生き残る男
元亀三年(1575年) 八月上旬 越後国頸城郡春日村 春日山城 朽木基綱
「大きいな」
「はっ」
春日山城はデカい城だった。観音寺城、石山本願寺もデカかったがこの春日山城もデカい。デカいだけじゃない、直江津の湊を押さえ上越、関東、信州、越中への交通路を押さえている。現代だと新潟市こそが新潟県の中心だがこの時代は違う。信濃を押さえ越中を押さえ関東に出るにはこの春日山城の方が便が良い。春日山城は将に越中、信濃、関東に威を振るった関東管領上杉輝虎の居城に相応しい城だと思う。
「こちらへ、実城へ御案内致します」
「頼む」
直江大和守景綱の先導で俺、蒲生下野守、黒野重蔵、笠山敬三郎、笠山敬四郎、多賀新之助、鈴村八郎衛門、他に小姓数人が追手口から実城、つまり本丸へと向かった。そしてその後を上杉の家臣が続く。酔狂だよな、馬鹿げている。いくら直江大和守が八幡城に来て“主輝虎が少将様とお会いしたいと、頻りに回らぬ口で……”、そんなこと言われて泣かれたからって越後までホイホイ行くなんて……。
腰が軽いなんて関白殿下の事を笑えないよ。家族も重臣達も皆反対した。危険だし身分にも係わるってな。その通りだ、威厳なんて欠片も無いな。それ以上に行けば厄介な事になるのは分かっている。でもなあ、俺は輝虎に会いたかったんだ、会うべきだと思ったんだ。
この世界の上杉家は越後、越中、飛騨を有し信濃の大部分を支配下に置いている。北条の領地は伊豆一国に相模の西半分だ。関東はその殆どが上杉の影響下に有るか中立だ。軍神上杉謙信、いや上杉輝虎か、その名前は史実よりも遥かに大きい。それ程の男に会いたいと言われたら断れない。
輝虎は史実ほど重症では無かった。命に別状は無い。だが左半身に麻痺が出て上手く歩けない、手に痺れも有る様だ。そして口が上手く開かない状態らしい、つまりスムーズに喋れない。武将として戦略面では力を発揮出来るかもしれんが戦場に出る事は無理だろう。上杉家の当主として統治面で君臨する事も難しい。いや、二度目の発作が起きる可能性も有る。その時は……。輝虎は生きているが隠居せざるを得ない。第一線から下がり新当主を後ろから支える存在になるのではないかと思っている。
実城へ行くまでの間、上杉家の家臣達に会ったが皆俺に感謝はするが表情は暗い。良くない状況だ、今だけじゃない、将来へも不安が有るのだと思った。だが後継者が居ない状況で輝虎が死ぬよりは余程にましだ。そうなればとんでもない混乱が生じていただろう。皆の目は血走って殺気立っていたに違いない。俺を殺そうとする人間も現れたかもしれない。
輝虎は女性に支えられて起きていた。俺の顔を見ると嬉しそうに顔の半分で笑った。まるで顔を顰めている様だ、胸が痛い。近付いて手を握った。
「よ、良く、……き、来て、くれた」
「なんの、当然の事でござる。御元気そうで安堵致しましたぞ。驚かさないで下され」
輝虎がウンウンと頷く。如何いうわけか、涙が出そうになった。
「き、喜、平次」
「はっ」
控えていた若い武士が頭を下げた。喜平次? 年恰好からすると喜平次景勝か。
「少将様、主輝虎の甥、長尾喜平次景勝にございまする」
「喜平次景勝にございまする」
直江大和守の紹介に喜平次景勝が名乗った。
「朽木左少将基綱にござる」
「主は喜平次様を養子に迎えようと考えておいでです」
大和守の言葉に輝虎が頷いた。
「し、少将」
「何か?」
「こ、これからも」
これからも? 輝虎が縋る様な表情をしている。鼻の奥がツンとした。軍神が俺に縋るなんて……。
「何を水臭い事を……。管領殿、朽木と上杉家の友誼は我ら一代限りの事では有りませぬぞ」
輝虎が安心したように頷いている。思わず涙が零れた。
「喜平次殿、以後も昵懇に願いますぞ」
「有難き御言葉、若年なれば宜しく御指導のほど、お願い申し上げまする」
輝虎が嬉しそうに回らぬ口で笑った。
「い、今、一度、と、共に」
今一度共に?
