反攻
永禄十五年(1572年) 三月中旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 朽木基綱
「御屋形様」
隣りの部屋から襖越しに躊躇いがちな声が聞こえた。俺を呼んでいる。今宵の宿直は秋葉九兵衛と千住嘉兵衛だったな、この声は九兵衛か。
「どうかしたか、九兵衛」
隣りで雪乃がもぞもぞと動いた。起こしてしまうな。
「黒野様が至急の要件にて御目通りを願っております」
重蔵が来たか。昔は直接入って来たんだがな。今は小夜と雪乃が居るからそうもいかん。不便になった。
用心のため布団の下に入れていた太刀を持って部屋を出た。九兵衛、嘉兵衛と重蔵がそこに控えて居た。冷えるな。
「如何した、重蔵」
「三好が」
「動いたか」
「はっ」
重蔵が大きく頷いた。九兵衛、嘉兵衛はある程度予想していたのだろう、それほど大きな驚きを見せていない。
「既に三好勢は一万二千程の兵で摂津に上陸、摂津では豊島郡池田城の池田筑後守勝正が三好に通じた池田久左衛門知正によって弑されました。池田久左衛門は三好勢に合流、川辺郡伊丹城の伊丹次郎親興も三好勢に加わっております。三好勢は味方を増やしつつ行軍、今頃は山城に入り室町第へと向かっておりましょう」
九兵衛、嘉兵衛の二人は流石に驚きを見せている。三好の動きの速さ、摂津の予想外の脆さに驚いたのだろう。
「和田は如何した?」
「抵抗致しましたが……」
重蔵が首を横に振った。
「敗れたか」
「はっ、衆寡敵せず、生死は不明にございます」
「已むを得ぬ事よ」
和田は摂津守護とはいえ摂津では根無し草も同然だ。とても三好の大軍の前に抵抗は出来まい。まして池田、伊丹が三好に付いた。他にも三好に付く国人衆は出るだろう。兵達も孤立すれば危険だと認識する、殆ど戦にならずに敗れただろうな。重蔵に視線を向けた、重蔵が頷く。例え和田が生き延びても八門が命を絶つべく動く。摂津守護の和田は邪魔なのだ。何の役にも立たずに死んだ、そうする事で摂津は朽木が支配するという流れを作る。
「坂本の新次郎には報せたか?」
「はっ」
坂本には三千の兵を預けてある。新次郎には義昭が死んでも構わん、無理はするなと言っておいた。新次郎は俺が何を考えたかは或る程度察したようだ。呆れた様な表情をしていたが俺を咎める事はしなかった。新次郎から見ても義昭は朽木にとって障害でしかないらしい。敢えて京へはゆっくり進むかもしれない。
「九兵衛、今何刻か?」
九兵衛がまごついていると見かねた重蔵が“されば間もなく卯の刻かと”と教えてくれた。九兵衛は面目無さげだが宿直である以上、時刻を認識しているのは当然の事だ。千四郎も俯いている。二人に以後は気を付けるようにと注意した。もう直ぐ夜明け、午前六時頃か。冷えるし未だ暗いし行きたくないな。
「出陣する。九兵衛、皆に報せよ」
「はっ」
九兵衛が下がると部屋を出て行った。直ぐに陣太鼓と法螺貝が鳴り響くだろう。そうなれば忽ち大騒ぎになる。半刻で出陣の準備を整えるのが朽木家の決まりだ。今回は国人衆は使えない、朽木の直轄軍だけで動く事になる。清水山に一万の兵を置いて残り三万で京へ向かう事になる。
「千四郎」
「はっ」
「殿下に出陣だとお伝えせよ。直ちに御準備されたしとな」
「はっ」
千四郎が部屋を下がった。夜明けに出陣だ。近衞前久、驚くかな。いや関東でも戦には加わったというからそうでもないか。それに出陣する頃は陽が出ているな。
「重蔵」
「はっ」
「堺、本願寺から目を離すな」
「はっ」
重蔵の調べでは堺は三好に武器の調達でかなり協力している。まあ商人だから仕方が無い。しかし咎める口実にはなる。堺には代官を置く許しを得たが未だ置いていない。今回の乱で堺を咎め自治を廃し代官を置く事になるだろう。本願寺は畿内では動きを見せていない。中国地方では積極的に動いている。どうやら中国筋の大名と同盟を結んで朽木に対抗しようと考えているらしい。狙いは当然だが西国の雄、毛利だ。
