内大臣
天正五年(1581年) 一月中旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木堅綱
「父上、内大臣就任おめでとうございまする」
私が祝いの言葉を申し上げると皆が“おめでとうございまする”と声を上げた。御祖母様、母上、側室の方々、弟妹達、そして妻の奈津。皆が嬉しそうにしている。父上が穏やかに“有難う”と言った。
「皆腹が減っていよう。さ、食べようか」
父上が声をかけると皆が“はい!”と言って膳に箸を伸ばした。
「殿、如何ですか?」
「うむ、祝いの席だ、一口貰おうか」
奈津が盃に酒を注いでくれた。少しずつ飲んだ。美味いだろうか? 良く分からない。父上が私と同じように少しずつ酒を飲んでいた。そして飲み終わると盃を伏せた。私もそれに倣った。もう飲まない。
「それにしても本当に従二位内大臣に補任されるとは、信じられませぬ」
御祖母様が首を横に振った。
「ですが本当に一カ月程で辞任するのですか? 妹から聞きましたが」
「はい」
「なんと欲の無い」
御祖母様の嘆きを聞いて父上が笑い声を上げた。
「母上、天下を獲ろうという者が無欲の筈はござりますまい」
「それはそうですが」
「大納言には権官が有りますが内大臣には有りませぬ。敢えて居座って恨まれる事も無いと思ったのです」
「まあ……」
御祖母様は不満そうだ。御祖母様の実家の飛鳥井家は准大臣が極官、せっかく内大臣に任じられたのに、そんな気持ちが見えた。
「弥五郎、次に任官の話が有った時は断らずにお受けせよ。僅かな期間で美濃を制したのだ。朽木の跡取りとして十分な武功だ」
皆の視線が自分に集まった。
「ですが……」
「太閤殿下にそなたの怒りを御伝えした。殿下は朝廷と朽木の関係は次代にも引き継がれねばならぬと仰られた。宮中にそなたを侮る者はもう居らぬ」
父上が近衛様に……。
「まあ、そのような事が有ったのですか?」
御祖母様が驚いて私と父上を交互に見た。母上も見ている。気まずかった。
「弥五郎は若いですから公家達から扱い易いと思われたようです。弥五郎にとっては我慢出来ぬ事でしょう」
父上が御祖母様を宥めると御祖母様が息を吐いた。皆の視線を感じる、頬が熱い。
「親子なのですね、弥五郎殿はそなたに良く似ています。そなたも昔、酷く怒ったでは有りませぬか。朽木に居た頃ですが」
「これはまた古い話を……」
父上が苦笑されている。父上も?
「御祖母様、それは?」
問い掛けると御祖母様が頷かれた。
「酷かったのですよ、弥五郎殿。飛鳥井とは縁を切る、朝廷とも縁を切ると言って。飛鳥井の父や兄、妹からも思い直して欲しいと文が来ました。私も何度も頼んでようやく思い直して貰ったのです」
驚いた、そんな事が? 皆も驚いて父上を見ている。母上も驚いているから初めて聞いたのだろう。父上の苦笑が更に大きくなっていた。
「本気で言った訳では有りませぬ。如何いうわけか皆が大袈裟に受け取ったのです。迷惑しております」
「皆は本気と受け取りました。私もです」
父上が私を見た。
「弥五郎、気を付けるのだな。ちょっと不満を口にしただけでこの有様だ。そなたも一生言われるぞ」
御祖母様、母上、奈津を見た。一生言われるのだろうか? 話を変えよう。
「美濃攻めは私一人の武功では有りませぬ。皆が助けてくれました。それに父上が伊勢で三介殿を牽制してくれたから稲葉山城は落ちたのだと分かっております。有難うございまする」
父上がほっとしたように御笑いになった。父上も話題を変えて欲しいと思っていたのだろう。
「伊勢では湯に浸かっていただけだ。そのように礼を言われても困る。母上や小夜には薄情だと詰られたが」
皆が笑った。御祖母様、母上も苦笑している。これは父上の反撃だろうか?
