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義理と面子




天正五年(1581年)   三月中旬      近江国蒲生郡八幡町 八幡城  朽木基綱




「あと一月もすればまた戦に行かねばならん。桂、身体を厭えよ。無理をしてはならんぞ」

少しお腹の膨らみが目立ってきたな。男かな? 女かな?

「はい、でも寂しゅうございます。お戻りは何時頃に」

「さあ、夏には戻れると思うが……」

「まあ、そんなに」

あ、いや、そんな風に悲しまれるとちょっと困るんだが……。


「姉上、御屋形様が御困りですわ」

「でも……」

だからその縋る様な目はいかん。頼むから泣くなよ、戦の前に涙は禁物だ。ここは厳しく注意を……。

「桂、……出来るだけ早く戻るからな。これから段々と暑くなる。身体に気を付けるのだぞ」

「はい」


桂が素直に頷いた。うん、聞き分けが良いぞ。厳しく言った効果が有ったと思おう。妹の菊がクスクスと笑っている。この二人、姉が桂で妹が菊なのだが時々逆じゃないかと思う事が有る。頼りない姉としっかり者の妹という感じだ。父親の氏康、兄の氏政、どちらも桂の事は心配だっただろう。こんな事を思うのは何だが確かに側室向きだ。正室では留守を守れるのかと不安になる。


「戻ったら菊の婚儀を進めねばならんな」

「はい」

菊が頷いた。

「冷泉家は二つあってな。上冷泉家と下冷泉家と言うのだが菊が嫁ぐのは下冷泉家、冷泉家の本流だ。播磨での戦の時は下冷泉家の三位宰相が味方に付いてくれた。播磨では敵ばかりで味方は僅かだったのでな、良く覚えている。俺に味方をするのはかなりの勇気が要っただろう」

菊が嬉しそうにしている。自分の嫁ぐ家が朽木家と繋がっている。当主の俺が好意を持っている。将来は明るい、そう思ったのだろう。


綾ママの話では或る時から冷泉家は上冷泉家と下冷泉家に分かれるのだが上冷泉家が長男の家系で下冷泉家は次男の家系らしい。だが下冷泉家の方が本流と周囲からは見られている。下冷泉家は世渡りが上手な家らしい。それとも運が良いのかな。室町時代には足利将軍家に厚遇され勢いを延ばした。そして今では朽木家と密接に繋がっている。桂の懐妊を一番喜んでいるのは三位宰相かもしれない。桂の産む子が女の子なら、下冷泉家は朽木家とその女の子が嫁ぐ家と縁が出来る事になる。


暦の間に戻って丹波焼きの壺を手に取った。相変わらず良い色艶だ。磨こうか、少し考えなければならない事が有る。桂には夏には戻れると思うと言ったが正直自信が無い。織田が手強く抵抗するとは思えない。織田の親族衆、重臣達はその殆どが抵抗しないと言ってきた。予想通り、三介を見離したのだ。おそらく、尾張は簡単に獲れる。三介は尾張に留まって腹を切るか、尾張を捨てて逃げるかだ。


問題は織田がドミノ倒しの様に崩壊するのではないかという事だ。尾張、三河、遠江、駿河、伊豆。あっという間に織田家の支配が崩れるかもしれない。史実における武田の崩壊と同じだ、あれもあっという間だった。強盛を誇った武田が殆ど抵抗する事無く滅びたのだ。唯一抵抗したのは勝頼の同母弟、仁科盛信の高遠城だけだった。織田が同じようになった場合、朽木は何処まで兵を進めるべきか……。


尾張攻略後に三河、遠江、駿河、伊豆と兵を進めれば徐々に奥へ奥へと兵を進める事になる。ちょっと嫌だな。奥に入って後方を遮断されたら……。敵らしい敵はいないから心配し過ぎかもしれない。しかし一揆というか暴動が起きる可能性がゼロというわけじゃないだろう。西三河は徳川の本拠地だったのだ。如何(どう)も嫌な予感がする。