寝所に戻ると雪乃が起きていた。不安そうな表情で俺を見ている。
「三好が京に攻め込んできた」
「まあ」
「出陣する、小夜を起こしてくれるか」
「はい」
雪乃が身支度を整え小夜の元に向かった。俺も自室に向かい着替えを始めると陣太鼓と法螺貝が鳴り響いた。まるでお祭りだな。
城内が慌ただしくなった。廊下を走る足音と緊迫した様な声が交錯する。城主の部屋にまで聞こえるのだ。城内は交通整理が必要な状況だろう。着替えをしていると小姓達がやってきて南蛮鎧を身に着けるのを手伝ってくれた。身支度が終わる頃に小夜と雪乃、そして綾ママが現れた。三人ともに盆を持っている。綾ママの盆には茶碗と箸、小夜の盆には飯櫃と漬物の入った皿、雪乃の盆には布の上に薬缶が有った。
綾ママが手際良く湯漬けを作っていく。飯を茶碗に盛り湯をかけ漬物を乗せた。盆に載せたまま俺に差し出す。立ったまま受け取り食べた。信長を真似たわけじゃない、恰好を付けたわけでもない。鎧を着けているからこの方が楽なのだ。おそらくは皆が同じ事をしているだろう。
「母上、三月も半ばとはいえ未だ冷えまする。御用心を」
「はい、そなたも気を付けるのですよ」
「有難うございます。小夜、雪乃、そなた達も気を付けよ。子等を頼むぞ」
「はい」
いかん、忘れた。
「母上、辰と篠の事も頼みます。それと此度は殿下にも同道して頂きますれば明丸殿の事も頼みまする」
「大丈夫ですよ」
何時ごろ帰るのかと小夜に問われたから田植え前には帰れると思うと答えた。ま、その頃には終わるだろう。
湯漬を二杯食べてから部屋を出て大広間に向かう。皆が大広間に揃うまで更に小半刻ほどかかった。義昭、俺が行くまで生きているかな? 三好は摂津で兵を増やすだろうから二万程まで膨れ上がるかもしれない。一応室町第にはそこそこの土塁や堀、塀が有るけど何処まで役に立つか……。本当に死ぬかもしれん。葬式とか面倒そうだな。誰が喪主になるんだろう……。
永禄十五年(1572年) 三月中旬 山城国葛野・愛宕郡 室町第 細川藤孝
「際限が無いぞ! 兵部大輔! このままでは防ぎきれん!」
「諦めてはなりませんぞ! 兄上! 必ず味方が来ます!」
ワーワーと兵達の声が響く中、矢が周囲に突き刺さる中、怒鳴り合う様に兄と言葉を交わした。
「分かっている! 未だ河内、和泉から援軍は来ないのか!」
「今少し! 今少しの辛抱です!」
兄が弱音を吐くのを責められぬ。室町第は二万に近い大軍に攻め寄せられているのだ。味方は一千、この広い室町第を守るには少なすぎる。我ら兄弟が守る東の烏丸小路にも三好勢が押し寄せていた。二千は居よう、それを三百に足らぬ兵力で防いでいる。四国に追い払った三好にそれほどの力が残っていたとは……。
いや、兵力だけではない。手際も良かった。夜が明けるとともに一万五千の兵が押し寄せてきた。事前に摂津守護の和田殿より報せが有ったから対応出来たがそうでなければ室町第は何の抵抗も出来ずに落されていただろう。既に戦いは夜明けから二刻を超えた。報せを寄越した和田殿は未だ来ない。おそらくは敗れたのだろうが何とか兵を纏めて此処へ来られないものか。和泉の内藤備前守、河内の三好孫六郎、大和の松永弾正忠、未だ誰も来ない。今は一兵でも味方が欲しい。
「三淵殿、細川殿!」
上野中務少輔清信殿が鎧をガチャガチャと音を立てながら近付いて来た。顔が強張っている
「如何された上野殿」
「南の北小路からの敵が勢いを増している! このままでは防ぎきれぬ! 兵を幾らかこちらへ回せぬか!」
思わず兄と顔を見合わせた。兄が顔を顰めている。無理だ、この東も敵が堀を乗り越え塀を超えようとしている。私も兄も自ら矢を放って何とかそれを防いでいるのだ!
