宗我部元親に殺された。どうせでっち上げだと思ったのだがそうでもないらしい。堺との交易を断たれた事で池四郎左衛門は長宗我部のために銭を稼げなくなった。だが事はそれだけでは済まなかった。四郎左衛門自身が困窮した。
このまま長宗我部に付いていては自分が没落する。ということで四郎左衛門は長宗我部から嫁いできた嫁を離縁して独立し朽木、土佐一条に寝返ろうと考えたらしい。元々高慢で実家自慢の嫁を快く思っていなかったからな。家臣達に相談していたようだ。
だが元親も四郎左衛門は現状では役に立たないと判断したらしい。おまけに夫婦仲も悪い。いずれ長宗我部を裏切るだろうという事で先手を打ったようだ。いや信頼なんて欠片も無い、清々しいくらいに非情だ。戦国らしさをひしひしと感じさせてくれるよ。嬉しいねえ、気合が入るわ。
長宗我部への経済封鎖は上手く行った様だ。かなり困窮している。長宗我部の年貢は二公一民と酷いものなのだが堺との交易を遮断した事で七公三民にまで引き上げられた。百姓からは怨嗟の声も上がっているらしい。元親が四郎左衛門を誅したのも自分の恐ろしさを皆に浸透させるためかもしれない。恐怖政治の始まりかな? だが何処まで続けられるか。
元親は土佐一条家に戦を仕掛けようとしている様だ。おそらくは年が明けて二月頃だろう。戦で勝つ事で領内の不満を解消しようというのだろうが一つ間違えると日露戦争のロシアと同じ事になる。ま、焦っているのは元親だ。後は土佐一条家次第だな。だが念のため三好に牽制を頼んでおこうか。ついでに朽木の水軍も動かそう、池四郎左衛門が誅殺された、長宗我部の水軍は無きに等しい。大きな威力を発揮するだろう。
元亀三年(1575年) 十一月下旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 進藤賢盛
能興行が終ると次郎左衛門尉殿と共に御屋形様の自室に呼ばれた。おそらくは竹姫様の御輿入れの件であろう。部屋に入ると御屋形様の他にも人が居た。平井加賀守殿、気比大宮司殿、蒲生下野守殿、黒野重蔵殿。御屋形様を基点に扇形に並んでいる。それを崩さぬように次郎左衛門尉殿と座った。
「大宮司殿。当家の評定衆を務める重臣、進藤山城守、目賀田次郎左衛門尉だ。この二人が竹の輿入れを差配する」
大宮司殿が深く頭を下げたのでこちらも同じ様に深く頭を下げた。次郎左衛門尉殿も同じ様に頭を下げた。
「大宮司殿、上杉の内情は決して予断を許さぬと俺は考えている」
御屋形様の言葉に大宮司殿が無言で頷いた。
「越後国内は勿論だが北陸、関東、奥州も如何動くか分からん。大宮司殿、北陸は勿論だが奥州にも気を配って頂きたい」
「奥州もでございますか? ……分かりました。何処までお役に立てるか分かりませぬが力を尽くしましょう」
大宮司殿の答えに御屋形様が頷かれた。氣比神宮は北陸が地盤、奥州には不案内であろう。だが竹姫様は孫、出来ぬとは言えぬか。
「どんな事でも良い、気になる事、おかしな事、不思議な事が有れば俺に、そして山城守と次郎左衛門尉にも報せて貰いたい」
「分かりました。……山城守殿と次郎左衛門尉殿、以後は良しなに願い申し上げる」
「こちらこそ、以後は良しなに願い申し上げる」
私と次郎左衛門尉殿が答えると大宮司殿が頷いた。
「倅、小兵衛にこの事を伝えまする。八門に何か引っかかった場合は皆様方に御報せ致しましょう」
「頼むぞ、重蔵」
御屋形様の言葉に重蔵殿が頭を下げた。私、次郎左衛門尉殿、大宮司殿も頭を下げた。
「山城守、次郎左衛門尉」
「はっ」
「竹の輿入れだが金に糸目は付けん。好きなだけ使え」
「はっ」
金に糸目を付けない? 御屋形様の糸目を付けないとは一体どの程度の金を使って良いのだろう? 次郎左衛門尉殿も困った様な顔をしている。
