閨閥
元亀二年(1574年) 六月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 川勝秀氏
暦の間では御屋形様が政務を執っておられた。そして控えの間では大勢の人間が御屋形様への拝謁を待っている。
「此度、軍略方に任じられましたる事、真に有難く心より御礼申し上げまする」
「うむ、励めよ、主税。助五郎、重三郎もそれぞれの持ち場で頑張っている、頼むぞ」
「はっ」
「これから朽木は西国へと兵を進める事になる。決して楽には進めまい。軍略方でしっかりと働け」
「はっ」
朽木主税様が御屋形様の前から下がった。
「御奉行、主税様は兵糧方だったと覚えております。軍略方への異動というのは良く有る事なので?」
問い掛けると御倉奉行、荒川平九郎様が“そうではない”と否定された。
「主税殿は御屋形様の御一族でな、幼少の頃は御屋形様の御側近くに仕えていた。様々な経験をさせてやりたいと思っておいでなのであろう」
「なるほど」
次に御屋形様の御前に呼ばれたのは伊勢与十郎殿、因幡守貞常殿、上総介貞良殿の三人だった。いずれも幕府政所執事伊勢氏の一族だ。朽木家と伊勢家は密接に繋がっている。話の内容は阿波の大御所様の事だった。隠居した義助様の位階を昇進させようという事らしい。どうやら考えているのは従三位権中納言らしいがいきなり三位には出来ないので一旦正四位上にするようだ。
正四位上は三位に昇進する人間が一時的に叙されるのだとか。平九郎様のお話では阿波三好家との関係を維持し十五代様を牽制するためにも平島公方家との関係は疎かに出来ないのだとの事。やれやれ、ここに来ると丹波は田舎だと思わざるを得ぬ。父が朽木で学んで来いと言った意味が良く分かった。人質などと考えては父の気持ちを無にしてしまうな。
伊勢の三人が下がると次に呼ばれたのは平九郎様だった。御供の俺も一緒に御前に出て平伏した。暦の間には御屋形様の他に蒲生下野守様、黒野重蔵様が相談役として控えている。二人とも古強者と呼ぶに相応しい迫力を滲ませている。
「平九郎か、隣に居るのは、ほう、彦治郎だな。二人とも遠慮はいらん、面を上げよ」
「はっ」
顔を上げると御屋形様が穏やかな笑みを浮かべておられた。和む、丹波に居る頃は怖い御方だと思っていたがそのような事は無い。御屋形様は穏やかでお優しい方だ。
「彦治郎、仕事は慣れたか?」
「いえ、日々驚いてばかりでございまする」
御屋形様が声を上げて笑った。冗談を言ったつもりはない。毎日が驚きの連続だ。御屋形様が笑い終えると“頑張れよ”と励まして下さった。気遣いが心に沁みる。
「それで、如何した、平九郎。倉が足りなくなったか?」
「そうではございませぬ」
「では倉の底が抜けたか?」
「それも違いまする」
「ほう、心当たりが無いぞ、平九郎。となると厄介事だな」
「はっ」
御屋形様が楽しそうに笑い声を上げられた。厄介事と言ったのだが余り気になさっていないようだ。まあその方が話し易くは有る。これも心がけなのだろうか? 俺もいずれは家を継ぐ、御屋形様から学ばなければ。
それにしても倉の底が銭の重さで抜ける、最初は冗談だと思ったが本当のようだ。誰に聞いても同じ事を言う。丹波の父に文でその事を書いたが嘘を吐くなと返事が返ってきた。同感だ、俺だとてこの朽木に居なければ信じなかっただろう。朽木は裕福と聞くがどれ程裕福なのか見当もつかぬ。
「それで、何かな?」
「銭の事にございまする」
「銭か」
「はっ、朽木領には様々な産物が諸国より集まりまする」
「うむ」
「その中には高額な物、大量に買わねばならぬ物も有りまする。特に兵糧方では顕著でございまする」
兵糧方、あの連中は大量に買う。米、塩、火縄、鉛玉、硝石……。この間の丹波攻めで驚いたわ。倉一つ空になる勢いで買うのだが直ぐにその倉が銭で埋まった。これにも驚いた。
「うむ、それで」
「支払いの銭が嵩張り持ち運びに不便でございます」
「なるほど、道理である。取引の妨げになるな」
御屋形様が大きく頷いた。
「嵩張るだけでは有りませぬ。銅銭が足りぬという問題が発生しておりまする」
「明から随分と銭を受け入れているのだが……」
平九郎様が首を横に振った。
「足りませぬ。何より朽木が銭を貯めておりますので……」
「貯めてはいるが使ってもいるだろう。兵糧方は物も買うが道も整備している」
「国人衆も銭を貯めておりますので……」
御屋形様が溜息を吐いた。凄い話だ、朽木領内にどれ程の銭が集まっているのだろう。御倉方に配属されてから銭の話ばかり聞くが毎日驚く事ばかりだ。
「それで、如何すれば良い?」
御屋形様は何故だか楽しげだ。
「されば銅銭に代わる銭を用意すべきかと」
「……銅銭に代わる銭か。なるほどな、良く考えたものだ」
御屋形様が声を上げて笑った。え? それだけで分かるの?
