困惑(二)
永禄十六年(1573年) 三月下旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
三月下旬とは言え夜は少し冷えるな。襟元を掻き合わせた。
「重蔵、本願寺と播磨の動きに注意を払ってくれ。丹波の動きの裏に顕如が居るのなら本願寺と播磨に動きが出る筈だ」
「はっ」
顕如が大人しいのは内部がごたついているのも有るだろうが俺が丹波に攻め入るのを待っているからかもしれん。その時に摂津で挙兵し播磨から援軍を呼ぶ……。
大混乱になるのは間違いないな。舅殿も大変だろう。摂津に兵を増強する必要が有る、最低でも三万は要るな。それと本願寺のごたつきを助長させよう、黙って見ている手はない。本願寺との争いは長期に亘るだろう、今直ぐ効果は出なくてもいずれは効果が出る筈だ。重蔵に命じると小兵衛が担当する事になった。責任重大だな、小兵衛。
史実では光秀の丹波攻略も手古摺った。余程に覚悟を決めなければならん。兵力も十分に用意する必要が有るだろう。摂津、そして若狭に兵を増強してから京から丹波に攻め込む。周山街道から東丹波を攻略して宇津を叩く。波多野、赤井、川勝がどの時点で動くか……。情報の収集を迅速に行う必要が有るな。波多野の忍びか、以前厄介だと言っていたな。
「重蔵、小兵衛、丹後の国人衆に調略をかけろ。それと丹波攻めでは波多野、赤井、川勝の動きを迅速に知る必要が有る、頼むぞ。だが波多野の忍びには気を付けろ。決して無理はするなよ」
「はっ」
まあ無理はするなと言っても無理をしなければ敵の動きは探れんと言う事も有る。多少は気を付けてくれれば良しとしよう。
「公方様の動きは如何か?」
重蔵の含み笑いが聞こえた。
「相変わらずでございますな、頻りに諸大名に文を送っております」
「そうか、変わりは無いか」
俺の感じ過ぎかな。だが気になる。
「側室のさこの方が懐妊されたそうにございます」
「……こちらには報せが無いな」
「未だ表には出しておりませぬ。いずれ報せが届きましょう」
「生まれるのは秋頃か」
「おそらくは」
女か、女……。男ではなく女の目線か。
「……公方様の周辺に人を入れられるか? 出来れば女が良い」
闇の中で身動ぎする気配がした。親子で顔でも見合わせたか。
「一色様では足りませぬか? 最近では細川様からも文が届くと伺っておりますが」
藤孝の文か、踏ん切りの悪い文だ。両天秤をかけている、そんな感じの文だ。完全にこちらに付いたわけじゃないな。それが藤孝流の処世術なのだろう、両天秤をかけ少しずつ有利な方に傾いていく。裏切るのは最後の最後だ。足利から織田、織田から豊臣、豊臣から徳川、派手ではないが少しずつ足場を固めて大きくなっている。
「公方様だがな、どうもおかしい」
「と申されますと?」
「将軍宣下、能興行、どちらも不本意な物なのに不機嫌そうな表情を見せん。下手な小鼓を打っても反応が無い。興醒めと不機嫌になるか下手な奴と蔑むかと思ったんだが……。ただ黙って俺を見ていた、俺をな。あれが何だったのか……」
“御屋形様”と重蔵の声が聞こえた。心配そうな響きが有る。顔は見えないが照れ臭かった。
「堺に行くまでは不機嫌だったのだがな、堺から戻ってみれば変わっていた。俺が幕府を倒そうとしていると気付いたのかもしれん。或いはそこまでの確信は持たずともおかしいと感じたか……」
「……」
闇の中で身動ぎする気配がした。
「自分を盛り立てるように見せているが結果は足利の権威を貶めている。密書の件に気付いていないとも思えないが何も言わずに足利の忠臣を演じている。公方様が不審に思っても不思議はない。違うかな、重蔵、小兵衛」
「確かに左様でございますな」
「有り得ると思いまする」
