将軍宣下
永禄十三年(1570年) 十一月下旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 朽木基綱
「叔母上、先程は失礼しました。改めて御挨拶致します。朽木大膳大夫基綱でございます」
「目々典侍です。何時も大膳大夫殿には御配慮頂き感謝しております。私の事は千津と呼んで下さい」
千津? 本当の名前か、初めて聞いたな。綾ママと千津叔母ちゃんか、現代でも通じそうな名前だ。
「では某の事は弥五郎とお呼び下さい」
千津叔母ちゃんが目を瞠った。あらら、可愛い。
「良いのですか?」
「構いませぬ。最近では母上まで某を大膳大夫と呼びます。肩が凝る」
「まあ」
綾ママと千津叔母ちゃんが声を揃えて笑った。似てるな、二人とも。顔貌だけじゃなく声も似ている。綾ママも美人だけど千津叔母ちゃんも美人だ。なんで俺は父親似なんだろう。ちょっと凹むな。
「それは済まぬ事をしました。でもそなたは既に大身の身、軽々しく弥五郎とは呼べなかったのです」
「母上、親子ですぞ。水臭い」
綾ママが以後は気を付けましょうと言った。三人で笑う、少しは距離が縮まるかな。
「驚きました、噂とは違うのですね。弥五郎殿はもっと怖いのかと思っていました」
「叔母上、噂というものは当てになりませぬ」
「でも先程は少し怖いと思いました。勾当内侍も怯えておりましたよ」
綾ママが俺を睨んだ。俺、何もしていないんだけど……。悪い噂って直ぐ広まるな。
「ところで先程の件、宜しいのですか? 妹から聞きましたが後々厄介な事になるのでは有りませぬか?」
綾ママの言葉に千津叔母ちゃんが頷いた。
「三好は義助様の命と称して各地の大名に朽木を倒せと呼びかけましょう。義助様もそれを望まれる筈」
美人二人に心配される、悪い気はしないな。だが言っている事は間違っていない。義助も隣国に六万以上の動員力を持つ敵対勢力を放置は出来ないだろう。だが簡単に敵に回す事も出来ない筈だ。余程の準備が要る。
「そうかもしれませぬ。しかしどれだけの大名がそれに与するか。先ず織田と上杉は与しますまい、それぞれに敵がおります。それに三好は本願寺と手を組みました。織田も上杉も本願寺とは相容れませぬ。となれば朽木が直接相手にするのは山城、若狭の国境となります。面倒では有りますが遣り様は有る」
戦線が複数にならないなら問題は無い。特に山城での戦争なら何時でも物流を止めて経済封鎖だ。敵が大軍で有れば有るほど補給に負担がかかる筈、油断は出来ないが恐れる事は無い。
「伊勢は如何します? 長島は? 苦労しているのでは有りませぬか?」
綾ママが不安そうな顔をしている。なんだか皆で伊勢を心配しているな。
「三河の一向一揆が鎮圧されました。織田はこちらの要請を受け長島との国境を固め人の出入り、物の出入りを止めております。長島は孤立無援、直に干上がるでしょう。年が明けたら軍を発し制圧するつもりです」
二人が顔を見合わせた。大丈夫かしら、大丈夫みたい、大丈夫だよね、そんな感じだな。姉妹による大丈夫三段活用か。
三河の一向一揆が鎮圧された。朽木が伊勢の自治都市を制圧し長島を封鎖した事で三河の一向一揆は完全に孤立した。志摩の海賊衆が朽木に服した事で石山、雑賀からも援助が出来なくなった。たちまち三河の一向一揆は弱体化した。信長、家康からは感謝の文が届いた程だ。織田、徳川連合は弱体化した一向一揆を文字通り殲滅した。三河一向一揆の拠点である本宗寺、本證寺、上宮寺、勝鬘寺は破却された。他の本願寺系の寺も残らず破却された。一揆に与した者は全て殺された。百姓だけじゃない、三河武士もだ。
信長ではない、家康がそれを命じたらしい。重蔵の調べでは家康の怒りは相当な物だったようだ。だがそれ以上に家康に付いた三河武士達の怒りが大きかった。今川から独立しこれからという時に坊主共に唆されて今川に与した。そして徳川は御家騒動の末に織田の属国になった。許せるものではなかったのだろう。本多正信、正重兄弟、渡辺守綱、蜂屋貞次、酒井忠尚、夏目吉信、内藤清長、加藤教明、全て殺された。家族は追放されたようだが生きていくのは大変だろう。
「弥五郎殿、一つ考えている事が有るのですが?」
「何でしょう、千津叔母上」
千津叔母ちゃん、思い詰めた表情だ、ドキドキする。こんな風に見詰められたら帝もメロメロだよな。
「帝の一の皇子、誠仁様の親王宣下を朽木家の力で御願い出来ませぬか。これまで費用が捻出出来ずに延び延びになっていたのです。それが朽木の力で出来れば義助様への将軍宣下は止められると思うのです」
「なるほど」
流石、宮中で生き抜くだけの事は有る。美人で可愛いだけじゃないんだ、千津叔母ちゃん。しかしこれ以上将軍宣下を延ばすのは無理じゃないかな。
「では永仁様もその時に?」
「いや、それは駄目です、母上。それでは誠仁様はついでに親王宣下をさせたと周囲に見られかねませぬ。ここは朽木と飛鳥井は帝への御奉公を専一に考えていると印象付けねば……。永仁様は一、二年後に親王宣下を行った方が良いでしょう」
朽木と飛鳥井は自家の勢力伸長のみを考えている、そう思わせてはならん。千津叔母ちゃんが頷いた。
「私もそう思います、ですが父は……」
父? 飛鳥井の爺様?