「それで、何を使う?」
「はっ、彦治郎が金と銀を使って新たな銭を作ってはどうかと」
「金と銀か。面白い話だな、彦治郎」
「はっ、畏れ入りまする」
良かった、面白いと言って貰えた。御屋形様は上機嫌だ。それにしても凄い、あれだけで理解されるとは。平九郎様に説明した時はもっと大変だった。
「御屋形様、御賛同頂けますので」
「うむ、良いと思うぞ、平九郎。気を付けねばならんのは金、銀、銅銭の交換の割合を如何するかだな」
「はっ、金十両を銅銭十五貫、銀十両を銅銭二貫では如何と」
「ほう、そこまで考えているか」
「はっ」
「平九郎、次の評定に出せ。そこで正式に決めよう。俺も少し考える事が有る」
「はっ」
御前を下がると平九郎様に尋ねてみた。
「次の評定で決めるとの事でございますが」
「それだけ重要だと御屋形様は御考えなのだ。そなたも当日は次の間で備えるようにな」
「はっ、楽しみでございまする」
「うむ」
評定か、前から一度出てみたいとは思っていた。楽しみだ。
元亀二年(1574年) 六月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
執務を終え暦の間から自室に戻ると茶を飲んで一息吐いた。金、銀を通貨として使うか。面白い話だな。新しい通貨として金貨、銀貨を造る、つまり小判を造るわけだ。今の所朽木、織田、上杉の領地は共通の枡を使う事で度量衡の統一を計っている。話を持ちかければ乗って来る可能性は有る。と言うよりやるのなら上杉は必ず参加させる必要が有るな。上杉の持つ金が必要だ。統一政権を作った訳でもないのに小判は気が早いかな。しかし織田、上杉も入れれば勢力範囲はほぼ日本の中央部を制していると言える。
五月に織田・徳川連合が今川・武田・北条連合と一戦した。決定的では無かったが織田・徳川の有利で終結している。三河では織田の力が強まり遠江を狙う姿勢を見せ始めたから東海道という大動脈が勢力圏に入るのも間近だろう。それに三好、土佐一条も加えよう。そうなれば四国も勢力範囲に入って来る。そうなると小判を造ってもおかしな話じゃないとも言える。三好と土佐一条は先ずは枡の統一だな。両家とも京との繋がりは深い。それほど抵抗は無いだろう。
単純に金、銀と銅銭の交換比率を定めただけで良しとする手も有る。そして金貨、銀貨を造るのはもっと後にする。いや、待て。その前に金、銀と銅銭の交換比率だ。金十両を銅銭十五貫、銀十両を銅銭二貫と言っていたな。多分これが現状での相場なのだろうが少し金が安過ぎないか? 安過ぎると金の国外流出という問題にも発展しかねん。南蛮商人にさり気なく交換比率を聞いてみるか。
しかしなあ、金の価値が高くなると相対的に銀の価値が低くなる。金山を持っている武田や上杉は喜ぶだろうが西日本は銀が主流だ。混乱するだろうし反発もするだろう。銀山を抱えている毛利、山名は必ず反対するだろうな。しかしいずれは征服するのだ、気にする必要は無いとも言える。ウーン、迷うなあ。鼓でも打つか。
「弥五郎殿」
「どわっ、母上?」
吃驚した、気が付けば綾ママが目の前に居た。鼓は後だな。
「如何したのです、そんな大声を出して。大丈夫ですか? 少しお話したい事が有るのですが?」
「大丈夫です、伺いましょう」
姿勢を正した。綾ママ、何か深刻そうな表情だな。綾ママが俺の前に来る時は何時も深刻そうな顔だ。偶には笑顔で来て欲しいもんだ。“弥五郎ちゃん、元気? 貴方のママもとっても元気よ”。……有り得んな。
