代替わり
元亀二年(1574年) 三月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
重蔵、小兵衛が暦の間に姿を現した。重蔵は足を引き摺っている。痛々しい姿だ、もう忍び働きは出来ないと聞いた。重蔵が座ろうとして顔を顰めた。
「重蔵、足を延ばせ」
「はっ、しかし」
「構わぬ。俺の前で遠慮は無用だ。辛ければ杖をついても構わぬぞ」
「まだそこまでは老いてはおりませぬ」
重蔵が苦笑した。小兵衛も苦笑している。如何して笑えるのだろう、俺は悲しくて仕方が無いのに。
波多野の忍びが重蔵の宰領する行列を襲った。ざっと二十名程だったらしい。場所は根の平峠の半ば以上を過ぎた所だったという。弓、鉄砲での攻撃と同時に波多野の忍びが行列に飛び込んで来た。そして警護の兵、八門、波多野の忍び、入り混じっての混戦になった。重蔵はその混戦で負傷した。左腕、左足を負傷した。腕は大した事は無いらしい。だが足は駄目だ、今後は足を引き摺る事になると聞いている。
波多野の忍びは重蔵が用意した影武者を斃すと直ぐに逃げ出した。だが逃げて丹波に戻った者は皆無の筈だと重蔵は言っている。八門に追われ逃げる先には伊賀衆が待ち受けていたからだ。重蔵は波多野の忍びが仕掛けるのは帰路と見ていた。往路では俺を特定出来ないと。そして伊賀衆に波多野の忍びの逃げ道を塞ぐ様に頼んでいた。俺を特定するのに夢中になっていた波多野の忍びは伊賀衆に退路を断たれた事に気付かなかった。波多野の忍びは重蔵の掌で躍っただけだ。忍びの世界で重蔵と八門の名は更に高まった。
「御屋形様、かねてより願い出ておりましたが八門の頭領の座、倅小兵衛に譲りたく思いまする。何卒御許しを頂きたく思いまする」
「分かった。小兵衛、頼むぞ」
「はっ」
丹波での襲撃、今度の伊勢での襲撃、二度の強襲で波多野の忍びは酷い損害を受けた。もう組織だった攻撃は不可能だというのが重蔵、小兵衛の意見だ。隠居には何の障害も無い……。
「重蔵、これまで御苦労であった。出会った夜の事を覚えているか? 俺の寝所に忍んできてくれたな。良く来てくれた、感謝している、この通りだ」
俺が頭を下げると重蔵が“御屋形様!”と叫んだ。悲鳴かな。何だろう、重蔵の声を聞いたら鼻の奥がツンとしてきた。
「頭をお上げ下さい! 御屋形様!」
頭を上げた、重蔵の顔が良く見えない。涙を拭っても見えない。重蔵の傍に寄った。未だぼやける。重蔵の身体を掴んだ。大きくて逞しい身体だ。
「済まぬなあ、重蔵。忍びとしてのその方を死なせてしまった。その方にとっては死よりも辛かろう、済まぬ」
自由に駆ける事も敵の目を欺いて闇に潜む事も出来ぬのだ。これまで出来た事が出来なくなる。辛いだろう。
「……御屋形様」
重蔵が嗚咽を漏らした。俺も泣いた。色々な事を思い出した。どんなに苦しい時でも重蔵が居るから俺は道を誤る事は無かった。
「重蔵、済まぬ」
「何を仰せられます。我ら御屋形様と出会わなければあのまま世の片隅で朽ち果てていた筈。御屋形様の御力にて世に出る事が出来申した。それに某は死んではおりませぬぞ。まだまだ朽木家のために、御屋形様の御為に粉骨砕身するつもりにございまする」
「重蔵……、そうよなあ、そうでなければ重蔵ではない。頼むぞ、重蔵」
「はっ」
泣いてる場合じゃない、重蔵はもう前に進もうとしている。俺も前を向いて歩かなければ……。
「小兵衛」
「はっ」
「波多野、赤井に味方する者達に噂を流せ。俺が今回の一件で激怒しているとな。波多野、赤井に味方するのは危険だと触れ回れ」
