第四次川中島の戦い
永禄四年(1561年) 九月下旬 近江伊香郡塩津浜 塩津浜城 朽木基綱
第一条 名田の没収の禁止
譜代の家臣の所領たる名田を領主が正当な理由もなく没収する事を禁止する。年貢未納の場合は朽木家に訴え出る事。未納を理由に勝手に没収する事を許さず。
うん、これはこれで良いんじゃないのかな。
第二条 土地境界線の争論
田畑ならびに山林原野の境界に関する争論について、もとからの正しい境界をよくよく究明したうえで、原告あるいは被告の道理のない不当な謀訴であると判定された場合、その者の所領の三分の一が没収される。
土地に対する執着は凄いからな。三分の一は厳しいが悪巧みの抑止にはこのくらいの罰が必要だろう。
第三条 荒廃地の再開墾の境界争論
もともと田畑であった土地が荒廃して河原や浜辺になっている土地を再度開望するについて、旧名主同志で填界の争いが生じた場合、その土地が年月を経てもとの境界が判定し難くなっているときは、双方が主張する境界の中間を新規の境界と定めるべきであるが、双方が不承知ならば、権利を没収して各々別の名主、家臣に与える。
要するにぐだぐだ文句ばかり言ってんじゃない、そういう事だな。
「殿?」
「うん? 呼んだか?」
「はい、二度お呼びしました」
「そうか、気付かなかった。済まぬ」
何時の間にか小夜が部屋に来ていた。小夜の後ろには奈津が控えている。やれやれだな。
「何をしていらっしゃいますの」
「式目だ」
「式目?」
「朽木が北近江三郡を治めるために式目を作っている」
「まあ」
奈津、全身が耳状態だぞ。それでは間者としては二流だな。なんでそんなわざとらしい事をするのか、不思議だよな……。
「浅井の旧臣達は俺がどんな統治をするのか心配している筈だ。恣意に任せて支配されては堪らぬとも思っていよう。何と言ってもまだ若いからな。だから式目を作る」
「素晴らしい事ですけど大変では有りませんの」
小首を傾げると可愛いぞ。狙いはもう一つある。仕官を考えている浪人に朽木になら仕えても大丈夫だと思わせる事だ。朽木には人材が足りん。
「一から作るわけでは無い。今川家の今川仮名目録を基にする。もっとも借財の利息等はかなり修正した。ようやく出来上がったわ。今は確認しながら手直しをしているところだ」
小夜が感心したように頷いている。今川仮名目録を使う理由は守護不入を否定し幕府の権威を否定しているからだ。そして今川氏は吉良氏に次ぐ足利一門として渋川氏、石橋氏とともに御一家と称されて別格の扱いを受けている。義輝が文句を言って来ても御一門、御一家の今川様の真似ですと白々しく答えてやるだけだ。
「後で梅丸、いや主税達に見せる。北近江三郡を治めるという事がどういう事なのか、何が必要なのか。少しでも理解させないとな」
朽木による国造りだ。勉強になる筈だ。理解して欲しいのは乱世だからこそ力では無く理による統治を国人領主達が望んでいる事だ。弱い者が泣く事の無い政治体制を作る。それが出来れば国人領主は安心して付いて来る。
「殿は戦の事を考えているのだとばかり思っていました」
「何故そんな事を」
「だって殿は希代の戦上手で軍略家だと皆が言っております」
「人違いだな、それは俺ではない」
「まあ」
小夜が口元に手をやってクスクスと笑った。信じてないな、こいつ。奈津も信じていない。
「俺は戦が下手だし嫌いだ。五郎衛門にも笑われているくらいだからな。それよりは式目を作ったり領民の暮らしを豊かにする事を考える方が好きだ」
「ですが上杉様が川中島で武田様に御勝ちなされたのは殿の御助言の御蔭とか、もっぱらの評判でございます」
「そんな評判は聞いた事が無いな。第一俺は川中島を知らん、助言など出来るわけが無い。上杉様とは二年前にお会いしたのは事実だが妙な噂が流れたものだ、迷惑している」
俺は何も知らん。助言などしていない。戦の結果に俺は関与していない……。