しかし放置も面白くない、混乱は目に見えている。それに上杉はそろそろ越後に戻る。となれば徳川が駿河、伊豆に勢力を伸ばす事も考えられる。後々面倒だ。やはり兵を進めて一気に攻略しよう。となると補給は陸路だけじゃなく海上も考えた方が良いだろう。九鬼、堀内に護衛を頼んだ方が良いな。その場合補給の起点は桑名、安濃津、大湊だ。そして知多半島の佐治水軍が味方に付いたら佐治も護衛に入れる。幸い佐治家当主、八郎信方はこちらの味方に付くと言ってきた。問題は無い筈だ。


尾張を制する以上、津島を押さえなければならん。問題は津島十五家だ。小兵衛の調略に未だはっきりした答えを返さない。織田とは縁が有るからな、寝返り辛いのだろう。だが迷ってはいる、このままなら後は俺の仕事だ。伊勢から侵攻し津島から知多半島を上手く押さえよう。弥五郎には瀬戸を押さえさせる。軍事の要衝だけでなく経済面での権益を押さえる。その辺りも弥五郎に教えなければならん。


それと生駒家だ。出来れば潰す事なく味方に付けたい。今のところ生駒家の当主八郎衛門家長から良い返事は来ていない。まあ三介の母親は八郎衛門の妹だから見殺しには出来ないと考えているのかもしれん。しかし生駒家の力は三河、美濃、飛騨にまで伸びていると聞く。その力は無視は出来ん。地理的にみて弥五郎の担当になる。言い含めておかなければ……。


後で蒲生下野守の屋敷に行かなければならん。体調を崩して寝込んでいるらしい。もう歳だからな。五郎衛門、新次郎が死んで気落ちしたのかもしれん。これから暑くなる、何とか元気になって欲しいものだが……。後で見舞いに行くか、カステラでも持って行こう。あのジジイ、あの(いか)つい顔で甘い物が好きだからな、喜ぶだろう。




天正五年(1581年)   三月下旬      尾張国海東郡津島村 奴野屋城  大橋長将




「大分暖かくなって来ましたな」

「如何にも」

確かに暖かくなってきた。庭の木にも若葉が芽吹いている。だが心が浮き立つような気分にはなれない。相手は城に来るなり庭を見たいと言ってきた。城内では話し辛いと言う事なのだろう。何を言い出すのかは想像が付く。


「和泉守様の元には朽木の使者が参りましたかな?」

「来ました。五郎右衛門尉殿の元には?」

「来ましたぞ」

隣りを歩く五郎右衛門尉が頷いた。祖父江五郎右衛門尉秀重、歳は既に五十を越えている所為か猫背気味に歩く。我が大橋家の連枝衆の一人であり津島神社の神官でもある。津島を攻略しようとするなら使者が来るのは当然か。


「朽木の使者は津島の持つ権益は朽木に代わっても維持されると言っておりましたな。むしろ朽木に属した方が先々の事を考えれば得だと。当然ですが敵対すれば……」

五郎右衛門尉が歩きながらボソボソと言った。敵対すれば奪われるだろう、言うまでもない事だ。


「如何なされます?」

「……」

「皆、心配しております。岡本、山川、恒川……」

そして堀田、平野、服部、真野、鈴木、河村、光賀、宇佐見、宇都宮、開田、野々村。大橋を入れれば十五家。この津島を支配してきた十五家。大橋家はその十五家の党首だ。皆がその動向を注視している。この老人、皆に頼まれて此処に来たか。となれば皆の心は朽木に付くという事で纏まったのだろう。もう朽木にも返事をしたかもしれん。五郎右衛門尉が足を止め背を伸ばした。


(うぐいす)ですな」

「鶯?」

五郎右衛門尉が頷いた。“ホーホケキョ”、声が聞こえた。鳴いていたのか、気付かなかった。

「綺麗な声ですな。……もう直ぐ大瑠璃が鳴きます、夏になれば駒鳥が。楽しみな事です」

「そうですな」


“ホーホケキョ”、また鳴き声が聞こえた。五郎右衛門尉は笑みを浮かべながら鳴き声を聞いている。楽しんでいる。頬に古い傷が有る。若い頃、戦場に出て矢で射ぬかれた傷だ。口中に血が溢れ、その血で喉の渇きを癒したと言うのがこの老人の自慢だ。もっとも失血が酷く戦場で失神しかけたと言う落ちが付く自慢だ。幼い頃は良く聞かされた。