「承知しました。波多野、赤井を孤立させまする」
八門の頭領として初めて受ける仕事だ。気合が入っている。
「うむ、それと播磨に人を入れろ」
「別所、小寺、赤松ですな、既に入れておりまする」
「頼もしいぞ、だが足りぬ。英賀にも人を入れろ。丹波を片付ければ次は本願寺だ。英賀は必ず動く」
「なるほど」
小兵衛が頷いた。
「毛利にも入れろよ、安芸は一向宗の力が強い。何らかの動きが必ずある筈だ」
「はっ」
元亀二年(1574年) 三月上旬 近江国蒲生郡八幡町 黒野影昌
屋敷に戻ると小頭達が集まっていた。一の組支配、笹山仙太郎重康。二の組支配、正木弥八正昭。三の組支配、村田伝兵衛綱安。四の組支配、石井佐助光久。五の組支配、瀬川内蔵助昭良。六の組支配、佐々木八郎義一。七の組支配、望月主馬延良。八の組支配、佐田弥之助満重。九の組支配、梁田千兵衛幸保。十の組支配、当麻葉月。一の組支配は親父の引退と共に代替わりした。元の小頭、小酒井秀介幸孝は今後は親父の傍で働く事になる。既に親父と秀介は新たに用意された屋敷に移った。この屋敷はあくまで八門の頭領の屋敷という事だ。
「おめでとうございまする」
代替わりした事、御屋形様の御許しを得た事を告げると小頭達が祝ってくれた。
「如何なされました、御顔の色が優れませぬが」
「ほほほ、弥之助殿、頭領は照れておいでなのじゃ」
葉月の言葉に皆が笑った。葉月は相変わらずだ。
「そうではない、重いのだ」
皆が顔を見合わせた。
「今日、御屋形様に代替わりを願い出た。御屋形様は泣いておられた。親父の傍によって済まぬと言って泣いておられたのだ。羨ましかったし妬ましくも有った。だがそれ以上に重かった。俺に果たしてそれ程の信頼を御屋形様から頂けようかとな」
皆が黙り込んだ。親父と御屋形様の間には主君と家臣というだけではない、もっと強い絆が有った。親父が朽木に仕えて二十年、その二十年で築き上げた絆だ。
「頭領、その御信頼は先代が一人で築いた物ではござらぬ。八門皆で築いた御信頼でござる」
「弥八の申す通りでござる。頭領は一人ではござらぬ。我らが、八門の皆が頭領を支えているのでござる。どれほど重くとも我らが支えますぞ」
二の小頭正木弥八、三の小頭村田伝兵衛が俺を励ましてくれた。そうだな、俺は一人では無い。
「分かった、頼りにしている。伊勢行き、代替わりと忙しい日が続いた。親父から状況は聞いているが念のために皆から改めて話を聞きたい」
皆が頷いた。
「公方様は?」
「相変わらず変わりは有りませぬな」
笹山仙太郎が答えた。
「御側室、おさこの方様の傍近くに仕える女中をこちらに引き込む事が出来申した」
「ほう、代価は?」
「銭にござる。親が病気で治療代が嵩むようで。裏は取っております」
「で、何を聞き出した」
仙太郎がニヤリと笑った。
「おさこの方様のお話では公方様は朽木を信用出来ぬと申されているとか」
「……」
「御屋形様が自分を敬っておらぬと零されたそうで」
「それで?」
「朝廷も信用出来ぬ、このままでは足利は武家、公家、朝廷から見捨てられるだろうと。御屋形様が近江少将になられましたからな、大分不満が有るようにござる」
シンと静まった。仙太郎も笑みを消している。
「公方様、必ずしも愚かというわけでは無さそうで」
仙太郎の言葉に皆が苦笑を浮かべた。
「仙太郎、その女との糸、切るなよ。それと他の女もこちらに引き込め。大河内氏の娘が公方様の御側に上がったと聞いた。出来ればその女の側近くに仕える者が良い、出来るか?」
「必ずや」
仙太郎が自信有り気に頷いた。或るいはもう取り掛かっているのかもしれぬ。
