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側室




天正四年(1580年)   九月中旬      近江国蒲生郡八幡町 八幡城  




闇の中、隣に人が横になっている。顔は見えない、微かに身体の温かさだけが伝わってくる。権大納言朽木基綱様、畿内、北陸、山陽、山陰、四国に勢力を誇示する朽木家の御屋形様。今、天下に最も近い所に居る御方でもある。まさか私がその方の側室になるとは……。不本意では有るけれど我慢しなければならない。私達今川家、北条家の人間は朽木家の庇護を受けて生きている立場なのだから。


御屋形様は北条家の安王丸殿を元服させた。元服後の名は北条新九郎氏基。新九郎は北条家の嫡男が名乗る通称。私の前夫も新九郎を名乗っていた。そして氏基の基は御屋形様より頂いた諱。本来なら諱を上にして基氏と名乗るべきところ、でも御屋形様は北条家の者は氏を上にして名を付けるのが通例だからと仰られ氏基と名を付けられた。新たに北条氏の基を築けと……。


春姫様、桂姫様、菊姫様は泣いておられた。御屋形様は今川、北条に対して十分過ぎる程に心遣いをして下さる。いやそれだけではない、武田家にも。松叔母上、菊叔母上も婿を取り武田の家を再興している。それを忘れてはならない。真田の恭からも御屋形様の御心を(いた)わって欲しい、重荷にならないで欲しいと頼まれている。


眠れない、眼を瞑って眠ろうとしても色々と考えてしまう。前夫の事、娘の事、武田の事……。前夫、北条新九郎氏直様。私より二つ年下の夫だった。優しい御方だった、北条家の勢いが振るわない事を頻りに悔しがっておられた。最後の出陣の姿を思い出す。娘を抱き上げながら織田を潰し北条の勢いを取り戻すと張り切っておられた。そして帰って来なかった……。これからもこんな夜が続くのだろうか? そう思うと溜息が出そうになる、いけない、眼を瞑って眠らなければ……。

「眠れぬのかな?」

隣りから戸惑ったような声が聞こえた。御屋形様? 息が止まる程に驚いた。


「申し訳ありませぬ、起こしてしまいましたか?」

答えると御屋形様が小さく息を吐くのが分かった。暗闇のせいか耳が冴えている。

「やはり眠れぬのか。いや、こちらも眠れなかったのでな。如何したものかと思っていたところだ。そなたも眠れぬようなので思い切って声をかけた」

「申し訳ありませぬ」

「謝る事は無い。隣りでぐーぐーと熟睡されては俺の方が落ち込む。正直に言えばほっとした」

御屋形様も私の事を側室に入れるのは御気が進まなかったのだろうか? もしかすると私を危うんで用心していた?


「園、少し話をせぬか?」

「では灯りを御点け致しましょう」

起きようとすると御屋形様が肩を掴んだ。

「それには及ばぬ。横になったままで良い。この方が話し易い」

「はい」

表情が見えない方が話し易いというのは私のため?


「俺を恨んでいるかな?」

「……」

「そなたの父、武田太郎義信殿が亡くなられたのは川中島の戦いであったな。その戦いと俺の関わりは聞いておろう」

「はい」

父が死んだのは私が二歳の時だった。父の事は何も覚えていない。


「恨んでいるか?」

「良く分かりませぬ、父の事は何も覚えておらぬのです」

「そうか……、信玄公の事は?」

「祖父の事も覚えておりませぬ。父の死後、母と共に今川に戻りましたので……」

「そうか……、寂しい事だな」

寂しい? そう、寂しかった。親しい人は皆死んでしまう。私も娘の龍も大勢の身内を失った。


「俺も二歳で父を戦で失った。だが俺には祖父が居たからな、祖父との思い出は沢山(たん)とある。考えてみれば俺は恵まれていたのだな」

「寂しくはなかったと?」

「家を継いだのでな、寂しいと言っている様な暇は無かった。朽木は八千石の弱小領主、しかも負け戦の後だ、生きるために必死であった。もっとも俺はそれを楽しんでいたかもしれぬ」

「……」

寂しいと思えた私は恵まれていたのだろうか? それにしても楽しんでいた?


