権威
永禄十五年(1572年) 五月下旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 平井定武
亀千代をあやしていると小夜がクスクスと笑い出した。
「最近良くいらっしゃいます事。孫というのはそんなに可愛いものですか、父上」
「ああ可愛いな、娘や息子より倍は可愛い」
「まあ、聞き捨てなりませぬ。兄上にも御報せせねば」
そう言うと小夜が声を上げて笑った。笑い声に曇りが無い。朽木家の正室として三人の男子を生んだ。今では御裏方様と呼ばれる立場だ。小夜の地位は盤石と言って良かろう。おかげで私も孫の行く末を心配する事無く楽しめる。
「竹若丸と松千代を呼びましょうか?」
「それには及ばぬ。子供は遊ぶのが仕事だ。……御屋形様は六月にはお戻りなられると聞いたが」
「はい、半ば過ぎには戻られるとか。その後は八幡に築いた新しいお城に移る事になっております。今よりも近くなりますね、父上。嬉しいでしょう?」
小夜が悪戯っぽい目で私を見た。照れ隠しに笑い声を上げた。
「有り難い話だが中々会うのは難しくなりそうだ」
「まあ」
「御屋形様の命により摂津に行かねばならぬ」
「摂津でございますか?」
「芥川山城の城代を命じられた」
娘が目を瞠った。
「真でございますか? ですが摂津は……」
「そうだな、朽木家にとって摂津は飛び地になる。三好がまた押し寄せてくるやもしれぬ。それに厄介な事に本願寺が有り本願寺には左京大夫様が居る。という事でな、生半可な者には任せられぬ。私に頼むとの仰せだ」
摂津には六角家の旧臣は置けぬ。おそらくは朽木本家、旧浅井家臣、伊勢辺りから人が配備されるだろう。それらを取り纏めるのが私という事になる。容易ならぬ役目だ。亀千代がアウ、アウと声を上げた。御機嫌だな。
「父上、御屋形様と義昭様の御仲は如何なのでしょう? 色々な噂が此処にも聞こえてくるのですが……」
不安そうな表情をしている。嘘は付けぬな、真実を語るしかない。
「良くない、いや日に日に険悪になりつつあると言って良かろう」
「そんな……、それでは」
「そうだ、山城国が不安定だとなれば摂津にも影響は出る筈。油断は出来ぬ。御屋形様からもその事は注意して欲しいと御言葉が有った」
娘が唇を噛み締めた。
「ですが御屋形様が将軍宣下のための費用を用立てると聞きました。義昭様に命じられていた禁裏修理も御屋形様が行うと。御屋形様は義昭様をお助けし盛り立てているのではありませぬか。それなのに……」
「そうだ、義昭様をお助けしている。だが盛り立ててはおらぬ。その無力さを際立たせている」
「無力さを?」
「ああ」
そうとしか思えぬ。御屋形様は巧妙に義昭様を追い詰めている。
「政所執事の摂津中務大輔様が罷免された。御屋形様が強くそれを申し入れた。京の施政の混乱が今回の三好の侵攻を呼んだと言うのが理由だ。実際その通りでは有る。京では義昭様よりも阿波に去った義助様を慕う声が強いのだ。義昭様もそれを受け入れざるを得なかった」
「……」
「代わって政所執事の地位に就いたのは前の政所執事、伊勢伊勢守貞孝様だ。伊勢氏は義昭様によって政所から排斥された。今回政所執事に復帰したのは御屋形様の強い要求が有ったから。……伊勢守様が誰に忠誠を誓うか、そなたにも分かるな?」
小夜が頷いた。
「……義昭様は無理にその人事を飲まされたのですね」
「そうだ。中務大輔様を政所執事に任じたのは義昭様、御屋形様は暗にそれを咎めたと言える。そして摂津中務大輔様の下で為された政所の命令、訴訟の判決は全て白紙撤回された。そうする必要が有ったのは事実だが義昭様がこれまで為された事は全て否定された」
「……」
「義昭様ももう少しで命を失いかけたのだ。嫌とは言えぬ。だがこれで義昭様の失政が天下に明らかとなった」
小夜がホウッと息を吐いた。
「御屋形様は何をお考えなのでしょう?」
