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元亀元年(1573年)  八月中旬      丹波国氷上郡氷上村  氷上城  村雲彰正




氷上城内の一角に小さな庵の様な建物が有った。

「村雲甚右衛門にございまする」

声をかけると屋内から“入るが良い”としわがれた声が掛かった。太刀を鞘ごと腰から抜くと右手に持ち“御免”と声をかけて屋内に入った。中にはこの城の主、波多野美作守宗長様が一人で座っている。我ら丹波忍び村雲党が波多野家の当主左衛門大夫秀治様から命を受ける事は無い。命は常に御分家の美作守宗長様から下される。そして美作守様に会う時は何時もこの庵を使い、他者の介在を許さぬ。此処で話される事は美作守様と我らだけの秘密だ。


屋内は薄暗かったがそれでも沈痛な表情をしているのが分かった。美作守様の前に坐り太刀を右手に置いた。

「やはり朽木は八月の末には軍を起こすそうでございます」

「そうか、間もなくじゃな。丹後攻めも入れれば年に三度の出兵よ。我らには想像もつかぬ事じゃ」

美作守様が首を横に振った。


「伊勢、能登でも行っております。朽木にとっては珍しくも無い事なのでございましょう」

「そうじゃの、銭で雇った兵か。便利な物よ、無理が効くわ」

美作守様が溜息を吐いた。百姓兵ではそうは行かぬ。特にこれからの時期は稲の刈り入れ、一番重要な時期になる。普通の相手なら戦は無い、だが朽木にはその常識が通用せぬ。


「兵糧の蓄えは如何にございますか?」

「近隣から米を買い入れたが時期が時期、高いわ、大分散財した。だが背に腹は代えられぬからの。しかし何時まで持つか……。朽木の狙いはこちらの米であろう」

「おそらくは」

刈り入れ前の稲を刈り取ってしまえばこちらには収入が無い。今年は戦えても来年食う米が無ければ戦えぬ。美作守様は大分散財したと仰られた。来年は米を買うための銭も無かろう。


「本願寺は如何であった」

「やはり門徒達のごたごたは未だ収まらぬようにございます。美作守様は如何でございましたか?」

美作守様が首を横に振った。

「顕如殿から返事が届いた。今摂津で事を起こすのは難しい、来年ならと書かれてあった。そなたの調べとも一致するの、援護は望めまい」


「その本願寺でございますが朽木の手が伸びているようにございます」

美作守様が此方をじっと見た。

「八門か?」

声が低い。

「おそらくは。或いは伊賀かもしれませぬ。来年も当てには出来ますまい。その御覚悟が必要かと」

美作守様が溜息を吐いた。

「嫌な事をするの、刈れるか?」

「なかなか、難しゅうございまする」

「やれやれ、丹波村雲党でも手に余るか。八門、伊賀、手強いの」


黙って頭を下げた。朽木の八門、戦働きや暗殺はせぬようだが探索、流言飛語、調略等に長けている。なによりも戦慣れしているのが厄介だ。元は丹波に集落を構えていたようだが何時の間にか消え失せた。おそらく我らと戦う事になると判断しての事であろう。余りの手際の良さに驚いた覚えが有る。常に戦える状態にあるのだろう。当然だな、朽木の兵は何時でも動く、ならば忍びも同様であろう。気の緩む時は無い。


「本願寺が動けぬとなれば播磨も難しかろうな」

「摂津には三万を越える朽木の兵がおります。簡単には動けますまい」

「唇欠ければ歯寒しと言うが……」

「寒くなるまでは分からぬようで」

「手強いのう、手強い」

美作守様が溜息を吐いた。摂津と播磨の国境には一万に近い朽木勢が展開している。別所、小寺、赤松、いずれもそれを無視出来ずにいる。朽木は調略、兵を使って丹波の味方になり得る存在を動けなくした。丹波は紛れも無く孤立したのだ。もはや赤井、波多野を中心とした丹波の国人衆達の団結にかけるしかない。


