決別
禎兆元年(1581年) 四月下旬 伊勢国桑名郡香取村 朽木基綱
「御屋形様、彦七郎は来ませぬな」
「そうだな」
主税、そんな不満そうな顔をするな、俺だって不満なのだ。いや、皆不満か。小山田左兵衛尉、梅戸左衛門大夫、長野慶四郎、真田源太郎、日置左門、守山作兵衛、秋葉九兵衛、千住嘉兵衛、葛西千四郎、町田小十郎。そして北畠次郎、高野瀬備前守、新庄刑部左衛門、大野木土佐守、月ヶ瀬若狭守等の越前の国人衆。陣幕の中は面白くなさそうな顔で一杯だった。
「如何なさいますか?」
「使者は出したのであろう?」
俺が問うと町田小十郎が“はい”と答えた。昔は俺の側で小姓を務めていたんだが何時の間にか大きくなってしまった。髭を生やした立派な親父だ。
「ならば今少し待とう、無理はしたくない」
俺の言葉に皆が頷いた。
伊勢国桑名郡香取村に朽木軍三万が集まっている。近江、越前、伊勢の軍勢を主力とした俺が率いる部隊だ。この香取村は長島の北方に有る。香取村を東へ進み木曽川、佐屋川を渡り津島神社へ、そして天王川を渡れば津島に入る事になる。しかしちょっと用心が必要だ。津島に行くとなれば小木江城を何とかしなければならない。小木江城には織田彦七郎信興が居る。彦七郎は信長の弟だ、史実でも小木江城に居た。長島一向一揆に攻められ討死している。
小木江城は当初は長島一向一揆に対する抑えの城だった。長島陥落後は尾張、伊勢の国境を守る城になっている。要するに対朽木の為の抑えの城だ。彦七郎は俺に味方をすると言ってきているが油断は出来ない。困った事にこの辺りは河川が多い。川を渡る最中に襲われたら厄介な事になるし木曽川と佐屋川の間の陸地は川に囲まれていて決して大軍の進退に適しているとは言えない。津島神社の有る天王島も同様だ。隙は見せられない。
「この期に及んで迷うとは思いませぬが……」
小山田左兵衛尉が首を傾げている。あのなあ、史実じゃお前は迷った挙句に勝頼を裏切ったぞ。世の中どんな事でも有り得るのだ。そして裏切りとは“矢張り”ではなく“まさか?”だ。だからこそ裏切りは成功する。だからこそ隙を見せてはならない。妙な気を起こさせないためにな。
「若殿の方は如何でしょう?」
「さあて、如何かな」
弥五郎は近江、美濃の兵を主力とした三万の兵を率いている。笠松辺りから木曾川を渡り一宮へ踏み込む。川並衆が邪魔をしなければ渡河は問題無いだろう。だが一宮には野府城が有る。ここの城主は織田九郎信治だ。こいつも信長の弟で味方に付くとは言っているが油断は禁物だろう。弥五郎の側には智謀に優れた者、実戦経験豊富な者が居る。まあ大丈夫だろうとは思うが……。
いや、大丈夫だ。三介は三河、遠江、駿河、伊豆から尾張に兵を集めようとしたが三河、遠江、駿河、伊豆の国人衆はそっぽを向いた。美濃を見捨てた事で国人衆に見捨てられたのだ。そして尾張の国人衆も積極的に三介に従おうとはしていない。三介は自分の直属の兵だけで戦わざるを得ない状況に追い込まれている。落ち着こう、勝てるのだ。
なんか関ヶ原の時の家康の気分が分かるわ。味方するとは言っているが本当に味方に付くのかはっきりしない。……やはり切っ掛けが要るな。一人が行動に移せば皆が続く。皆が待っているのだ、誰かが動くのを。だが自分が先頭を切るのは嫌がっている。裏切者として目立ちたくないのだろう、その他大勢の中の一人になりたがっている。
「小十郎、今一度彦七郎に使者を出せ」
「はっ」
皆が顔を見合わせている。不満なのだろう、余りにしつこく使者を出せば足元を見られると思っている。
「中々来ないので迎えに行くとな。川を渡るぞ、小木江城に向かう。戦になると全軍に触れを出せ。先陣は北畠次郎、秋葉九兵衛、葛西千四郎、千住嘉兵衛が務めよ。四人が向こう岸に渡って安全を確認する。千四郎はその後佐屋川から敵が来ないかを確認しろ。全てにおいて問題無いと分かった時点で全軍で渡る」
四人が頭を下げた。この四人で千人以上の兵力になる。問題は無いだろう。
日置左門がニヤリと笑った。親父の五郎衛門に似ているわ。まったくなあ、五郎衛門、新次郎が死んで蒲生下野守が死病だ。大叔父の蔵人も最近は寝込みがちだと主殿から聞いた。寂しくなるわ。……いかんな、気を引き締めろ。彦七郎も攻められるかもしれないとなれば覚悟を決めるだろう。三介は稲葉山城を見殺しにした。小木江城への後詰が有るという確信は得られない筈だからな。彦七郎が降伏すれば他も降伏する筈だ。