上杉政虎(謙信)と武田信玄が九月の頭に川中島で戦った。所謂第四次川中島の戦いという奴で五回に及んだ川中島の戦いの中で最も激しい戦いだ。政虎と信玄が一騎打ちをしたと言われ有名でもある。戦国の一大イベントと言って良い。こっちの世界でも信玄が別働隊を妻女山に送って似た様な展開になったんだが結果はというとかなり違った。
上杉の圧勝、武田のボロ負けに近い。信玄は右の肘から先を切断され重傷、戦死者は主だったところで武田信繁、武田義信、望月信頼、諸角虎定、飯富虎昌、山本菅助、室賀信俊、相木昌朝、甘利昌忠、小幡憲重。全体で見れば武田軍は五千近い戦死者を出している。それに引き替え上杉軍の戦死者は二千に満たない。史実とは全く違う。八門から報告を聞いて呆然とした。最初はなんかの間違いじゃないかと思ったほどだ。だが戦闘の詳細を聞いていくと幾つかこれが原因かと納得出来る部分が有った。
先ず上杉軍だが兵力が微妙に多いような気がする。政虎は妻女山に一万五千の兵で籠ったらしい。史実だと武田の別働隊一万二千とほぼ同数だったと記憶しているから上杉軍は一万二千から三千ぐらいだった筈だ。となると史実より二千~三千は多い事になる。
そして政虎は決戦時に武田の別働隊が戻ってきた時のための抑えの兵を残していない。全軍で武田信玄に襲いかかっている。史実では抑えの兵は千は有った筈だ。それを置かずに戦った。つまり政虎は史実よりも三千から四千程多い兵力で信玄と戦った事になる。
史実だって武田軍は戦線崩壊に近い状況だったと思う。本陣に敵が突入してきたんだ、それぞれの部隊が目の前の敵と戦うので精一杯だったんだろう。連携して戦うなんて出来ない状態だったんだと思う。そしてこの世界では史実より多い兵に攻撃されている。そりゃ損害も多くなる筈だよ。納得した。
しかし抑えの兵を置かないとは随分と割り切ったものだ。最初は何考えてるんだと呆れたがよくよく考えるとおかしな話でもない。千ぐらいの兵を抑えに置いたって武田の別働隊一万二千の前には何の意味も無いだろう。だったら攻撃勢に加えて短時間に敵を叩き潰す事に専念した方が良いという考えは妥当と言えなくもない。味方を必死にさせるという意味でも有効だと思う。むしろ史実の政虎は結果的には思い切りが良くなかったと言える。
「それで何の用だ」
「平井の父から文が届きました。近日中にこちらを訪ねたいそうです」
「構わないが何か急な用でも出来たかな?」
「さあ、そこまでは……」
また小首を傾げている。
「書いてなかったか」
「はい」
「分かった。お待ちしていると返事をしておいてくれ」
「はい」
返事をすると奈津を連れて部屋を出て行った。平井加賀守がここへ来る。どうやら尻に火が付いたか。娘可愛さに飛んでくるわけだ。安心していいぞ、小夜は大事に扱っているから。
武田勢が混乱した時、政虎は自ら旗本を率いて信玄の本陣に突っ込んだらしい。そして政虎だと思うんだが自ら信玄に斬りかかった。信玄は軍扇で防いだんだが何太刀目かで肘から先を斬り飛ばされた。その痛みで床几から転がり落ちるところを政虎の太刀がまた襲った。それは外れたんだが周囲がその光景を見て信玄が死んだと誤認したらしい。
まあ血しぶき上げながら床几から転がり落ちたんだ。遠目では信玄が斬られて死んだように見えたのだろう。周囲から信玄が死んだと誤報が流れた。こいつは武田だけじゃなく上杉も誤認したようだ。妙な話だが武田も上杉も信玄が死んだと誤認した。
その後の戦況は悲惨なものになった。武田は収拾がつかなくなり信玄の本陣は潰走した。それに引き摺られる様に武田軍も潰走した。それを上杉が追撃する。別働隊が八幡原に到着した時には武田軍も上杉軍もそこには居なかった。周囲に転がっている死体は武田軍の方が多い。これはいかん、後を追わねばと思っているとそこに追撃を打ち切った上杉軍が戻ってきた。
上杉にしてみれば帰国への道を塞がれているようなものだ。おまけにクライマーズ・ハイじゃないが意気は上がりっぱなしの状態。武田の別働隊など戦闘に間に合わなかった間抜けにしか見えない。そのまま正面から突破して越後に帰ったようだ。キチガイに刃物って本当だよな。
