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苦汁

永禄十五年(1572年)  七月上旬      近江国蒲生郡八幡町  八幡城  朽木基綱




「見事な御城でございますな」

「世辞でもそう言って貰えると嬉しいな」

「世辞等と、とんでもございませぬ。本心から申しております」

俺の目の前で五十代の老人が上品な微笑みを浮かべている。今井宗久、屋号は納屋。堺の商人だ。この時代の商人は戦で儲けているようなところが有る。言ってみれば宗久は死の商人だ。上品な笑みに騙されてはいけない。


実際八幡城はそれなりの城だが摂津には芥川山城、河内には飯盛山城が有る。どちらも三好の重要拠点の城で八幡城に負けぬだけの威容を備えている。それに摂津には石山本願寺が有る。八幡城程度の城なら見慣れているだろう。

「如何かな? 会合衆は慣れたかな?」

「多少は困惑がございます。ですが徐々に慣れましょう」

「そうか、それは良かった」


堺の町は先の阿波三好家の侵攻で大きな役割を果たした。武器弾薬、兵糧の売買、まあこれは商人なのだから仕方が無い。問題は船と湊だ。朽木に追われ摂津に逃げ込んだ三好勢を四国へ逃がすために船と湊を使用させている。船はそれほど大きな数じゃない。何と言っても安宅水軍が有るのだからな。だが一部の将兵を逃がすために堺は積極的に動いたと取られても仕方が無かった。まあ三好は長い間畿内を統治した。堺はそんな三好に協力してきたのだ。断り切れない部分も有ったのだと思う。


当然だが俺はそれを咎めた。そして自治の廃止と朽木家への服属を求めたわけだ。そしてこれも当然ではあるが堺の会合衆は反発した。そんな中で会合衆を説得し朽木へ服属するべきだと説いたのが今井宗久と津田宗及の二人だ。この二人、義昭襲撃が失敗した事で阿波三好家を見限ったらしい。協力してやったのに手際が悪い、これでは将来性が無いという事だ。


この二人のおかげで血を見ずに済んだ。もっとも服属とは言ってもかなり緩い服属になっている。市政についてはこれまで通りとする。但し朽木家の代官所から命令が有った時はそれを最優先で実施する。もしそれが守られない場合は朽木家の代官所が処罰を下す事になる。要するに朽木支配下での自治、そういう事になる。かなり窮屈には感じているだろう。


俺も百パーセント満足しているわけではないが朽木が大きくなれば従属度は強まると見て受け入れている。取り敢えずはこれで良い。阿波三好家との関係も完全に切れたとも思えん。それも構わない。無理を強いれば反発が酷くなる。堺には葉月も居るのだ、情勢を知る事に困る事は無い。ゆっくりとじっくりと堺を消化し朽木の物にする。


「ところで例の件は如何かな。公方様は征夷大将軍を返上されそうかな?」

俺が問うと宗久が“なかなか”と言って首を横に振った。

「今天王寺屋さんが公方様と交渉しておりますが簡単には……」

「いかぬか」

「はい」

宗久がゆっくりと頷いた。天王寺屋と言うのは津田宗及の屋号だ。俺は天王寺屋を使って義助に将軍職を返上させようと考えている。


「年内には何とか纏めたいものよ。義昭様をあまり待たせる事は出来ぬ。公方様だけでなく父君の義維(よしつな)様の方からも説得するように伝えてくれ」

「承知いたしました。ですが何故それほどまでに公方様に御気を遣われますのか御教え願えませぬか? 解任してしまった方が事は早く済みましょう。左馬頭様もそれをお望みの筈」

俺の心を探ろうとしている。誰が後ろにいるのかな? 義昭? 義助? 三好豊前守? 安宅摂津守? 俺の猜疑心が強いのか、それともこいつらの信用が無いのか、どちらだろう。


「義昭様にはかつて兄君と弟君が居られたが御二方とも御命を奪われた。そして義昭様には御子は居られない。未だお若く壮健であるとはいえ極めて心細い事だ」

「……」

「平島公方家も義維様は御高齢。御長男義栄様は既に御他界、男子は公方様と御舎弟の義任様のみ。決して安心は出来ぬ。足利の血は嘆かわしい事だが痩せ細っている」

宗久が“確かに”と言って頷いた。


「この状況で公方様の将軍職を解任すれば如何なる? 公方様は納得なさるまい。自分こそが正統な将軍であると主張されるであろう。そうなればこの天下に二人の将軍が存在する事になる。それを正す為には公方様を討たざるを得なくなる。場合によっては平島公方家そのものを討つ事にもなろう。そうなれば足利家の血は更に痩せ細る事になる」