「上野殿、見ての通り我らも手一杯にござる。北と西を当たって下され」
上野殿が顔を曇らせたが“分かった”と答えるとまたガチャガチャと音を立てながら去って行った。北と西もこちらと状況は変わるまい。上野殿もそれは分かっている筈。もうこれ以上は無理かもしれぬ。兄も絶望的な表情をしている。
「朽木が摂津に居れば……」
兄が呻いた。摂津は朽木に任せるべきだったかもしれぬ。我らの間でもそういう意見は出た。だがこれ以上朽木の勢力を大きくしたくないという義昭様の御意向に反対は出来なかった。朽木が摂津を押さえれば朽木は東西から京を挟む形になるのだ。三好があっさりと四国に追い払われた事で慢心が有ったかもしれぬ。
歓声が上がった。どういう事だ、味方が歓声を上げている。武者がこちらに駆け寄ってきた。
「殿、敵が退いておりますぞ!」
「真か、新助!」
問い掛けると松井新助が大きく頷いた。
「朽木勢が来ております!」
「間違いないか!」
「間違い有りませぬ! 隅立四つ目結の旗が見えまする!」
兄が大きく頷いた。もう来たのか、早い!
三好軍が後退し兵を整える間に朽木軍が室町第に入った。二千程だが兵達の士気が上がった。朽木軍の本隊では無いようだ、おそらくは先発隊であろう。指揮官は六十を過ぎた老将だった。見覚えが有る、確か宮川……。
「宮川新次郎にござる。主、大膳大夫の命により罷り越し申した」
「忝い、地獄で仏に会った思いでござる」
そう、新次郎であった。朽木の譜代重臣の筈。
早速に義昭様の前に連れて行った。皆も集まった。
「宮川と申すか、よう来てくれた。だが兵二千ではいささか心許無いの」
先程まで三好の大軍に囲まれて震えていたのだが安心したせいだろう、義昭様が不満を露わにした。或いは朽木に助けられたというのが面白くないのかもしれぬ。微かに宮川新次郎が眉を上げた。
「申し訳ありませぬ。主より三千を預かり率いましたが一千は三好勢の背後で朽木の旗を掲げさせました故、ここへは連れて来れませなんだ。その一千が有れば今少し御安心頂けましたものを」
「おお、それで三好勢が退いたか。流石、物に慣れた古強者。義昭様、頼もしい限りにございます」
私の言葉に周囲が同調し義昭様がきまり悪げに“うむ”と頷かれた。
「して、大膳大夫様は何時此処へ」
「某は坂本城にて報せを受け直ちに兵を動かしました。使者は坂本から船で清水山に向かいました故……」
宮川新次郎が首を傾げた。
「坂本か、ならば後二刻から三刻程で大膳大夫様の本隊が来よう」
「うむ、他にも味方が来る筈だ」
「兵の士気も上がっておる。大丈夫、防ぎきれる!」
「無論の事。それに三好には焦りが有ろう」
「油断はするな、三好も本気だ。甘く見てはならん!」
「今の内に兵に何か食させよう、我らもな」
皆が笑い声を上げた。もう少しで味方が来る。後少しだ……。
永禄十五年(1572年) 四月上旬 和泉国大鳥郡堺町 朽木基綱
「思ったよりも堀が深そうだな」
「確かに」
「攻め落とすのは容易ではあるまい」
「大筒を使えば良かろう。堺の町中に打ち込めば忽ち音を上げよう」
朽木の武将達、蒲生下野守、明智十兵衛、宮川新次郎、田沢又兵衛、それに叔父御達が堺の町を見ながら話している。俺を含めてだが野次馬が見物しているような感じだ。でかいわ、これが東洋のベニス、堺か。
堺、この町の名前の由来は摂津国、河内国、和泉国の三ヵ国の境で有った事が理由らしい。町と言っても西は海に面し南北東の三方は堀に囲まれた要塞のような町だ。堀はこの堺を流れる内川、土居川を利用して造った水堀だから大筒でもなければ攻略するのは容易ではないだろう。堺が自治を維持し繁栄出来たのはこれだけの備えが有ったからだ。無防備では踏み躙られ収奪の対象になったと思う。そして今、俺が三万二千の兵を率いて堺を囲んでいる。攻撃する気は無い、何とか交渉で堺を下したいと考えている。
