困惑(三)
永禄十六年(1573年) 六月上旬 山城国葛野・愛宕郡 室町第 細川藤孝
室町第の御所は彼方此方で声高に、時に密やかに話し合う人の姿で満ちていた。朽木勢が丹波の宇津を討伐するために山城国から丹波国へと侵攻した。帝から勅命を受けた以上当然の事ではある。だがそれと時を同じくして若狭に居た朽木勢の別働隊が丹後へ攻め込んだと幕府に報告が入った。丹後は侍所頭人である一色左京大夫様の領地、その事が幕府を混乱させている。そしてここにも一人、いや二人混乱している……。
「大膳大夫め、とうとう欲心を露わにしおった。あの男は丹波、丹後を攻め獲るつもりだ」
「落ち着いてください、兄上。真に朽木勢は丹後に攻め入ったのですか?」
私が問うと兄、三淵大和守が頷いた。兄の目は血走っている。
「間違いない、左京大夫様から宮内少輔殿へ文が届いたそうだ。使者は朽木勢を避け丹後から丹波の西を通ってこちらに来たため遅くなったらしい」
「丹後の朽木勢を指揮しているのは鯰江という男だ。大膳大夫の伯母が嫁いでいるらしいな。一万ほどの兵を率いているらしい」
「一万……」
別働隊に一万の兵を率いさせるとは……、改めて朽木は大きいと思った。
「それで戦況は如何なのです、兄上」
兄の顔が歪んだ。
「分からぬ。だが左京大夫様が率いる兵は精々三千から四千が限度であろう、良く有るまいな……」
語尾が弱い。兄は戦況が良くないと見ている。私も同感だ。まして今は農繁期、百姓を戦場に連れて行くのは簡単ではない。四千は難しいだろう、三千なら三倍以上の敵を相手にする事になる。
「しかし良く分かりませぬ。朽木と一色はそれほどまでに険悪だったでしょうか。仲が良好とは思っていませんでしたがいきなり攻め込むとは……」
「……」
「意味も無く攻め込んだとも思えませぬ。まさかとは思いますが公方様が此度の討伐の不意を突けと? それを悟られた……」
兄の顔を窺うと兄が一瞬私を見てから首を横に振った。
「いや、それは無い。少なくとも私の知る限り無いと思う。公方様が今頭を悩ませているのは改元の事だ。公方様は何もしておられぬと思う」
確証はない。兄は自分自身を納得させようとしているようだ。
「では宮内少輔殿が勝手に動いたという事は有りませぬか」
「……それは分からぬ。だが先程宮内少輔殿と話した限りではそのような事は無さそうだと思ったが……」
兄の声には力が無い、断言出来ずにいる……。
「となると例の密書が原因とは考えられませぬか?」
「……」
兄が顔を曇らせた。
「大膳大夫様はあの密書の存在を知ったのでしょう。誰も将軍宣下に参列しないのですからな、訝しんで調べたとしてもおかしくは有りませぬ」
あの将軍宣下は公方様だけではない、大膳大夫様の顔も潰す事になった。管領も侍所頭人も参列しない将軍宣下、不審に思い調べたのに違いない。
「かもしれぬな。或いは宇津は波多野、川勝と同盟を結んでいる。左京大夫様もそれに加わったのかもしれぬ。昔から丹波、丹後は繋がりが深い」
「なるほど、有りそうな事です。となれば大膳大夫様は宇津攻めを行えば左京大夫様が兵を起こすと見て先に攻め込んだという事になりましょう。大膳大夫様を責める事は出来ませぬ」
「……」
兄が顔を顰めた。単純に大膳大夫様の欲心とばかりは言えぬ、その事が不愉快だと見える。
足音が聞こえた、上野中務少輔殿が急ぎ足で近付いて来るところだった。
「大和守殿、兵部大輔殿」
「如何なされました、中務少輔殿」
「急ぎ公方様の御前へ。伊勢守殿が公方様へ拝謁を望まれた」
兄と顔を見合わせた。おそらく今回の一件と拘わりが有る筈。物も言わずに公方様の御前に向かった。
公方様の御前には既に皆が揃っていた。遅れた事を詫びて席に着くと直ぐに伊勢伊勢守殿が御前に通された。
「伊勢守、大膳大夫に頼まれて参ったか」
「はっ」
「良かろう、大膳大夫に代わって申し開きをしてみよ」
伊勢守殿が目元に笑みを浮かべた。
「はてさて、某、申し開きのために参ったのではございませぬ。そこに居る一色宮内少輔殿の身柄を預かりに参ったのでございます」
座がざわめいた。
「どういう事だ! 何故某が囚われの身にならねばならぬ!」
宮内少輔殿が顔を朱に染めて怒鳴り声を上げた。伊勢守殿の笑みが更に大きくなった。