皆が散って俺の側に残ったのは主税、左兵衛尉の他には小姓の石田佐吉、加藤孫六、吉川次郎五郎の五人だ。そして新たに笠山敬三郎、笠山敬四郎、多賀新之助、鈴村八郎衛門が陣幕に入って来た。こいつらも俺の傍に仕えてもう十年だ。今ではそれぞれ五百の兵を率いている。俺にとっては近衛軍の様なものだ。リーダー格の敬三郎はもう五十を越えたがまだまだ若い連中には負けないだけの頼もしさが有る。
「川を渡るのですな?」
「そうだ、新之助。恥ずかしがり屋が多いのでな、俺が迎えに行かねばならん。世話の焼ける事だ」
皆が笑った。敬三郎は声は上げなかったが目尻に皺が寄ったから笑っているのだろう。やはり年を取ったと思った。
「今少し楽に終わると思ったのですが」
「当てが外れた。八郎衛門、楽な戦など無いという事だ」
皆が頷いた。
少しの間他愛無い話をしていると“妙ですな”と小山田左兵衛尉が眉を寄せて呟いた。皆が左兵衛尉を見た。視線を感じたのだろう、左兵衛尉が困った様な顔をして咳払いをした。
「御屋形様が進軍を命じたのです。普通なら士気が上がり兵に勢いが出る筈。なれどざわめいております」
皆が顔を見合わせた。確かにざわめいているな。
「興奮しているのでは有りませぬか?」
「いや、違うな、敬四郎。興奮ならざわめきには力が有る。だがこのざわめきには力が無い。有るのは戸惑いだ」
敬三郎の言葉に左兵衛尉が頷いた。
“誰か見て参れ”、と声を上げようとした時に北畠次郎から使いの者が来たと警備の兵から報告が入った。直ぐに陣幕の中に入れた、未だ若い男だ、緊張している。主税が俺を見て頷いた。
「何事か、御屋形様にお知らせせよ」
「はっ、対岸に織田勢が。その数、約三百」
皆が顔を見合わせた。
「それは出迎えか?」
「いえ、そのようには見えませぬ」
「では敵か」
「はっ!」
敵? 三百で?
「何者の兵か?」
「分かりませぬ、ですが旗には木瓜が。主は御屋形様の御判断を仰ぎたいと」
木瓜紋? あのなあ、木瓜紋なんて使っている奴は幾らでも居るぞ、織田も木瓜だ。
「三百というのは些か少ないが先鋒として対岸を押さえたというなら有り得なくはない」
「うむ、後詰が有るという事か」
「しかし先鋒が三百では後詰が有るといっても万には及びますまい。精々五千から六千では?」
「確かに、ですが対岸を押さえられたのは面白くは有りませぬ」
皆が口々に思った事を言う。同感だ、面白くは無い。
「彦七郎達がこちらに来ないのもその所為か。五千以上の織田勢が動いているとなれば簡単には降れぬな」
俺の言葉に皆が頷いた。しかし誰だ? 三百の兵の指揮官も気になるが五千も兵を率いるとなるとそれなりの人物だ。織田の一族、或いは重臣達の誰か……。まさか三介か?
「如何致します? 先鋒は指示を待っておりますが」
左兵衛尉の言葉に使いの者が期待する様な視線を向けてきた。頭が痛いわ。
川を渡って攻めろというのは容易い。だがその最中に後詰が来れば先鋒部隊の苦戦は免れない。こちらも本隊を動かして無理攻めをしなければならないだろう。そこに彦七郎、津島の者達が敵に付けば……。面白くないな、全く面白くない。それにしても腑に落ちない。五千もの兵が動いていれば八門から報せが有る筈だが……。
ざわめきが起きた。“御免”という声と共に小兵衛が入って来た。ホッとした、これで判断材料が増える。
「小兵衛、良く来た。対岸の兵の事か?」
「はっ、遅くなりまして申し訳ありませぬ」
面目無さそうな顔をしている。そうだな、ここに重蔵が居たら苦虫を潰したような表情だっただろう。
「それで、何者だ?」
「兵を率いるのは津田七兵衛信澄という者にございます」
七兵衛? 皆が首を傾げている。尾張出身の鈴村八郎衛門も首を傾げているが仕方ないだろう。相手は信長に謀反を起こして殺された織田勘十郎信行の子供だ。普通なら子供も殺されている。八郎衛門が尾張を出た頃は未だ子供だっただろう。小兵衛が七兵衛に付いて話し出すと皆が信じられないというような表情をした。
「それで、後詰は?」
「有りませぬ」
無い? 冗談だろう、皆も驚いている。三百で三万に立ち向かおうというのか?