「朽木の攻め口は?」

「山城と丹後になります。山城からは丹波口より近江少将様が、丹後からは明智十兵衛が攻め込みましょう」

「やはりの、丹後攻めは丹波攻めへの布石であったか。そうではないかと疑ってはいたが……、予想が当たっても嬉しくないの、外れて欲しかったわ」

美作守様がほろ苦い表情でお笑いになった。


「あの時、無理攻めしてくれればの。赤井の協力を得られた。だが丹後からも攻めてくるとなれば赤井も己の事で手一杯であろう。手強いのう、一つ一つ潰しに来る。派手さは無いが手強いわ」

「……」

「唯一の救いは赤井が関白殿下の妹御を離縁した事よな。これで赤井が裏切る事は無かろう。後ろは気にせずに戦えそうじゃ」


「……美作守様、今からでも朽木に恭順するという事は出来ませぬか? このままでは……」

美作守様が“無駄であろう”と首を横に振った。

「儂は何度もその事を左衛門大夫様にお奨めした。川勝の事を見ても朽木は決して仕え辛い主ではない。これまで朽木に粛清された者と言えば伊勢の北畠だがあれは朽木に非が有るとは責められぬ。それに北畠一族が滅んだわけでもない。妙な事さえ考えなければそれなりに扱って貰えよう」

美作守様の判断は間違っていない。だからこそ私も恭順を進めている。


「だがのう、左衛門大夫様はそれを受け入れる事が出来ぬ。そりが合わぬ、考えが違う、朽木のやり様が気にいらぬと申されての」

「……やり様にございますか?」

「うむ、朽木では寺を建てるにも近江少将様の許しが要る。布教にも厳しい制限が有る。それでの、神も仏も支配するつもりか、何たる増長、増上慢と申されての」

ホウッと美作守様が息を吐いた。


「朽木は一向一揆と激しく遣り合っております故……」

「そうよな、丹波では寺社と争う事は無い。だが朽木は一向一揆、延暦寺と争った。寺社に対する姿勢は当然我らとは違う、厳しいものにならざるを得ぬ」

美作守様の口調は重い。この問題で朽木を責めるのは酷だと御考えなのであろう。一向一揆と朽木の争いは一揆の側から仕掛けたものだった。だが朽木との戦いがあそこまで凄惨なものになると一揆側が予想したとは思えぬ。


北陸の根切りでは何万という門徒が殺され一向一揆は一掃された。普通ならどこかで和睦をと考えるのだが朽木は和よりも一揆の根絶を選んだ。後々の事を考えれば中途半端に和を結ぶよりも根絶した方が利が有ると見たのであろう。怖いものよ、朽木は血生臭さを怖れてはいない。当主も家臣達も。


「美作守様、言い難い事では有りますがこのままでは波多野家は滅びましょう」

「そうよな、滅びるであろうの」

「如何なされます? 座して待ちますのか、その時が来るのを」

美作守様がじっとこちらを見た。


「……甚右衛門、人を一人殺してくれるか」

「……」

「近江少将様を、頼む」

「……それで宜しいので?」

美作守様が頷く。気が付けば二人とも囁くような声で会話をしていた。やはりこうなるか。此処に呼ばれた時から覚悟はしていた。手は二つ、その内の一つを提示された。


「戦う以上勝たねばならぬ、勝つためには手段を選んではおれぬ。兵を率いて勝敗を決するのが戦なら一匕首(いちひしゅ)で勝敗を決するのも戦であろう」

「……」

「如何じゃ?」

美作守様が私の顔を覗き込んできた。


「難しゅうございますぞ。これまで近江少将様の命を狙った者が居ないとは思えませぬ。しかし成功した者は居らぬのです」

美作守様が頷かれた。朽木の弱点は当主がまだ若く跡継ぎが幼い事。近江少将様の身に万一の事が有れば朽木の勢いは止まり忽ち下り坂になるであろう。これまで朽木に敵対した者がそれに気付かなかったとは思えぬ。おそらくは何度か試みられた筈。そして闇に葬られたのだ。安請け合いは出来ぬ。