伊勢で湯治をしたのが父上だから三介殿も怯えたのだ。自分が伊勢に居ても三介殿は怯えない。朽木の跡取りとして十分な武功を挙げたと言われても納得は出来ない。いや、してはいけない。
「戦も有ったが譲位も有った。昨年は弥五郎も疲れたであろう、奈津と一緒に湯治に行っては如何かな?」
奈津が嬉しそうな表情を見せた。しかし……。
「父上、今年は尾張攻めをする事になりましょう、そのような暇は……」
「焦るな、弥五郎。今短兵急に攻めれば尾張は三介殿の下に纏まりかねぬ。多少時を置いて自壊するのを待つのだ。湯に浸かる暇は有る、身体を休めるのも大事な事だぞ」
「……」
なるほどと思った。父上は三介殿では織田家は纏まらない、織田家が自壊すると見ている。そうか、徳川は上杉が牽制するから駿河、伊豆には出られない。謙信公が蘆名を追い返した、義兄が越後に戻らなかった事が父上の判断の基になっている。竹が謙信公と共に戦場に出たと聞いた時には驚いたがまさか父上の御考えにまで影響するとは……。
「分かりました、父上。奈津と湯治に行こうと思います。御配慮、有難うございます」
「有難うございます」
私と奈津が礼を言うと父上が“楽しんでくるのだな”と言ってくれた。御祖母様、母上も楽しんでくるようにと言ってくれた。
「松千代もそろそろ元服を考えねばならぬな」
「はい!」
雉肉を食べていた松千代が勢いよく頷いた。
「元服をすれば嫁取りか、松千代の嫁御は何処にいるのやら」
「本当にあっという間ですね」
母上の仰る通りだ、元服してから今まであっという間であった。何時の間にか松千代に元服の話が出ている。
「松千代の元服が終われば亀千代、その次は万千代の元服が待っている。倅達の元服の後は嫁取り、それに娘を嫁に出さなければならん。めでたい事ではあるが忙しい事だな」
「まあ、なにやら子を産んだ事を責められているような気がします」
雪乃殿の言葉に父上が慌てて“気のせいだぞ、雪乃”と答え皆が笑った。奈津も笑っている。……湯治か、楽しみだな。
天正五年(1581年) 一月下旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
大評定の間は重苦しい沈黙に包まれていた。京の朝廷は未だ正月の祝いの最中だというのに近江の朽木家は……。湯治に行った弥五郎が羨ましいわ。
「半蔵、島津家での伊集院右衛門大夫の立場は?」
俺が問い掛けると千賀地半蔵は首を横に振った。今日は伊賀衆は半蔵一人だ。百地丹波、藤林長門守は来ていない。
「余り良くありませぬ。右衛門大夫は熱心な一向宗の信者ですが主君の修理大夫は領内に一向宗が入り込むのを嫌っておりまする。自分に断りも無く信者の引き取りを決めた右衛門大夫を快く思っておらぬと聞きます」
皆が頷いている。
そうだよな、何処の大名だって一向宗の扱いには神経を使う。出来れば領内には入れたくないと思うのはおかしな話じゃない。それを島津の名を守るためとはいえ独断で一万五千人以上受け入れたんだ。島津修理大夫義久は当然不快に思うだろう。でもなあ、だからと言ってその一万五千人を日向北部に纏めて入植させるとか乱暴だろう。薩摩、大隅には入れたくないって事なんだろうが無茶をするわ。
日向北部は大友宗麟が攻め込んだ時にキリスト教王国を造ると言って神社仏閣を根こそぎ焼き払った。その壮大なる愚行は耳川の戦いで大友が島津に敗れた事で潰えた。宗麟が居なくなって神社仏閣を再建しようとしている時に一万五千人以上の一向門徒を入植させた。一向門徒と切支丹は互いに相手を邪教と罵る犬猿の仲だ。大友との戦いで門徒達を磨り潰してしまおうというつもりなのかもしれん。
或いは切支丹と緊張関係に有れば門徒達が島津に逆らう事は無い、大友に寝返る事は無いと考えたのかもしれない。だがその所為で元々日向北部に居た人間達と軋轢を生じた。一向宗は排他的だし彼らにはもう後が無い。元の住民を追い出して居場所を奪い取っている。酷い話だ。そして追い出された住民達が逃げ込んだのが大友領だった。
「日向から百姓達が大友領に逃げ出しているとの事だが修理大夫は如何考えているのだろう。百姓が減るのは痛手の筈だが……」