その後、一刻程の時間を費やして小頭達から話を聞き指示を出した。小頭達が屋敷を去ると妻がやってきた。
「如何ですか、八門の頭領になった気分は」
「もっと心が弾むと思ったのだがな」
「まあ、弾みませぬか?」
「弾まぬなあ」
妻が屈託なく笑い声を上げた。昔はこんなに良く笑う女だとは思わなかった。騙されたな、まあそれも悪くないのだが。
「困った事ですわ。御屋形様は風変わりな所が御有りですがお優しい方ですよ」
「勘違いするな、キリ。御屋形様に不満が有るのではない」
「……まあ、では何が?」
「不満は無い、八門の頭領の座は重い、それが理由だ」
妻が笑いだした。
「一人で背負う事もないでしょう、皆で背負えば良いでは有りませぬか」
「……小頭達と同じ事を言う」
「道理ですから」
何時もこれだ。昔はこんなに良く喋る女だとは思わなかった。女は天性の忍びだな、男は簡単に騙される。まあそれも悪くないのだが……、妻がニコニコしている。口には出せぬ。
「茶をくれ」
「はい」
元亀二年(1574年) 五月上旬 山城国葛野・愛宕郡 室町第 細川藤孝
室町第に出仕すると兄、三淵大和守藤英が待ち受けていた。直ぐに兄の部屋に誘われた。話の内容は想像が付く。心の中で溜息を吐いた。最近は溜息一つ自由に吐けない。
「丹波の波多野が滅んだ。左衛門大夫秀治は腹を切ったそうだ」
「そうですか」
驚きは無かった、兄の顔にも落胆は有っても驚きは無かった。来るべきものが来た、それだけだ。
この春から波多野、赤井に味方していた者達が次々と朽木に下った。波多野の忍びが少将様の命を狙った事で朽木の攻撃が容赦無いものになると恐れたらしい。赤井は波多野が滅ぶ前に当主の悪右衛門が腹を切り滅んでいる。戦いらしい戦いは無かった。籠城する事も出来ずに腹を切るしかなかったようだ。噂では家臣達に腹を切る様に強要されたとも言われている。波多野左衛門大夫も腹を切ったというがこちらも似た様な状況だったのだろう。戦う事も出来ずに面目を保つ為に腹を切ったに違いない。
「これで丹波は朽木の領土になった」
「そうですな」
「波多野、赤井、宇津、そして丹後の一色も滅んだ。丹波で反朽木の動きが出る事は有るまい」
「そうですな、三好が丹波を得た時とはかなり違います」
あの時は波多野、赤井、宇津、川勝が健在だった。彼らが反三好に転じた事で丹波は三好から離れた。だが今では川勝が残るだけだ。そして丹後は既に朽木領になっている。
「京の北を抑えられたな。また一つ朽木は大きくなり幕府は圧力を受ける事になる」
「……」
近江、伊賀、摂津に加えて丹波が朽木領になった。残りは河内、大和……。むしろそれらが朽木領になった方が兄も諦めが付くのかもしれぬ。現状では中途半端なのだ。近江少将様は如何お考えなのか……。
「波多野の忍びが近江少将を殺していれば……」
兄が溜息を吐いた。またこの話か。
「的を外しましたな。選りによって少将様の居ない行列を襲ったと聞いております」
「そうだな、だが丹波では惜しい所であった」
兄は近江少将様の死を望んでいる。丹波での狙撃で鎧に阻まれたと聞いた時には大変な悔しがりようだった。恨みがましい口調に心底うんざりした。
「兄上、少将様を殺せば幕府の権威が高まると御考えか?」
兄が決まり悪そうな表情を見せた。
「そうは思わん、だが邪魔だ、朽木は大き過ぎる。そうは思わぬか?」
「……朽木が大きいのは認めます」
兄が満足そうに頷く。愚かな……。兄は朽木の大きさだけに目が行っている。
