京からの使者
永禄十三年(1570年) 十一月上旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 朽木基綱
「では伯父御が半兵衛に報せたと?」
「いや、正確には儂ではござらぬ。梅戸左衛門大夫殿が半兵衛に報せたのでござる」
どういう事だ? 訝る俺を見ながら鯰江の伯父、備前守為定が低い笑い声を上げた。ブルちゃんは一族でも年嵩だからな、重厚さを出そうとしているのだろう。まあ構わん、伯父御が重々しく構えるのも二人だけの時だけだ。俺も面白がって伯父御と話をする時は自室に呼んで人払いをしている。伯父御ももしかすると分かっていて楽しんでいるのかもしれない。
「左衛門大夫殿から若狭はどんな処かと文が来ましてな、例の別に家を立てる場所を探していたのでござろう」
なるほど、二万石の件か。あれは未だ決まっていなかったな。
「伯父御は左衛門大夫と親しいのか?」
伯父御が“まあ”と言って頷いた。
「伊勢で一緒に戦った事も有りますればそれなりに付き合いは有り申す」
妙な所で繋がっているな。いや、伯父御も六角の傘下に居たのだからおかしくは無いんだが俺の知らない繋がりが有る、妙な感じだ。不安ではないんだが妙な感じがする。不安なのかな?
「若狭は良い所だが波多野、一色の動きに少々不安が有る、そう答えたのでござる。それを左衛門大夫殿が危ぶみ半兵衛に報せた。そして半兵衛が儂に問い合わせて来たのでござる」
半兵衛と左衛門大夫は伊勢攻略から能登攻略で共に伊勢で北畠に備えた。その時に親しくなったのだろう、それで報せたか。左衛門大夫、俺を心配してくれたのかな? 或いは心配したのは伯父御の事か。
「何故俺に報せてくれぬ?」
伯父御が困った様に頭を掻いた。俺に報せてくれればモヤモヤしないで済んだのに……。
「若狭から見ても殿が伊勢の件で御苦労されているのが分かり申す。波多野、一色の動きに少々不安が有ると言っても儂の勘の様なもの、なかなか……」
「……」
伯父御が今度は首を横に振った。
「孫の左近からも文が届いておりますぞ。口にはされませぬが大分御苦労されていると」
思わず苦笑が出た。
「やれやれだ。小姓や近習に心を読まれるとは、俺も底が浅いな。落ち込むわ」
「そうではございませぬ。家臣というのは主君の心を読むものでござる、そうでなければ仕える事、出来ませぬ」
「なるほど、そういうものか」
「そういうものでござる」
伯父御が重々しく頷いた。多少は心が軽くなったような気がする。
「分かった。だが今後は遠慮はしてくれるなよ、伯父御」
「はっ、そのように致しましょう」
伯父御が頭を下げた。この問題はこれで終わりにしよう。
「それで如何かな、兵を送ったがやはり思わしくないか……」
「そう感じられる所は有りますな、露骨に敵対するわけでは有りませぬが明らかにこちらを警戒している、いや窺う様なところが有ると思いまする」
伯父御が重々しく頷いた。
「三千の兵を送ったのは正解かな? 伯父御」
「その辺りは殿が一番良く分かっておられましょう。八門を入れたのでは?」
「まあ、それは」
俺が答えると伯父御が頷いた。
「儂が高浜に居て感じた事は波多野と一色は明らかに組んでいるという事。両者が協力して事に当たろうと考える相手は朽木以外には無い。三好が相手なら一色の動きはもっと曖昧になる筈」
伯父御の口調には深刻な色が有った。そうだな、三好が相手なら波多野はともかく一色は直接の関係は無い。頭が痛い、嫌になるな。焙じ茶がやたらと苦く感じた。
「八門は何と?」
伯父御が俺の顔を覗き込むような素振りを見せた。
「……丹波、丹後には叡山の坊主共が逃げ込んだようだ。悪い事に波多野左衛門大夫秀治、一色式部大輔義道、二人とも信仰心が篤いらしい。大事に庇護されていると報告してきた。伯父御が高浜に配される前の事だな」
「しかし、殿とて寺社を大切に扱っておりましょう」
「俺のは神仏を敬うのではなく神仏を利用しているのだそうだ。波多野左衛門大夫はそう罵っているとか。否定はせぬ、その通りだからな」