北信濃の状況は激変するな。これまで築き上げた武田の優位は吹っ飛んだ。これから上杉を背後にした高梨、村上の逆襲が始まると見て良い。武田は北信濃侵攻どころか防衛戦に追われる事になる。兵も失い将も失った。かなりのダメージだ。厳しい戦いになるだろう。
この状況で駿河への南進が可能だろうか? 無理だな、先ずは信濃での戦いを終わらせないと無理だ。どの段階で上杉との間に国境線を引けるか、それ次第だろうとは思うがその頃には武田は疲弊しきって動けない可能性も有る。となると今川が生き残る目も出てくる。関東の北条も上杉に押されているし三国同盟の結び付きは強まるかもしれない。
義輝は大喜びだろうな。また三好を討てと文を書きまくるに違いない。まあ残念だが上杉は当分上洛は無理だ。変な話だが川中島で勝った事で信濃方面の戦いにどっぷりと浸かる事になった。むしろ上杉は信濃、関東の二正面作戦、武田が越中の一向一揆を動かせば三正面作戦を余儀なくされる事になる。こっちも地獄だろう。関東甲信越は秋の収穫も必ずしも良くない、悲惨な事になりそうだ。
永禄四年(1561年) 十月上旬 近江伊香郡塩津浜 塩津浜城 朽木小夜
「小夜、入るぞ」
「はい」
返事をすると襖が開いて弥五郎様が入ってきた。その後ろから父、平井加賀守定武の姿が現れ、そして更に数人の男達が入って来た。
「父上?」
父は厳しい表情のまま答えない。そして男達が近付くと傍にいた奈津を捕えようとした。
「何をなさいます、姫様!」
奈津が救いを求めてきた。
「父上!」
「止めよ、小夜。無駄じゃぞ、奈津、観念せい。手に余らば斬れ。弥五郎殿の許しは得て有る」
「はっ」
「父上、これは一体……」
奈津が抵抗を諦め高手小手に縛り上げられて連れて行かれた。
「弥五郎殿、御迷惑をおかけし申し訳ござらん。この通りでござる」
父が頭を下げた。
「いえ、お気になされますな。毒虫が消えて何よりにござる」
迷惑? 毒虫? どういう事? 二人が何を話しているのか分からない。
「では、某はこれで」
「もうお帰りになりますのか? 小夜と話して行かれては如何です」
「いや、また改めて後日」
「……分かりました。その日をお待ちしておりまする」
父は私と視線を合わせる事無く去ってしまった。
暫くして父を見送った弥五郎様が戻って来た。
「殿、あれは一体、奈津は」
「慌てるな、小夜。今説明する。奈津は間者だ」
「間者?」
弥五郎様が頷いた。奈津が間者? 父上が?
「妙な動きをするのでな。朽木の者が奈津を調べた。奈津は調べた事を平井に送っていたが同時に別な所にも送っていた」
「まあ、それは一体」
「甲賀だ」
甲賀、では三雲様? では朽木の者というのは朽木家の忍び?
「それでこちらから舅殿にお知らせした。情報が甲賀にも流れているがご存知かと」
「父は、何と?」
「舅殿はそなたの近況を知らせろと命じただけで朽木を調べろとは一言も命じていないそうだ」
「それで奈津を」
弥五郎様が頷いた。
「そうだ。奈津の存在、行動は朽木と平井の関係、そして朽木と六角の関係にまで亀裂を入れかねんからな。そなたの立場にも悪い影響が出かねん。舅殿は慌ててここに来たのだ。奈津を送り込んだ者の狙いはそれだと俺は見ている。朽木を孤立させたかったのだな」
溜息が出た。弥五郎様が心配そうな目で私を見ていた。
「舅殿に伺ったのだが奈津は数年前に雇い入れたそうだ。おそらくはその時に甲賀から平井家に送り込まれたのだろう。理由は分からん。実力者の舅殿の動向を知りたいと思ったのかもしれん。だがそなたが六角家の養女になった事で別な使い道が出て来た。奈津はそなたの傍に潜り込んだ。実家のために情報を収集する。おかしな話ではないからな」
「……奈津はどうなるのです?」
「……舅殿が本当の事を言っているのなら殺されるだろうな」
本当の事? では嘘が有るの? 朽木を調べろと命じたのは本当は父上?
