侮り
天正四年(1580年) 九月上旬 山城国久世郡 槇島村 槇島城 朽木基綱
「御用が有るのでしたら某が仙洞御所に伺いましたものを」
「特に用が有るわけではないのです。以前からこの槙島城を見てみたいと思っていて……、本当に不思議です。この城は池の中に浮いているのですね」
目々典侍、千津叔母ちゃんが感慨深そうな声を出した。城を見に来た? 帝が譲位したからな、暇なのかもしれん。
「謀反が有っても簡単に攻略される事は無いと思って京での常宿にしております」
「まあ、やはり武家の方は私達とは考える事が違うのですね」
千津叔母ちゃんが可笑しそうにコロコロと笑った。弥五郎は困った様な顔をしている。そんなに可笑しいかな、武将なら当然の用心だと思うんだが。本能寺は御免だぞ。
「今回の譲位、本当に有難うございました。院も非常に御慶びです。亜相こそ朝家の重臣、これからも宜しく頼むと仰せられました」
「本来ならもっと早くに譲位をお勧めせねばならぬところ、そのような御言葉を頂くとは勿体無い限りにございます」
頭を下げると弥五郎も頭を下げた。あれかな、これで終わりにしないでねという念押しかな? 一応禁裏御料を一万石増やしたから仙洞御所の維持は問題無い筈だ。二、三年後にもう一万石増やそう。一気に増やすと金銭感覚がおかしくなるからな、少しづつだ。
「諸大名からも祝いの使者が参りました。これも亜相様の御力の御蔭です」
「未だ天下平穏ならず、申し訳ない事と思っております」
千津叔母ちゃんが困った様な顔をした。
「いえ、そのような意味で言ったのでは有りません。悪く思わないでください」
「いや、某も皮肉を言ったつもりは有りませぬ。本心からそう思っております」
「まあ」
俺、弥五郎、千津叔母ちゃんの三人で笑った。
今回の譲位で諸大名から祝いの使者が来た。上杉、毛利、三好、大友、龍造寺、松永、内藤、織田、伊達、徳川等だ。何処も献上品、献金付だ。朝廷にとっては久々の慶事を諸大名が祝ってくれた事になる。嬉しい限りだろう。だが島津からは来ない。義昭が居るからな、俺が後ろ盾になっている帝には使者が出し辛いらしい。大体島津は未だに元亀の年号を使っている。何を考えているんだか、俺の島津への心証は最悪だぞ、いずれはその報いを受ける事になるだろう。
「新大典侍様も喜んでおいででした。長い間、院を御支えしてきましたから……、このような日が来るとは思わなかったと……」
「御具合が良くないと伺いましたが?」
「ええ、それも有って院は譲位を望まれたのです。新大典侍様に少しでも楽をさせたいと」
しんみりとした口調だった。院にとって新大典侍は正妻、千津叔母ちゃんはそれに匹敵する存在だった。院も二人の扱いには随分と気を遣っただろう。だが上手くやったのだろうな、千津叔母ちゃんからは新大典侍への悪感情は感じられない。
「今回、東宮が空位となりました。亜相様は如何思われますか?」
東宮? 東宮と言ってもな、新帝の皇子は幼い筈だが……。
「さて、皇子様方は未だ幼い筈。いずれは定めねばなりませぬがもう少し後でも宜しいのではありませぬか?」
「それは康仁様を東宮にと?」
千津叔母ちゃんがこっちをじっと見ている。康仁様? 権典侍、つまり飛鳥井の尭慧伯父の娘が生んだ皇子の事だが……。良く分からんな、康仁様の上には兄が三人居る。如何いう事だ? 朽木は皇統に関わらないと以前言ったんだが。……リップサービスかな。
「別に康仁様に拘る事はございますまい。東宮はいずれは帝の地位に付かれる御方、それに相応しい御器量の方を選ばれれば宜しいのでは有りませぬか」
「それで宜しいのでございますか?」
「……叔母上、お忘れの様ですが某は以前皇統に関わるつもりは無いと申し上げた筈ですぞ」
千津叔母ちゃんが息を吐いた。