伯父御が“ふむ”と鼻を鳴らした。おいおい、そんな事をするとブルちゃんと呼びたくなるぞ。
「もう一つ問題が有る」
「……銭、ですな」
「その通りだ。丹波の産物は京では全く売れぬ。売りたくても朽木の安い産物に負ける。逆に京を通して朽木の産物が丹波に流れ込んでいる状況だ。但馬、播磨方面に丹波の商人は動いている様だが京に比べれば商いの規模は小さい。丹波は物を作っても売れぬという状況にある。当然、税も減る」
「なるほど」
また伯父御が鼻を鳴らした。……困ったものだ。
「丹後は如何で?」
「こっちも酷い。小浜が賑わってきた事で船が舞鶴、宮津の湊よりも小浜を重視するようになった。その所為で舞鶴、宮津からの船道前が著しく減少しているらしい。当然だが一色式部大輔にとっては面白く無い事態の発生だ。……伯父御、伯父御は何時銭の問題に気付いた?」
「儂が気付いたのは小浜に来る船が丹後を素通りするようになったと聞いた時にござる。妙な話だと思い調べたところ一色式部大輔、かなり船道前を値上げしたようで」
なるほど、税収が減ったので船道前(入港税)を値上げしたか。それでは船は更に舞鶴、宮津を避けるだろう。朽木は船道前が安いからな、おまけに船荷には税をかけない。商人にとっては天国だろう。
「伯父御、戦になった場合凌げるか?」
伯父御が“さて”と言って腕を組んだ。
「波多野と一色が組めば最低でも一万は出しましょう。敵が高浜城を攻めるのなら問題はござらぬ、三千で十分。殿の後詰を待って蹴散らすのみにござる。しかし敵が小浜の湊を狙えば厄介な事になりましょうな」
「そうだな」
小浜の湊には明船も来る、何としても守らなければならん。敦賀と共に朽木の大事な銭箱だ。ここを守ろうとすれば伯父御は城を捨てて野戦を挑む事になる。若狭の国人衆を集めても五千が精一杯だろう。二倍以上の敵と戦う事になる。
「しかし、攻めて来ますかな?」
伯父御が首を傾げた。
「分からん。一色だけならそれほど怖くは無い。だが波多野がそれに同調すれば厄介だ。波多野と三好は敵対関係に有る。そして波多野は義昭様と近しい。となれば朽木と刃を交えるとは思えぬ。しかし、有り得ぬ事が起きるのが戦国の世だ。油断は出来ぬ」
「そうでは有りますが……」
伯父御の語尾は弱い。先ず有り得ん事だ、だが油断はしたくない。朽木は伊勢で問題を抱え三好とも敵対状態にある。波多野、一色がそれをチャンスと考えれば無いとは言えないのだ。
「俺が近江に居れば後詰をする。だが居ない場合も有る。……敦賀に兵四千を置こう」
「敦賀に?」
「高浜には既に三千の兵を置いている。今四千を増援すればいささか挑発が過ぎよう」
「……」
不満そうだな。
「伯父御、満介と小次郎を敦賀に出せ。二人に敦賀を守らせる」
「なるほど、承知しました」
今度は満足そうだ。鯰江満介貞景と小次郎氏秀は伯父御の自慢の息子だ。俺にとっては従兄弟になる。二人とも歳は三十を過ぎて十分に信用出来る男達だ。兵四千を与えて敦賀に置けばどんな状況にも対応出来るだろう。照伯母さんに感謝だな。その後、幾つか打ち合わせをして伯父御は若狭に帰った。帰る間際、孫の左近はどんなものかと訊いて来たから十分に良くやっていると答えると嬉しそうだった。やっぱりブルちゃんも孫は可愛いのか、大事に育ててやらないと……。
波多野と一色か、攻め易いのは一色だろう。若狭の海賊衆を使いつつ陸を制圧する。問題は波多野だな。丹波は攻め辛い場所だ。史実の明智光秀もかなり手古摺っている。そして丹波は播磨と関係が深い。波多野の妹は播磨の東部を治める別所に嫁ぐ筈だ。そして播磨の西部は本願寺の影響力が強い。つまり丹後、丹波、播磨は反朽木で一本化し易いという事だ。ウンザリする現実だな。
「殿」
「如何した、左近」
鯰江左近が俺を呼んだ。こいつ、祖父の備前守ブルちゃんと似ていないな。備前守がブルドック系の丸顔なら左近はスピッツ系の細面だ。
「北畠権中納言様の御内室様が御挨拶に見えられましたが?」
「分かった。此処では拙いな。書院に御通ししてくれ。俺も直ぐに行く」
「はっ」