「さあ、分からぬな」
分からぬ、或いはと思う事も有る。しかし分からぬという事にした方が良かろう。口に出せば二度と取り消す事は出来ぬ。私と同じ想いを何人の人間が抱いているか……。
永禄十五年(1572年) 五月下旬 大和国添上郡法蓮村 多聞山城 内藤宗勝
「結構な御手前でございました」
「今一服、如何かな?」
「いえ、十分に足りましてござる」
兄が柔らかく頷いた。
「ではこの先は焙じ茶にでもするか?」
「はっ」
その方が有難い。焙じ茶を啜りながら肩肘張らずに話をする。それが昨今の流行だ。兄が手際よく焙じ茶を淹れてくれた。
「兄上、今回の件、如何思われます?」
「そなたは如何思うのだ、備前守」
「狡いですぞ、兄上。問うているのは某にござる」
兄が微かに笑みを浮かべた。
「そうであったな。……厄介な事になるやもしれぬ」
兄が笑みを収めそして一口茶を啜った。
「上手い事を考えるものよ。義昭様はあっという間に力を失ってしまった」
「伊勢の事、それに幕臣達に禄を与えた事ですな?」
私が確認すると兄が“うむ”と頷いた。
「元々京で幕臣達が公家、寺社の所領を押領したのは幕府に領地を与えるだけの余裕が無かった事が原因としてある。義昭様は吝嗇だからの」
「兄上、失礼ですぞ」
兄が微かに苦笑を浮かべた。茶を口に運ぶ、香ばしさが口中に広がった。
「そして義助様、三好に協力してきた公家、寺社の所領など押領して構わぬという想いが義昭様に有った。だから見て見ぬ振りをした。摂津中務大輔はその義昭様の想いを慮ったに過ぎぬ。失策だの」
兄の表情が渋い。兄は何度か義昭様に止めるようにと忠告した。だが受け入れられなかった。
「その事が今回の騒動に繋がりましたな」
「そうよの。大膳大夫様が義昭様の失政を正したのは已むを得ぬ事、それは認めざるを得ぬ。だがそうなれば幕臣共は困窮する、朽木を恨むだろうと思っていた。まさか朽木家が禄を出すとは……」
三淵大和守藤英、細川兵部藤孝を始めとして義昭様と共に苦労をした幕臣達に大膳大夫様が禄を与えた。それぞれに一千五百貫、ざっと一万五千貫を超える。石高に直せばおよそ六万石にはなろう。そして今後も恩賞を与えたい幕臣が居れば自分が与えると義昭様に申し出た。
「これで幕臣達は大膳大夫様の顔色を窺わざるを得なくなります」
「そうよの、領地ならともかく禄ではの。大膳大夫様の御気持ち一つで取り上げられる事になる。……義昭様は誰を信じて良いか分からなくなろう」
「孤立、ですか」
「そうなるな、政所は伊勢に押さえられた。伊勢は大膳大夫様の意を汲んで動く。そして周囲に居る幕臣達もそれは同じであろう、誰も信用は出来ぬ。何も出来まい」
これでは義輝様よりも惨めな境遇であろう。
「大膳大夫様は金が有りますな」
兄が笑い声を上げた。
「堺を得たからの。堺は矢銭を一万貫払ったそうではないか」
「敦賀、小浜、安濃津、桑名、大湊、堺。羨ましい事で」
「日の本一の富強よ。琉球に船を出しているとも聞いた。なかなか抜け目がない」
兄のいう通りだ。抜け目がない、金儲けも金の使い方も。
「二条様も力を失いましたな」
「そうよな、物の見事にひっくり返された。それでも京から追放されたわけでは無い。命を奪われる心配も無い。大膳大夫様を恨む事は出来まい」
「なかなか派手な事が御好きな様で」
兄がクスクスと笑い出した。
「関白殿下の事か」
「はい。甲冑姿で参内とは帝も驚かれた事でありましょう」
兄が声を上げて笑った。私も笑った。重苦しい空気が一気に吹き払われる様な気がした。
「しかしこれで朝廷、公家も大膳大夫様が押さえた事になる」
「義昭様は如何なされましょう?」
「分かりきった事を、諸大名に朽木を討てと書状を出すであろうな。義輝様と同じよ」
「諸大名は?」
兄が僅かに首を傾げた。
「さて、如何であろう、分からぬな。だが分かっている事も有る。義昭様は信を失う」