「八門か」

「おそらくは。近江少将様の周囲にはかなり腕利きの陰供が付いているとみえます。その者達の目を掻い潜り少将様の命を奪うのは容易な事では有りますまい。失敗すれば降伏しても波多野家の存続は許されぬと思われます。真、近江少将様の御命を狙う、それで宜しいので? 戦を防ぐのなら他にも手は有りましょう」

美作守様が視線を逸らされた。


「……出来ぬか、甚右衛門」

思わず溜息が出た。

「……分かりました、やってみましょう。我らにも丹波村雲党の誇りがござる。但し、成るか成らぬかは分かりませぬ」

「頼む」

美作守様が頭を下げられた。敢えて止めなかった。丹波村雲党の少なからぬ者が死ぬであろう、その者達への供養だと思った。


「何時までに?」

「されば、来年の六月までに。今年の収穫が見込めぬ以上、それが限界であろう」

六月か、時が無いな。狙うとすれば軍の移動中だが今からでは準備の時間が無い。年内は陣中に居るのであろうが当然警護は厳しかろう。来年一月から二月は丹波は雪に囲まれる。当然朽木も兵を退く筈。しかし近江で狙う事が出来るだろうか? 検討の余地は有るが難しい。となると年明け再度の出兵の移動中に狙うのが常道。だが八門もその辺りは十分に心得ておろう。さて、何処で狙うか……。皆に諮らなくてはなるまい。




夜、村雲村の我が屋敷に三人の男が集まった。石川三左衛門頼明、雑賀五郎兵衛明光、龍野善太郎実道。丹波村雲党の中でも最も優れた業前を持つ男達。美作守様との遣り取りを全て伝えた。

「美作守様より命を受けた」

「……」

「近江少将様の御命を奪えとのことであった。期限は来年の六月」

三人が視線を交わし合った。驚いた様子は無い。


「間もなく朽木勢は丹波に押し寄せましょう。早速にも準備にかからねば」

「敵は八門、容易な事ではない」

「機会は一度、有るか無いか」

「失敗は出来ぬ」

石川三左衛門、雑賀五郎兵衛が話す。龍野善太郎は無言だった。


「善太郎、如何した?」

「頭領、真に近江少将様の御命を狙うのでありますか?」

「そうだ」

「波多野の家を守るのならむしろ左衛門大夫様の御命を頂くという手がございましょう。その方が容易く確実では有りませぬか?」

龍野善太郎の言葉を聞いても石川三左衛門、雑賀五郎兵衛は驚く様子を見せなかった。これも想定済みか。


「美作守様には何度か念を押した。近江少将様の御命を狙えとの事であった」

「……」

「左衛門大夫様の御命を頂く事は難しくは無い。だがそれを行えば我らは丹波を離れなくてはならぬ。どんな大名家も主を暗殺する様な忍びは雇わぬ。我らは闇に埋もれる事になろう。美作守様は我らが生き残り、波多野家も生き残る、それを選択なされた。難しい事では有るが……」

「……分かり申した。近江少将様の御命、頂きまする」

龍野善太郎が答え他の二人が頷いた。


「丹波での仕掛けは私がやる。その方等はそれぞれ配下の者を引き連れ近江に行け」

「……」

「早ければ今年の暮れから来年の頭を少将様は近江で過ごされる筈だ。そこを狙え。八門も我らが地の利の無い近江で襲うとは思うまい。警戒はしていようが何処かで隙が出る筈だ。そこを突け」