「もし嘘なら?」
弥五郎様がちょっと迷うようなそぶりを見せた。
「表向きは死んだ事にして裏でこっそりと甲賀に戻すだろう。……だが長くはもたん」
「え?」
「朽木の者が奈津を殺す」
弥五郎様がじっと私を見ていた。
「朽木にも意地が有るのでな。舅殿、甲賀に対する警告にもなる」
「……」
弥五郎様が声を上げずに笑った。
「案ずるな、小夜。舅殿は嘘を吐いておらん」
「まあ」
「今六角家には二つの勢力が有る。一つは朽木を積極的に認めようという勢力。もう一つは朽木を危険視する勢力だ。舅殿は朽木を積極的に認めようと考えている。奈津のような存在を許すことはない」
奈津、私のために朽木についてきたのでは無かった……。それにしても朽木を認められない人達が六角家にいる。父上は何も教えてはくれなかった。一体誰が……。
永禄四年(1561年) 十月下旬 近江伊香郡塩津浜 塩津浜城 朽木基綱
「叔父上方、ようやく戻られましたな」
「はっ」
京から戻って来た朽木右兵衛尉直綱、朽木左衛門尉輝孝の二人が頭を下げた。傍には藤綱、成綱の二人の叔父が同席している。久し振りに四兄弟が揃った。懐かしいだろう。或いは義輝から離れる事が出来てホッとしているか。
「公方様は頻りに朽木の名を口にすると聞いた。本当かな?」
直綱と輝孝の二人が顔を見合わせ。そして“真にござる”と直綱が答えた。
「朽木、六角、畠山、朝倉の兵を合わせ三好を討つ。或いは越後の上杉に上洛を命じ、それに朽木、六角、畠山、朝倉の兵を合わせ三好を討つ。しばしば口にされます」
送られてきた文の通りか。藤綱、成綱の二人の叔父が遣る瀬無さそうな表情をしている。
「三好はそれを?」
「知っているのではないかと。何度か三好家の方々にそれらしき事を臭わされております。おそらくは公方様の周囲に三好に通じる者が居るのではないか、某と輝孝の推測にござる」
「なるほど」
やはり義輝の周囲には三好に通じる者が居る。朽木で感じた事は間違いじゃなかった……。
しかしなあ、この二人にしてみれば堪ったもんじゃないな。京は三好の本拠地だ。命を何時奪われるかと気が気じゃなかっただろう。義輝はそういう事が分からないんだろうな。
「公方様には何のお力も無い。幕府の実権は三好、そして政所執事の伊勢殿が全てを握っており申す。公方様の決めた事など何一つ通らぬのが幕府の実情。哀れとは思いまするが……」
輝孝が言葉を濁した。続けたかった言葉は付き合いきれない、だろうな。
政所執事の伊勢か、こいつと三好長慶の関係が良好な間は京で政争が起きる可能性は無い。つまり義輝は傀儡のままだ。義輝が傀儡のままなら殺されることは無いだろう。史実では伊勢と長慶の関係が悪化し伊勢が失脚する。そして後任の政所執事は義輝派の人間だった。その事が三好に不安を感じさせ長慶死後、義輝殺害へと繋がる。そして長慶と伊勢の関係悪化の原因が六角、畠山による反三好活動だった。この世界では今の所それは無いがこれからどうなるか……。ま、考えても仕方ないな。
「叔父上方、お二人には兵糧方を務めて貰う」
「兵糧方?」
二人が訝しげな表情を見せた。兵糧って裏方だからな。面白く無いのかもしれない。
「これから先、朽木が戦う相手として考えられるのが第一に朝倉、次に武田、そして三好、最後に六角だと思う」
あれ、変な顔をしてる。六角は意外か? 十分に有り得ると思うんだがな。
「いずれも簡単に勝てる相手ではない。戦は長期戦になろう。この場合一番大事なのが補給だ。それを管理してもらう」
「兵糧方とは小荷駄奉行の事で?」
「違うぞ、輝孝叔父上。小荷駄奉行は兵糧を戦場に運ぶのが仕事。いわば戦時での役割。叔父御達の仕事は兵糧そのものの管理。これは平時から行う仕事だ。朽木の兵力は約七千。例えば朝倉と戦うのなら何処に七千人の兵糧一ヶ月分を保管すれば良いか、一ヶ月で戦が終らなければ如何するか、それを考え実行してもらう。戦場には出ないが戦の帰趨を左右する役割だ」
あ、今度は顔が強張っている。
「管理するのは兵糧だけではないぞ。火薬、鉛玉、火縄、矢も含まれる。藤綱叔父上は鉄砲隊四百を率いているが火薬、鉛玉、火縄が無ければ鉄砲隊など何の役にも立たん。無用の長物よ。そうであろう」
「はっ、殿の申される通りにござる」
藤綱が頷いた。
「いわば朽木を生かすも殺すも叔父上達の働き次第、そういう事だ」
脅し過ぎたか、蒼白になってる。
「そのように硬くなる事は無い。俺も手伝うからな」
笑顔で告げると二人が引き攣った笑みを浮かべた。まさかとは思うが俺が怖いとかそういう事は無いよな。