「忘れてはおりませぬ。ですがあの時と今では状況が違います。あの時は三好家、毛利家が健在で幕府も有りました。朽木家は大きいと言っても畿内、北陸の一部に勢力を持つ大名に過ぎなかったのです。でも今は違います、畿内、山陽、山陰、四国を押さえ天下の半分を従えているのです。そして朝廷を支えているのは間違いなく朽木家。院も帝も亜相様の意向を気にせざるを得ませぬ」
つまり、千津叔母ちゃんが此処に来たのはこれが目的か。院、帝に頼まれたのだな。或いは頼んだのは新大典侍か。うん、まあ気持ちは分かる。でもなあ、そんな事気にしなくても……。弥五郎の顔には喜色が有る。いかんな、はっきりさせておこう。
「朽木は皇統に介入する意思は有りませぬ。朽木は武家です。武家は帝を守り朝廷を守り民を守り国を守るのが役目と心得ております。当家への配慮は無用の事、いずれの皇子様が帝になられましても武家としての役目を果たす所存にございます」
「信じて宜しいのですね」
「如何にも。朽木は平氏とは違います。そのように院、帝にお伝えください」
千津叔母ちゃんがじっと俺を見た。そしてホウッと息を吐いた。
「安堵致しました。その御気持ちを忘れないで頂きたいと思います」
「御心配には及びませぬ。某だけではなく弥五郎にも伝えておきます」
千津叔母ちゃんが頷きそして顔を綻ばせた。
「年が明ければ内大臣に御昇進ですね、おめでとうございます」
「有難うございます。まあ一月ほどで辞職するつもりでおります」
叔母ちゃんが目を見開いた。弥五郎も驚いている。
「宜しいのですか?」
「構いませぬ。内大臣になったという事で十分です。某が居座っては公家の方々が遣り辛いでしょう」
千津叔母ちゃんが“まあ”と言って笑い出した。冗談じゃないよ、本心だ。一度その地位にあった、それで十分。俺の後任は関白殿下、近衛前久の息子の前基だ。幼名は明丸、そう朽木に亡命していたあの明丸君だ。来年は数えで十七歳、それで内大臣だ。参るね。
「飛鳥井の兄も従一位に昇進する事となりました」
「ほう、従一位ですか。では?」
「はい、数年のうちに儀同三司へと進む事になると思います」
「それは目出度い」
儀同三司、准大臣か。二代続けてとなれば飛鳥井家は准大臣にまで進む家という事が定着だろうな。飛鳥井家の家格は羽林家だがその中でも上位に位置する事になる。
「弥五郎殿にも官位をというお話が出ています」
「弥五郎にですか?」
「はい、亜相様が土佐に居られる間は随分と苦労されたと聞いております。院も帝もそれに報いたいと考えておいでなのです。年明けに従五位下山城守、如何でございましょう?」
「弥五郎は若年、畏れ多い事にございます」
「亜相様、遠慮は無されますな。弥五郎殿は朽木家の跡取り、それなりの立場が要りましょう」
上手いやり方だ、辞退させ難くしている。弥五郎は表情を消すのに懸命だ。
「弥五郎、良かったな」
「大叔母上、有難うございます!」
弥五郎が喜色を浮かべて深々と頭を下げた。官位を貰う事が嬉しいのか、それとも認められた事が嬉しいのか……。千津叔母ちゃんが満足そうな表情をしていた。やれやれだな。
天正四年(1580年) 九月上旬 山城国久世郡 槇島村 槇島城 朽木堅綱
大叔母上が仙洞御所にお戻りになられると父上が家臣達を集められた。黒野重蔵、蒲生下野守、田沢又兵衛、小山田左兵衛尉、安養寺三郎左衛門尉、荒川平九郎、浅利彦次郎、甘利郷左衛門、竹中半兵衛、山口新太郎、飛鳥井曽衣……。
「御屋形様、如何なされました?」
「うむ、弥五郎が官位を授かる事になった」
父上と下野守の会話に皆が声を上げた。
「おめでとうございまする」
半兵衛の言葉に皆が“おめでとうございまする”と唱和してくれた。
「うむ、皆が力を貸してくれたおかげだ」
本当にそう思う、私一人では何も出来なかった。特にこの場にはいないが伊勢兵庫頭には随分と頼った。後で礼を言わなければ……。
