謀殺
天正四年(1580年) 七月中旬 周防国吉敷郡上宇野令村 高嶺城 小早川隆景
「では安芸の一揆は終りか」
「はい、安芸の明智十兵衛から文が届きました。門徒達も薩摩に移る事に同意したそうでございます。もっとも受け入れねば兵糧攻めが再開されましょう。地獄を味わいましたからな、到底意地は張れませぬ」
恵瓊が数珠をシャラシャラと鳴らした。痛ましそうな表情をしている。弔いのつもりなのであろう。蝉の鳴き声が部屋の中まで届く、暑くなってきた。これから益々暑くなるだろう。
用意してあった真桑瓜を一切れ口に運んだ。良く冷えている、水で十分に冷やしたらしい。甘い、何とも言えぬ。恵瓊も同じ様に真桑瓜を一口食べた。
「何とも言えませぬな」
「そうよな、こればかりは堪らぬ」
二人で笑った。
「愚僧はこれの漬物に目が有りませぬ。何とも歯ごたえが」
「確かに、あれも美味い」
更に笑った。蝉の鳴き声も気にならない。暫く二人で真桑瓜に舌鼓を打った。話を再開したのは真桑瓜を十分に堪能してからだった。
「大分酷かったらしいな」
「はい、城内では食べる物が無く屍を喰いあったと聞いております。根切りよりも惨うございます」
恵瓊が顔を顰めた。
「どれ程死んだのだ?」
「三千人程が餓死したとか。蒸し暑い時期でございますからな、余計に酷かったようで」
「……」
三千が餓死しその屍を残り者が喰い合った。喰った者も喰われた者もおぞましい限りであろう。あの吉田郡山城でそのような惨劇が起ころうとは、……何ともやり切れぬ事だ。
「顕如も唯順も罪深い事よ」
「真に、そして朽木は厳しゅうございます。誓いを破った者に対し容赦はしませぬ」
「うむ、その事は我らも胆に銘じなければならぬ」
「はい」
恵瓊と二人、互いに頷いた。朽木は決して仕え辛い主では無い。その事を考えれば裏切るのには余程の覚悟がいる。
安芸では一向宗の寺は全て破却された。誓いを破った以上当然の処置であろう。そして門徒達は九州へと移る。安芸から一向宗は排除された。根切りと同じ結果になったのだ。百姓にとって土地を手放して住み慣れた国から追放される事は死にも等しい苦痛であろう。今頃どんな気持ちでいるか……。
「これで毛利内部も落ち着こう」
「左様でございますな。右馬頭様も一安心と言ったところで」
「そうよな」
毛利家中に安芸門徒に同調しようとする者達が居た。これを機に門徒達と協力し安芸を取り戻そうと言いだした。権大納言様が土佐に遠征中である事も彼らを勢い付けた。何度も朽木を甘く見るなと言ったが納得しない。門徒達が吉田郡山城を奪取した時にはその動きは毛利を突き動かしかねない程に高まった。危ない所であった。
だが吉田郡山城に兵糧が無いと分かった時からその動きは急速に勢いを失った。門徒達は嵌められたのだ。朽木は油断していない。その事が実証された。そして安芸には播磨、備前、備後等から続々と朽木勢が集結した。誰の目にも勝敗は決したと見えた。一揆に同調し朽木を攻撃しようという声は何処からも聞こえなくなった。
それに代わって起こったのが一揆勢に兵糧を援助したい、朽木と一揆勢の間を取り持ちたいという声だった。一体何を考えているのか! 門徒達は朽木との誓いを破ったのだ。その者達への肩入れなど毛利を危うくする物でしかない。余りにしつこく言い張る何人かには顕如の使者が来ていた。已むを得ず上意討ちで殺さざるを得なかった……。
「島津は良く受け入れたものよ」
「聞くところに拠りますと島津修理大夫は当初門徒達の受け入れに反対したそうにございます。安芸の門徒が起ち上がったのはあくまで顕如が指示した事、島津には関わり無しと」
「本心かな? 全く関わらなかったとも思えぬが」
恵瓊が笑いながら“それは有り得ますまい”と言った。私もそう思う、顕如は何とか自分の価値を島津に認めさせたかった筈だ。必ず修理大夫に伝えただろう。そして修理大夫もそれを認めた筈。
「見殺しにしたかったのでございましょうがそれをすれば島津が面目を失い頼り無しと皆に思われるのは必定。今後の調略にも影響が出るのは間違い有りませぬ。それに公方様、顕如殿も受け入れるようにと修理大夫を説得したとか。修理大夫は已むを得ず受け入れに同意したそうにございます」
受け入れ反対は当然であろう。一万五千以上の一向門徒を受け入れる等尋常ではない。しかし確かに見殺しにすれば島津の面目は潰れる事に成る。苦渋の決断であろう。
「或いは一度反対する事で顕如に釘を刺したつもりかな。島津の恩を忘れるな、勝手な真似をするなと」
恵瓊が頷いた。
「左様でございますな。十分に有り得ましょう」
一万五千以上の門徒が従順になるなら島津にとっても旨味が有る。兵として使うか、百姓として使うか、だが一カ所には纏めぬであろう。幾つかに分散して置く筈。一体何処に置くのか……。
