悪癖
永禄十五年(1572年) 九月下旬 山城国葛野・愛宕郡 室町第 細川藤孝
義昭様の御前を下がると兄が後を追ってきて少し話したい事が有ると誘ってきた。話したい事、おそらくは先程の伊勢守殿の話の事であろう。幾分憂鬱では有ったが断らずに兄に与えられている部屋に入った。兄の表情は暗く沈んでいる。何か有る、そう思った。座ると兄は直ぐに“先程の件、如何思うか”と訊ねて来た。嫌な感じがした、兄はかなり焦っている。
「従四位下への昇進、義昭様を宥めようというのでしょう」
私の言葉に兄が頷いた。
「そうだな、つまり伊勢守殿、大膳大夫様は義昭様の御不満を知って今回の昇進を取り計らったという事であろう。義昭様は信頼出来る側近以外には御本心を漏らさぬようにしておいでだ。だが御不満を持っているという事を知られた。側近の中に内情を漏らした者が居るのやもしれぬ」
なるほど、裏切者の心配か。朽木から禄を貰っている以上側近達の去就に不安が有るという事か。
「必ずしもそうとは限りますまい。政所に伊勢守殿が居る以上、義昭様が政からは排除されるのは自明の理。不満を持っていないと言っても誰も信じませぬ。用心は必要では有りますが此度の昇進の裏を深く読むのは危険では有りませぬか」
「では朽木討伐は漏れていないと?」
兄が顔を寄せ小声で囁いた。
「大膳大夫様は警戒はしておられましょう。しかし確証を掴んだとも思えませぬ。用心は必要でしょうが疑心暗鬼になっては……」
小声で返事をすると兄が“そうかもしれぬ”と呟いた。
「義昭様は真に朽木を討伐するおつもりですか?」
問い掛けると兄が頷いた。
「朽木は大き過ぎる。三好も大きかったが朽木はさらに大きい。足利にとって危険過ぎると義昭様はお考えだ。否定は出来ぬ」
「……危険では有りませぬか? 朽木を敵と決めつけるのは。むしろ味方とすべきでしょう。朽木は代々足利に忠義を尽くしてきた家、それは大膳大夫様も変わりませぬぞ」
兄が首を横に振った。
「伊勢を使って幕政を壟断し始めた。義昭様を傀儡にして実権を握るつもりだ。表向きは幕政に関与していないように見せながらな。三好などよりも余程に強かと言えよう」
「已むを得ぬ部分も有ります、伊勢守殿が朽木を利用している部分も有りましょう。それだけで朽木を討つというのは乱暴ではありませぬか」
「伊勢守殿が朽木を利用している面が有るのは認める。だがそれも朽木が大き過ぎるからであろう」
「……」
結局の所そこに行きつく。朽木が大き過ぎる、それが義昭様には許せぬのだ。
「朝廷も義昭様よりも朽木を頼りにしておられる。義昭様は万座の中で恥をかかされたようなものではないか」
兄が遣る瀬無さそうに息を吐いた。
「関白殿下にしてやられましたな」
「二条様はもう役に立たぬ! 朝廷は親朽木で一色になってしまった。そして皆が義昭様を蔑んでいる。そなたは関白殿下にしてやられたと言うが殿下に兵を与えたのは大膳大夫様ではないか。否定出来るか?」
「……」
昨年の阿波からの反攻、こちらは義昭様を守るのが精一杯であった。敵を追い払ったのは大膳大夫様の兵、そして大膳大夫様は関白殿下に兵を預け朝廷を守らせた。その事で公家達は義昭様を嘲笑している。征夷大将軍を望む立場でありながら敵の来襲に何も出来ずに震えていた。朝廷を守れずして何が征夷大将軍かと……。
「先程の寛恕の事も気に入らぬ」
「……」
「公方様から将軍職を取り上げるのを下策と言い切った」
「それは伊勢守殿が申された事、大膳大夫様の御言葉では有りますまい」
「しかし伊勢守殿があそこまで強気に出るのも大膳大夫様が後ろに居るからであろう。虎の威を借る狐めが!」
兄が不快げに吐き捨てた。
義昭様は不快気で有られた。本当は公方様を討ち平島公方家を屈服させたかったのだ。それによって武威を輝かせたいと考えていた。だが……。