「それで、どのような官位を?」
父上に視線を向けたが何も仰られない。
「従五位下、山城守だ」
私が教えると“従五位下”、“山城守”という声が聞こえた。ざわめく中、父上が“不思議な話よ”と仰られた。面白くなさそうな顔をしている。皆が父上を見ていた。
「俺の後を継ぐなら大膳大夫でも良い、或いは朽木は近江が本拠なれば近江守でも良い。まあその場合は従五位下では不足だが従五位下に拘る事も無い。いっそ左馬頭というのも有るな。次の天下人だと朝廷が認めるという事だ。だが山城守だ。弥五郎、如何見る」
「……京を、朝廷を守れという事でしょうか?」
答えると父上が笑った。
「そうだな。或いはその方の心を獲り思う様に使おうというのかもしれぬ」
「……」
「先程の叔母上の話を思い出すが良い。院も帝も朽木が皇統に口を出すのではないかと不安視しているのだ。その方を宮中の影響下に置こうと考えてもおかしくはない」
皆が不思議そうな表情をしたので次の東宮様の件を話した。何人かが頷いている。
「はっきり言っておく。朽木は皇統に介入はせぬ。そして帝の許に娘を送る事もせぬ。朽木は武家だ、その事を忘れてはならぬ」
父上が厳しい御顔をしている。
「畏れながら何故でございましょう。朽木の家にとっても名誉な事と思いまするが?」
問い掛けると父上が首を横に振った。
「真に名誉な事なら何故叔母上が案じるのだ?」
「……それは」
「叔母上も朽木が皇統に介入するのは危険と見ているのだ。弥五郎、宮中は帝と藤原を中心に動いている。それ以外の者が皇統に関わり宮中の序列を乱す事を酷く忌み嫌う。曽衣の前でこのような事は言い辛いがあの者達は何処かで武家を蔑んでいる。頼りにはしても蔑んでいるのだ。それを忘れてはならぬ」
「……そんな事が」
本当に有るのだろうか? 曽衣は苦笑をしている。半信半疑でいると父上が軽く笑い声を上げた。
「平氏が滅んだのを忘れたか? 平氏は皇統に介入し思うがままに栄誉を極めた。だがあっという間に滅んだ。平氏の血を引く安徳の帝も道連れにな。朽木が皇統に関わって滅ぶ時は飛鳥井も滅ぶ。叔母上が恐れているのはそれだ」
「……」
父上の表情が厳しくなった。
「公家に力はない。だがあの者達は様々な所と繋がっている。その影響力を甘く見てはならぬ」
皆が父上の言葉に頷いた。曽衣はもう笑っていない、厳しい表情だ。
「御屋形様は手強いとみて若殿に目を付けた、そういう事ですな?」
「その可能性はあるな、曽衣」
「父上、それは……」
問い掛けると父上が軽く笑みを浮かべられた。
「その方は俺の跡取りとして周りに認められたがっている。その辺りを公家達も感じ取ったのかもしれん。院、帝の意向と言っているがそうでは有るまいな。誰が考えたのかは知らぬが官位を授ける事でその方の心を獲ろうとした」
「なんと……」
悔しかった。認められたのではない、利用しようとされたのだ。
「大叔母上も御存じなのでしょうか?」
「如何かな? 知っていたかもしれぬ。知っていて進めたとすれば例えどのような狙いが有ろうとも朽木と朝廷の繋がりを密にすべきだと思ったのであろうな」
「……」
「俺は叡山を焼き討ちした、一向門徒を根切りにもした。そういう物騒なところがあるからな、公家達は不安なのだ。それに比べればその方は扱い易い、そう思ったのだろう。その方の力を使って俺を抑える、そんな事を考えたかもしれぬ」
私と父上の対立を狙ったのか。
「……父上、官位は辞退したいと思います」
「くれると言うのだ、遠慮せずに貰っておけ」
「ですが」
「大きな声を出すな」
「申し訳ありませぬ」
父上が顔を顰めている。思わず声が大きくなっていた。だが官位を貰う事は出来ない、公家達に笑われるだけだろう。