北畠権中納言御内室様か、やれやれだ。北畠権中納言の御内室、御内室というのは妻の事だがこの女性、六角家の名君六角定頼の娘だ。つまり承禎入道の妹で俺にとっては義理の叔母という事になる。名前は笛。そして北畠右近大夫将監、北畠次郎兄弟の母親でもある。俺が北畠に不審有り、北畠兄弟を詮議すると言った事で息子達が殺されるとでも思ったのだろう、慌てて清水山城に押しかけて来た。ちょっと前までは越前で五千石を次郎が貰う筈だった、それが何で? そんな気持ちも有った様だ。
無視出来ないんだ。蒲生、進藤、目賀田、それに平井の舅殿が気まずそうに会ってくれと頼んできたから。まあ彼らにとっては尊敬する管領代殿の娘だ。仲立ちを頼まれたら嫌とは言えん。俺も蒲生達の頼みを無下には断れん。それに会っても何の問題も無かった。俺は北畠兄弟を殺すつもりは無いからな。
会ってきちんと話した。次郎には越前で五千石を与える、右近大夫将監には北畠権中納言が朽木に敵対する行動を取った事の責任をとって貰い隠居してもらうと。多少理不尽では有る。だが右近大夫将監は北畠の当主である以上責任が無いとは言えない。当然権中納言にも責めは負わせる、新たに館を作りそこで謹慎してもらう。
跡目は三男の鶴松丸が継ぐ事になる筈だ。未だ幼いから北畠一族から後見人を任命する。坂内兵庫頭具義と大河内相模守教通だ。二人とも反朽木感情の強い男達で北畠権中納言に近い人物だ。権中納言の謹慎など形だけになるだろうし反朽木活動を始める筈だ。つまり処罰する理由が出来るわけだ。一度は当主の隠居で収めた、それでも謀反を企むなら当然だが死を与えるしかない。
北畠の義叔母にはその辺りの事も説明した。そして義叔母はその事を受け入れている。義叔母にとって大事なのは右近大夫将監と次郎なのだ。父親でありながら息子の命を危うくした権中納言はもはや敵でしかないし側室の産んだ鶴松丸は権中納言に媚を売り右近大夫将監と次郎の命を脅かす憎い存在でしかない。俺が連中を始末すれば自らの手を汚さずに敵対者を排除出来たと大喜びだろう。義叔母は次郎と共に越前に向かう事になっている。今後、伊勢で起きる騒動には自分達は関係ない、どうぞ御自由にという事だ。戦国乱世だ、男も女も夫も妻も生きるのは厳しいわ。……さて、そろそろ書院に向かうか。
永禄十三年(1570年) 十一月下旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 目々典侍
「突然の御来訪、驚いております。如何なされました?」
嘘では無いと思う。甥、朽木大膳大夫基綱の顔には不審の色が有った。勾当内侍はその不審を打ち消そうと笑みを浮かべたが頬の辺りが引き攣って見えた。
「前触れも無しに申し訳ありませぬ。大膳大夫様に確認したい事がございまして」
「帝がそのように?」
「いえ、そうではありませぬ。ですが御悩みの様でしたので畏れ多い事ですが私共が」
「なるほど」
帝の御意志ではない、あくまで私達女房衆が気を回しての事……。
大膳大夫は信じていないだろう。私の存在を訝しく思っている筈。勾当内侍は宮中内外との取次を担当し女房奉書を掌るのが役目、ここに居てもおかしくは無い。しかし私は違う、本来此処にいるべき存在ではない。典侍の役割は宮中内にて内侍司を管理するのが役目。私と勾当内侍で言えば私の方が立場は上になる。にもかかわらず勾当内侍の介添えとして控えている。ここに来たのは私が大膳大夫の叔母だから……。
「して帝は何を御悩みなのでしょう。この大膳大夫、生来不敏にして皆目見当が付きませぬ」
「桑名の事にございまする」
「桑名? 禁裏御料として御還しすると御伝えした筈ですが」
不審は更に強まった。大膳大夫が眉を寄せている。
「はい、朽木家が代官を派遣し税を徴収する。その半分を朝廷に収める。帝は大層喜んでおいでです。ですが暫くは朽木家の領地として扱うとか。桑名の返還は何時頃になりましょうか?」
大膳大夫がチラと私を見た。
「長島の一向一揆を討ち平らげてからとなりますがそれが何時になるかは分かりかねます。早ければ来年、そんなところでしょう。ただ、税は来年から収めますから御心配には及びませぬ」
