本願寺分裂
元亀三年(1575年) 一月中旬 近江国蒲生郡八幡町 朽木基綱
大勢の家臣達が並ぶ大広間に中肉中背、初老の男が入って来た。介添えとして舅殿が付いている。初老の男は坊主だ。俺から五メートル程離れた所に坐ると頭を下げた。
「御久しゅうございまする、証意にございまする」
「うむ、長島以来か。久しいな、証意」
「はっ」
長島攻略の時に会って以来だから四年の月日が流れている。あの時の証意は未だ壮年と言って良い外見をしていた。だが今の証意は疲れた初老の坊主だ。四年の歳月は証意に酷く当たったらしい。
「証意、誓紙を持って来たか?」
「はっ、これに」
証意が懐から紙を取り出した。舅殿が受け取り俺に近寄って差し出した。受け取って確認する。特に問題は無い。朽木の法に従う事を誓っている。
「これはそなただけではない、そなたを慕う者達も同意しているのだな?」
「はっ、その事に間違いは有りませぬ」
「良し。舅殿、証意にこれを」
舅殿が俺から紙を受け取り証意に渡すと証意はじっとそれを見た。朽木領内での布教を許す事を認めた誓紙だ。
「何か不審が有るか?」
「いえ、ございませぬ。かつて敵対した私共を受け入れて頂けました事、真に有難うございまする。御屋形様の御寛容に心から御礼を申し上げまする」
証意が頭を下げた。俺を御屋形様と呼んだ、つまり朽木の領民になるという宣言だ。家臣達が満足そうに頷いている。
「朽木の法を守る限り、庇護を与える」
「はっ」
「その方を慕う者達だが一家族当たり十貫の銭を与える。百姓になる事を望む者には田畑も与える事とする。田畑は越前、加賀で与える事になる。朽木家の直轄領だ、領主は俺という事になる。困った事が有れば俺に訴えよ」
「はっ」
証意が驚きを抑えながら頭を下げた。
「だが今はまだ越前、加賀は雪でな、暫くは近江に留め置く事とする。食料は心配せずとも良い、こちらから支給する。雪が融けるのは四月になろう、四月以降に越前、加賀に赴くが良い。なお年貢は向こう三年間免除する」
証意が“御配慮、有難うございまする”と言ってまた頭を下げた。
「商いに従事したいという者は領内の何処に住もうと自由とする。領外に出ても構わぬ」
「はっ」
「証意、寺が無くては不便であろう。越前に俺が寺を建ててやる。ああ、気にするな。信徒達が俺が与えた十貫の銭で寺を建てよう等としては銭を与える意味が無いからな」
「重ね重ねの御配慮、有難うございまする。皆も喜びましょう」
証意が泣き出した。
「これからは皆の心を安んずるために教えを説いてくれよ」
「はっ」
何度も礼を言いながら証意が去って行った。まあお互い新年の挨拶は無しだ。だがそれで良い。挨拶なんか受けてもどう対応して良いか分からんからな。でも来年は挨拶に来るだろう、その時は素直に受けられると思いたいわ。
「御屋形様、真に目出度い事で」
蔵人の大叔父の言葉に大広間に和やかな笑い声が上がった。
「御屋形様はお優しゅうござるな、家族に十貫も与えるとは。某はもう少しで声を出すところでござった。それに寺まで建てて貰っては証意はもう御屋形様の意のままにござりましょう。真、御屋形様は人たらしにござる」
左門がニヤニヤ笑っていた。
「褒めるのか貶すのかどちらか一方にしろ。その方、段々親父の五郎衛門に似てきたぞ、俺を玩具にして遊ぶという悪い所がな」
皆が大笑いし左門が恐縮するかのようなそぶりを見せた。この辺りは五郎衛門よりも可愛げがある。あのジジイなら馬が嘶くような笑い声を真っ先に上げた筈だ。今頃は雪見酒で一杯やっているだろう。
十貫と言っても個人じゃない、家族だ。数にして大体二千五百程だろう。となれば二万五千貫だ。大金だが一万人の信徒を大人しくさせるためだと思えば決して高くない。一文無しのまま放り出せば犯罪に走るか門徒達が貧しさから団結してまた一揆などという阿呆な事を考えかねん。どちらもマイナスだ。受け入れる以上、連中を朽木の良民にしなければならん。
寺を建てるのも同じだ。俺が建てるのだ、証意も門徒達も朽木の統制に逆らい辛くなる。そして俺に建てて貰った寺というのがステータスになれば証意を筆頭に一万人の門徒達も朽木の法に大人しく従う事になる筈だ。寺の一つくらい安いものだ、喜んで建ててやる。立派な寺をな。寺の名前は心和寺にしよう、心和やかにだ。きっと喜んでくれる筈だ。