「い、戦に」
今一度共に戦に? 戦に行きたいと? 俺と共に? 胸にこみ上げてくる物が有った。
「何を御気の弱い事を……。某、管領殿と共に越中、能登で戦った事を忘れておりませぬ。あの戦いで北陸は安定致しました。管領殿の御力が有ればこそ……」
彼方此方から嗚咽が聞こえた。気にならなかった、俺も泣いていたから。
輝虎との会見が終わると別室に通された。上杉方から男が二人、女が一人。男は直江大和守と長尾越前守政景、女は越前守の妻、綾と名乗った。要するに景勝の両親だ。史実では父親は死んでいるんだがこの世界では生きている。まあ第四次川中島で信玄がボロ負けしたからな、内応もせず殺される事も無かったか。朽木方からは俺、下野守、重蔵の三人で対応した。
「此度少将様には御足労頂き誠に有難うございまする」
越前守が頭を下げると他の二人も頭を下げた。
「いや、関東管領殿とは二十年に及ぶ友誼を結ばせて頂いた。お見舞いに伺うのは当然の事、気遣いは無用に願いたい」
「畏れ入りまする」
また三人が頭を下げた。下野守、重蔵は神妙な表情だ。この二人を連れて来て良かった。馬鹿な奴が当然なんて表情をすると全てがぶち壊しだ。
「喜平次殿が御養子にとの事ですが正式に上杉家の当主となって管領職も継がれるという事かな」
「いえ、先ずは上杉の家に入るだけとなりまする」
「では代替わりは無しと?」
「はっ」
大和守が答える。他の二人は沈痛な表情をしている。
「主は喜平次様に跡を譲りたがっているのですが周囲には喜平次様が未だ若過ぎると危惧する声が……」
「なるほど、上杉の家督と関東管領職を一度に継ぐのは荷が重かろうという声が有ると……」
「はっ、関東管領職に傷を付ける事は出来ませぬ。先ずは上杉家の人間になり陣代として経験を積むべきであると」
一理あるのは確かだな。如何いう意図から出たかは別として。
陣代というのは主君に代わって戦陣に赴く役をいう。史実の武田勝頼が陣代だったと言われている。大きな権力を持つのは間違いないが主君では無い。喜平次景勝は若いのは確かだが父親も居れば輝虎も居るのだ。それに初陣だって済ませている筈だ。家臣達が支えればそれなりにこなせるとは思えるが……、やはり反発が強いか。まあそうだろうな、喜平次景勝の上杉家継承はかなりの無理筋だ。
越後と言うのはちょっと面倒な国なのだ。この国、元々は上杉家が守護として所持していた。輝虎の元々の家である長尾家は家臣筋で守護代だったのだ。戦国乱世になると当然だが越後も乱れた。輝虎の父為景は下剋上により上杉家を傀儡にし越後一国の実権を握った。当然だがその事に反発する人間も多い。上杉家から分かれた家も有るし長尾家の分家も有る。そして越後というのは南北に長い、北部は揚北衆と呼ばれ独立性が強いという特性も有る。為景は苦労しただろう。
為景の死後、越後は当然だが乱れ輝虎が再統一する。そして守護上杉家が断絶し輝虎の長尾家、府中長尾家と呼ばれる家が守護になる事を幕府に願い許された。もっとも越後のごたつきは収まらない。余りの酷さに輝虎が嫌気がさして家出する程だ。輝虎が山内上杉家の名跡を継ぎ関東管領職を継いだのも義侠心も有るだろうが越後の国人衆を押さえるだけの権威を欲したからだと思う。京に上洛したのも中央との結び付きを強める事で自分の権威を高めようとしたからだろう。
今景勝が後継者として挙がっているが景勝の実家である上田長尾家、こいつがまた越後では微妙な家だ。一門衆の筆頭として家中に重きを成したが、祖父房長の頃から叛服常無き遍歴で眉を顰める人間が多いのだ。小兵衛の話では「上田衆」の語そのものが一種の差別というか侮蔑を含んでいるらしい。信用出来ない奴、そういう意味を持っているようだ。