「まさかとは思いますが……」
「ええ、朽木家が三好家を駆逐し京を占領すれば誠仁様を差し置いて……」
「なりませぬぞ! 叔母上! それ以上申されてはなりませぬ」
綾ママと千津叔母ちゃんが吃驚している。敢えて二人を睨み付けた。これを許してはならない。
「そのような事をすれば飛鳥井家は武家の力を利用して皇統の流れを捻じ曲げた、そう非難されかねませぬ! それがどれ程危険か、飛鳥井家は宮中から排斥されかねませんぞ!」
「……」
二人とも怯えている。俺の剣幕に怯えたのか、それとも内容に怯えたのか……。いや、この二人を怒鳴っても仕方ない。如何する? 爺様がとんでもない事を考えた。准大臣になったのが拙かったのかもしれん。飛鳥井なんて公家の中では権力とは縁の無い二流貴族だ。権力の怖さが分かっていない。多分朽木の力に舞い上がったんだろう。頭が痛いわ、俺の周囲には余計な事を考える奴ばかりいる。
「千津叔母上、書状を帝に届けて頂けますか?」
「帝にですか」
「はい」
千津叔母ちゃんが少し考えるそぶりを見せた。
「どのような内容です」
「一つ目は御礼です、これまでの朽木家への御配慮に心から御礼を申し上げます。二つ目は足利義助様に将軍宣下を行う事に異議の無い事を伝え三つ目は将軍宣下後に誠仁様の親王宣下と立太子礼を、それに要する費用は朽木家が受け持つと書きます」
綾ママと千津叔母ちゃんが息を呑んだ。だがここまでやらんと飛鳥井の爺の目が覚めんだろう。
「叔母上、折角の御提案ですが義助様の将軍宣下は認めましょう。これ以上引き延ばせば三好家は帝が将軍宣下を渋るのは朽木家に遠慮しているからだと苛立つ筈。いや義助様が苛立つ筈です。そうなった時彼らが狙うのは飛鳥井家、永仁様になりかねませぬ。危険です」
綾ママと千津叔母ちゃんが頷いた。千津叔母ちゃんは蒼褪めている。連中は義輝さえ殺した。飛鳥井など簡単に捻り潰すだろう。
義昭は文句を言うだろうが義助の将軍宣下は認めざるを得ない。飛鳥井は朽木の対朝廷工作の大事な手駒だ。
「将軍宣下後、朽木家が誠仁様の親王宣下と立太子礼の費用を用立てます。そうであれば朽木家の朝廷への献身は誰もが疑わぬ筈。帝も御心を悩ませずに済みましょう」
千津叔母ちゃんがウンウンと頷いている。
「永仁様ですが一、二年後に親王宣下を行います。その後は新たに宮家を創設していただきましょう。所領は朽木家が用意します。如何ですか、叔母上」
「異存有りませぬ。宜しくお願いします。ですが宜しいのですか? 立太子礼など百年以上も行われていませぬが」
「だから良いのです。手を抜く事無く誠仁様の皇太子冊立を行う。それで朽木と飛鳥井の至誠は伝わる筈」