「兄上、現実を考えれば寛恕はおかしな考えでは有りますまい。こちらから四国へは攻め込めぬのです。平島公方家が義昭様を将軍職を継ぐべき御方と認めるなら受け入れた方が利が有りましょう。それに四国からの来襲を恐れる必要も無くなります」
兄がきつい眼で私を見た。
「そなたは大膳大夫様の肩を持つのか?」
「そうでは有りませぬ。全てを否定する事は無いと申し上げているのです。義昭様が寛恕を受け入れられたのもそれに一理有ると思われたからでは有りませぬか?」
兄が目を逸らした。納得していない時の兄の癖だ。
「そなたは甘い。確かにあの者共を許せば義昭様の将軍宣下は何の障害も無く執り行われよう。だがその事で名を上げるのは義昭様ではないぞ、大膳大夫様だ。幕府も義昭様も無力だと思われるだけであろうな」
杞憂とは言えぬ。しかし……。
「ならば何故交渉に反対されなかったのです。今になってあれこれ言うのは卑怯で有りましょう。この件で大膳大夫様を責めるのは不当ですぞ」
兄が顔を歪めた。
「成る話だとは思わなかったのだ。阿波があれほどまでに簡単に応じるとは思わなかった。私だけではない、義昭様も同じ想いであったろう。だからお許しなされた。だが今日の事で良く分かった。朽木の力は我らが思っている以上に大きい。このまま放置は出来ぬ」
「勝手な事を申される。だから朽木を討つと?」
「そうだ、討たねばならぬ。朽木が摂津を得た事で播磨の別所、小寺、赤松が朽木に使者を出した。朽木は徐々に西へと勢力を伸ばしている」
「服属したわけでは有りますまい、挨拶程度の使者を出しただけでしょう」
「今はな、だが放置すれば服属するだろう。これ以上力を付けさせてはならぬ。あの三好も二十年以上かけてようやく力を削いだ。今度は朽木だ」
兄がゆっくりと、自分に言い聞かせるように言った。
「……限りが有りませんな」
否定された、揶揄されたと思ったのだろうか、兄が唇を噛み締めた。
「幕府の威光を取り戻すには已むを得ぬ事だ。朽木は大きくなり過ぎた。例え幕府に忠義の家でも許す事は出来ぬ」
「……簡単に勝てる相手では有りませぬぞ」
「それは分かっている。そなたは反対か?」
兄がじっと視線を当ててきた。
「正直に申せば気が進みませぬ。我らは何度も朽木家に助けられてきた筈、それを邪魔になったから潰すと言うのは……」
兄が顔を顰めた。
「そう言うな、私とて好んでやっているわけでは無い。恩を感じていないわけでも無い。それに潰すとは言っておらぬ、勢力を削ぎたいだけだ。近江、越前、若狭、その三国ぐらいの方が納まりが良い。元は朽木谷の小領主、三国の太守ならば十分ではないか」
後ろめたいのだろう、兄が膝を叩いて力説した。兄の言い分は身勝手な言い分でしかない。朽木は自力で大きくなった。幕府の援助で大きくなったわけでは無い。浅井、一向一揆、六角、北畠、犠牲を払いながら大きくなったのだ。到底納得するまい。もし幕府の試みが上手く行って三国に減らされた時は朽木は露骨に幕府に敵対するようになるだろう。もう二度と朽木を頼る事は出来なくなる。幕府はそうやって頼るべき味方を無くして行く。
「朽木からは禄も貰っておりましょう」
「そうだな、だが我らは幕臣、そうではないか?」
「……誰が朽木と戦うのです」
「畠山修理亮、三好左京大夫、松永弾正忠、内藤備前守、波多野左衛門大夫、一色左京大夫。既に密書は送った」
既に使者を送ったのか……。兄が朽木に漏れたと懼れたのはそれが理由か。そうかもしれぬ、有り得ぬ話ではない。朽木は八門、伊賀を配下に持つ。身の処し方が難しくなった。
「某は知りませんでした」
「知れば反対したであろう、だからそなたには知らせなかった」
或いは私は疑われているのかもしれぬ。例え兄の前であろうと慎重に動かねば危ない。