「本願寺がついに分裂した。顕如は年が改まっても返事を寄越さぬ。朽木の法に従わぬと言う事らしい。当然だがこれを許す事は出来ぬ。四月に兵を起こし本願寺を討伐する。戦の準備をせよ」
皆が頷いた。戦は証意達が越前に行くのを見届けてからだ。その間に本願寺と英賀の海上連絡路、本願寺と雑賀を始めとする紀伊の国人衆との海上連絡路を断ち切る。海賊衆の出番だな。英賀の方は三好に頼もう。
「松永、内藤、三好、如何動くか分からぬ。十分な備えをしてから攻める事になる。皆も油断せずに戦え。後程、触れを出す」
それをもって大広間での会見を終わりにした。松永、内藤、三好には隙を見せない。圧倒する事で戦意を挫く。それによって義昭から引き離す。上手く行けば良いんだが……。
暦の間に戻ると早速決裁を求める家臣達がやってきた。何処に居ても仕事は追いかけてくる。一人一人話を聞きながら如何するかを判断する。一区切り付くまで七人程の家臣達の話を聞いた。大体二時間は仕事をしただろう。小姓にお茶を用意させた。美味い、一仕事終わったという充実感が有る。加藤孫六に肩を揉んで貰った、気持ち良いわ。
顕如は証意の離反に怒り狂ったらしい。また物を投げて暴れたそうだ。まさか朽木に庇護を求めるとは思わなかったのだろう。全く不意を突かれ証意達が石山を離れ近江に逃れても何も出来なかった。顕如に出来た事は証意とその仲間を裏切り者、仏敵と罵って破門、絶縁処分にした事だけだ。そして門徒達に対してこれは法難で信徒は皆心を自分と一つにせよと頻りに訴えている。かなり追い込まれているな。
しかし小兵衛の話では本願寺には隙が有る。長島から石山に逃れた門徒が全て証意に従って朽木に来たわけでは無い。未だ五千人以上が石山に残っている。決して石山での生活が良かったからではない。残った理由の殆どが朽木を信用出来るのか不安に思ったからだ。だが証意達が大切に扱われていると知ればどうなるか……。証意達を優遇しているのはそういう狙いも有るのだ。
もう直ぐ商人達が集まる、集まったら金銀交換比率を決めなければならん。明や朝鮮の事を考えてちょっと比率を変える事にした。まあ国内の産出量を無視して海外の比率を重視する事に意味が有るのかという疑問は有る。しかし全く知らずにいて不当に貪られる事は避けたい。少なくとも今ここで金銀交換比率を全国から商人を呼んで検討した、その時に海外の比率との差で損失が出るという指摘も出たという事が後世に伝われば良いと俺は思っている。後の世の事はその時生きている人間が対処すれば良い。俺は未来に向けて警鐘を鳴らした、それで十分だ。
そして俺の顔を全国から集まった商人達に売る良い機会だ。高く売れれば良いんだが。紙幣の件を評定で話したら皆から反対された。最初は反応は良かったんだ。だが問題点として発行量を増やし過ぎるとインフレが起きると説明したらそんな危ない事は出来ないと皆に反対された。特に御倉奉行の荒川平九郎が口から唾を飛ばして反対した。そんな事をしたら領民が他国へ逃げてしまうと言って。家臣達の俺への評価は役に立つ事も考えるが目を離してはいけないキチガイ科学者、そんな感じだ。
この正月は忙しいわ。諸大名、家臣達の挨拶、能興行に証意の受け入れ。今年は北は伊達、最上、南は大友、龍造寺、島津からも使者が来た。大友なんて足利べったりだったんだがな。毛利、龍造寺の攻勢に手を焼いているらしい。それに義昭が毛利を上洛させるために大友を邪魔だと感じている事に気付いたようだ。おまけに土佐一条は長宗我部に専念するから使えん。そこで朽木に泣き付いて来た、そんな感じだ。偶には寝正月とかやってみたいもんだよ、元の世界じゃ嫌になるほど出来たんだがな。今じゃ寝てると叩き起こされる有様だ、トホホと言いたくなるわ……。
元亀三年(1575年) 二月上旬 和泉国大鳥郡堺町 今井宗久邸 今井宗久
「博多に比べますと大分こちらは冷えますなあ」
島井徳大夫が背を屈めながら茶を一口すすった。神屋善四郎が“そうですなあ”と相槌を打った。この二人、筑前国博多の住人の所為かやたらと寒がる。近江の八幡城でも寒い寒いと言っていた。それを思って火鉢も十分に置いたのだが此処でもさっきから頻りに寒いと言っている。
