鰻
元亀二年(1574年) 一月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
八幡城の暦の間、人払いをした部屋に俺と黒野重蔵、蒲生下野守が居た。他聞は避ける。新年早々、正月三が日を過ぎたばかりなのに顔を寄せ合っての悪巧みだ。和むなあ、本当に和む。
「それで?」
「赤井家家臣、芦田治郎太夫為家がこちらに寝返りを申し入れて来ました」
「間違いないか、重蔵」
「間違いありませぬ」
自信有り気な表情だ。芦田治郎太夫と言えば赤井の有力家臣、明智十兵衛も喜ぶだろう。下野守も満足そうな表情をしている、腹一杯飯食った猫みたいだ。
「それで、波多野は?」
「綾部城の江田兵庫頭行範、田野城の小野木清次郎重勝、須知城の須知主水景氏がこちらに」
「寝返ったか」
「はっ」
思わず笑い声が出た。江田、小野木、須知、いずれも波多野家では名の知れた者達だ。有力家臣達が波多野を見切り始めた。これまでだな。
「油断はなりませぬ」
重蔵が厳しい表情をしている。その傍で下野守が頷いた。
「波多野の忍びが御屋形様を狙っていると江田、小野木から報せが有りました」
「間違いないのか?」
重蔵が頷いた。寒いわ、首筋が寒い。
「あの者共が危険な事は御屋形様が誰よりもお分かりの筈」
「うむ、危うく死にかけたからな」
あの時は本当に死んだと思った。重蔵は責任を感じて隠居したいと言っている。勿論そんな事は許さない。孫の相手はまだ早いと言って拒否している。重蔵は小さい時から悪さをした仲だからな、俺にとっては五郎衛門や新次郎同様親戚みたいなものだ。離さん。
「あの者共、おそらくはこの近江でも狙ってきましょう。決して油断はなりませぬ。どれほど護衛が気を入れようと御屋形様御本人が油断すれば意味が有りませぬ。忽ち命を失いましょう」
重蔵の言葉に下野守が頷いた。
「重蔵殿の言う通りですぞ、御屋形様。御屋形様は油断なされる方では有りませぬがこれまで以上に用心が必要です」
「下野守、六角でも同じような事が有ったのか?」
下野守が当然という様に大きく頷いた。
「当然でございます。某の知るだけでも管領代様、承禎入道様、何度か御命を狙われております。甲賀衆が信任を受けたのはそれを防いだ事も一つの要因かと」
「なるほどな。分かった、気を付けよう」
重蔵、下野守が厳しい表情で頷いた。そういえば六角は俺の命は狙わなかったな。早い時点で小夜を嫁にした所為も有るだろう。だが承禎入道は俺の事を利用価値が有ると思っていただけじゃなく気に入ってくれてたのかもしれない。まあ俺もあの男の事は嫌いじゃなかった。倅の右衛門督に比べれば話が出来るだけずっとましだ。……比較対象が低すぎるな。
「京に動きは有るか?」
「相変わらず上杉、織田、今川、北条、武田に使者を出しておりますが最近では頻りに毛利に使者を出しております。それと大友、龍造寺、島津に」
「大友と龍造寺と島津か」
「はっ」
なるほど、東は朽木、織田、上杉の絆は固いと見たか。取り敢えず接触を維持しておけば良い、そんなところだな。
「御屋形様、公方様の狙いは?」
「毛利を動かす事だろうな、重蔵。毛利と大友の和睦を考えているのだと思う。後顧の憂いを無くした毛利を朽木にぶつける。だがそれが成らぬ時は龍造寺、島津を大友にけしかけるつもりと見た」
二人とも今一つピンと来ない表情だな。島津は日向の伊東と戦の真っ最中だ。大友とは直接領地を接していない。しかし島津、伊東の戦いは島津側が有利になりつつある。島津が伊東を喰えば島津は大友と領地を接するようになる。
そして龍造寺は形式上大友に服属しているが実際には独立しているに等しい。徐々に大友の勢力範囲を侵食しつつある。大友が戦国末期になると劣勢になり中央の織田、豊臣に救けを求めるまで追い込まれるのは毛利、島津、龍造寺の三者に包囲される形で攻め立てられたからだ。その背後には毛利を上洛戦に使おうとした義昭の存在が有る。
「他に、動きは有るか?」
問い掛けると重蔵が頷いた。
「東海道でございますが織田が押しております。今川はじりじりと押され三河の今川勢力は徐々に織田に旗幟を変えております」
「そうか」
「御屋形様、流れが起きれば一気に動きますぞ」
下野守は東海道の情勢が激変すると見ている。俺も同感だ。織田は小刻みに西三河に出兵している。銭で雇った兵というのは農繁期に左右されないという利点が有るが起動が早いのも利点の一つだ。今川はそれに対応出来ずにいる。痛め付けられる西三河の今川勢力は徐々に今川を見切り始めたらしい。この手の動きは下野守の言う通り一旦始まると一気に加速する。だが今川が見過ごすとも思えん、如何防ぐ?