「……感触は?」
「……」
兄が顔を歪めた。余り良くないらしい。当然だろう、三好、松永、内藤は朽木から援助を受けて戦ったのだ。
「次は毛利、織田、上杉にも使者を送る、本願寺にもな」
思わず溜息が出た。余りにも見通しが甘過ぎる。本願寺は伊勢長島から三万人近い門徒を受け入れ混乱が続いていると聞く。元から居る信徒達と移住してきた信徒達の間で対立が有るらしい。何処まで当てに出来るのか。それに朽木は一向一揆には厳しい。本願寺が立ち上がれば絶対に放置はしない。内部に対立が有る状態で戦う事が出来るのか……。
「毛利は動きますまい。大友との戦で手一杯です。その証拠に伊予、土佐では朽木と協力しておりますぞ」
伊予の西園寺が土佐一条家に攻めかかり敗れた。土佐一条家は伊予に攻め込もうとしたようだが大膳大夫様がそれを止めた。そして西園寺から援助を求められた毛利も動かなかった。土佐一条家と西園寺家の戦は終わった。
大膳大夫様は土佐一条家にとって危険なのは長宗我部とみている。そして土佐一条家に西園寺と長宗我部を同時に相手をする力が無いとも見ている。だから毛利を動かして伊予の西園寺を抑えさせた。毛利も大友との戦いに土佐一条家が介入しないのなら利が有る。だから西園寺を抑えた。両家とも土佐一条家、西園寺家に対して言う事を聞かないなら援助を打ち切ると強い調子で迫ったらしい。
「今は協力しているな。……だがいずれ朽木が播磨から備前、備中と力を伸ばせば毛利とぶつかる。今は動かずともいずれは動く。その日のために使者を出す」
「……」
「織田、上杉も同様だ。北条は代替わりでぐらついている。上杉が北条を滅ぼせば今川、武田は織田、上杉に包囲される事になる。今川、武田は終りだ。その後は朽木に向かわせれば……」
「朽木を包囲出来ると?」
兄が頷いた。
確かに北条はぐらついている。北条左京大夫氏康が八月に死んだ。ここ半年ほどは寝たきりだったらしい。後を継いだ氏政は良い評判は聞かない。北条は上杉の攻勢の前にさらに追い込まれるだろう。だが北条が滅ぶまで、今川、武田が滅ぶまでには何年もかかる筈だ。その間、どうやって戦うというのか……。
永禄十五年(1572年) 十一月中旬 山城国愛宕郡 伊勢伊勢守邸 伊勢貞良
「兵庫頭にございます」
「入れ」
父伊勢守の自室に入ると父が端然と正座をしていた。父の前に座る、この瞬間は常に緊張を強いられる。慣れる事は無い。
「近江から書状が届いた」
大膳大夫様から書状が届いたか。
「阿波に居られる公方様が将軍職の返上に同意された」
「では?」
「間もなく阿波から朝廷に使者が送られる。将軍職返上の願いが提出され受理されるであろう。その後は左馬頭様への将軍宣下となる。十五代様の誕生だ、目出度い事よ」
声に抑揚が無い。もっとも常の事だ。これだけでは父の想いは判断出来ぬ。
「では準備に取り掛かります。もっとも費用は既に大膳大夫様から頂いておりますから直ぐに将軍宣下への運びとなりましょう」
「将軍宣下には公方様、三好豊前守、安宅摂津守、三好日向守も参列する」
「なんと」
「そうする事で将軍位を巡る争いが終ったのだと天下に示す。他にも近隣の諸大名に上洛を求める事になる」
事になる?
「それは大膳大夫様の御発案でございますか?」
父が頷いた。
「では諸大名への上洛の要請は?」
「政所から出す、大膳大夫様の副状を付けてな」
なるほど、大膳大夫様の副状か。幕府の実権は大膳大夫様と政所執事の父が握っている事の表明か。
「となりますと将軍宣下は年内に執り行うのは難しいかと思いますが?」
「年明けで良い」
「宜しいので? 左馬頭様は一日も早い将軍宣下を望んでおられましょう」
「天下の諸大名が集うて祝うというのだ、文句は言うまいよ」
父の声に微かに笑いが含まれていた。珍しい事だ、嘲笑か?