宗久がフムフムと頷いた。


「なるほど、それで公方様に将軍職を辞して貰おうという訳ですな」

「その通りだ。義昭様は公方様に、平島公方家に良い感情をお持ちでは無い。だがそれは義昭様個人の御気持ち、足利家のためには我慢して貰わなければ……、義昭様には年内はお待ち頂きたいとお願いしている」

「そこまでお考えでしたか……」


宗久が感心したような声を出した。そう、朽木は足利家の忠臣なのだ。……足利の忠臣か。多分誰もがそう思うだろう。この事は天下の諸大名に手紙で伝える。北条、今川、武田、長宗我部にもだ。俺を嫌っている大名も俺が平和を作り出そうとしている、そう見る筈だ。


「しかし公方様は受け入れましょうか?」

「難しいかもしれん。だが義維様、義任様は話の持って行き方では受け入れると思う。そこから崩していく一手だな」

「と仰られますと?」

宗久は訝しげだ。大丈夫か、こいつ。なんか頼りないな。それとも俺が悪なのか?


「平島公方家はこれまで将軍を出した事は無い。だが今回公方様が将軍に就任した事で平島公方家は将軍を出せる家だと周囲は思った筈。要するに平島公方家の家格は上がった。他の足利一族よりも頭一つ抜け出したと言って良い。此処で意地を張る事に意味が有るか?」

宗久が大きく頷いた。


「そうですな。仮に左馬頭様に何か有れば次の将軍は平島公方家からとなる可能性は高い。それを理解して頂ければ……」

「宗久、それではなにやら(けしか)けている様にも聞こえるぞ。俺はそんな事は望んでおらぬ」

「これは申し訳ありませぬ」

宗久が苦笑している。俺も笑った。だがその辺りを匂わせれば交渉は可能だろう。


「問題は三好豊前守、安宅摂津守だが平島公方家から征夷大将軍職の返上と引き換えに彼らへの寛恕を願い出れば良い。左馬頭様への取り成しは俺が請け負う」

「それなれば豊前守様、摂津守様も受け入れるやもしれませぬ。平島公方家も御二方に負い目を持たずに済みましょう。しかし左馬頭様は如何でございましょう? 受け入れましょうか?」