「死ぬ気か?」
俺が問うと小兵衛が頷いた。
「亡き弾正忠様の御恩に応えると。七兵衛の妻は弾正忠様の御息女、五徳様にございます」
え、そうなの? そうか、浅井長政が早い時点で死んだからお市は浅井に嫁がなかった。信長は徳川と同盟した、同盟の絆を強めるには婚姻だが御家騒動で徳川は妻、息子、娘を全員殺してしまう。そこで家康に後妻を勧めたのだがそれには五徳よりもお市の方が適任だった。そして五徳は織田一族の結束を固めるために津田信澄に嫁いだという事か……。
「御屋形様、如何なさいますか?」
主税が問い掛けてきた。面白くなさそうな表情をしている。俺も面白くない。
「そうだな、出来れば殺したくない」
左兵衛尉が何か言いたそうな表情をした。
「分かっている、気が重いが殺さなければならんだろうな」
相手は死ぬ気で出陣してきたのだ。簡単には説得に応じないだろう。下手な説得をすればこちらが名を落とす、蔑まれかねない。左兵衛尉はそれを心配したのだ。
「先鋒には直ちに川を渡り敵を追い払えと伝えよ」
「はっ」
北畠次郎が寄越した使者が頭を下げると立ち去った。皆憂鬱そうな表情をしている。誰だって死にに来た人間を殺すなんて面白くないんだ。自殺を手伝うようなものだからな。先鋒の四人も状況を知ればウンザリするだろう。いっそ相手に後詰が有った方が精神的には楽だな。
暫くして鬨の声が上がった。先鋒隊が勢いを付けるために上げたのだろう。如何攻めるのか、正面から押し切るか、それとも一隊を側面に回して撃破するか、或いは二隊を両側面に回して包囲する形を取るか。どれを選んでも良い、こちらは三倍以上の兵力だ。問題は無い筈だ。
ざわめいている。今度は戸惑いでは無い、興奮だ。先鋒隊が動き出したのだと思った。だが陣幕の中で口を開く者は居ない。ただ身動ぎもせず黙っている。ここだけ別な世界の様だ。重いわ、粘着く様に空気が重い。
「小兵衛」
「はっ」
「七兵衛に子は居るのか?」
「はっ、男子が二人居りまする」
「そうか」
男子が二人か、未だ幼いだろう。何らかの形で俺が援助するべきだろうな。三十郎に庇護させて成人したら朽木家で召し抱える事にしよう。戦国大名としての織田家は潰すが織田一族は朽木家の家臣として丁重に扱う。織田の重臣達も俺が織田一族を丁重に扱っているとなれば安心する筈だ。ただ変な閥は作らせないようにしないといかん。そこは気を付けなければ……。
半刻程経った時、歓声が上がった。
「終わったようですな」
主税の口調はホッとした様な口調だった。皆もほっとした様な表情をしている。多分七兵衛を討ち取った筈だ。もう直ぐ先鋒から報せが来るだろう。俺は先鋒の働きを誉め、七兵衛を討ち取った事を誉める。大きな声で誉めるのだ。そして七兵衛の覚悟を称賛し死を悼まなければ……。その時に三介の様な主君を持った事が不運だと言おう。そう、悪いのは三介なのだ。投降する織田の親族、重臣達の心を軽くしなければ。少し涙ぐむのも良いだろうな……。
禎兆元年(1581年) 四月下旬 尾張国春日井郡 清州村 清州城 丹羽長秀
「如何すれば良い、如何すれば良いのだ! 朽木め、父上の代には友誼を結んでおったのに……」
うろうろと三介様が歩き回った。ガシャガシャと耳障りな鎧の音がする。それを林佐渡守秀貞、佐久間右衛門尉信盛、柴田権六勝家の三人が白けた表情で見ていた。多分俺も同様だろう。朽木勢は間近に迫っている。この期に及んで如何すれば良いとは……。
「何故兵が集まらぬのだ! 何故国人共は儂の命を軽んずる!」
美濃を捨てたからだ。あそこで敵わぬまでも美濃に踏み込んで一戦しておけば未だ違っただろう。だが見捨てたのでは如何にもならぬ。見捨てた以上見捨てられても文句は言えぬ。ま、この御方には分かるまいな。分かる様なら見捨てたりはせぬ。こうなったのは至極当然、自業自得だ。
「佐渡! 儂は如何すれば良い!」
また、如何すれば良いか。林殿も迷惑そうな顔をしている。いや、三介様には思い悩んでいるように見えるかもしれぬな。