「それに朽木は客が多かった」

「客?」

「足利将軍家、十三代様が朽木に逃げて来たのでな、それの世話で忙しかった。天下の将軍が八千石の朽木を頼る、馬鹿馬鹿しい限りだ。ウンザリするような事ばかりであったな」

「まあ」

御屋形様は義輝公とは極めて親しい間柄で足利の忠臣とまで讃えられたと……、違うのだろうか?


「そなたの父、太郎殿の事は良く知らぬ。だが信玄公の事は知っている。川中島で敗れたがこの戦国の世に現れた英傑であった。亡くなられた時はさぞかし無念であっただろう。俺を恨んでいたとも聞いている」

「……」

恨んでいたのは祖父だけではない。今川、武田、北条の者は皆が織田を、上杉を、朽木を恨んでいた。今川、武田、北条の三者で盟約を結びそれぞれに勢力を伸ばそうとした。でも今川の祖父が織田との戦いで討死し武田家が川中島で大敗した。その事が全てだった。


「恨まれても仕方が無い、だが謝る事は出来ぬ」

「……」

川中島(あれ)が有ったから今の朽木と上杉が有る。それを否定するような事は出来ぬ。この乱世を終わらせるためには上杉の協力が必要だ」

「織田は滅ぼすのでございますか?」

「滅ぼす」

強い声だった。私の問いに非難がましい色が有ったのだろうか?


「已むを得ぬ事だ。織田三介は自らの力で家を纏め自らの足で立たねばならぬ。それが出来ぬとなれば滅ぼされるしかない。それがこの乱世の定めだ」

「……」

今川、武田、北条が滅びたのは……。

「身勝手、非道、残虐、何と言われようと良い。天下を統一し乱世を終わらせる。今それが出来るのは俺だけだ。やらねばならん、退く事は出来ぬ」

御屋形様がホウっと息を吐かれた。御疲れなのだろうか? 恭が御屋形様の心を労わって欲しいと言っていた事を思い出した。


「園、俺を愛せとは言わぬ。だが俺の子を産めるか? 愛せるか?」

「……」

産める、愛せると答えなければいけない、でも答えられなかった。

「愛せぬなら愛せぬと言うが良い。二度とそなたには触れぬ。子を愛せぬ母、母に愛されぬ子、どちらも不幸だ。俺はそんな母子(おやこ)を見たくない」

「……何故、そのような事を」

声が掠れていた。そう問うのが精一杯だった。


「そなたを抱いていて今更ではあるな。だがそなたは耐えるだけであった。俺に応えようとはしなかった。こういう事は初めてでな、心の寄り添わぬ女子を抱くのはきついと思った。抱いていて何度も思ったわ、これで良かったのかと。終わった後も考えていた。それで眠れなかった。そなたも眠れなかったようだ。同じ事を考えたのだろうと思った。だから声をかけた」

「……御屋形様」

驚きが有った。鋭い御方、感じ易い御方なのだと思った。これまでは人の心の痛みなど感じぬお方だと思っていた。如何してこの御方に根切りや餓え殺しが出来るのだろう……。


「案ずるには及ばぬ。例えそなたが俺を拒絶しようとも今川、北条への扱いを変える事は無い。そなたへの扱いも同様だ。そなたは俺の側室として、龍は俺の養女として扱う。二人だけの秘め事だな。時々此処へ来る、ただ休ませてくれれば良い。そういう時も必要なのでな」

御屋形様が“ふふ”と御笑いになった。如何して御笑いになれるのです? 私は如何して良いのか分からずにいるのに……。


「次に来る時に答えを聞かせてくれ、頼むぞ」

「……はい」

如何すればよいのだろう? 側室になると心を決めた筈だった。でも望んではいなかったのだと改めて分かった。そして御屋形様はそれを察してしまった。私は重荷になっている、如何すれば……。




天正四年(1580年)   九月中旬      近江国蒲生郡八幡町 八幡城  

朽木基綱




「ほほほほほほ、清水山城から見る景色も良かったがこの城から見る景色も良いの」

「畏れ入りまする」

御機嫌モード全開なのは関白を辞し太閤殿下と尊称されている近衛前久だった。関白を辞任して暇になったのだろう、近江に遊びに来ている。或いは朽木との関係を周囲に示して力を保持しようという事か。有りそうなことだな、公家は油断が出来ん。しかし景色が良いのは事実だ。八幡城の櫓台からは淡海乃海が太陽の光を浴びてキラキラと光って見えた。良いねえ、天気も良ければ波も穏やか、気持ちの良い風が吹く。天下泰平、そんな感じだ。殿下が扇子で口元を隠しながら何度も笑った。


「上杉の華姫は未だ逗留中だそうじゃの」

「はい」

本人も一周忌に出るとは言っていない。遅くとも今月の末には越後に戻るようだ。織田の状況を近くから把握しようとしているらしい。或いは把握しようとしているのは朽木の動きか。困ったものだ。

「皆、織田の動きに注目しているようだの、或いは注目しているのは亜相の動きか……、ほほほほほほ」

そんな意味有り気に流し目で見られても……。俺はそっちの気は無いぞ。一緒になって“ほほほほほほ”って笑おうかな?