細川も三好も幕府内での勢威の伸張を目指した。だが朽木からはそれらしい動きは見えない。家格の上昇にも関心を示さない。おかしいと思えばそこから何故と疑問を持つのは当然だ。義昭のあの目は俺を量っていたのだと思う。俺が何者か、何を考えているのかと量っていた。
「失敗だったな、小鼓は断った方が良かったかもしれん。その方が疑われずに済んだような気がする。少し良い子になり過ぎたか」
昔から良い子ほど裏に回れば碌でもない事をしている。俺もそれか。
「御屋形様は公方様の御心の内を知りたいと御考えで?」
「そうだ、公方様の動きは一色と細川で十分に分かる。だが心の内となるとな、男よりも女の方が探り易いかもしれん」
また空気が動くのを感じた。重蔵と小兵衛が闇の中で声も無く話し合っている。
「なるほど。……分かりました、人を送り込むのは難しいかと思います。向こうも身元は念入りに調べる筈。公方様の御側にいる女中達の中からこちらに引き込む事を試みましょう」
「頼む」
小兵衛が“そろそろ宿直が”と言った。時間だ、重蔵と小兵衛が音も無く去って行った。
義昭という男が分からん。将軍になりたいだけの馬鹿、猜疑心の強い嫌な男だと思ったがそれだけではないのかもしれない。将軍宣下前に密書を回したのは何故だろう。あれが表沙汰になれば将軍宣下は取り止めになった筈だ。何故危ない橋を渡るのだ? 煽られたからだと思ったがそれだけではないとしたら?
朽木の影響力を量ったのだとしたら如何だろう? その答えが参列者無し。予想以上に影響力が大きいと知って不機嫌になった。そして俺の動きに不審を感じ俺を量っている……。しかし俺が密書の件を表沙汰にして義昭を責めたら如何するつもりだった? ……簡単だな、詫び状、誓紙を出して終りか。信長もその手で何度もやられている。
義昭はかまってチャンか。悪い事をして怒って貰って安心する。詫び状出して許して貰って嬉しくなる。手紙を出しまくるのも自分をかまって欲しいという欲求か。となると俺は義昭を無視したから嫌われているって事かな。いかん、思考がおかしくなっている。寝よう、疲れた。
永禄十六年(1573年) 四月下旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 日置行近
外から見ても大きかったが内に入っても大きい。八幡城の大広間には朽木家の主だった武将、国人衆が揃っていた。随分と朽木も大きくなった。そう思っていると“五郎衛門殿”と儂を呼ぶ声がした。懐かしい声だ、声の方を見ると上座の方に新次郎殿が居た、懐かしい顔だ。傍に寄って隣に腰を下ろした。
「久しいな、五郎衛門殿」
「真に久しい。大分京では活躍したではないか、羨ましい」
「何の、坂本は京に近い、その所為よ。坂本に居たのが五郎衛門殿なら儂より大きな働きをしたのではないかの」
「さあて、どうかの」
二人で顔を見合わせて笑った。
「随分と集まっているが?」
儂が問うと新次郎殿が頷いた。
「朽木家が勅命を受けた。初めての事だ。失敗は出来ぬ。それに土佐一条家の事も有る」
「土佐か、上手く行っていないと聞いている」
新次郎殿が顔を顰めた。
「その通りだ。将軍宣下に大名達が集まらなかった。その所為で少将様は朽木の力は大した事が無いと思っておられるらしい。御屋形様は何度か伊勢で話し合う事を望まれたが少将様は拒否されたままだ」
「なるほど、確かに失敗は出来んな」
ここで勅命を果たす事で土佐一条家に朽木の力を印象付けようという事か。考えていると御屋形様が姿を現した。皆が平伏して迎える中、御屋形様が上段に向かう。足音が早い、足早に向かうところは少しも変わらぬ。上段に座ると直ぐに“面を上げよ”と声がかかった。これも変わらぬ。
「知っての通り朝廷から勅が下った。永く禁裏御料である小野庄、山国庄を不当に横領する宇津右近大夫頼重を討ち旧に戻せとの事だ。上野之助、頼む」
沼田上野之助が一礼すると話し始めた。