「戦を続けては義昭様の治世は安定せぬ。義昭様にとっても和を結ぶ良い機会であろう」

「確かに左様でございますな。天王寺屋さんにその事を伝えましょう」

「頼む。……三好日向守殿を知っているな?」

「それは勿論。三好家でも力の有るお方でございます」

宗久が笑みを浮かべている。かなり親しいのかもしれん。好都合だ。


「日向守殿にも話を通すように伝えてくれ。道理の分かる方だ、理を尽くせば味方になってくれるだろう」

「分かりました。大膳大夫様は日向守様を御存じで?」

「一度会って話をした事が有る。悪い御仁では無かったと覚えている」

宗久が思い出したと言うような表情を見せた。もう二十年近く前になるな。


「ところで長宗我部の件だが」

問い掛けると宗久が笑みを浮かべた。

「御指示通りにしております。堺では長宗我部の荷は扱いませぬ」

「頼む。これで少しは土佐も落ち着くだろう」

先ずは兵糧攻めだな。そこから長宗我部を追い詰めて行こう。義昭が動くのは将軍宣下の後だ、おそらくは年明けだろう。それまでに土佐を何とかしなくてはならん。




永禄十五年(1572年)  七月中旬      近江国蒲生郡八幡町  八幡城  朽木惟綱




「伊予の西園寺が土佐を攻めた?」

御屋形様が呆然としている。珍しい物を見た、後で日記に記さなければなるまい。

「はい、そして少将様が御勝ちなされたとか。御屋形様が送られた鉄砲三百丁、大いに役立ったと聞いております」

「……」

「御存じ有りませぬか?」

御屋形様が“知らぬ”と言って首を振った。


「土居宗珊からは何も言って来ぬ。伊賀衆からの報せか、大叔父上」

私が頷くと御屋形様がホウッと息を吐いた。

「毛利は何を考えている。土佐一条家は伊予には介入せぬ。長宗我部との戦いに専念すると伝えたのに……、西園寺の独断か?」

「直に土佐から報せが来ましょう」


「そうだな、だが厄介な事になった」

「……」

「これでは少将様を隠居させる事は出来ぬ。宗珊も頭を痛めていよう。報せが遅れているのはその所為かもしれん」

御屋形様の表情が厳しい。確かに戦に勝った少将様を隠居させる事は名分が立たぬ。土佐の方針は振り出しに戻った。


「御屋形様、それよりも心配なのは少将様が伊予に攻め込まぬかという事でございましょう」

御屋形様が顔を顰めた。

「土佐一条家にとって一番危険なのは長宗我部だ。長宗我部は明らかに土佐統一を目指している。自分の足元が揺らいでいる時に伊予に出張る余裕など有るまい。むしろ西園寺を叩いた今、長宗我部に全力で向き合うべきであろう」

「大友が要請するやもしれませぬ」

御屋形様がまたホウッと息を吐いた。宗珊からの報せが遅れているのはそれを止めるので手一杯なのかもしれぬ。


「大友の娘など嫁に貰うからだ!」

御屋形様が吐き捨てた。

「長宗我部相手に大友は何の役にも立たん。大友と結べば毛利との戦いに利用されるのがオチであろう。伊予に攻め込めば必ず毛利が出てくる。負ければ長宗我部が喜ぶだけだ」

御屋形様が言われる通りだ。私にも分かる。だが土佐一条家の当主にはその辺りが理解出来ているか甚だ心許ない所が有る。全く余計な勝ち戦だ、負けてくれた方が未だ良かった。それを理由に隠居に持ち込めただろう。いや負ければ長宗我部の攻勢が強まるか……。こっちも溜息が出そうだ。


「土佐に使者を送られては?」

「そうだな、伊予に攻め込むのなら援助は出来ぬと文を書こう。それと毛利にも使者を出す。今回の西園寺の件、如何いう事なのか問い質すつもりだ」

「それが宜しゅうございます。ところで伊勢の件は? 隠居は難しいとなりますと……」

御屋形様が顔を顰められた。

「いや、来て貰う。俺と権大納言様で長宗我部に専念しろとしっかりと釘を刺す。場合によっては大友の娘との離縁も突き付けるつもりだ。その折、大友にも使者を出そう。土佐一条家が滅べば娘も惨めな境遇になるがそれで良いかとな」

かなり御怒りになられている。


「大友も苦しいのでしょうな。肥前の龍造寺ですが、あれは自立しましょう」

「大叔父上の言う通りだ。大友は駄目だな。足元が危ういのに毛利との戦いを続けている。龍造寺に足元を見られるのも道理よ」

「……」

「似ているな、大友と一条。足元を疎かにして外に出たがる。虚栄心が強いと見た。この乱世では生き残れまい」

冷たい声だった。御屋形様は北畠を誅し伊勢を安定させた。大湊を始めとする町の自治も取り上げ今では伊勢は小揺るぎもせぬ。大友と一条を蔑む心が有るのだろう。虚栄心か、確かに御屋形様には感じられぬ。


「西に龍造寺、東に毛利。いずれ大友は南からも攻められるぞ」

「南、と言いますと?」

「薩摩の島津だ」

「何故それを?」

伊賀衆からもそんな報告は上がっていない。何処から御屋形様はそれを? 御屋形様が顔を顰めた。


「琉球だ」

「琉球?」

「琉球に出した船が戻って来た。琉球は島津に近い、取引も多いからその動向には敏感だ。島津は日向の伊東氏と戦の最中だが島津が勝てば日向方面に出て来る。忽ち豊後は危うくなる」