「攻め込むのかな?」

「美濃攻めは弥五郎が」

殿下がホウっと嘆声を上げた。そして“ほほほほほほ”と笑った。

「そう言えば従五位下、山城守を辞退したと聞いたが?」

「大分腹を立てております。侮られた、見くびられたと」

殿下が困った様な顔をした。眉が下がっている。


「左様に受け取る事は有るまい」

「こちらの考え過ぎだと仰られますか?」

「……まあ左大臣がの、少々心配しての。本心ではあるまいよ、ただ念のため、そんなところか」

「某も向こうの考えを理解しておけばよい、黙って受け取っておけと申したのですが我慢出来なかったようです」

純情な少年を利用しようとするからだ。それにしても発案者は九条左大臣か。碌な事をしない、要注意だな。


「教えたのかな?」

「はい、余りに嬉しそうにしておりましたので」

「教えずとも良いものを」

殿下が恨めしそうに俺を見た。

「そうは行きませぬ。某も息子が虚仮にされるのを黙って見ているわけには参りませぬ。弥五郎は朽木家の次期当主にございます」

「虚仮にするつもりは無いのじゃ……」

声が弱い。


「そうかもしれませぬがそうとられても仕方が有りませぬ」

「そうじゃのう」

「今の弥五郎には余裕が有りませぬ。そのようなときに官位の話が来た。その裏にある狙いを知った。弥五郎は我慢が出来なかったようです。難しい年頃ですから」

「最悪じゃの」

殿下が顔を顰めた。


「まあ美濃攻めで武功を上げれば少しは余裕が出ましょう」

「そうであって欲しいものよ。朝廷はそなたとは良好な関係を結んでいるのじゃ、息子の代になって悪化しては困る」

まあ本心だろうとは思う。公家が一番恐れるのは戦乱で次に恐れるのは武家との関係悪化だ。当代との関係は円満なのに次代との関係が円滑を欠くなんて事に成ったら左大臣は関白をクビだな。


「ご案じなさいますな、弥五郎には良く言って聞かせます」

太閤が頷いた。

「そうしてくれるか。麿も公家達には注意しておく、武家を試す様な事はするなとの」

目の前には淡海乃海が陽の光を浴びてきらめく。天下泰平にはまだまだだな。何時かはのんびりとこの風景を見たいものだ……。


「次は御大典じゃの」

「はい」

「二代に亘って亜相が費用を用立てるか、不思議なものよ」

太閤殿下が呟いた。確かに不思議だ。あの時は朽木が費用を出すと思った人間は居なかっただろう。だが今では朽木が費用を出すのが当たり前の事になっている。天下に一番近い所に居る、そう思った。




天正四年(1580年)   九月下旬      近江国蒲生郡八幡町 八幡城  

朽木堅綱




「では鷺山殿が幽閉されたと」

問い掛けると小兵衛が畏まった。

「はっ、三介様を廃嫡し三十郎様を当主にと企んだという噂が尾張にて流れました。三介様はそれを重く見たようにございます」

評定の間にざわめきが起こった。大評定の参加者が皆驚いている。


「織田家中では鷺山殿幽閉に反対する者が多かったようにございますが三介様はその反対を押し切って幽閉したそうにございます」

父上の御顔を見た。平静な表情をしている。父上の仕掛けた調略は見事に決まった。三介殿は引っ掛かった。

「三介様は鷺山殿を焚き付けたのは御屋形様だと思っておられます」

皆の視線が父上に向かった。


「三介殿では如何にもならぬと文を送ったのは確かだ。だが鷺山殿はこちらの狙いには乗らなかった。なかなか聡明な女性だ。こちらの狙いを見破ったと見える。だが三介殿はこちらの狙い通りに動いてくれたな」