千津叔母ちゃんが頷いた。ホッとした。千津叔母ちゃんが権力欲の強い女性じゃなくて良かった。永仁の件は書状には書かない。だが帝は必ず永仁の事は如何するのかと千津叔母ちゃんに確認する筈だ。その時千津叔母ちゃんから口頭で伝えて貰えれば良い。帝もホッとするだろう。そして朽木への、飛鳥井への好感度もアップする筈だ。
それにしても飛鳥井の爺、永仁を帝に? 気が狂ったとしか思えんな。今後は要注意だ、千津叔母ちゃんと連絡を密にしよう。公家は武家を一段低く見ている。それを分かっていないのか? 元々武家は公家に仕えていたからだが他にも理由が有ると俺は思う。それは嫌悪だ。公家は人を殺す事を避けるが武家は躊躇わずに殺す。そういう武家の粗暴さ、血腥さを嫌っていると思う。公家は武家がその力を朝廷を守るために使うのなら忌諱はしない。だがその力を朝廷への圧力に使う事は許さない。必ず報復する。
足利義満暗殺説、本能寺の変朝廷黒幕説、皇女和宮の替え玉説が何処まで本当かは知らん。だが歴史にはこれは明らかにやったなと思うものが有る。後水尾天皇と中宮和子の間に生まれた二人の皇子がそれだ。こいつは小説にも出て来る話だ。俺もそれを読んでなるほどと唸った覚えが有る。
中宮和子は徳川秀忠の娘だ。天皇家に徳川の血を入れて外戚となって朝廷を支配する、そんなところを当時の徳川は考えたのだろう。和子の入内はかなり強引に行われた。そして子供が生まれる。皇子が二人、皇女が四人か五人。二人の皇子は母親が中宮なのだから次期天皇の最有力候補だ。徳川は喜んだだろう。だがこの二人、幼少期に相次いで死ぬ。
偶然かね? 俺はそうは思わん。何故ならこの二人の皇子が死ぬ直前に紫衣事件が起きている。幕府と朝廷の関係が最悪と言って良い状況になった時だ。徳川の血など天皇家に入れるな、そう考えた人間が居ても不思議じゃない。それが後水尾天皇だとしても俺は驚かない。幕府も気付いたんだろう、この後徳川から天皇家に娘が嫁ぐ事は無かった。朝廷とはそういうところだ、そんなところで朽木の力を利用して永仁を帝に? 馬鹿げている! 触らぬ神に祟り無しって知らないのか、神様なんて御供えを上げて遠くから拝むのが一番だ。
「弥五郎殿、もう一つそなたに伝えねばならぬ事が有ります」
「何でしょう、叔母上」
多分碌でもない事だろう、千津叔母ちゃんが緊張しているからな。
「兄達がそなたに飛鳥井家の娘を娶って欲しいと考えています。朽木と飛鳥井の結び付きを強めたいと」
「はあ?」
思わず間抜けな声が出た。
「千津、それは側室にという事ですか?」
「いえ、そうではありませぬ。弥五郎殿程の身代なら妻は二人居てもおかしくは無いと」
「その飛鳥井家の娘とは養女に迎えた尭慧兄上の娘ですか?」
「そうです、歳は十五、名は菊といいます」
綾ママと千津叔母ちゃんの話を聞いていて頭が痛くなった。正妻二人? 御家騒動の元だろうが! 一体何を考えている。飛鳥井の男共ってのは馬鹿しかいないのか? おまけに南無阿弥陀仏の娘?