「はっ」

三人が頭を下げた。今からなら時は十分に有る。何とか隙を見つける事が出来る筈だ。




元亀元年(1573年)  八月下旬      阿波国板野郡川崎村  川崎城  三好長逸




勝瑞城から居城である川崎城に戻ると倅の久介が迎えに出て来た。

「お帰りなさいませ、御疲れでは有りませぬか?」

「本城に行っただけの事だ。一里にも満たぬ距離ではないか、年寄り扱いするではない」

「これは失礼を致しました」

含み笑いをしながらの謝罪だ、心が籠っておらぬ。思わずフンと鼻を鳴らして自室へと向かった。後から久介が付いて来た。


「豊前守様からはどのようなお話が?」

部屋に入ると直ぐに話しかけてきた。余程に気になると見える。

「京から文が届いたそうだ」

「京から? では?」

久介が儂の顔を窺うようなそぶりを見せたので頷いた。

「その通り、公方様からの文よ。朽木を討てと書いて有ったわ」

兄が兄なら弟も弟か……、相変わらず他人を利用する事しか考えておらぬ。不愉快な事よ。


「あっという間に丹後を制しましたからな。公方様にとっては面白くない、いや徐々に丸裸にされて行くような御気持ちなのでしょう」

「将軍宣下に参列せぬような男を頼りにするのか? 心許ない事よな」

「そうですな。……なるほど、我等は参列しておりました。公方様が頼りにするのも道理ですな」

「たわけが」

親子二人で声を上げて笑った。


「近日中に勝瑞城に集まれとの触れが出されよう。その場にて三好家が如何動くかを決める事になる」

「父上は如何思われるのです? 豊前守様に申し上げられたのでしょう」

「思うところは申し上げたがの、儂はもう年寄りじゃ。この問題は若い者達の意見を聞いてから決めた方が良いと御勧めした」

久介が“左様で”と言った。


「その方は如何思う?」

「某でございますか? 某ならば朽木と組みまする」

「ほう。で、何を得る、何を目指す」

「四国の覇者」

久介がきっぱりと言い切った。ふむ、大分前から考えていたようじゃ。京で近江少将に刺激を受けたか。悪くないの。


「朽木が天下を目指すなら西へと兵を動かしましょう。となれば必ず毛利とぶつかります。こちらはその動きに合わせて伊予を獲る。そして土佐の長宗我部、これを土佐一条家と分け合うのです。阿波、讃岐、伊予、淡路、土佐の一部が三好の領地となります。上手く行けば河内、和泉、紀伊にも手が及ぶかもしれませぬ」

久介の頬が紅潮している。


「随分と景気の良い話じゃの、鬼が笑い出しそうじゃ」

冷やかすと久介も笑い出した。

「いけませぬか?」

「そうは言わぬ。最初に河内、和泉等というよりは遥かに良い。ま、狙いは伊予、東土佐、そんなところよな」

久介が頷いた。


「河内、和泉はどうなるか分からぬ。あの者共が何処まであの公方様(ばか)に忠義を尽くすか、見えぬからの」

「そうでございますな、朽木に付くという可能性も有りましょう。しかし紀伊は如何なりましょう? 畠山が朽木に付くとは思えませぬが」

久介が首を傾げた。

「紀伊か……、旨味は有るが味わうのは難しい。雑賀、根来、それに本願寺の影響力も強い。海を越えて手を出すのはちと厄介じゃ。朽木に任せた方が良かろうな」


「では三好は四国のみ、でございますか」

久介が寂しそうな声を出した。

「目指すのは四国の覇者、であろう?」

「そうでは有りますが……」

四国の覇者、それは難しくは無い。だがそれだけでは夢が無い、その事が寂しいのであろうな。


「畿内に出るよりも瀬戸内に出る事を考えた方が良かろう」

「瀬戸内にございまするか?」

久介が腑に落ちないような声を出した。

「分からぬか? 朽木が西へ進めば当然だが毛利の勢力は後退する。瀬戸内での毛利の影響力も後退するではないか」

久介が大きく頷いた。


「なるほど、そこに食い込むのですな」

「そういう事よ。朽木が陸路を、三好が海を。勿論朽木も水軍を送り込んで来よう。だがそれは良いのじゃ、共に戦う事で絆は強まるからの。或いは西国で一国くらいは得る事が出来るやもしれぬ」

「父上、鬼が笑い出しますぞ」

今度は久介が笑いながら儂を冷やかした。儂も笑った。まだまだよな。


「久介よ、朽木が毛利を征すれば次は九州じゃ。三好が伊予を得ていれば九州に兵を出すのは難しくは無い。違うかな?」

「……」

「どうじゃ、九州で一国。鬼が笑うかの?」

「いや、笑いませぬな。面白うござる」

久介が笑った。先の事だ。今は未だ夢であろう。だが五年後、十年後には……。






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近江少将とは誰でしょうか?
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