義昭は死ななかった。新次郎の奴が後半刻遅く行けば死んでいたのに……。新次郎の到着後、三好孫六郎、いや違った、三好左京大夫義継になったんだったな。左京大夫、内藤備前、松永弾正忠が室町第に駆け付けた。もっとも兵力はそれほど多くない、三人合わせても四千程だ。だがそれでも三好の攻勢を跳ね除けるには十分だった。新次郎の存在が大きかったな。俺が室町第に着いたのは正午を過ぎていたが俺の到着を知ると三好は躊躇いなく退いた。無理をしない、次の機会を待つ。戦慣れしているよ、手強い。
三淵、細川には礼を言われたが少しも喜べん。でも新次郎を責める事は出来ん。新次郎は義昭を三好に殺されては朽木の武名が廃るって言うんだからな。この時代、武名が廃るは絶対避けねばならん事だ。それにしても一千の兵に旗を持たせて偽兵の計って何でそんな事を考えつくんだ? 落ち込むわ。“良くやってくれた、流石は新次郎だ、頼もしいぞ”と大声で褒めて肩の辺りをバシバシ叩いてやった。皆俺が大喜びだと思っただろう。
義昭なんて面倒なだけだ、生きていれば凄く面倒で死んでもちょっと面倒。三好に殺させるのが駄目なら病死とかしてくれないかな。八門、伊賀に暗殺させるか? 和田を始末したばかりだ、余り気が進まんな。それに朽木が犯人だと露見する事を考えるとリスクが大き過ぎる。ホント、面倒な奴。
三好左京大夫、内藤備前、松永弾正忠には義昭の御守りを頼んで俺は摂津にと向かった。近衛前久には三千の兵を与えて京都御所の守りを頼んだ。此処がミソだよ。帝を守るのは朽木と近衛であって足利と二条では無い。そこをアピールするのだ。近衛前久にはその辺りの事は説明済みだ。前久も理解している。朝廷で権力を維持するために朽木と組むと。少しずつ義昭から権力を奪うのだ。
三好への追撃は殆ど無かったに等しかった。窮鼠猫を噛むなんてのは御免だ。三好は阿波に撤退させる。俺の狙いは摂津の制圧だ。ゆっくりと一つずつ三好方に付いた国人衆の城を落として行った。池田城の池田久左衛門知正は城を捨てて逃げた。当然だな、城主の池田筑後守勝正を殺しているのだ。池田の主だった者は殆どが久左衛門に従って阿波へ逃げた。その中には荒木十二郎村重なんて名前も有る。
伊丹城の伊丹次郎親興も阿波に逃げた。高槻城の入江左近将監春景は籠城したが抗し切れないと見たのだろう、腹を切って死んだ。妻と子も死んだからこの一戦で入江氏は滅んだ事になる。弱小勢力が戦国を生きるのは厳しいわ。他にも安威城の安威五左衛門、山辺城の大町豊後守、能勢城の能勢十郎兵衛が籠城して死んだ。能勢は能勢郡に一族が広がっていたのだが殆どが三好について能勢十郎兵衛と行動を共にした。皆死ぬか逃げた。
兵を出さずに様子見をした国人衆は改めて朽木に服属する事を確認した。藍岡山城の藍出雲守房清、三田城の有馬九郎三郎則頼、茨木城の茨木佐渡守重朝、高山城の高山飛騨守友照、道場城の松原左近大夫貞利等だ。今は兵を率いて俺の軍に加わり堺の町を包囲している。お、真田源五郎昌幸が小走りに近付いて来た。動きが有ったか。
源五郎が片膝を着いた。
「御屋形様」
「如何した」
「はっ、今井宗久、津田宗及が御屋形様への拝謁を願い出ておりまする」
周囲からざわめきが起きた。
「会おう。両人をこれへ」
「はっ」
さて、自治の放棄に素直に従ってくれれば良いんだが……。