仕方ないよな、父親の越前守だって輝虎に敵対して負けて服従した。仲直りの条件の一つが輝虎の姉、綾が越前守に嫁ぐ事だった。その子供が上杉家の当主になるって……。溜息が出そうだ。御館の乱で景虎に味方する人間が多かったのも上田長尾家の血を引く景勝に対する反発が有ったのだと思う。
生涯不犯なんて馬鹿な事をせずにバンバン子供を作れば良かったんだ。輝虎の子供なら国人衆だって文句は言えない。スムーズに代替わりは済む筈だったのに……。越後は間違いなく混乱するな、関東はどうなるんだろう? さっぱり分からん。一番詳しく状況を押さえているのは目の前の連中だろうがまさか訊くわけにも行かん。重いわ、上杉との友誼は続くなんて言ったけど如何したものか……。
「少将様、お願いがございまする」
綾夫人が思い詰めた様な声を出した。テレビで見ると美人だけど現実には五十近い小母ちゃんだ。確かに若い頃は美人だっただろうと思わせるものが有るのは認める。だがかなり憔悴している。夫の越前守もだ。この二人、かなり追い詰められているな。何を言い出すかは想像が付く……。
「何でござろう」
夫人が一度唾を飲み込んだ。
「御息女、竹姫様を喜平次の妻に頂けませぬか?」
下野守、重蔵が“何を”、“それは”と声を上げたから手を上げて二人を制した。
「竹は未だ数えで七歳、喜平次殿とは歳が釣り合いますまい」
「そこをどうか。……少将様に喜平次の後見を願えませんか」
夫人が頭を下げると他の二人も頭を下げた。下野守、重蔵が首を振っている。不同意だな。この二人は喜平次の基盤の弱さを理解している、当然か。
「頭を上げられよ、それでは話が出来ぬ」
「何卒、何卒」
三人はひたすら頭を下げるだけだ。溜息が出た。
「この件、管領殿は御存じか?」
「いえ、我らだけの思案にございまする」
大和守が答えた。六十過ぎた爺さんが白髪頭を必死に下げている。他の二人も白髪混じりの頭だ。胸が痛いわ。輝虎が俺に会いたいと言った。ならばこれを利用してと思ったのだろう。
「大和守、正直に答えよ。このままでは越後は乱れるのだな?」
「……」
「越後を一つに纏めるには俺の娘が必要なのだな?」
「何卒」
大和守は頭を下げるだけだ。
「また何卒か」
困った連中だ。思わず苦笑が出た。こんな時でも人間は笑えるらしい。
「分かった、竹を上杉家に嫁に出そう」
三人が頭を上げそして“有難うございまする!”と言って頭を下げ、下野守と重蔵が“御屋形様!”と叫んだ。
「上杉家に崩れられては困る、そうではないか?」
下野守と重蔵が黙った。
「それに竹は朽木の血と氣比神宮大宮司家の血を引く娘だ。その力は越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡に及ぶ。喜平次殿を助けられる娘は竹しか居らぬ」
俺の言葉に二人が渋々頷いた。
まさかだよな、雪乃を側室にした時はこんな事態が来るとは思わなかった。俺だけじゃない、雪乃も大宮司殿も思わなかっただろう。
「今年は飛鳥井で不幸が有った故来年の春から夏に越後に送る。吉日を選んで式を挙げる事としよう」
三人が歓びの声を上げ二人が“何と”と声を上げた。
「婚約だけでは口約束と取られかねぬ。それでは意味が無い」
下野守と重蔵が渋々頷いた。
「大和守、管領殿、喜平次殿に今一度会いたい。取り計らってくれ」
「はっ」
「その席で管領殿に娘を喜平次殿に嫁がせたいと頼むつもりだ」
下野守が何か言いかけて止めた。
「喜平次殿は俺が見込んだ婿という事になる」
「有難うございまする、この御恩、決して忘れませぬ」
三人が今度は泣き出した。忙しい連中だ。
「大和守、これからが正念場だ。泣いている暇は無いぞ」
「はっ」
大和守が涙を拭うと越前守夫妻も涙を拭いた。