「ところで近江少将様のお話、お二人は如何思われました」
部屋がシンと静まった、もう寒いという声は聞こえない。少将様が全国から商人を集められた。北は越後国柏崎の商人荒浜屋宗九郎から南は薩摩国坊津の商人鳥原宗安まで、総勢で三十名以上呼んでいた。話の内容は銅銭の煩雑さを解消するために金銀を使おうという事であった。島井徳大夫、神屋善四郎、両者とも海外との交易で巨万の富を得ている。その二人は如何思ったか? 博多への帰り道、堺に寄って貰った。天王寺屋さんも身動きする事無く二人が喋るのを待っている。
「金十両を銅銭二十貫、銀十両を銅銭二貫と等価とする。おかしな話では有りませぬな。明や朝鮮も金と銀の交換比率は似た様なものです」
「私も島井さんと同意見です。当初お考えになったと言う金十両を銅銭十五貫、銀十両を銅銭二貫ではいささか銀が高過ぎます。石見、生野からは銀が大量に採れますからな」
島井徳大夫、神屋善四郎、この二人から見ても妥当と言う事か……。
「ですが南蛮では金一に対して銀十五とか。正直驚きましたな。それが事実ならいずれこの日ノ本から金が南蛮に流れ出す日が来るという少将様の御懸念は尤もと言えましょう」
島井徳大夫が憂鬱そうな表情をしている。その懸念を防ぐためには誰かが天下を統一し全国の金銀を統括する必要があると少将様は仰られた。
「御侍様が金銀の交換の割合を心配なされる。天下の将軍様でもそんな事は心配なされますまい。あれは、いや失礼、あの御方は如何いう御方なのですかな? 納屋さんも天王寺屋さんも親しいと聞いておりますが」
神屋善四郎が問い掛けてきた。
「多少のお付き合いはございます。それは否定しませぬ。ですが親しいとは申せませぬ。まあ何と言うか、腹の内の読めぬ御方というか、不思議な御方と言うべきか……」
天王寺屋さんの言葉に二人が二度三度と頷いた。
「歳は確か二十七。畿内、北陸を中心に十一の国を治めておいでです。今天下に一番近い御方でしょうな。今回の金銀の交換比率も朝廷から発表して貰うと仰っておいでです。公方様など眼中に有るとも思えませぬ。もっとも堺、敦賀では御侍にしておくには惜しい御方だとも言われております」
私の言葉に島井徳大夫、神屋善四郎が顔を見合わせた。そして微かに笑った。
「天下をお獲り出来ますかな、少将様は。如何思われます、神屋さん」
「分かりませぬなあ、島井さん。ですが少将様に獲れぬのなら大友様や龍造寺様にはさらに獲れますまい」
「そうですなあ。九州の片隅からじっくりと見させてもらいましょうか、少将様の天下獲りを」
二人が楽しそうに笑った。天下、獲れるだろうか……。
元亀三年(1575年) 二月中旬 播磨国飾東郡姫山 姫路城 小寺孝隆
「官兵衛、本願寺は如何なるかな?」
叔父、小寺休夢斎が丸い頭を撫でながら問い掛けてきた。その傍で父、兵庫助が髭を捻っていた。この二人、緊張しているとこの癖を出す。俺にもそんな癖が有るのかと思うと不安になるな。
「分かりませぬな。しかし割れました。これまで鉄の結束を誇った一向門徒がです。周囲は本願寺は脆いと見たかもしれませぬ。となると本願寺のために動く者が居るかどうか……」
「松永、内藤、三好、畠山……。兄上、如何思われます?」
「難しかろうな、休夢。動くのなら丹後、丹波攻めで動いた筈。それが動かなんだ。今更動くとも思えぬ」
父と叔父が頷き合った。
近江少将様が本願寺に服従を求められた。本願寺はそれを拒絶したが少将様にとっては想定内の事であろう。少将様は四月に本願寺攻めを行うと宣言している。
「官兵衛、三木が加賀守様に共に兵を出そうと言って来たそうだが」
「おそらくは英賀の坊主達に頼まれたのでしょう。しかし父上、御着の殿はお断わりなされました」
例え朽木に付いていなくとも断ったであろう。他国に踏み込んでまで戦をするなどという事は殿の望むところではない。殿の望みは今の所領を維持する事、それだけだ。だがそれでは詰まらぬ。俺はもっと自分を試してみたい。だから毛利ではなく朽木を選んだ。天下獲りを望まぬ毛利などいずれは他者に喰われるだけの存在でしかない。今を維持しようとすれば更に上を目指さなければならぬ。