「そう興奮なされるな、宮内少輔殿。囚われの身では無い、この伊勢守が一時預かると申しておる、不自由はさせぬ。……公方様、この儀、御許し頂きとうございまする」
伊勢守殿が宮内少輔殿を宥めると公方様に一礼して許しを請うた。
「宮内少輔を預かると申すは大膳大夫からの依頼か」
「はっ、一色宮内少輔殿にいささか不審有り、暫時御預かり願いたいとの事でございました。公方様に御許しを得て欲しいと」
宮内少輔殿が“不審とは何か!”と叫んだが伊勢守殿は黙殺した。
「伊勢守、申し開きはせぬと」
「それにつきましては某、何も伺ってはおりませぬ」
平然としている。公方様が唇を噛み締められた。
「伊勢守殿、どういう事かな。申し開きはせぬ、不審とは何かも申されぬ。それで宮内少輔殿を預かるとは乱暴でござろう」
「その通りだ、公方様を愚弄するにも程が有る」
「伊勢守殿、黙っていては分からぬ。お答え頂きたい」
皆が口々に伊勢守殿に迫ったが伊勢守殿は全く取り合う様子を見せなかった。公方様がそれを見て苛立ちを見せた。
「一色左京大夫は侍所頭人であり宮内少輔は我が家臣である。左京大夫を攻めながら申し開きもせず宮内少輔を捕えると申すか、伊勢守」
伊勢守殿が軽く一礼した。
「宮内少輔殿を捕えると申してはおりませぬ。暫時預かると申し上げております。不審が晴れればまた公方様の御側にてお仕え致しましょう」
「……」
公方様が立ち上がった。奥へ戻られるつもりだ。何も決めずに戻る、不快の意。皆が満足そうな表情を見せた。その時だった。
「畏れながら申し上げまする」
低い伊勢守殿の声が公方様の動きを制した。
「一色左京大夫様は侍所頭人では有りまするが将軍宣下に参列せず公方様の御顔を潰した慮外者、大膳大夫様は三好を討ち払い公方様をお守りし将軍職へ御就けした功臣。いずれに重きを置かれまするや? お答え頂きとうございまする」
公方様が見下ろす、伊勢守殿は正面を見たまま視線を動かさない。先程までざわついていた座が静まった。宮内少輔殿は顔を強張らせている。
「……大膳大夫である」
「ははっ、では一色宮内少輔殿、某が御預かり致しまする」
伊勢守殿が深々と平伏すると公方様がその姿を忌々しげに見た。
「……好きに致せ」
公方様が顔を背けると足早に奥に向かう、伊勢守殿が頭を上げたのは公方様が立ち去った後だった。能面のような顔だった。
永禄十六年(1573年) 六月上旬 丹波国桑田郡下宇津村 朽木基綱
宇津右近大夫頼重の拠点は丹波国桑田郡宇津庄に有る。おそらく名字である宇津というのは地名から取ったのだろう。右近大夫の居城は宇津城だ。宇津に有る八幡神社の背後の山に築かれている城でそれなりに整った城だ。この城から約半里、即ち二キロぐらい離れた所に宇津嶽山城という城が有る。
宇津嶽山城は規模は小さいが宇津城よりも高い位置にある山頂に築かれた山城だ。要するに宇津嶽山城は宇津城の支城なのだ。宇津城を攻めようと思えば先ず宇津嶽山城を何とかしなければならない。宇津嶽山城を放置すれば宇津城の攻撃中に後背を脅かされる事になる。しかしそれは宇津嶽山城を攻める時も同じだ。やはり宇津城への抑えは要る。この二つの城は連携し合って互いを守る様にという意思の下に造られたのだと思う。
「重蔵、宇津右近大夫の行方は」
「分かりませぬ、川勝の元には行っていないようですが……」
重蔵が面目無さげな表情をしている。
「となると波多野か」
「おそらくは。或いは赤井という事も有りましょう」
周囲には蒲生下野守、明智十兵衛、日置五郎衛門、井口越前守が居る。朽木家でも錚々たる顔ぶれだが皆一様に渋い表情だ。
何で逃げるかねえ。まあ三万も丹波にブッ込んだら逃げるか。でも逃げるくらいなら降伏しろよって言いたい。小野庄、山国庄を朝廷に返還します、以後は朽木に仕えます、だから命は助けてねって言って俺に降伏すれば良いだろう。朝廷だって小野庄、山国庄が戻ってくれば煩い事は言わないさ。逃げるって事は見つかったら殺されても文句は言えないって事だ。捲土重来を期しているのかもしれないが余り賢い手とは思えない。
「如何なされますか、御屋形様」
訊くなよ、十兵衛。俺も困っているんだ。一応小野庄、山国庄は取り戻したから勅命は果たしたんだけど……。
「重蔵、波多野、川勝、赤井に動きは有るか?」