「宇津右近大夫を討つ事は朽木の総力を上げれば難しい事では有りませぬ。しかし宇津には同盟を結んでいる者達が居ります。波多野左衛門大夫、川勝大膳亮継氏。この者達が如何動くかは分かりませぬ。また丹波には赤井悪右衛門が居ります。悪右衛門は朽木に御味方すると言ってきましたが波多野と縁戚関係にあります。状況次第では敵になる事も有り得ましょう」
「沼田殿、つまり丹波一国が敵になる、そういう事かな?」
伊勢の国人千種三郎左衛門尉が問うと上野之助が頷いた。
「その可能性は十分に有ると軍略方では考えております。御屋形様も同じお考えです」
皆が御屋形様に視線を向けると御屋形様が“続けよ”と上野之助を促した。
「それと丹後、播磨、本願寺で些か訝しい動きが有ります。丹後の一色は宇津、波多野、川勝、赤井と頻りに連絡を取り合い戦支度を整えております。また播磨においては小寺、別所、赤松が戦支度を進め、本願寺も戦支度を進めておりまする。この者共、我らが丹波に攻め込めば兵を起こし我らに敵対するものと思われまする」
大広間が静まり返った。
「大戦になるの」
ポツンと誰かが呟くと皆が頷いた。
「大戦にしてはならん」
上段から御屋形様の声がした。
「戦は丹波、丹後だけで行う様にする。摂津には三万の兵を置く事にする。田沢又兵衛、田沢小十郎、日置左門、守山作兵衛、真田源太郎、真田徳次郎。摂津に赴き平井加賀守と共に本願寺、播磨の者達を牽制せよ」
「はっ」
名を呼ばれた者達が頭を下げた。御屋形様が頷かれ“本願寺には決して油断するな”と仰せられた。御屋形様はかなり本願寺を気にしておいでだ。左門め、失敗しなければ良いが……。
「鯰江備前守」
「はっ」
「敦賀に置いた満介、小次郎を高浜に戻す、兵も一緒にな。その他に三千ほどそちらに送る。俺が丹波に攻め込んだ時点で丹後に攻め込め」
大広間がざわめいた。
「畏れながら丹波ではございませぬので? 若狭から堀越峠を使って丹波に攻め込めば宇津は南北から攻め込まれる事になりまする。忽ち崩れましょう」
御屋形様が首を横に振った。
「伯父御、その時は一色が若狭に攻め込みかねん。その上で堀越峠を渡る伯父御の後ろを突けば大敗北を喫する事になる」
彼方此方で唸り声が起きた。
「しかし丹後の一色は幕府侍所頭人、これを攻めれば必ずや幕府から御咎めが有りましょう。宜しいのでございますか?」
新庄刑部左衛門が不安そうな声を出すと御屋形様が“構わぬ”と言い放った。皆が顔を見合わせた。御屋形様は本気だ。
「当家が勅を受け宇津討伐を行うのは一色も承知の事。我らを助けると言うなら挨拶が有るのが当然であろう。挨拶も無しに戦支度をすると言うならこれは敵対と判断せざるを得ぬ。侍所頭人がこの程度の事を知らぬ筈もない。例え幕府が何を言おうと理はこちらに有る」
皆が頷いた。
「但し、攻め込むのは伊佐津川までとする。そこで一色、波多野、赤井の動きを探れ。波多野、赤井が一色に加勢した時は無理をせずに防御に徹せよ。波多野、赤井の加勢が無い時は我が命を待て。場合によっては兵を別け丹波に攻め入る事も考えている」
なるほど、一色を抑えつつ丹波に睨みを効かせようという事か。これなら丹波の者達は丹後の鯰江が気になってどうしても動きが鈍くなろう。
「さて宇津攻めだが此度は越前衆、加賀衆、能登衆にも戦って貰う。五郎衛門、越前守、宮部善祥坊、旗頭としてそれぞれに兵を纏めよ」
「はっ」
どよめきが起きた。これまで御屋形様は北陸の国人衆を畿内の戦に使う事は余りなかった。此度は朽木の総力を挙げるという事か……。
「新次郎」
「はっ」
「その方には坂本にて京に睨みを効かせよ。坂本には小泉宗三郎、市河孫三郎を送る」
「はっ、承りました」
新次郎殿が頭を下げた。京への睨み、もはや京を守ると言葉を飾る事も無くなった。御屋形様は公方様を敵だと皆に言っている。
「進藤山城守、後藤壱岐守」