小首を傾げているのは農方奉行の長沼新三郎だ。農方奉行としては一番気になる所だろう。朽木領で新三郎が悩んでいるのが安芸の労働力不足だ。門徒を叩き出した事で百姓が減っている。今各地から農家の次男、三男を送り込んでいるが結婚相手となる若い女も足りない。男よりも女の確保の方が深刻な問題になりつつある。当たり前の事だが女達は生活基盤の無い所に行きたがらないのだ。
「日向北部は土持氏の領地でした。島津に味方したため大友氏の日向侵攻で滅ぼされましたが土持氏の生き残りが薩摩に居ります。いずれは戻すのでしょうが地盤を弱めておきたいという狙いが有るのかもしれませぬ」
半蔵の答えに皆がウンウンと頷いている。有り得ない話じゃない、国人衆の統制は大名にとって最重要課題だ。土持氏は九州では名門らしいからな、それなりに信望は有るだろう。島津がその力を削ごうとしてもおかしくは無い。
「それに大友領も混乱しております。逃げ込んできた者達に切支丹への改宗を強制しているのです。それに対して反発が酷いとか、家臣達の間からも批判の声が上がっていると聞きます」
彼方此方から溜息が聞こえた。気持ちは分かる。神社仏閣を焼き討ちしておいて逃げ込んできた百姓に改宗しろとか馬鹿じゃないのかと言いたい。恋は盲目と言うが信心も盲目だな。自分の信じる教えが正しい、素晴らしいなんて思い込むとそれが正義になる。他者の気持ちを踏み躙っても何の痛痒も感じない。心が麻痺するんだろう。
「和議をと頼んできたのは島津の筈だったがそれにしては随分と日向北部、一向門徒への対応が手荒い」
「和議は正確には家臣の伊集院右衛門大夫の願いです。島津修理大夫は違う考えなのかもしれませぬ」
小山田左兵衛尉と真田源五郎の会話に皆が頷いた。
「つまり、島津は和議を守る意思は無いという事か」
安養寺三郎左衛門尉の問いに千賀地半蔵が“そのように思われます”と答えた。皆が俺を見た。やれやれだ。
「御屋形様、これでは九州の和議は長続きしませぬな。いずれは大友、龍造寺も和議を無視して動く筈」
そんな皮肉そうな笑みを浮かべるな、重蔵。
「重蔵、どのみち破られるだろうと俺は思っている。だが予想よりかなり早くなりそうだ」
敢えて事も無げに答えると“御屋形様”と生真面目な荒川平九郎が俺を窘めた。いつもの事だな、通常運転だ。唯一通常運転じゃないのは蒲生下野守が居ない事だ。体調を崩して寝込んでいるらしい。温泉ではしゃぎ過ぎたかな?
「半蔵、顕如は日向に居るのか?」
「いえ、薩摩に居ります」
なるほど、人質だな。島津は門徒達を信じていない。顕如と門徒達が一緒になるのを危険視している。顕如の身柄を抑える事で門徒達をコントロールしようとしているのだろう。
「それと日向北部には伊集院右衛門大夫が居ります。門徒達のまとめ役になっているようです」
まとめ役か、島津修理大夫の代理人と言ったところか。或いは目障りだから追い払ったか。薩摩に置いていては顕如、一向門徒達の代弁者になりかねぬと思ったのかもしれない。
右衛門大夫か、傲岸なところ、自信家なところが見える男だった。多分、馬鹿を相手にするのが出来ない男だ。上司、同僚から見て仕事のし辛い男だろう。有能ではあるがそれ故に敵が多い筈だ。何処か史実の石田三成に似ているかもしれない。追い詰められた一向門徒、敵の多い右衛門大夫。どちらも調略はかけやすい状況にある。
「御屋形様」
半蔵が押し殺したような声を出した。
「うん、何かな、半蔵」
「門徒達の間で顕如への求心力が薄れておりまする。不満を露わにする者も多いとか」
座がざわっとした。皆が驚いている。結束の固い一向門徒が揺らいでいる。長島の証意が本願寺と袂を分かって以来の事だな。
「今少し詳しく頼む」
「はっ」
半蔵が一礼して話し始めた。門徒達は安芸で地獄を見た。飢えに苦しみ仲間同士で喰い合う所にまで追い込まれた。そして土地を奪われ追放された。門徒達の中には一揆など起こさず朽木の法の下に暮らしていた方が良かったのではないかという声が有るらしい。