「越前守殿、決して上に立とうと成されるな。あくまで一臣下として御子息を支え成されよ」
「はっ」
「綾殿、娘を頼み申す。母代りとなって育てて頂きたい。未だ何も知らぬ娘にござる」
「必ずや」
越後はこれで良い。問題は近江だな。溜息が出そうになって慌てて堪えた。
元亀三年(1575年) 八月下旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
「竹の許嫁を決めたと聞きました? 上杉様の甥御様とか」
腹を突き出して雪乃が訊ねて来た。あと二カ月ぐらいかな。
「そうだ。長尾、いや上杉喜平次景勝殿。来年の夏には越後に竹を送る」
「まあ、越後に送るのですか?」
綾ママが脳天から突き出る様な声を出した。敢えてニコニコしながら“そうです”と答えた。
「約束だけで良いでは有りませぬか、未だ竹は七歳ですよ。年頃になってから送れば……」
「早いうちに婚家に行って慣れた方が良いでしょう。あちらでも竹が来るのを心待ちにしております」
前半は嘘だが後半は本当だ。輝虎も泣いて喜んでいた。
「そうは言っても弥五郎殿」
「それに喜平次殿には妹が二人いるそうです。可愛がってもらえます」
あくまで能天気に、罪悪感が……。雪乃は何か気付いたのか無言だ。益々罪悪感が……。小夜も妊娠中で良かった。此処に来られたら最悪だったな。
「喜平次殿は無口ですがなかなかの偉丈夫です。今年数えで二十歳と聞きました」
「二十歳! それでは竹とは」
綾ママが素っ頓狂な声を出した。
「左様、竹とは十三歳程離れておりますな、母上。ですが竹と釣り合う相手となるとそれほど多く有りませぬ」
「それはそうですが……」
「喜平次殿は上杉家を継ぎ関東管領となる若者です。これ以上の相手は居りますまい」
綾ママが不満そうだが口を噤んだ。
「敦賀の氣比神宮に寄って来た。大宮司殿にも竹の事を頼んできたぞ、雪乃。大宮司殿は力強く請け負ってくれた」
「それは宜しゅうございました」
そんな泣きそうな顔をするな。
「もう直ぐ孫も生まれるし慶事が続くと言っていたな」
「はい」
「竹は朽木と氣比大宮司家の血を引く娘だ。越後では大事にしてもらえる。心配は要らぬ」
雪乃がにっこりと笑みを浮かべた。哀しそうな笑みだ。
「さ、母上、雪乃を疲れさせてはいけません」
綾ママを促して雪乃の部屋から去った。後でもう一度来よう。そしてゆっくりと話をしよう。酷い父親だと泣かれるかな? それも仕方が無い。だが東の防衛線が崩れかけているんだ。崩れれば朽木は東西に敵を抱える事になりかねない。これを補強するのは当たり前の事だ。娘だろうが息子だろうが使える者は使う。例え七歳の子供であろうとも……。
景勝は悪くない。土壇場でしぶとく運を掴む男、史実の景勝にはそんなイメージが有る。父親が死んだ時、景勝も殺されてもおかしくは無かった。いや殺されずとも寺に入れられてもおかしくは無かった。だが謙信の養子となった。謙信の死後、後継者争いが起きた時、当初優位だったのは競争相手の景虎だった。だが武田を味方に付けて大逆転で勝った。
本能寺の変があと十日遅れていれば越後は織田に攻め滅ぼされていただろう。だが切り抜けた後は豊臣と結び見事に生き残った。武田、北条が滅んでも上杉は生き残ったのだ。関ヶ原で西軍が負けて多くの大名が潰された。宇喜多、石田、小西。だが上杉は三十万石に減らされたとはいえ生き残った。そして加藤、福島等の豊臣恩顧の大名が徳川に潰されても上杉はしぶとく生き残った。
景勝は生き残る事が出来る男だ。戦国乱世でこれほど頼もしい男は居ないだろう。これから先、天下がどうなるかは分からない。朽木が滅ぶ可能性もあるだろう。そうなれば朽木の血は越後で続くという可能性も出て来る。景勝は悪くない。