「今川の動きは? 黙って見ているわけではあるまい」
「されば武田、北条に頻りに使者を送っております。織田との戦いに援軍を要請しているようで」
「そうか。しかし武田、北条も敵を抱えている。援軍と言ってもな」
俺の言葉に重蔵、下野守が頷いた。援軍は少数にならざるを得ない。何処まで織田に対抗出来るか。
「しかし徳川が」
「徳川が?」
「大分不満が有るそうで」
「不満?」
重蔵が頷いた。下野守と顔を見合わせた。下野守は驚いている。
「織田の出兵に付き合う事で大分困窮しております」
「なるほど、そうか」
織田は商業地帯を有している。だが徳川の三河は農村地帯だ。銭で兵を雇うのは難しい。要するに百姓兵に負担をかけているため敵と同様に疲弊しているという事だ。信長は三河に不満有りと気付いているかな? 気付いているなら三河兵無しで戦う事を考える筈だ。だが三河兵無しで戦う事が可能かな? 兵力的には問題無いだろう。だが兵の質では問題有りだ。少数だが精強である三河兵の存在は大きい。今川義元が健在時、三河兵が先鋒を務める事が多かったと言われるのは最前線にいたからだけじゃない。その精強さを買われての事だ。
「三河の徳川が今川に寝返ると御考えでございましょうか?」
「いや、下野守、それは無かろうな。何と言っても徳川は今川の血を一度断っている。今更寝返りは出来まい。仮に寝返っても今川も対織田戦の為に利用するかもしれんがその後は……」
俺が首を振ると下野守が“左様でございますな”と頷いた。重蔵も頷いている。徳川は寝返れない、だからこそ織田も無理を強いているのかもしれない。重蔵に東海道の動きから目を離すなと指示を出した。さて、どうなるか……。
遠くで騒ぎが聞こえた。“なりませぬ”という制止する男の声と“どきなさい”という女の声だ。女の声は小夜か? 重蔵、下野守が困った様な顔をしている。そうだよな、主君の女房じゃ怒鳴りつける事も出来ん。ここは厳しく……。小夜が部屋に入って来た。
「御屋形様!」
「小夜、今用談中だ。控えよ、……?」
後で行く、と言いかけたが小夜が首を横にぶんぶんと力強く振るのが見えた。何事だ?