「……」
「義昭様にとって大膳大夫様は命の恩人、京へ戻れたのも大膳大夫様の御力によるもの。そして将軍宣下も朽木の力によって行われる事が決まった。にも拘らず朽木を討てではの、誰も信じまい」
「そうでしょうな。しかし諸大名は敵対しませぬか? 三好の時は敵対しましたぞ。六角、畠山」
兄が首を横に振った。
「三好と朽木は違う、簡単にそうなるとは思えぬ」
「と申されますと?」
兄が大きく息を吐いた。
「聚光院様は畿内を制し周囲を従えその勢威は並ぶ者が無かった。にも拘らず六角、畠山、波多野はその威に従わなかった。理由の一つに三好家が陪臣であった事が有ると儂は見ている」
「某もその事は気付いておりました。六角も畠山も聚光院様を恐れつつ蔑んでいた」
兄が頷いた。
「聚光院様もその事はお分かりであったろう。だがこればかりは如何にもならぬ」
「聚光院様は家格を上げようとなされましたな。御供衆から相伴衆、そして官位は従四位下、修理大夫。陪臣から足利氏の直臣になり申した」
「聚光院様だけではない、三好一族、家臣、それぞれに御供衆、相伴衆になり官位を頂いた。儂もその一人。聚光院様は御自身、三好本家だけでなく三好家全体の家格を上げようとされた」
だがその事は余計に畠山、六角を不快にさせただけだった。三好家は足利将軍家を圧迫しつつ幕府内で地位を確立しようとしている、そう見えたのであろう。細川家を下剋上で打倒し足利家も倒すつもりかと見えたのかもしれぬ。或いは聚光院様は真にそれを望んだのかもしれぬ。幕府を足利氏から三好氏の物にする。なればこそ一族、家臣の幕府内での地位の向上を図った……。三好本家を頂点とする新たな幕府内部での序列の確立……。
私がその事を兄に言うと兄が頷きつつ“今となっては分からぬが”と言った。兄も同じ事を考えた事が有るのであろう。
「朽木は違う。小なりとはいえ将軍家の直臣であった。そして代々将軍家に忠義を尽くしてきた家でもある。その事は大膳大夫様も変わらぬ。毛利、畠山、一色、波多野、大膳大夫様の事を快くは思わぬであろう。反発するかもしれん。だが蔑む事は出来まい、もの言う事もな」
兄の言う通りだ。毛利はともかく畠山、一色、波多野の三家は今回の乱に兵を出さなかった。何も言えまい。
「それに大膳大夫様は幕府の中に入ろうとせぬ。幕政に関わろうとせぬ以上聚光院様程反発は受けまい。ま、実際は伊勢が大膳大夫様のために動くのであろうが。此度も京に居座る事無く近江に戻られるようだ。摂津を得た事も阿波からの攻撃を防ぐためと言われれば……」
兄が首を横に振った。
「少しずつですが幕府は形骸化しますな」
「そうなるな」
「孫六郎様、いえ左京大夫様でござるが……」
「義昭様の義弟になられた事は拙かったやもしれぬ。必ずや義昭様は左京大夫様を頼られる筈、そして我ら兄弟を使おうとしよう」
兄が沈痛な声を出した。
「何としても左京大夫様を守らなければなりませぬ」
「そうよな、聚光院様の御恩に報いなければ……」
兄が茶を一口啜った。私も一口飲んだ、茶は温くなっていた。
永禄十五年(1572年) 六月下旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 朽木基綱
清水山城の櫓台からは青々とした水田が一面に広がって見えた。
「もう直ぐこのお城ともお別れなのかと思うと寂しゅうございます」
「今一度黄金色に輝く稲田を見とうございました」
小夜と雪乃が口々に清水山城との別れを惜しんだ。確かに北近江ではこれだけの城は小谷城を除けば無い。小谷城は朽木家の直轄城だが警備の兵を置いているだけの扱いだ。武器の貯蔵に使うかとも思ったがそれも止めた。史実に比べればかなり寂しい扱いになってしまったな。
「新しい御城は如何いう御城なのでしょう? 山城だと聞きましたが」