「妹から文が届いたのです」
「叔母上からですか」
千津叔母ちゃん元気かな。飛鳥井の爺様の葬式では落ち込んでいたが……。
「永尊皇女様に内親王宣下をという御話が出ているそうなのです」
「皇女様に内親王宣下を」
なるほど、もうそんな年頃か。月日が経つのは早いな。
「亡くなった飛鳥井の御爺様が楽しみにしていたそうなのです。さぞ心残りであっただろうと帝が仰せられて……、畏れ多い事です」
「真に」
「永尊皇女様には西園寺家の実益様に降嫁という御話も有ります」
「西園寺家?」
綾ママが頷いた。
「実益様の御母君は万里小路家の方なのです」
「では?」
「東宮様の御母君、新大典侍様も万里小路家の出。実益様と東宮様は母君が姉妹なのです」
という事はこの縁談話は万里小路家から朽木・飛鳥井への打診か。今後も仲良くという事だな。
「飛鳥井の伯父上は何と?」
「良いお話だと喜んでいます」
まあそうだろうな、というより断れる話でもない。
「叔母上が母上に文を送ったという事は費えの事ですな」
「そうです、今年は何かと物入りでしたから……」
綾ママが小さく息を吐いた。飛鳥井家は爺様の葬式で大分銭を使った。内親王宣下に回せる銭は無い。つまり俺に丸投げしても良い? という打診か。
「良いお話です。某も従妹姫には幸せになって貰いたいと考えています。喜んでお手伝い致しましょう」
「そうしていただけますか?」
「勿論です。母上、遠慮は無用になされませ」
綾ママが笑みを浮かべた。遠慮はいらない、何度も言っているんだけどな。
「しかし今年は不幸が有りましたが?」
「そうですね、内親王宣下は来年になると思います」
「となると降嫁は更にその先ですか」
「ええ」
つまり今年は葬式、来年は内親王宣下、再来年は降嫁とイベントが続くわけだ。内親王宣下、降嫁、どちらかで金、銀を使いたいな。年内に何とかしよう。
「ところで辰の事なのですが」
「辰? 辰がどうかしましたか?」
綾ママがちょっと困った様な表情を見せた。
「そろそろあの娘も年頃です。如何するか、そなたに身の振り方を考えて欲しいのです」
「考えて欲しい? つまり嫁ぎ先でしょうか」
「ええ」
そう言えば辰はもう十二? 十三? そのくらいにはなる筈だ。従妹姫も内親王宣下から降嫁という話が出ている。親代わりになっている綾ママが心配する筈だな。
「分かりました。しかし辰には温井の家を再興させねばなりませぬから単純に嫁ぎ先を探すというわけには行きませぬ。温井の名跡をとらせ、所領を持たせてから婿を取る形になります。先ずは次男坊、三男坊でそれなりの者を捜さねばなりませぬな」
所領は最低でも五千石は要るだろう、何と言っても長、遊佐の遺族を一万石で召し抱えたのだ。誰が居るかな? 跡継ぎではなく能力のある男。そして若い男。また一つ頭の痛い問題が発生したな。小夜や雪乃に相談してみるか。
「簡単には行かないのではありませぬか、辰には頼りになる実家も無ければ親族も居ません。家臣もです。婿を取っても肩身の狭い思いをするのではないかと思うと辰が不憫で……」
「そうですな、確かにそれは有るかもしれませぬ」
まあ実家じゃないが後ろ盾には俺がなれば良いだろう。しかしなあ、確かに肩身の狭い思いはするかもしれない。如何したものか……。綾ママがジッと俺を見た。何かな?