「それどころではありませぬ。京の儀同三司様が……」
「!」
「弥五郎殿!」
「母上」
綾ママが入って来た。重蔵と下野守が慌てて平伏した。小夜の時は迷惑そうな表情をしていたのに、こいつらも綾ママのファンかよ。
「京の御爺様が危篤だそうです、今兄上から文が届きました」
「分かりました、船で大津まで参りましょう。その後は陸路で京へ。至急御仕度をなさってください」
「分かりました」
「小夜、そなたは留守を頼む。竹若丸は嫡男だ、連れて行くからその準備を」
頼むと言いかけた時に“御屋形様”と重蔵が口を挟んだ。
「如何した、重蔵」
「京は必ずしも安全では有りませぬ。竹若丸様の御同道は御止めになった方が宜しいかと」
「某も重蔵殿に同意致しまする」
「……そうだな、俺は行かねば立場が無いが竹若丸は未だ幼い、理由は付く。ここに残そう。良く気付いてくれた」
労うと二人が頭を下げた。
二人の言うとおりだ。竹若丸でさえ幼いのだ、その下は更に幼い。二人で京に行ってこれ幸いとばかりに殺されては堪らない。朽木版本能寺の変になりかねない。十分な用心が必要だな。
「大津八左衛門、宮川新次郎にいつでも兵を動かせるようにしておけと使者を出そう。俺は一千の兵を率いて京に行く」
重蔵と下野守が頷いた。
「御屋形様、人日の節句でございますが」
小夜が困った様な表情をしている。人日の節句? そうか。
「能興行は中止だ。敏満寺座にはそなたから詫びておいてくれ」
「はい」
「こちらの都合で取り止めるのだから銭は払っておいてくれ。それと七夕の節句の時は宜しく頼む、楽しみにしていると」
小夜が“分かりました”と言って頷いた。
飛鳥井の爺さんもいよいよか。大分弱っていたからな。年を越せないと思っていたが凌いだ、或いはこのままの状態が続くかと思ったんだが……。まあ爺さんも准大臣にまでなったんだ、孫を帝にする事は出来なかったが世襲親王家にする事が出来た。いずれは竹田宮家から帝が誕生するかもしれん。以て瞑すべしだろう。……いかん、未だ死んでなかったな……。
元亀二年(1574年) 一月上旬 近江国蒲生郡八幡町 龍野実道
「上手く行かんな」
俺が嘆くと石川三左衛門、雑賀五郎兵衛が頷いた。
「飛鳥井の祖父が危篤か、まさかそんな事になるとは……」
「計りに計っても上手く行かない時が有る。近江少将様は強運の持ち主らしい。するりとこちらの仕掛けを躱したわ」
三左衛門、五郎兵衛が嘆息した。強運か、丹波での事を考えれば確かに強運と言える。
「まるで泥鰌か鰻だな。ヌルヌルと逃げる」
俺の言葉に二人が笑い出した。
「他聞を憚る事も有る。今後は少将様の事は鰻と呼ぼうではないか」
三左衛門が笑いながら提案した。悪くない、俺が賛成すると五郎兵衛も“それは良い”と賛成した。
皆笑っているが三左衛門、五郎兵衛の表情には落胆の色が有る。多分俺も同様だろう、脱力感が全身を包んでいる。何とか敏満寺座に配下の者を入れる事に成功した。後はその者の手引きで城内に入り近江少将様の命を奪う、そこまで行ったのだが……。気が付けば溜息を吐いていた。
「失敗であった。飛鳥井の准大臣はこちらの手で殺すべきであった。飛鳥井家に人を入れ毒を盛る。老齢ならば誰も自然死を疑わぬ筈だ。鰻は必ず飛鳥井家に行く、そこを狙えば容易く命を奪えた筈、抜かったわ。公方様の若君誕生を利用する事を考えながら如何して飛鳥井の准大臣の事に考えが及ばなかったか……」
唇を噛み締めた。千載一遇の機会を逸した、そう思った。
「そうだな、ただ狙うのではなく誘き出して狙う、そうすべきだったかもしれん」
三左衛門の言葉に五郎兵衛が頷いた。その通りだ、何故そこに気付かなかったか……。嘆いていても仕方が無いな、次の手を考えなければ。
「如何する? 伊勢行きを狙うか、それとも三月の節句を狙うか? 伊勢行きを狙えば三月の節句の警戒は厳重になる筈だ。先ず成功はせぬ。二者択一になるが」
問い掛けると二人の顔が引き締まった。
「狙い易いのは節句だろう」
「必ず鰻が見物するのならだ」