「御母堂様は何と?」

「特には何も」

五郎右衛門尉がチラッとこちらを見て“左様で”と言った。また猫背になって歩き出した。


「勘七郎様は?」

「弟も何も言っておりませぬ」

「左様で」

「……」

「どうやら迷っておいでなのは和泉守様のようですが余り時は有りませぬぞ。朽木は着々と準備を進めております。佐治も朽木に付きました」

「何と……」

“真にござる”と五郎右衛門尉が言った。


知多半島の佐治八郎信方が朽木に付いた……。

「伊勢は既に朽木領、そして知多が朽木に付いたとなれば……。和泉守様、お分かりでございましょう」

「津島は周囲を包囲されたという事ですな」

答えると五郎右衛門尉が頷いた。


周囲を固められた。抵抗は無意味か。いや、最初から抵抗など考えてはいないが……。決断しなくてはならん。遅れればそれだけ大橋家にとって、津島にとって不利になる。今は我らが持つ権益の保持を約束しているがこれ以上遅延すれば反故にする事も有り得よう。まして私の母は織田家の人間なのだ。これ以上の逡巡は許されない。


「当家から朽木に使者を出しましょう」

「左様で」

返事はそっけなかったが口調には明らかに安堵の色が有った。

「皆にも心配をかけたようです。誤解の無い様に某から皆に話をします」

「それが宜しいでしょう。いや、ここに来た甲斐が有りました。この歳になれば死を恐れるものでは有りませぬが鶯の声を聞いてしまいましたからの、出来ればあの声を聞きながら老いていきたいもので……」

老人が穏やかな笑みを浮かべた。


老人が帰った後、母の部屋を訪ねた。母も五郎右衛門尉の訪問を気にしていたようだ。母の方から如何様(いかよう)な話で有ったのかと訊ねて来た。

「佐治が朽木に付いたそうです」

母が目を瞠った。

「佐治が、八郎殿が朽木に付いたと言うのですか?」

「はい」

「そうですか」

大きく息を吐いた。


佐治八郎信方、その妻は亡き織田様の妹姫、お犬様だ。そして目の前の母は織田様、お犬様の姉に当たる。つまり私から見て三介様は従弟、佐治八郎は年下では有るが叔父になる。

「御存じだと思いますが朽木は岩村遠山の坊丸殿をそのまま跡取りとして認めました。朽木は余りそういう事には拘らぬようです。織田と縁を結んだ家にとっては極めて仕え易い相手と言えます」

母が頷いた。


「そなたは如何するのです?」

「某も朽木に付こうと思います。御理解頂きたいと思います」

母が首を横に振った。

「私への遠慮は無用です。そなたは大橋家の当主、大橋家を、津島を如何すれば守れるのかを考えて動きなさい」

「有難うございます」

「勘七郎は如何なのです?」

「弟は私の判断に従うと」

母が頷いた。


「そなたの父、中務大輔重長殿も随分と苦しい決断をされました。元々この津島は自治の町でしたが織田家がその財力に眼を付け支配しようとしたのです。戦にもなりましたが武力で敵う筈も無く織田家に服従し私を妻に娶ったのです」

「はい、そのように聞いております」

「屈辱だったでしょうね、ですがそれによって津島の繁栄も大橋家も守られたのです。先程も言いましたがそなたは大橋家を、津島を如何すれば守れるのかだけを考えなさい」

「はい」


苦しかったのは母も同様だろう。大橋家に嫁いできた母を見る周囲の目は決して温かくは無かった筈。だがその中で大橋家と織田家の懸け橋になろうとした。織田家が大きくなるにつれて津島の繁栄も大きくなった。だがその織田家が今滅びようとしている……。潰してはならぬ、なればこそこの大橋家を潰してはならぬ。母にはもう大橋家しかないのだ。