「小寺が動かぬ以上三木も別所も動けまい。となれば本願寺は孤立するな」
「そうよな」
叔父の言葉に父が頷いた。その通りだ、三木も別所も動けない。無理に強行すればがら空きになった三木、別所の領地を小寺に攻め獲られかねない。播磨は小寺、赤松、別所が牽制し合う事で大きな勢力の出現を阻んできた。
「三好の水軍が英賀と本願寺の航路を遮断したそうです。本願寺は補給にも苦しむ事になりましょう」
俺の言葉に父と叔父が太い息を吐いた。
「少将様は兵糧攻めが得意のようじゃ」
「左様ですな、兄上」
大軍での力攻めをする事無く相手を弱らせ、孤立させてから戦う。だから怖い。攻められる方にとっては一番厭らしい攻め方だ。じりじりと死が迫る恐怖を感じるだろう。
「毛利は如何出るかな、官兵衛」
「さあ、如何出るか分かりませぬな、叔父上。本願寺は当然ですが公方様からも文が届いているようですが……」
叔父がフムと鼻を鳴らした。これまた面白くない時の癖だ。毛利の出方が分からないので不満らしい。
だが毛利が本願寺救援に兵を出すだろうか。陸は向背定かならぬ宇喜多と播磨の諸大名を引き連れての出兵となる。とても出来まい。出すとすれば海上からの兵糧の輸送の筈。しかし三好、朽木にも水軍は有る。果たして毛利は水軍を出せるのか……。出せまい、能島の村上はようやく毛利に服属したばかり、不安が有る筈だ。それにもし負ければ宇喜多、三村が如何出るか、そう思っていよう。毛利は巨大ではあるが内はガタガタだ。信用出来ない者を味方にした、そのツケを毛利は支払っている。
「官兵衛、三村からは連絡が有るのか?」
考え込んでいると父が問い掛けてきた。
「いえ、有りませぬ。と言うより出来るだけ連絡を取らぬようにしようと三村には言ってあります。あまり頻繁に連絡を取り合うと毛利、そして御着の殿に気付かれかねませぬ」
「そうだな」
父が頷いた。当家が少将様の意を受けて三村と繋がりを持っているのは秘中の秘だ。危険ではある、だがこの事が当家と朽木家を強く結び付ける筈。
三村は危ない所であった。もう少しで毛利から離反するところだったが何とか食い止める事が出来た。毛利に対して余程に腹を立てている。いきなり大人しくなっては毛利も不審を抱く、出来るだけごねて毛利を手古摺らせろと言ったが……。今のところ三村は毛利に不満は有るが離反するほどではない、そう判断した毛利が懸命に三村を宥めているといった様子だ。
本願寺攻めがいつ終わるか……。終われば朽木軍が西国に攻め込んでくる、西国の情勢は一変する……。宇喜多を味方に付ける事を考えたのは毛利両川の一、小早川左衛門佐らしい。もう一人の吉川駿河守は反対したと聞いている。左衛門佐は焦ったな。何とか自分の担当である山陽道を守ろうとしたのだろうが……。
「ところで、太兵衛の事、聞いたか?」
父がクスクスと笑いながら問い掛けてきた。叔父を見たが心当たりは無いらしい。笑っているところを見ると悪い事ではないようだが……。
「太兵衛に何かございましたか?」
「例の壺の事よ」
「大分ぼやいているとは聞いておりますが……」
父が声を上げて笑い出した、膝を叩いている。はて……。
「それは表向きの事での。本当は大分気に入ったらしい。良く楽しそうに磨いているのだとか」
「なんと」
俺も驚いたが叔父も吃驚している。あの無骨者の太兵衛が? 壺を楽しそうに磨いている? 父がまた楽しそうに笑い声を上げた。
「だがその事を指摘されると太兵衛は真っ赤になって否定するらしい。已むを得ず磨いているのだと言ってな。教えてくれたのは善助と九郎右衛門だがあの二人、腹を抱えて笑っておった。ま、儂も笑ったがの」
三人で顔を見合わせ声を揃えて笑った。あの無骨者の太兵衛が? 世の中、信じられん事が起きるようだ。
「ま、酒を飲むか槍を振り回すしか楽しみが無いのでは余りに人生に味気が無い。新たな楽しみが出来て良かったのではないかと儂は思っている」
「父上、そのように笑いながら仰られても真実味が有りませぬな」
「真、官兵衛の言う通りでござる」
「そうかな、儂は本当に喜んでいるのだが。儂も壺を集めてみようかな、如何じゃ、そなた達も付き合わぬか」
父が笑うと叔父がやれやれと言う様に首を横に振った。