「朽木勢は美濃より三万、伊勢より三万で攻め寄せております。こちらは一万がやっと。この清州城は難攻不落というわけでは有りませぬ。包囲されてはどうにもなりますまい」
「だからと言って外に出ては……」
「負けますな。兵力に置いて劣る以上簡単には勝てませぬ。もたつけば挟撃される事も有り得ましょう。それに城を出れば朽木に味方する者にこの城を奪われる懼れも有ります」
“うー、うー”と三介様が唸った。眼が血走っている。そしてまた“如何すれば良い”と言った。
困ったものよ、権六と眼が合った。権六も煮え切らない三介様にウンザリしている。
「既に朽木勢は木曽川を渡り尾張領に踏み込んでおります。小木江城の織田彦七郎様、野府城の織田九郎様は朽木に降りました。津島も朽木に降っております。もはやこれ以上尾張では戦えますまい」
言上すると三介様が儂をじろりと睨んだ。
「尾張では戦えぬと? では如何すれば良いのだ、降伏しろと言うのか?」
「そうは申しておりませぬ」
慌てて顔を伏せた。三介様は降伏したがっているのかもしれぬ。横目で他の三人を見た。三人も驚いている。三介様の助命が確約されれば降伏という事も有り得る。如何する? 権六が、右衛門尉殿が微かに首を横に振った。
「城を出て兵を集めるしかありますまい」
「兵を集める? 如何いう事だ! 佐渡守!」
怒鳴られて佐渡守殿が顔を顰めた。
「されば、この城に居る限り兵は集まらず城を朽木勢に囲まれ負けましょう。勝つためには城を出て三介様自ら兵を集めるべきかと思いまする」
「兵を集めるか……」
「三河、遠江、駿河に赴き兵を集めるのです。場合によっては徳川様の御力を借りるのも宜しいでしょう」
三介様が訝しげな表情をした。
「お主らは徳川を敵視していたではないか。今になって徳川の力を借りろと言うか?」
「今戦をしているのは朽木でございますぞ!」
佐渡守殿が声を荒げると三介様が僅かに怯んだ。
「左様、佐渡守殿の申す通りです。徳川様とて織田家が滅べば次は徳川家と分かっている筈。必ずや力になってくれましょう」
「分かった、その方等の申す通りだ」
右衛門尉殿の言葉に三介様が大きく頷かれた。
「ならば先ずは岡崎城に参ろう。坂井右近将監に使者を出せ」
「はっ」
控えていた小姓に使者を出すようにと命じた。小姓が弾かれた様に動いた。
「兵を五千程率いられませ。それなら国人衆に侮られる事も有りませぬ」
儂の言葉に三介様が不満そうな表情をした。
「五千? 残りは如何するのだ?」
「我らがこの城に籠り朽木勢の足止めを致しまする。殿、御急ぎ成されませ。朽木勢は迫っておりますぞ」
「そうか、分かった、頼むぞ」
慌てたように言って三介様は部屋を出て行った。
一刻程後、城から三介様が出て行った。出発までの一刻、城は蜂の巣を突いた様な騒ぎだった。
「岡崎城の坂井右近将監も頼られて顔を顰めような」
「何、予定通りだ。我らと同じ様に三介様を遠江から駿河へと落とすだろう」
佐渡守殿と右衛門尉殿の言葉に権六と共に頷いた。遠江から駿河、駿河には池田勝三郎が居る。
亡き殿の御恩を思えば織田に背き三介様の御命を奪う事は出来ぬ。だが三介様と共に滅ぶ事も出来ぬ。兵が集まらぬのは分かっていた。だから兵を集めると名目を付けて城から落とす。三介様の御気性なら命惜しさに城を出る事も分かっていた。予想通りだった。後は勝三郎が降伏を勧めるだろう、勝三郎の言葉なら素直に頷く筈……。
「さて、我らも準備をしませぬと。新たな主を迎える準備を」
「使者を出しましょう」
権六、儂の言葉に佐渡守殿と右衛門尉殿が頷いた。今日、この時から我らは朽木家の家臣になる。三介様、織田家との決別だ。いや、未だ切れたわけでは無いな。三介様が降伏した時には命乞いをせねばならん。何処までも世話の焼ける事よ、だがそのくらいはせねばなるまい……。さて、鎧を脱いで新たな主君を迎えるとしようか。