「今のところは目立った動きは無いようでございます」
「宇津右近大夫は切り捨てられたのかな?」
俺が問うと皆が困惑した様な表情を見せた。
そうだよなあ、丹波は激しく抵抗すると見たんだ。それだけの実績も有る。だから三万もの兵を用意したんだけど……。
「しかし波多野、川勝、赤井、いずれも挨拶には参りませぬ」
下野守の言葉に皆が頷いた。そうなんだ、普通なら使者が来て平定御見事とかおめでとうとか言って来る筈なんだけど……。それが無い以上こちらに対して好意的とは思えない。その所為で丹波の身代の小さな国人衆にも動きは無い。
「宇津の行方が分からんのでは手の打ちようがないな」
俺の言葉に皆が頷いた。宇津を誰かが匿っているなら身柄引き渡しを要求し戦闘に持ち込む事も可能だ。だが分からんのではどうしようもない。
「重蔵、宇津の行方を追え。それと波多野、川勝、赤井の動きも追うのだ」
「はっ」
「我らは此処で暫くの間滞在する。如何するかは重蔵の報告を得てからにしよう」
川勝大膳亮継氏が朽木の陣を訊ねて来たのはそれから二日後の事だった。平服だ、僅かな伴だけで来たから敵意は無いというつもりなのだろう。皆が居並ぶ中、戦勝を祝い服属したいと言ってくれたが気分はすっきりしない。本当に勝ったのかね、俺は。未だに宇津の行方は分からんのだが。
大体川勝は宇津の同盟者なのだ。此処に来たのも様子見とも考えられる。大膳亮は彦治郎秀氏という息子を連れて来ている。人質に出すつもりかな、だが朽木が人質を取らない事は周辺諸国の大名、国人衆なら知っている事だ。それを知った上で連れて来たのなら芝居ともとれる。油断は出来ない。
「祝ってくれるのは嬉しい、朽木に服属したいというのもな。だがその方は宇津と同盟を結んでいたと聞いた。此処に来たのも城が落ちてから二日後だ。素直には喜べんな」
「御不審はごもっともにございます。丹波には御屋形様が攻め入られるまで大きく分けて四つの勢力がございました。波多野、赤井、宇津、そして川勝。このうち波多野、宇津、川勝は同盟を結んでおりました」
落ち着いた風情だ。大膳亮は慌ててはいない。
「しかし宇津討伐の勅命が御屋形様に下された事でそこに赤井が加わったのでございます」
皆が顔を見合わせた。予想はしないでもなかったが、関白殿下、笑ってる場合じゃないよ。ほほほ。
「赤井が同盟に加わった理由は何であろう。こちらには関白殿下を通して味方すると言ってきたのだが」
五郎衛門が問うと大膳亮が丹波を余所者が支配するのが赤井には我慢出来ないのだと答えた。何だよそれ、皆も呆れた様な顔をしている。
「某の領地は若狭に近く御屋形様と敵対すれば忽ち若狭から兵が押し寄せて来る事は分かっております。とても敵いませぬ。御味方したいと思ったのですがそれを表に出せば宇津、赤井、波多野に攻め潰されてしまいましょう。使者を出す事も出来ませなんだ。宇津が逃亡し若狭の朽木軍が丹後に攻め込んだ事で赤井も動けなくなった。それを確認してから参りましたので遅くなったのでございます。他意はございませぬ」
なるほど、筋は通るな。朽木の武将達にも頷いている人間がいる。
「赤井が朽木を裏切ったという証拠が有るか?」
「ございます、これに」
大膳亮が懐から幾つかの書状をだした。真田源五郎が受け取り俺の前に持ってきた。一つ一つ開いて内容を確かめる。なるほど……。
「大膳亮、大手柄だな」
俺が褒めると大膳亮が“有難うございまする”と頭を下げた。皆の視線が俺の手元に集まった。
「宇津、波多野、赤井、川勝、そして一色が協力して朽木に対抗すると書いて有る。一色は若狭から朽木勢が丹波に侵攻した時は背後を突くと約している」
俺の言葉に座がどよめいた。下野守が書状を見たいと言って来たから渡した。多分書状は一周するだろうな。川勝が此方の味方に付いたのも先程の申し開きとは違うかもしれない。鯰江の伯父が若狭から丹後に攻め込んだからだ。一色は頼りにならない、宇津の次は自分だと思った。だからさっさと寝返ったわけだ。
「大膳亮、この約だが公方様の口添えが有ったのか?」
ざわついていた座が静まった。皆大膳亮を注視している。
「いえ、そのような事は有りませぬ」
「では六角左京大夫、本願寺か?」
「いいえ」