「山城だ、この城よりも大きい。城は完成したが城下町は今作っているところだ。賑わうのはこれからだな。まあ観音寺城の城下から商人が集まって来るだろうと考えている。商人は利には敏いからな」
雪乃の問いに答えると小夜と雪乃が感心したように頷いた。
暫く三人で風景を見ていた。考えてみるとこの城には余り思い出が無い。俺にとって朽木を大きくするための城は塩津浜の城だった。北近江制覇、越前、若狭、加賀、能登。あの小さな城を基点に行った。本来ならこの城は西へ進むための城なんだが南近江を掌握するためにはこの城では駄目だ。小谷城同様ちょっと不運な城かもしれない。御爺はこの城が好きだった。どこか御爺に似ているのかもしれない。
小夜が控えていた小姓達に下がる様に命じた。櫓台には俺と小夜と雪乃の三人だけになった。何だ? 一方を贔屓にするのは止めろとか言うのか? 俺はそんな事はしていないぞ。二人とも大事に扱っている。子供の男女が偏ったのは俺の所為じゃない。それは文句を言われても困る。
「御屋形様」
小夜が問い掛けてきた。
「御屋形様は天下を御望みですか?」
「その事か、……何故そう思う?」
「色々と聞こえてきます。雪乃殿とも話しました。それで……」
小夜と雪乃がこちらを窺うように見ている。俺の事如何思っているんだろう、謀反人? 身の程知らず? ちょっと不安だ。
「朽木は足利の忠臣だと言われている」
「御屋形様は足利を信じてはおられますまい。雪乃には分かります」
自信満々に言わないでくれよ。
「確かに信じてはおらぬ。だが天下を望むのとは関係あるまい」
「御屋形様、正直にお答えください。御屋形様は以前喰う事を躊躇ってはならぬと仰せられました。天下を喰らうのですか? その時が来たとお考えなのですか?」
小夜と雪乃がじっと俺を見ている。嘘は吐けんな。
「分からん。天下等という物が喰えるものなのか、俺には分からん。だが今のままでは朽木は頭打ちだ。だから摂津を獲った、更に西へ進む」
「西へ? では毛利と?」
「違う、毛利では無い。足利だ、雪乃」
小夜が“足利”と呟いた。二人が訝しげな表情をしている。
「朽木が大きくなろうとすれば足利は必ずそれを阻止しようとする。これからは足利との戦いになる。足利に勝てれば天下を獲れるのかもしれん」
「……」
「だが手強いぞ、足利は三好長慶も潰せなかった相手だ。俺に潰せるのかどうか」
「ですが将軍家は……」
雪乃が訝しげな声を出した。
「足利の武器は兵力では無い、権威だ。足利との戦いはその権威をどうやって潰すかという戦いだ。周囲の諸大名が足利では駄目なのだ、これからは朽木なのだと思った時、朽木は足利を凌駕した事になる」
三好は義輝を殺した。だがその後平島公方家から義栄、義助を担ぎ出した。要するに連中は足利の権威を否定したわけでは無かった。足利の権威の下で、権威を利用して勢力を伸ばそうとしただけだ。
だから嫌われた。細川の下で細川を食い潰し足利の下で足利を圧迫した。周囲からは宿主を食い殺す寄生虫にしか見えなかっただろう。好かれる筈がない。史実の信長も足利の権威を利用して天下を獲った。義昭を担いで上洛し覇を唱えた。担いだ以上簡単に捨てる事は出来ない。だから信長は義昭の追放までかなり苦労している。権威という物はそれほどに厄介だ。
「足利の権威を利用して大きくなるのではなく朽木の権威を作り出しながら大きくなる。そして周囲にそれを認めさせる。それがこれからの戦の仕方になるだろう」
小夜、雪乃、二人が曖昧に頷いている。分からんのだろうな。無理もない、俺だってどういう戦いになるのか良く分からんのだ。だがこれまで以上に厄介な事になるのは分かっている。この天下は足利の作った天下だ。争っている諸大名は足利の権威を認めた上で争っている。言わば茶碗の中での嵐にしか過ぎない。足利の天下という器そのものを壊す嵐ではないのだ。俺はその器そのものを壊す戦いをしなければならない……。