そして彼らの不満を増大させている一因に島津修理大夫の存在が有る。修理大夫は門徒達に好意を持っていない。受け入れにも反対した。島津の為に戦い地獄を見たのに何故そのような扱いを受けるのか? 安芸が毛利領だった頃、門徒達は毛利家から丁重な扱いを受けた。朽木領になってからは特別な扱いは受けなかったが不当な扱いも受けなかった。だが現状の扱いは明らかに厄介者だ。当然だが門徒達は納得がいかない。
そして将来についても明るい展望は見えてこない。ただ利用され邪魔者扱いされているという不満と将来への不安だけが門徒達には募っている。その事が顕如への不信感に繋がっているのだ。顕如は間違った方向に自分達を導いているのではないか。何故、島津修理大夫を説得出来ないのか。顕如を無条件に信じるべきではないという声が門徒達の間で生じているらしい。良い傾向だ。
「今門徒達の多くが信頼しているのは右衛門大夫にございます」
なるほど、伊集院右衛門大夫は主君の意に背いて門徒達を受け入れた。おまけに身近にいる。信頼は強まるだろう。
「顕如を慕う者は?」
半蔵が首を横に振った。
「勿論居りますが数は少なくなりつつあります。以前の様に門徒達を動かす事は出来ますまい」
彼方此方から溜息が聞こえた。
「島津修理大夫の狙いはそれかな? 顕如を薩摩に留めているのは実権を奪おうとしての事、門徒達への影響力を削ごうとしての事。真の狙いは右衛門大夫を使って門徒達を自由に動かす事、そういう事かな?」
皆がぎょっとしたような表情をしている。島津が自由に動かせるのであれば一向門徒でも問題は無いのだ。顕如から実権を奪おうと考える事は十分に有り得る筈だ。
「御屋形様、半蔵殿の報せでは島津修理大夫と右衛門大夫の仲は宜しからずと言っておりますぞ」
「見せかけという事も有り得るぞ、太郎左衛門尉。島津修理大夫と右衛門大夫が不和であれば門徒達の右衛門大夫への信頼は強まろう。表では不和と見せかけ裏では密に繋がる。そうする事で顕如から力を奪い門徒達を島津の為に使う。島津修理大夫と右衛門大夫が一芝居打ったのだとしたら? 太郎左衛門尉、有り得ぬとは言えまい」
俺の言葉に不破太郎左衛門尉光治が顔を強張らせながら“如何にも”と頷いた。
「半蔵、如何だ? 有り得ぬと言えるか?」
「言えませぬ」
半蔵は俺から目を逸らさない。しっかりと俺を見ている。半蔵も俺と同じ疑いを持ったのかもしれない。島津なら有り得る、あそこは戦も上手いがえげつなさでもトップクラスだ。油断は出来ない。
「見極めろ、そうでなければ島津の動きが読めぬ」
「はっ」
半蔵が畏まった。
「半蔵、顕如と接触出来るか?」
「はっ」
自信有り気だ。流石伊賀だな、薩摩で顕如と接触が出来るとは。
「右衛門大夫とは如何か?」
「勿論出来まする」
「いずれ頼むかもしれん。準備は怠るな」
「はっ」
半蔵がニヤリと笑った。こいつ、俺の心を読んだな。
島津修理大夫と右衛門大夫が繋がっているなら右衛門大夫は邪魔だ。消すしかない。その時には顕如を利用すべきだ。顕如に右衛門大夫を殺して実権を奪い返せと唆そう。顕如は自分を妄信する信者を使って右衛門大夫を殺すだろう。ついでに顕如を島津修理大夫に殺させれば言う事無しだ。門徒達は反島津で立ち上がる筈だ。血生臭い殺し合いが日向北部で始まるだろう。
島津修理大夫と右衛門大夫が反目しているなら寝返りを打診しよう。条件は朽木の法の下での信仰の自由だ。このままいけば一向門徒と右衛門大夫は大友との戦で磨り潰されるか島津に用済みになった後に潰されるかだ。その辺りが分からないとも思えん。こちらの話に乗って来る筈だ。
乗って来ると確信が持てた時点で島津修理大夫に売るという手も有るな。血腥い粛清が起きる筈だ。或いは一向門徒と右衛門大夫は自立を図っているとでも吹き込もうか。大友領、龍造寺領でそういう噂を流すのも良い。大友、龍造寺を捲き込んでの大騒動になるのは間違いない。滅茶苦茶になるだろう。
門徒達に利用価値が無くなれば顕如にも利用価値は無くなる。一向宗との争いも十五年が過ぎた。そろそろ戦国の世から退場して貰おうか。まあ如何いう手を打つにせよ、優先すべきは織田、徳川だ。準備をしておいて織田、徳川への対応が一段落した時点で手を打つ。ちょっと厳しいかな? 織田、徳川攻略は出来るだけ急ぐとしよう。