「相手がどういう意図を持っているのか、それを理解していれば良いのだ。それに俺が言った事も本当かどうかは分からぬ。俺がそう疑っているというだけだ。知らぬ振りをして貰っておけ。辞退などすれば却って警戒される」
「……なりませぬか? 口惜しゅうございます」
涙が零れた。元服してから色々と学んだ。政の厳しさ、調略の汚さも父上から学んだ。足りぬ事は分かっている。でも侮りを受ける事は我慢出来ぬ。それくらいなら警戒された方がましだ。
「困ったものよ、どうしても我慢出来ぬというなら辞退すればよい。俺は止めぬ。時間は有るのだ、ゆっくり考えるが良い」
「はい、有難うございます」
頭を下げた。受け入れられない、これ以上甘く見られたくない……。
「若殿には武功が足りませぬな」
「三郎左衛門尉殿の言う通りだ、武功が足りぬ。公家達が若殿を軽んずるのもそれが有ろう」
安養寺三郎左衛門尉、田沢又兵衛の言葉に皆が頷いた。その通りだ、武功が足りぬ。毛利攻めでは武功は何一つ上げられなかった。
「美濃攻めは弥五郎に任せる」
「父上、……宜しいのでございますか? 某は……」
「朽木は天下を獲る、そのために織田を喰う。それさえ押さえておけば良い。調略も戦も俺の許しを得るまでも無い、好きにやれ」
「父上……」
嬉しかった。父上は私を案じてくれる。
「小兵衛から今一度美濃、尾張の状況を良く聞くのだな。期待しているぞ」
「はい」
必ず、必ず期待に応える。そして皆を見返して見せる。必ずだ。
天正四年(1580年) 九月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城
朽木基綱
「久しいな、出羽守」
「はっ」
京から戻ると風間出羽守が待っていた。相変らず大きな男だ。この男を見ていると羨ましいという気持ちと同時に何とも楽しくなってくる。どんな忍びなのかな? 一瞬で五人くらい打倒しそうな逞しさだ。そういうシーンを見てみたい。まあ無理だろうけど。
「何が有った?」
「徳川の手の者が密かに奥州の蘆名の元に」
「……徳川からか、蘆名の反応は?」
「蘆名からも徳川に使者が」
出羽守は視線を伏せている。フム、どうやらこれがこの男の報告のスタイルらしい。
徳川と蘆名が連絡を取っている……。
「両者とも周囲に知られぬようにと大分気を遣っておりまする」
「何故気付いた?」
「徳川からの使者は旧武田の透破者にござる」
出羽守が視線を上げニヤリと笑った。なるほどね、風魔の意地か。怖いわ、こいつ。でもそこが良い、痺れる。伊賀からも蘆名の動きについて報告が来るかな? 来なければ風魔から報告が有ったと教えてやろう。必死になる筈だ。
「狙いは何かな?」
「対上杉の同盟かと。上杉家は今年も秋の収穫後に関東への出兵を計画しております」
「関東に出た所を蘆名が越後に攻め込むか。上手く行けば徳川は引き返す上杉の後背を突けると考えたか……」
「おそらくは」
蘆名と上杉か、確か史実でも関係は良くは無かったな。
「蘆名は代替わりが有ったな、後を継いだのは左京亮……」
「盛隆にございます」
「うむ、養子であったな」
「はい」
出羽守が頷いた。養子か、権力基盤は脆い筈、外征に出るのは武勲を上げて家中での統率力を上げようとしてか。……何処も一緒だな、思わず笑い声が出た。出羽守が訝しげに俺を見ている。
「如何なさいます、上杉に報せますか?」
「上杉は気付いておらぬのか?」
「おそらくは」
「……止めておこう」
「……」
出羽守がじっと俺を見ている。
「案ずるな、出羽守。上杉弾正少弼はそう簡単に負ける男ではない。ここは婿殿の力量に期待しようではないか」
出羽守が頭を下げた。
蘆名左京亮、上杉弾正少弼、織田三介、徳川甲斐守、朽木弥五郎、そして俺。皆戦っているのだ。この乱世で自分の足で立つために戦っている。絶対など無い、誰が生き残れるかは決まっていない。弥五郎、負けるなよ。お前は俺と共に乱世を終わらせるのだから……。