大膳亮は訝しげな表情だ。つまり自発的に協力体制を結んだという事か。重蔵、下野守、皆妙な顔をしている。おそらくは俺もだろうな。
「しかし播磨でも戦支度をしている者達が居る。その方達と連絡を取り合っているのではないか?」
「某は存じませぬ。播磨となりますと或いは波多野が絡んだかもしれませぬが……」
首を傾げて自信無さげだ。倅の彦治郎も似た様な表情だから嘘では無さそうだ。波多野か、川勝は播磨とは遠い、関わりは無いのかもしれない。
「将軍宣下の前に朽木を討てと書状は来なかったか?」
「波多野には来たそうでございますが某には……」
大膳亮が首を振った。多少面白くなさそうな表情が有る。これも大膳亮を脱落させた原因かもしれない。
「では今回の約には関係ないのか?」
「はい、そう思いまする。書状での遣り取りにもそのような事は一度も書かれておりませぬ」
拙いな、義昭が主導した、本願寺が裏に居たというなら良い。自発的という事は連中には反朽木感情が有るという事になる。一色は名門意識、赤井、波多野宇津、川勝は郷土愛、排他主義だろう。これが丹波、丹後だけの問題なのか、それとも他も同様なのか……。
何かで読んだな。この時代は急激な勢力拡張は殆ど無いって。史実の武田は二十万石程の甲斐一国から百万石を越える勢力になった。それでも三十年ぐらいかけての事だ。三十年かけて信濃の大部分、駿河、遠江の一部、三河の一部、上野の一部を攻め獲った。平均すれば一年に三万石程度の増加だ。ゆっくり大きくなったと言える。上杉も似た様なものだろう。
だが織田は違った。桶狭間の後、五~六年で美濃を獲り京へ上る。たちまち勢力を拡大した。だがその事が周囲の反発を生んだのかもしれない。織田の急激な勢力拡張を受け入れるだけの時間が周囲には無かったし信長も与えなかった。そして信長との間に激しい軋轢を生んだ。ならば朽木は如何だろう? 朽木は織田以上に反発を受けているのかもしれない……。それにしても播磨、本願寺は何故戦支度をした? 丹波の件と無関係とすると何が理由だ? こっちを義昭が煽ったのか? 分からん、嫌な予感がする。何処かがおかしい。
「大膳亮、右近大夫の行方は分かるか?」
「いえ、分かりませぬ。おそらくは波多野を頼ったとは思いまするが……」
語尾が弱い、自信の有る答えではないのだろう。だが俺も波多野だと思う。波多野なら播磨から中国方面に逃げる事が出来る。しかし波多野か、全てが波多野に行くな。
「如何なさいますか、御屋形様。赤井の裏切りが明白になりましたが……」
五郎衛門が問い掛けてきた。皆の視線が集まる。視線が痛い。しかし如何したものか……。俺としては赤井の裏切りが発覚するのは最後の最後、場合によっては波多野との戦闘中と思っていた。だから已むを得ず討った、そういう形になる、したいと思っていた。それならば近衛にも言い訳出来ると思っていたんだがこれでは無理だな。
「勅命は果たした。一旦丹波攻略は打ち切り丹後攻略に専念しよう。関白殿下にも赤井の件を伝えねばならん。丹後攻略後、丹波攻略を再開する。その時には丹後からも丹波に攻め込ませる。そうなれば波多野、赤井それぞれに敵を抱える事になるから簡単には協力出来まい。如何思うか?」
俺が皆に問うと皆が頷いた。まあ大胆さは無いが堅実ではある。比較的受け入れ易い案だろう。丹後は陸と海の二方向から攻略出来る。それに国も小さいから割合早く片が付くはずだ。
宇津城には日根野備前守弘就、宇津嶽山城には日根野弥次右衛門盛就を入れる事にした。宇津城に四千、宇津嶽山城に千。この二人、兄弟だ。元は美濃一色氏に仕えていたが一色氏が滅んだ後に伊勢長島に逃れた。そして朽木の長島攻略後に降伏して朽木に仕えている。暫くはこの二人は丹波で孤立した状況になる。兄弟ならではのコンビネーションで乗り切って貰おう。だが二人にはただ城を守るのではなく常に波多野に圧力をかけろと命じた。それが出来るだけの力量は有ると思っている。
大膳亮が彦治郎秀氏を俺の所に差し出してきた。人質は要らんと言ったのだが俺の所で鍛えてくれ、丹波の山の中で小さく育つより朽木家の中で大きく育てて欲しいと言う。波多野、宇津達と同盟していた事をかなり気にしている様だ。断っては却って酷だろう。と言う事で受け入れる事にした。奉行衆の下にでも付けてみるか。