「輿入れの行列は三万人だ、左様心得るように」
「三万!」
思わず声が出た。皆も驚いている。
「足りぬか? そうだな、余りに少なくては上杉家も不満に思おう。何と言っても相手は関東管領の家だ。うむ、五万は……」
「お、御屋形様」
下野守殿が身を乗り出しながら御屋形様を止めた。
「何だ、下野守」
「五万ではいささか多過ぎまする。三万で十分だと某は思いまする」
下野守殿がこちらを見た。
「御屋形様、下野守殿の申される通りです。余りに多くては上杉家でも困惑いたしましょう」
「某も同意致しまする。言わせていただければ三万でも多いかと」
私と次郎左衛門尉殿が下野守殿に続くと御屋形様が“ふむ”と鼻を鳴らした。
「三万は譲れぬ。朽木は竹のためなら三万を動かす。それを天下に知らしめる必要が有る」
「……」
「俺は朽木を守るために七歳の娘を上杉に差し出した。当主としては当然の事だが父親としては屑だな、人でなしの極みだ。だからこそ元は取らねばならん。これは上杉を守るためではない、朽木を守るためと心得よ」
皆が頭を下げた。御屋形様は本気だ、金に糸目を付けぬというのも本気であろう。とんでもない輿入れになる。
「山城守は月が変われば京の朝廷に恒例の荷を届けて欲しい」
「はっ」
「向こうは俺に感謝していると言う筈だ。その際、俺がこう言っていたと言うのだ。此度朽木の娘が関白殿下の養女として上杉家に嫁ぐ。それに相応しい嫁入り道具を持たせてやりたい。ついては公卿の方々から和歌を一首づつ頂けまいか。屏風に載せて持たせてやりたいと」
皆が顔を見合わせた。
「御屋形様、それは?」
私が問うと御屋形様が軽く笑い声を上げた。
「春日山城の竹の部屋に屏風を飾ってやるわ。屏風には和歌と公卿の名前が入っている。それを見れば朽木と公卿の、朽木と朝廷の繋がりの強さが分かるであろう。つまり京を支配しているのが誰かもな」
「御屋形様」
下野守殿の声が震えている。御屋形様がまた笑い声を上げられた。
「御堂関白と謳われた藤原道長様が為された事だ。和歌を要求する事で誰が自分の味方か、敵かを分別した。フフフッ、……たかが和歌だ。だが公卿達には俺が何を考えているか、何を求めているか分かる筈だ。拒否はさせぬ」
「……」
御屋形様は笑みを浮かべている。誰も口を開けぬ。御屋形様が今回の上杉への輿入れを最大限に利用しようとしているのが分かった。皆も同じだろう。
「和歌は松永、内藤、三好、畠山にも求める。あの四人にもそろそろ旗幟を明らかにして貰う。これまでの様に曖昧な態度は許さぬ。俺か公方様かでは無い、俺に服従するか否かを問う」
「……」
「山城守、頼むぞ。関白殿下、一条内大臣、飛鳥井の伯父には俺から文を書く。協力してくれるだろう」
「はっ、大役相勤めまする」
御屋形様が満足そうに頷かれた。
元亀四年(1576年) 一月上旬 山城国葛野・愛宕郡 室町第 一色藤長
「増長にも程が有る、そう思われぬか? 玄蕃頭殿、式部少輔殿」
「如何にも、中務少輔殿の申される通りでござる。のう、式部少輔殿」
「某も御両所と同じ思いでござる」
俺が頷くと上野中務少輔清信、真木島玄蕃頭昭光の二人が大きく頷いた。なるほど、次は俺も大きく頷こう。その方が見栄えが良い。
「公方様に承諾を得ぬばかりか公家達に和歌を強請るとは……」
「道長公の真似などと猿真似を」
「近江は猿楽が盛んにござる」
俺の言葉に二人が笑い出した。仕方ない、俺も付き合うか。笑い声を上げると二人が嬉しそうに更に笑った。
「それにしても公家達も意気地が無い。和歌をと強請られて簡単に渡すとは……、嘆かわしい事でござる」