そこだ、そこが問題になる。三人で顔を見合わせた。
「……善太郎、五郎兵衛。伊勢行きを狙おう。確実にそこに鰻は居る。鰻が居なくては釣り糸を垂れても鰻は掛からぬ」
「その通りだ」
「同意する」
三人で頷いた。
問題は八風街道、千種街道のどちらを使うかだ。一条少将はおそらくは大湊に来る筈。会見場所は大湊だろう。千種街道を使った方が大湊には近い、だが千種街道は甲津畑から雨乞山の北部の杉峠を越え水晶谷を渡り根の平峠を越えなければならん。二度の峠越えは避けたいと思う筈だ。もう一つの八風街道は遠回りになるが八風峠を越え桑名に出てそこから海路という手も有る。
安全なのは八風街道かもしれんが裏をかいて千種街道という事も十分に有り得る。効率は悪いがどちらでも仕掛けられるようにしておく必要が有ろう。急がなければ……。
元亀二年(1574年) 二月上旬 近江国蒲生郡八幡町 黒野影昌
城下に与えられた黒野家の屋敷では親父、黒野重蔵影久が待っていた。
「親父殿、今戻った」
「うむ、御苦労だな。首尾は?」
「まあ悪くは無いな。本願寺の門徒達の対立は続いたままだ。上の方は必死に溝を埋めようとしているがそう簡単には行くまい。長島の生き残りは朽木との戦になれば一番きつい役目を押付けられるのではないかと疑心暗鬼になっている。ま、そういう風に仕向けているのだが」
親父が頷いた。
「それで、俺を呼んだ理由は?」
「御屋形様が伊勢へ行かれる」
頷いた。土佐から一条家の当主が来る。大湊で会談し今後の方針を話し合う。御屋形様は本気で西国を狙うお積りだ。四国の三好、一条は西国攻略における大事な味方だ。そして一条は琉球との交易の拠点でもある。粗略には扱えない。
「おそらく、波多野の忍び共が御屋形様を襲う筈だ」
「……」
村雲か、厄介な男達だ。丹波の国人衆達の争いの中で力を付けてきた。昨年の丹波攻めでも御屋形様の御命を狙った。危ない所であった、あの件は親父にとっては痛恨の出来事になっている。
「昨年の事だが城内に入り台所を頻りに探っている者がいた。味方が捕えようとしたのだが手強くてな、殺さざるを得なかった。おそらくは毒を仕込もうとしたのであろう。狙いは御屋形様だ」
「波多野だな。おそらく一人ではあるまい、仲間がいる筈」
親父が頷いた。
「惜しい事をしたな。捕えて仲間の事を吐かせれば一網打尽に出来た」
親父が低く笑った。
「そうでもない。御屋形様を狙う、確実に殺すのであればその機会は限られてくる。人日の節句の能興行を狙って来ると見たのだが……」
「なるほど、だが取り止めになった」
「そうよな、惜しい事であった。敏満寺座に入り込んだ者がいる事も分かっておる。その方の言う通り、当日、一網打尽に出来たのだが……」
親父が唇を噛み締めている。
「敏満寺座に入り込んだ者は?」
親父が目で笑った。
「そのままだ、捕える事は難しくないがそれでは向こうが警戒する。それは面白くない」
「能興行が潰えたとなれば次は伊勢行きか。親父殿の言う通りだな」
「そうだな」
「如何する、分が悪いぞ」
何処で狙って来るかが分かれば防ぐ事は難しくない。能見物をする御屋形様を影に代えても良いのだ。だが伊勢行きは御屋形様御本人が行かねばならぬ。八幡城から大湊、狙うのはその往復どちらでも良い。幸い御屋形様は用心深い方ではあるが護衛は決して簡単とは言えぬ……。
「敵を分散させる」
「……八風街道、千種街道、両方使うか」
「うむ、俺は千種街道を行く。その方は八風街道を行け」
つまり八風街道は囮か。
「御屋形様はその方と共に八風街道を行く」
「親父!」
驚いて親父を見ると親父が頷いた。
「本気か?」
「本気だ、これを無事に務めればその方に跡目を譲る。それだけの力量は有る」
「俺に跡目を? しかし……」
「小頭達の同意は得てある」
「……つまりこの務めを無事に果たす、それが小頭達の同意の条件か?」
声が掠れた。親父が“そうだ、励め”と言った。親父が低く笑う。肩にずしりと重い物が乗せられたような気がした。