「はっ」
「両名はこの城に入り留守居を務めよ。竹若丸の傅役、竹中半兵衛、山口新太郎と共に留守を頼む」
「はっ」
「ここまでで何か有るか、遠慮はいらぬぞ、思う事を述べよ」
御屋形様が大広間を見回した。意見は無い。
「出陣は五月二十五日、その二日前までにこの八幡城に集まれ、以上である」
皆が平伏した。
永禄十六年(1573年) 五月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木小夜
『年の矢の早くも過ぐる光陰惜みても帰らぬはもとの水。流はよも尽きじ絶えせぬぞ手向なりける。いざいざ水を汲まうよ。いざいざ水を汲まうよ』
能舞台では女達が歌い舞い始めた。脇能の賀茂、賀茂神社の縁起を表現した能で皆に好まれている演目の一つ。見物席では御屋形様、大方様、子供達、雪乃殿、辰殿、篠殿、私。そして蒲生下野守殿、竹若丸の傅役、竹中半兵衛殿、山口新太郎殿が並んでそれを見ていた。
「一体如何いう事でしょう? 京より戻られてから能舞台を造られたかと思えば端午の節句に能興行とは」
御屋形様に問い掛けるとチラとこちらを見て能舞台に視線を戻された。
「倅共の端午の節句を祝ってやりたくなった、それだけだ」
「まあ、それでは竹姫と鶴姫が可哀想ではありませぬか。弥五郎殿」
「御安心を、母上。これからは節句には能興行を催そうと思っております。来年三月の上巳の節句にも当然ですが能興行を催します。その時は辰、篠も綺麗に着飾ると良い。今から衣装を誂えておくのだな」
辰殿、篠殿が嬉しそうに“はい”と答えた。
「御屋形様は能がお好きになられたのですか?」
雪乃殿が笑いながら問うと御屋形様が“違う”とお答えになった。
「ですが良く小鼓を打っておられます」
「考え事をしていて混乱した時に小鼓を打つ。打っている内に心が静まって来る事に気付いた。小鼓も役に立つ、上達は中々しないがな」
「そのような事は……」
私の言葉に御屋形様が首を横に振った。
「領主は小鼓が下手でも舞が下手でも良いのだ。だがそういう事を生業にする者達を庇護する事を忘れてはならぬ。俺はこれまで産物の保護、育成に力を入れてきた。これからはこういう物にも援助をしなければ……」
大方様、雪乃殿と顔を見合わせてしまった。御屋形様は最近大分御悩みになられているらしい。でも小鼓の腕前は以前に比べれば格段に上達している。もう少し自信を持たれても良いのだけれど……。
「それに近江は大和と並んで猿楽の盛んな国だ。だが領主が無関心では張り合いが無かろう。だからこうして呼んでいる。もっとも日吉大社を焼いた所為で山階、下坂、日吉の上三座は断って来たが……」
大方様が“まあ”と声を上げられた。日吉大社も延暦寺も幾度となく再建の許しを願い出ている。でも御屋形様はそれを御許しにはならない。この事では誰も口添えしない。一度大方様が願い出た者に口添えしようとされたが御屋形様は“口出し無用”とにべも無く断っている。
「人日と七夕は敏満寺座、上巳と重陽は大森座、端午は酒人座。酒人座だけ年に一度になる、十一月に特別に能興行を催して酒人座に舞わせよう。俺が戦でいない時は竹若丸の名で興行をさせる。但し演目数は五番までだ」
「宜しいのでございますか、御屋形様が戦の最中に能興行など」
「構わぬ、戦の勝ち負けは能とは関係ない」
御屋形様の御言葉に蒲生殿がクスッと笑うのが分かった。
「次は七夕の節句でございますね。楽しみでございます、御屋形様も御一緒に見物出来ましょうか?」
雪乃殿が問うと御屋形様が首を横に振られた。
「難しかろうな、一月で終わる様な戦にはならん。重陽の節句までには戻って来られると思う。……いや、或いは年を超えるかもしれんな」
思わず雪乃殿と顔を見合わせた。今度の戦いは宇津という丹波の国人領主を討つ、それほど難しくはない筈……。別に何か有るのだろうか。