「朽木家に使者を送りまする」

母が頷いた。




禎兆元年(1581年)   四月上旬      近江国蒲生郡八幡町 八幡城  朽木堅綱




櫓台では父上が(うみ)を見ていた。

「父上、お呼びと伺いましたが?」

「うむ、来たか。こちらに参れ」

「はっ」

傍に寄ると父上が“皆下がれ、二人だけにしてくれ”と命じた。石田佐吉、加藤孫六、北条新九郎、明智十五郎、黒田吉兵衛、細川与一郎、吉川次郎五郎、小早川藤四郎が下がった。相談役の重蔵が居ない。父上に問うと蒲生下野守の見舞いだと答えが有った。下野守は大分具合が悪いらしい。


「津島の大橋が味方に付いた。これで津島は朽木の物だ」

「おめでとうございまする」

「知多の佐治は既に味方になると言ってきている。これで伊勢から尾張に攻め込むのに何の障害も無くなった。そして三介は海路を使えぬ、清州城で籠城か陸路を三河に逃げざるを得ぬ」

父上の攻め筋は問題無しか。


「美濃からの攻め筋は如何でございましょう。川並衆は何と?」

「味方には付かぬが敵対はせぬと言ってきた。生駒もな」

味方には付かぬのか。様子見をしている。

「面白くないか?」

「あ、いえ」

父上が可笑しそうに私を見ていた。恥ずかしかった、私は直ぐに感情が顔に出るらしい。


「少なくとも敵にならぬと言っているのだ。それで良い。それに味方するのが難しいなら手を控えろと言ったのはこの俺だ」

「ですが様子見をしているのでは有りませぬか、信用出来ませぬ」

「弥五郎、余り追い詰めるな」

「は? 追い詰めるなとは……」

父上は湖を見ている。だが何時ものように楽しそうな笑みは無かった。


「あの者達に勝敗の帰趨が見えておらぬと思うか?」

「……」

「当然見えておろう。だがあの者達にも義理や恩という物が有るのだ。家の存続とそれらを(はかり)にかけて出した答えが敵にも味方にもならぬという事なのだ」

「……だから許すと?」

父上が私を見た、そしてまた湖に視線を戻した。


「力が無いというのは悲しい。義理も意地も家を守ると言う事の前には捨てねばならぬ時も有る。泥水を(すす)る様な想いをせねばならぬ時も有る」

「……」

「あの者達、織田に恩が無ければ朽木に味方しただろう。どちらにも味方に付かぬと言うのは織田に対して最後の義理立てなのだ。攻めぬ事で織田に、いや亡き織田殿に許しを請うている。一つ間違えば家を潰しかねぬ、その上での選択だ。分かってやれ」

「はい」


なるほど、そういう見方が有るのか。

「父上もそのような想いをされた事が有るのでございますか?」

父上が私を見た。

「何故そう思う?」

「父上も以前にそのような想いをされたから川並衆の気持ちが分かるのかと」

父上が顔を背けた。

「……別に昔に限らぬ、苦い想いなら今でもしている。他人(ひと)はそうは思わぬかもしれぬがな」

「父上……」

今でも?


「弥五郎、人は生きている以上恩や義理、面子から離れる事は出来ぬ。それは身代の大小、男女の性別には関係が無いのだ。それを理解しておけ。余りに相手を踏み躙ると人の心が分からぬと思われる事に成る。いずれはしっぺ返しが来る」

「はい、気を付けまする」

父上が頷かれた。


「織田三十郎には調略で力を借りたが今回の織田攻めには同道させぬ。織田が崩れる所を見るのは辛かろう。三十郎には徳川攻めで働いて貰う」

「はい」

「今回は川並衆、生駒の顔を立てた。だが朽木の家臣になってからは懈怠(けたい)は許さぬ。良いな?」

「はい」

相手の立場を(おもんぱか)れ、だが主君としての厳しさを忘れてはならぬという事か。難しい事ばかりだ。まだまだ父上には及ばぬ。だが何時かは父上の様に、そして父上の隣に立つ事が不思議ではない男になりたい。





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