「では年明け、吉日を選びまして将軍宣下の運びと致しまする」
「うむ。公方様の御命を狙おうと考える愚か者が現れるやもしれぬ。大膳大夫様に公方様の警護をお頼みする事になる」
「はっ」
「それと将軍宣下は室町第では行わぬ。本国寺で行う、左様手配せよ」
「はっ、承りました」
室町第では行わぬ、つまり室町第は危険という事か。愚か者と父が言ったのは左馬頭様とその側近達の事だな。本国寺で行うという事は事前の警備は大膳大夫様に頼む事になろう。
下がろうとすると父が“待て”と押し止めた。
「兵庫頭、左馬頭様が足利の悪い癖を出した」
「悪い癖、と申されますと」
父が軽く笑った。
「密書を出し始めた」
「……まさかとは思いますが」
「そのまさかよ、朽木を討て。飾り物にされたのが余程に不満らしい。政など何も知らぬ小童が」
「なんと……」
私が呆然としていると父が声を上げて笑った。
何たる事か。左馬頭様の今が有るのは大膳大夫様の御力によるもの。将軍宣下も間近な今、何故密書等を送るのか……。一つ間違えば全てが無に帰するというのに……。
「堪え性の無い男よな。将軍宣下までは待つと思ったが我慢出来なくなったと見える。周囲も面白くないらしい、実権の無い盆暗の愚痴を聞くのは飽きたらしいわ」
「父上、その話、何処から得られたのです?」
問い掛けると父が私を見て苦笑を漏らした。
「大膳大夫様からの書状に記してあった。左馬頭様は織田、上杉にも密書を出したらしい。織田、上杉が驚いて朽木に問い合わせたようだ。何とも笑止な事よ」
笑止とは織田、上杉に密書を送った左馬頭様の事だろうか、或いは密書に驚いた織田、上杉の事か……。
「大膳大夫様はその事について何か?」
「何も無い」
「何も無い?」
問い返すと父が頷いた。
「大膳大夫様は将軍宣下を執り行うのが先決と見ておられる」
「しかし」
「最初からこうなる事は想定済みという事よ。ま、驚いてはおられたな、将軍宣下を待たずして密書を出したと」
また父が声を上げて笑った。
「しかし、宜しいのですか? 将軍宣下を執り行えば公方様と、いや幕府と大膳大夫様が争う事になりますぞ」
「……左馬頭様も大膳大夫様もそれをお望みだ」
「……大変な事になりますぞ。場合によっては幕府は崩壊しかねませぬ。我等伊勢氏の今が有るのは幕府が有ればこそでは有りませぬか?」
「幕府が滅ぶか、それも運命であろう」
父が私に視線を向けた。
「その方の申す通り政所執事として伊勢氏が栄えてきた事は事実。我らは幕府を守るために努めて来た。残念だが応仁の乱以降、将軍家の権威は低下し幕府の力も落ちた。幕府を守るためには有力大名と手を結びその力に頼らざるを得なかった」
哀しげな父の声だった。父のこんな声は初めて聞く。細川、大内、三好、時の権力者と結ぶ事で伊勢氏は幕府の権威を何とか守ろうとした。それは本意ではなかった。他に術が無く已むを得ず取った手段であった。
「だが足利にとってはそういう我らの生き方は裏切に見えるらしい。そうかもしれぬ、我等は足利よりも幕府に重きを置いたからの。そしてそんな我らを足利は許せぬようだ。左馬頭様が勝てば伊勢氏は滅びる事となろう」
「……そうでしょうな、薄々感じていた事でも有ります。では大膳大夫様が勝てば如何なりましょう?」
父が首を振った。
「分からぬ、これまでは皆が幕府の中で力を振るおうとした。それ故手強くてもやり様は有った。だが大膳大夫様は違う。幕府の中で力を振るおうとはせぬ。或いは幕府に見切りをつけているのやもしれぬ。大膳大夫様の下に送った三人も困惑しておろう。左馬頭様も側近も何処まで理解しているか……、心許ない事よ」
「……我らは如何なりましょう?」
「生き残る事は出来ようがそれ以上は……、何とも言えぬの」
父は幕府が滅ぶ事も覚悟している。それは伊勢氏が政所執事ではなくなる日でもある。寂寥、それを感じているのかもしれない……。