「そのように伺っております。……来年、ですか」
「何か不都合が御有りですか?」
「……」
勾当内侍が言い辛そうにしている、そして私を見た。それを見て大膳大夫の目に力が入った。苛立っている。大膳大夫も私を見た。
「叔母上、お話頂けますな」
声が硬い、溜息が出そうになるのを堪えた。
「帝の御心を悩ませているのは将軍職の事なのです」
「……お続け下さい」
声の硬さは変わらない。
「最近足利義助様に将軍宣下をという動きが強くなりました。しかしそれを許せばそなたが不快に思うでしょう。帝はそなたに恩義を強く感じています。先の帝の崩御から御大典まで、そなたの助力が無ければどうなったか。帝はそなたに不義理な事をしたくないとお考えなのです」
大膳大夫が考え込む様な姿を見せた。
「これまで足利義栄様、義助様に将軍宣下が無かったのはそれが理由ですか?」
「それだけでは有りませぬ。そなたはこれまでにも朝廷に色々と配慮をしてくれました。そして山科の戦いでも勝った。皆がそれを無視出来なかったのです。ですが河内、紀伊の畠山様が敗れた事で足利義助様を将軍に推す力が強まりました」
大膳大夫の顔から険しさが消えた。そして一つ息を吐いた。
「阿波から無理を言って出張って貰いましたからな。三好も必死というわけですか」
「はい」
「先程桑名の事をお訊ねでしたが?」
「そなたから桑名が戻されればそれを理由に将軍宣下を延ばせようと帝は御考えなのです。難しいですか?」
大膳大夫が一つ息を吐いた。
「難しくは有りませぬ。しかし一時凌ぎでしかない。あまり意味は……」
首を横に振った。その通りかもしれない、だが帝は其処まで追い詰められている。
「帝にお伝え願いたい。京の地を支配しているのは三好豊前守、安宅摂津守。されば朝廷は彼らとの協力関係を維持するのが肝要、某への配慮は御無用にと。そうでなければ帝の御立場が苦しいものになります」
勾当内侍が身動ぎをした。驚いている。
「宜しいのですか? そなたも義昭様も苦しい立場になりますよ」
「某への御気遣いは無用にござる。義昭様には苦労していただきましょう。将軍など簡単に成れるものでも無し、已むを得ぬ事にございましょう」
他人事のようだった。話は終わった。帝の苦境を説明し理解を求めるという役目は無事に終了した。勾当内侍もほっとした様な表情を浮かべていた。
永禄十三年(1570年) 十一月下旬 近江国高島郡安井川村 清水山城 朽木綾
「姉上、御久しゅうございます」
「本当に久しい、夕餉は口に合いましたか」
「はい、美味しく頂きました」
「京の料理とは少し趣が違いましょう」
「珍しい料理ばかりで驚きました」
二人で声を上げて笑った。近年、近江には蝦夷地や九州、明から珍しい食材が入って来るようになった。それを使った料理が食事に供されている。
「姉上、何時も朝廷、私達親子、飛鳥井家へ御配慮頂き感謝しております」
「私は何もしておりませぬ。全ては大膳大夫がしている事です」
偽りは無い。朝廷への支援、飛鳥井家への支援、全ては息子の差配で行われている。私が関与する事は無い。
「今回の事、御聞きになりましたか?」
「いいえ、何も」
「そうですか……」
妹が不思議そうな表情を見せた。息子は表での事を私に話したがらない。朽木家の当主になってからその姿勢は変わらない。
「もう直ぐ此処に来るでしょう」
「ならば姉上にも話しておかなければ」
そう言うと妹が足利義助様への将軍宣下の事を話してくれた。正直息子の持つ影響力の大きさに驚いた。帝までが遠慮している。そこには息子への感謝の気持ちも有るだろうが怒らせれば援助を打ち切られるのではないかという恐怖も有るだろう。
「ですが大膳大夫殿は自分への遠慮は御無用にと」
「まあ、本当に?」
私が問い掛けると妹が頷いた。
「大膳大夫殿は義助様が将軍になられても構わないと考えておられるようです」
「面倒な事になりませんか?」
「私もそう思うのですが……」
息子は何を考えているのか、過信? あの子が? 訝しんでいると部屋の外から声が聞こえた。
「大膳大夫です、入りますぞ」
戸が開いて息子が入って来た。