「伊東が勝てば?」

御屋形様が溜息を吐いた。


「大隅から薩摩へと伊東は勢力を伸ばす。その後は豊後だな。毛利と龍造寺に手間取っている大友は南から見れば隙が有る。大友は囲まれて防戦一方になるだろう」

「土佐一条家もそれに巻き込まれますな」

「その前に長宗我部に滅ぼされる。大友はそれを防げない」

御屋形様の表情が暗い。話を琉球の事に変えた方が良かろう、少しは御気も晴れる筈。


「琉球から船が戻ったと聞きましたが首尾は?」

「交易は上々と言って良い。絹の他に沈香、象牙、砂糖を大量に買い付けてきた。だが琉球王が死んだそうだ」

「なんと」

御屋形様の表情は晴れない。何たることか……。


「跡継ぎは未だ幼い。琉球は混乱するかもしれん。それによっては交易にも影響は出るだろう。今年も船は出すが楽観は出来ん」

「……」

「土佐、琉球は暗い話ばかりだな、大叔父上。唯一の成果は堺と長宗我部の繋がりを断った事くらいだ。頼りない事よ」

御屋形様が遣る瀬無さそうな表情をしている。困ったものよ、何か良い手は無いか伊賀衆に相談してみるか……。




永禄十五年(1572年)  八月中旬      近江国蒲生郡八幡町  八幡城  朽木基綱




「それで伊勢守殿は何と?」

「はっ、左馬頭義昭様、大分御不満の様に見受けられるとの事にございまする」

「そうか」

俺の前で伊勢与十郎貞知、因幡守貞常、上総介貞良が畏まっていた。本家からの連絡事項を俺に伝えに来たというわけだ。大体において話すのは一番若い上総介貞良だ。与十郎貞知と因幡守貞常は時折補足をするかのように話す。


「何を不満だと言っておられるのだ?」

「されば将軍宣下が成されぬ事、そして大膳大夫様が公方様、平島公方家に気を遣う事がお気に召さぬとか」

「ほう、伊勢守殿が政所執事に戻られた事には何も言われぬのかな?」

俺が皮肉ると与十郎が困った様な表情を見せた。後の二人は表情を変えない。流石、伊勢の一族だな。


「それもございます。(まつりごと)を自らが執れぬ事に対してしばしば御不満を口にされるとか」

不満の根本は其処に有る。要するに義昭は自分の好きにやりたいのだ。

「残念だがそれは認められぬ。それを認めればこの八幡城は陳情にやってきた公家達で溢れ返ってしまう」

俺の言葉に三人が苦笑を浮かべた。


同席している蒲生下野守、黒野重蔵、明智十兵衛も顔を歪めている。俺は冗談を言ったつもりはない。京の近衛、飛鳥井、勧修寺達からは伊勢が政所執事に復帰した事について感謝の文が届いているのだ。千津叔母ちゃん、新たに宮中に入った権典侍からも同様の文が届いている。義昭の親政? 京はひっくり返る様な騒ぎになるだろう。誰も義昭の親政など望んでいない。京では義昭の事を悪御所と呼んでいるのだ。未だ将軍にはなっていないがな。


「幕臣達は如何か? 迎合しているのか?」

「いえ、大体において抑える側に回っておりまする」

「禄を与えた効果が少しは有ったか」

皆が苦笑を浮かべた。銭の力は大きいよな。

「それで、義昭様に迎合しているのは?」

「一色宮内少輔昭辰、摂津中務大輔晴門、上野中務少輔清信」

「なるほどな」

一色は丹後の一色家の一族、摂津は前政所執事だ。まあ朽木には反感を示すだろう。


「困ったものよ、義昭様にはご説明したのだがな。足利家の為に今暫くお待ち頂きたいと。理解しては頂けなかったか」

「左馬頭様は将軍に就任しその上で公方様、平島公方家に降伏を促した方が良いと御考えだとか。将軍に逆らう者は居らぬ、左様な不埒者は討伐すれば良いと……」

うんざりした。下野守が失笑しているが重蔵と十兵衛はうんざり顔だ。馬鹿じゃないのとでも言いたそうだな。


「それによって御自身が将軍であると実感を得たいのでありましょう」

「命令を出せば叶うと思っていると言うのか、下野守。馬鹿げているぞ。もしそうなら義輝様が弑される事は無かった。どの大名も自分に都合の悪い命令は聞かぬ。自分に益が有ると見た時だけ受け入れるのだ」

俺だって義輝、義昭の命令を無視しまくった。それなのに朽木は足利の忠臣だ。如何いう訳だろう? 納得がいかんな、誰かに嵌められているような気がする。もしかすると褒め殺しか? 気を付けないといかん……。




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