「……」

「さて、如何する?」

父上が私を見ている。皆の視線が私に集まった。


重い、と思った。視線が、決断を下さなければならないという事がこれほど重いとは思わなかった。口中が粘着(ねばつ)くような感じがする。

「美濃に出兵します」

皆が父上を見た。父上が頷く。

「……良かろう。兵は多目に連れて行け。この時期では兵糧攻めは出来ぬ。稲葉山城は堅城、無理攻めでは落ちまい。包囲して敵の意志を挫くしかない」

「はい、御教示有難うございます」

「焦るなよ、焦らずとも勝てるのだ」

「はい」

「それと稲葉山城を攻略出来ずとも戦は年内に終わらせよ、寒くなれば雪が降る、酷い事に成るからな」

「はい」

出陣だ、年内に美濃攻めを終わらせる!




天正四年(1580年)   九月下旬      近江国蒲生郡八幡町 八幡城  

朽木基綱




大評定の後、自室に戻って茶を飲んでいると小夜と綾ママがやってきた。二人とも心配そうな表情をしている。やれやれだわ。

「弥五郎殿、竹若丸が美濃攻めを行うと聞きました。大丈夫なのですか?」

「大丈夫だと思いますが」

敢えておっとりと答えた。綾ママにとって弥五郎は何時まで経っても竹若丸なんだろうな。俺とは上手く行かなかったから随分と可愛がっていた。


「本当に良いのですか? そなたが兵を率いるべきでは有りませぬか?」

「弥五郎も既に十五歳です。独り立ちして良い頃でしょう。なあに、心配は要りませぬ。弥五郎は初陣も済ませていますし周りには頼りになる家臣達も居ります。大丈夫です。小夜も余り心配するな」

事も無げに言ったが二人の表情は変わらない。何で? 以前に弥五郎にやらせるって言ったのに。


「気休めを言っているのではありませぬか」

「そんな事は有りませぬ」

気休めを言ったつもりは無い。弥五郎は勝てる筈だ。美濃領内の国人衆はその殆どが朽木に内応したのだ。出入り口の不破郡は不破太郎左衛門尉と竹中久作が味方に付いた。美濃領内には簡単に侵攻出来る。


そして土岐郡小里城の小里出羽守光忠、郡上郡木越城の遠藤新右衛門、新兵衛兄弟。その一族で郡上郡八幡城の遠藤左馬助、武儀郡鉈尾山城の佐藤六左衛門尉、下石津郡今尾城の高木彦左衛門が弥五郎に味方する。敵になりそうなのは可児郡金山城の森三左衛門尉ぐらいのものだ。東美濃の遠山七頭は中立を守ると言ってきた。朽木と敵対したくは無い、だが織田を裏切りたくも無いという事らしい。十分だ、三十郎に味方は居ない。後は時間との勝負だ。雪が降るか否か、弥五郎の運だな。


「最近忙しい日々が続いたので湯治(とうじ)に行こうかと考えています」

「湯治?」

綾ママと小夜の二人が声を揃えた。顔を見合わせている。

「伊勢国に鹿の湯温泉というなかなか良い温泉が有るそうです。十月の半ばから一月ばかりそこに行ってこようかと」

「……」

「母上、一緒に行きませぬか? 小夜も如何だ?」


兵を三千程連れて行こう。鹿の湯温泉は三重郡菰野村にある。東へ進めば尾張はすぐ傍だ。高が三千だが伊勢の国人衆を呼び集めれば忽ち一万は超えるだろう。俺が伊勢に居れば簡単には美濃に兵は出せない筈だ。美濃の三十郎を見殺しにすれば三介は家中の信を失う。これ以降の織田攻略は容易になるだろう。頑張れよ、弥五郎。俺が助けてやれる事はこのくらいだ。後は自分で何とかしろ。


温泉には伊賀の連中も呼ぼう、それと風間出羽守も呼んで皆で仲良く裸の付き合いだ。相談役の爺共も連れて行こう。三十年近く働いて来たんだからリフレッシュ休暇を取っても良い筈だ。それに小夜と結婚して二十年だ、(ねぎら)ってあげないとな。




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[良い点] 前に50話過ぎまで読むのが止まっていて、最初の出来事なども押さえようと思い1話から再読しています。 2週間ちょいかけて150話を超えました。誤字脱字が見られずよく推敲されていて読みやすく、…
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