断固拒否の一手だが角が立つな。永仁の件も有る、対応を間違うと朽木と飛鳥井はぎくしゃくする。それは上手くない、何か良い手を考えないと……。如何すれば避けられるかな? ……その娘を俺じゃなくて他の男に押し付ければ良いか。俺より上の男、飛鳥井にとって俺より利用価値が有りそうに見える男、居るかな? 頭が痛いわ。
永禄十四年(1571年) 一月中旬 山城国葛野・愛宕郡 室町第 三好長逸
「先ずは目出たい」
「真、良い年を迎えられ申した」
彼方此方で声が上がった。新年の祝いの宴、三好家の人間を中心に三十人ほどが室町第に集まっている。新たに建てた室町第も新築の香りが徐々に薄れてきた。この匂いが有る間は如何にも落ち着かんな。
「酒が美味い。杯が良いのだな、目で杯の絵を楽しみながら飲める」
「昔は濁っていたからの、随分と雅になったものよ」
皆が頷いた。
すっと上段の席の貴人が立ち上がった。足利義助様、昨年暮れに将軍宣下を受け第十四代の公方様になられた。
「予は少し疲れたので奥で休む事にする。皆は十分に楽しむが良い」
義助様が歩き出す、部屋を去るのを頭を下げて見送った。やれやれだな。
「はて、御疲れとの事だが……」
皆が訝しげな表情をしている。先程まで義助様は上機嫌で酒を飲んでおられた。訝しむのは当然だろう。
「面白くないのであろうな」
皆が儂の顔を見た。
「面白くない? 日向守殿、それは一体如何いう事かな?」
「この酒よ、澄み酒だからな。朽木を思ったのであろう」
儂が答えると皆が困った様な顔をした。
「そうは言っても……、祝い事に澄み酒は付き物であろう」
「その通り、今更濁り酒は飲めぬわ。ま、御気持ちは分かるが……」
彼方此方で頷く姿が有った。
御気持ちは儂にも分かる。将軍宣下を受け第十四代の将軍となられても単純には喜べぬ現状が有る。将軍宣下が決まる直前、朝廷は朽木に使者を出している。使者が目々典侍、勾当内侍であった事を考慮すれば帝の御意思による使者であろう。使者が戻るとそれまで難航していた義助様への将軍宣下が一転して決まった。義昭様を推す朽木に対して義助様への将軍宣下の了承を求めたという事であろう。つまり帝は朽木よりも義助様を推す三好の力の方が上だと認めた。朽木は面目を失った、そう思った。
皆が喜び将軍宣下への準備を進めた。将軍宣下後は味方を募り大和を攻めその後近江を攻めるのだろうと。だが朝廷から不思議な発表が有った。将軍宣下後に吉日を選んで帝の一の皇子、誠仁様の親王宣下と立太子礼を行うと。行うと言っても費用は如何するのか? これまで銭が無いから出来なかったものをどうやって……。訝しんでいると費用は朽木が出すと分かった。一瞬耳を疑った。朽木は血縁関係が有る永仁様の即位を望んでいるのではないのかと。何故誠仁様の親王宣下と立太子礼を援助するのかと。それに面目を潰された筈、何故?
慌てて家臣を走らせて真相を探った。そして分かった。帝は朽木に将軍宣下の諒承を求めた。朽木はそれを受け入れ帝に対して隔意無き証として誠仁様の親王宣下と立太子礼を申し出た。永仁様は一、二年後に親王宣下を行い新たに宮家を創設する。その費用は全て朽木が請け負う。朽木からの申し出を聞いた帝はただ涙を流すだけだったという。
「勝ったと思ったのだがな」
「簡単には退かぬわ。宮中は朽木を讃える声一色よ」
「手強いの、日向守殿の御気持ちが良く分かる」
皆の視線が儂に集まった。
「少々手強過ぎじゃの、困った事だ」
皆が笑い出した。大分酔っているようだ、皆の笑い声が大きい。
「朽木は朝家の忠臣、北畠大将軍の再来か」
北畠顕家の再来という言葉にも棘が有る。足利にとって北畠は楠木、新田と共にもっとも手強く戦った敵、その北畠に擬えるとは……。明らかに朝廷は義助様、そして我らに好意的ではない。義助様への将軍宣下を帝にごり押しした、そう見ている。いや、それ以上に朽木の諒承無しには将軍宣下は無かった。朽木は帝の苦境を見兼ねて諒承した、そう見ている。
「当分戦は出来ぬの」
「うむ、親王宣下と立太子礼は二月に行われる。その時期に戦などすれば益々朝廷との関係が悪化しよう」
「飛鳥井の娘が宮中に出仕したそうだが?」
「誠仁様の立太子後には東宮付きの典侍となるそうだ。今は叔母の目々典侍の下で典侍の仕事を学んでいる」
飛鳥井の娘が誠仁様の傍に付く。要するに朽木は誠仁様を支えて行くという事だ。気が付けば帝の御一家は全て朽木に押さえられている。上手くしてやられたという想いしか出てこない。義助様が不愉快に思うのもその所為であろう。
「飛鳥井の娘だが真宗高田派の尭慧の娘だとか。本願寺の顕如も気が気では有るまい」
「長島の件も有る、この正月は楽しめまいな。酒が美味いわ」
笑い声が上がった。本願寺とは協力体制に有る、だが心許せる相手ではないと皆が分かっている。皆が本願寺の苦境を何処かで喜んでいる。
「楽しんでおらぬのは大和の義昭様も同様であろう」
「朽木に裏切られたと騒いでいるのではないか?」
「まあそうだろうな、だがそうは言っても頼れるのは朽木しかあるまい」
また皆が笑った。
「今頃は自棄酒でも飲んでいるかもしれんの。それに比べれば我らはこうして美味い酒が飲める。良い正月ではないか」
彼方此方から同意する声が上がり座が盛り上がった。