幕府の衰退は三好や朽木が勢力を拡大する前からだという事に何故気付かないのか。幕府の権威を高めるのと朽木を縮小させるのは必ずしも連動しない。公方様も兄も朽木を利用して幕府の権威を高める事を考えるべきであった。最初からそれを行っていれば朽木が幕府を無視する事も無かったであろう。だが現実には少将様は幕府から離れようとしている。
「兵部大輔、考えてみれば朽木を潰す必要はないのだ。少将が居なくなれば良い。自然に朽木は小さくなる筈だ」
「それは如何いう意味です?」
兄は何を考えているのだ? まさか……。
「甲賀者を使おうかと思っている」
「霜台殿が受けましょうか?」
兄がニヤリと嗤った。寒気がするような笑みだ。
「霜台は関係無い。私も甲賀者に知り合いが居る。そこに頼むつもりだ」
兄は周囲が見えなくなっている。付き合いきれぬ。
「正気ですか、兄上」
「正気だ」
「お止めなされ、徒に命を失うだけでござる」
「上手く行かぬとは限るまい」
兄が執拗に言い張った。溜息が出た。
「命を失うのは兄上にござる。お分かりになりませぬか」
兄が口元に力を入れた。納得していない。
「兄上、本気で甲賀者が受けると御思いか?」
「銭を弾めば受けるだろう」
自信有り気だ。だが少将様を狙うとなればどれだけの銭を要求されるか、その辺りを理解しているのだろうか? いや銭の問題ではない、甲賀者が受けるとは思えぬ。
「受けませぬな、受ければ殺されます」
「……」
「宜しいか、兄上。甲賀者が少将様を狙えば少将様は必ず霜台殿が裏に居ると考えましょう。朽木の大軍が甲賀から大和へと雪崩れ込む事になる。それを霜台殿が、甲賀の三雲が望むと御思いか?」
「……」
甲賀は近江に有るのだ。そして朽木には八門と伊賀が付いている。朽木を敵に回すには余程の覚悟が要るだろう。
「霜台殿も甲賀の三雲もそんな事は望んでおりませぬぞ。必ず依頼を受けた甲賀者、そして依頼した兄上を殺します。そうする事で少将様に対して身の証を立てる筈」
「……成功すれば良かろう」
また思わず溜息が出た。
「少将様には八門と伊賀が付いているのですぞ。簡単に成功するわけが有りますまい。波多野とて他に手段無く行ったのです。そして失敗した、波多野は滅んだ。波多野の末路を御存じでしょう、籠城すらまともに出来なかったのですぞ」
「……」
「まさかとは思いますが公方様の御考えでは有りますまいな」
兄が目を逸らした。愚かな、どうしてこうも愚かなのか……。
「兄上が依頼したと分かればその裏に公方様が居ると皆が思いますぞ。公方様の御身が危険になるとはお考えにならぬのですか」
兄が表情を変えた。
「公方様を弑すと言うのか、三好が光源院様を弑したように」
「それは分かりませぬ。ですがそうなってもおかしくは有りませぬ。お止めなされよ、兄上にとっても公方様にとっても凶としか出ませぬ」
「……」
「忠告は致しましたぞ。某は失礼させていただきます」
言い捨てて兄の部屋を出た。
公方様も兄も現実が見えていない。少将様を殺し朽木の勢力が小さくなっても足利の勢力が大きくなるわけでは無い。裏に公方様が居たと知られれば諸大名から忌み嫌われるだけであろう。そしてようやく落ち着いて来た畿内はまた乱れる事になる。その中で幕府が、公方様がどのような扱いを受けるか……。公方様が大きくなろうとしても暗殺をするようでは周囲がそれを許さない。幕府がより惨めな境遇になると何故思わないのか……。
少将様に文を書かねばなるまい。甲賀と名指しで書くのは拙かろう。霜台殿、三雲に迷惑がかかりかねぬ。そうだな、幕府内部で波多野の忍びの事が頻りと話題になる、身辺にご注意をと書こう。それだけで十分にこちらの意は伝わる筈だ。