「そなたが辰を後見してくれませぬか?」
「勿論です。某が辰の親代わりになりましょう。それならば粗略な扱いは受けますまい」
「そうではないのです、分かりませぬか?」
「……まさかとは思いますが……」
綾ママが頷いた。
「そなたは既に三人の男子が居ますから辰の産んだ子に温井の姓を名乗らせる事に何の不都合も有りませぬ」
やっぱりそれ? 溜息出そうだ。
「それはそうですが……、しかし母上、某には小夜と雪乃がおりますぞ。新たに側室をと言われても……」
綾ママが首を横に振った。
「そなた程の立場にある者なら側室が一人という事は有りますまい」
「それはそうですが……、しかし多ければ良いという物でも有りますまい」
「それはそうですが……」
親子で女の話? 勘弁して欲しいわ。俺は小夜と雪乃に不満は無いんだ。十分満足している。新たに側室をと言われても……。
「大体です、辰を側室にすれば篠もという話になりますぞ、母上」
「ええ、そうです。そう考えています。弥五郎殿、御願い出来ませぬか」
「……」
駄目だ、綾ママは本気だ。溜息が出た。
「あの子達は母親が側室だったそうです。大事にされなかったとは言いませんが寂しい思いをする事も多かったとか。嫁いでまでそんな思いをさせたくないのです」
「……」
「分かって貰えませぬか? 弥五郎殿」
そう頼まれてもなあ。頼むからそんな縋る様な目で見ないでよ、心が揺らぐだろう。
「あの二人に幸せになって貰いたいと思う気持ちは某も持っております。能登攻めにおいて畠山の復帰などという公方様の頼みを聞かなければ温井も三宅もあのような事にはならなかった。あの二人の今を作ったのは某でもあるのです。その事を忘れた事は有りませぬ」
「ならば」
「母上、某の側室になる事が真、あの二人の幸せになりましょうか? すでに某には正妻と側室が居るのですぞ。そこに後から加わる、側室の一人としてです」
綾ママが少し考えている。
「今すぐ決める必要は有りますまい。母上の御考えは分かりました。何が辰にとって、篠にとって良い事なのか考えてみたいと思います」
「御願いしますよ」
「はい、考えが纏まりましたら母上に御相談します」
綾ママが頷いて部屋から去った。溜息が出そうだ。
まあ割り切って考えれば俺の側室というのが一番簡単だろう。俺の子供を産んでその子に温井を名乗らせる。いくらでもそんな例は有る。有名なのは武田勝頼だな。勝頼の最初の名乗りは諏訪四郎勝頼だ。母方の諏訪の名跡を継ぎ諏訪氏の通字である頼の字を名前に入れている。そして武田家の通字である信の字を入れていない。勝頼はあくまで諏訪家の人間とされたわけだ。多分母親が願ったんだろう。
しかしなあ、俺の側室になる事が幸せかな? 雪乃みたいに面白そうだから来たなんていう変わり者なら良い。好みが有るだろうし嫌々側室になるのも可哀想だろう。それに小夜と雪乃は如何思うだろう? これまでは妹みたいな感じで可愛がっていただろうが側室となれば競争相手になるわけだ。特に雪乃は男子を欲しがっているし喜ばないんじゃないかな。家の中でギスギスするのは勘弁して欲しいわ。俺の居場所が無くなるぞ。
小夜と雪乃に相談してみよう。俺の側室では無くて良い相手が居ないかどうかだ。五郎衛門、蒲生下野守、真田弾正にも相談してみよう。五郎衛門は朽木譜代、下野守は六角旧臣、弾正は信濃衆、それに伊勢国人衆。その辺りで適当な候補者を上げさせよう。まあ何とかなるだろう。頭が痛いわ、鼓でも打つか。いや、今日は算盤にしよう。