「なんでも後世に残る嫁入り道具、和歌は勿論、和歌を送った人の名までも後世に伝わると言われてその気になったとか。恥を後世にまで残して如何するのか」
俺が“世も末ですな”と言うと二人が顔を顰めて頷いた。愚かな、この二人は何も分かっていない。いや目を背けている。
朽木家はもう二十年以上朝廷に奉仕しているのだ。山国庄、小野庄を宇津右近大夫に横領された朝廷にとってそれがどれ程有難い物であったか……。その間、足利は全く無力であった。宇津右近大夫を討伐出来ず山国庄、小野庄を取り返す事も出来なかった。そんな役に立たぬ足利を誰が重んじるというのか? 足利などとうの昔に見離しておるわ。
山国庄、小野庄を取り返し桑名を朝廷に献上したのは近江少将様だ。その御蔭で朝廷の困窮はかなり改善された。さまざまな儀式も執り行われる事になった。今年の正月は小朝拝と節会が行われた。節会に使われた食材の多くは朽木から献上されたものだ。たかが和歌一首で近江少将様の好意を勝ち取れるのなら公卿達は喜んで和歌を送るだろう。尻尾が有れば尻尾まで振ったに違いない。公卿達は気前の良い後援者に満足しているのだ。
俺ももう足利に忠義を尽くすのは御免だ。故義輝様に従い随分と辛酸を舐めた。だが御当代様は俺よりもあの本家の小倅を重んじた。俺はあんな小倅に本家面させるためにこれまで仕えて来たのではない! ウンザリだ。足利にはもう力は無い。本家が滅んだ時、足利は何も出来なかった。そんな足利に忠義を尽くして如何すると言うのか。こいつらは何も分かっていない。少将様からは定期的に銭が来る。いずれは領地も与えるとの約束も頂いている。武者の本分は御恩と奉公だ。見返りの無い忠義など尽くすつもりはない。
「こうなると毛利家が頼りですな」
「毛利は宇喜多を味方に取り込み播磨にも勢力を伸ばしております。朽木の山猿めも播磨に踏み込めば痛い目に遭いましょう」
二人が声を上げて笑う、声を合わせて笑い声を上げた。馬鹿な奴、朽木家から禄を貰っている事を忘れたのか? 少将様がちょっと匂わせればこの二人は口を噤むだろう。少し肝を冷やしてやるか。
「それにしても今川様も頼りになりませんな。北条、武田も情けない」
二人が押し黙った。東海の名門今川家が滅びかけている。北条、武田の援軍と共に大井川を挟んで織田、徳川軍と相対した。兵力は今川方が一万五千、織田方が三万三千。兵力差は歴然、大井川を利用して何とか織田の侵攻を食い止めようとしたのだろう。
「朽木の水軍が無ければ……」
玄蕃頭の声が小さい。先程まで猿と朽木を貶していたのは何処の誰だ? 朽木の水軍が駿河から伊豆、相模を荒らしまくった。今川、北条にも水軍が有るが朽木の水軍の前に何の役にも立たなかったらしい。今川、北条の国人衆は陣を離れて領地に戻った。今川、北条を見捨てたのだ。この後は織田に降伏するだろう。今川方の陣は崩れ武田は甲斐へ、北条は小田原に戻った。今川は駿河の東部に移り態勢を整えようとしているが滅亡は間近だ。国人衆達の織田への投降が止まらない状況らしい。
「御労しい事です。公方様は織田を味方に付けようと御考えのようですが……」
中務少輔が首を横に振った。
「織田は朽木と戦うよりも武田、北条を狙うのでしょう。駿河は勿論ですが甲斐、伊豆も金を産出しますからな。卑しい成り上がり者が!」
玄蕃頭が吐き捨てた。愚かな事よ、もう名門の時代ではないと何故理解せぬのか。名門など次々と滅んでいると言うのに……。
「やはり毛利ですな」
「毛利です」
「公方様は以前から毛利を頼みにしておられました。流石は……」
感心したように言うと二人が嬉しそうに頷いた。単純な奴らだ。その後は島津、龍造寺を使って毛利の背後を脅かす大友を叩く、その話になった。何時もの事だな。少将様には特に変化無しと報告しておこう。