「土佐が片付き安芸も片付きました。朽木は大分身軽になりましたな」
「そうだな、これで東に専念出来よう」
「織田攻めですな」
「うむ、そして徳川を攻める」
織田が落ち着かぬ。家督争いは終わったようだが当主となった三介はその力量を危ぶまれているらしい。そして織田に属していた徳川が自立しようとしている。暫くの間九州は大友、龍造寺、島津の争いが続くだろう、その間に東を切り取る筈だ。
「狙いは金、ですな」
恵瓊が私をじっと見ている。
「おそらくはそうだ、駿河、伊豆、甲斐であろう。朽木には銀は有る。だが金が無い。朽木が天下を治めるには銭を造らねばならぬと権大納言様は考えておられる。そのためには金が足りぬ」
「上杉が乱れた時も有りましたが……」
恵瓊が小首を傾げた。頭の大きい恵瓊が首を傾げると頭が転げ落ちそうに見えた。危ない、危ない。
「あの時は畿内を十分に押さえていなかった。そして山陰、山陽も敵対していた。その状況で上杉攻めは出来ぬ。むしろ娘を嫁がせて支える事で朽木に依存させようとしたのであろう」
「そうですな」
「今乱れたのが上杉なら上杉攻めを行った筈。上杉は命拾いをしたな」
「真に」
恵瓊が大きく頷いた。
「ところで藤四郎と次郎五郎を近江に送る事にした」
恵瓊が眼を瞠って驚いている。この坊主でも驚く事が有るらしい。
「それは、人質という事でございますか?」
「うむ、此度の事で毛利家中には朽木に臣従したのだという事を認めたがらぬ輩が居る事が分かった。それらの者に現実を見せねばならぬ」
「なるほど」
恵瓊が頷いた。藤四郎は我が養子、次郎五郎は兄上の三男。右馬頭に子が居ない以上我らの子を出すしかない。
「朽木は人質を取りませぬぞ」
「分かっている。中央に出す事で見聞を広めさせたい、そういう名目で権大納言様の傍に置こうと思っている」
「なるほど、それは良いかもしれませぬ」
恵瓊が“ウンウン”と頷いている。そして私を見た。
「権大納言様が土佐へ出兵中の間、朽木の政は御嫡男弥五郎様が執っておられます。勿論重臣達の補佐を受けての事でしょうが弥五郎様の御器量に不安の声は上がっておりませぬ」
「ほう、では権大納言様よりもそちらの方が良いかな」
「はい、それも一つの手かと」
「分かった、兄上、そして右馬頭様に相談してみよう。送るのは譲位が終わってから、直ぐに送ってはあちらも迷惑であろうから冬になると思うが……」
嫌とは言うまい。上手く行けば毛利は次代の朽木家当主と強い絆を結ぶ事が出来よう……。
天正四年(1580年) 七月下旬 山城国久世郡 槇島村 槇島城 朽木基綱
小勢で四国から先に京に戻ると槙島城では弥五郎が待っていた。
「お帰りなさいませ。御無事でのお戻り、心から御慶び申し上げまする」
「うむ、留守中は良くやってくれたようだな。感謝している」
弥五郎が顔を赤らめた。
「いえ、大した事は」
「謙遜には及ばぬ。皆から聞いている。大変であっただろう」
「はい」
今度は素直に頷いた。実際良くやっていると思う。今も関白殿下と打ち合わせの為に京に来ているのだ。弥五郎は京の公家衆とも顔馴染みになりつつあるらしい。
「譲位は八月の下旬か」
「はい、盆が明けてからとなります」
「となると直ぐに御大典の準備をしなければならん」
「はい」
御大典は十一月に行われるから九月、十月で準備をしなければならない。忙しくなるな。
「父上」
「うむ」
弥五郎が姿勢を正した。
「関白殿下が帝の譲位の後、関白の職を辞したいと仰られております」
「真か?」
「はい」
関白殿下が辞職か。……帝の譲位に殉ずるという事だな。そう言えばずっと殿下が関白だった。いや待てよ、新帝と上手く行っていない、そういう事も有るのかな?
「殿下は隠居されるのかな?」
「はい、そのように見受けました」
「そうか、……後任は左大臣だな?」
「はい、九条左大臣が関白となられます」
「となると一条右大臣が左大臣か?」
「はい、正月の除目で」
「正月の?」
弥五郎が頷いた。
「それまでは左大臣が関白職を兼任する事になるそうです」
「なるほど、関白左大臣か」
「はい」
新帝は人事の刷新を急いではいない。となると殿下の辞意はあくまで殿下個人の理由と見て良いのかもしれん。念のために確認しておこう。新帝が殿下に不快感を抱いているとするとその感情は朽木にまで及んでいる可能性が有る。後任が九条、こいつは足利義昭よりの二条晴良の息子だ。弥五郎には無理だな、俺が直接殿下に確認しよう。
「殿下から伺ったのか?」
「はい、年が明ければ右大臣が左大臣へ、内大臣が右大臣へとなられます。その折、後任の内大臣には父上をとの事でした」
「俺を?」
「はい」
おいおい、良いのか、それ。もしかすると関白辞任はそれが目的か?
「その上で奨学院、淳和院の両別当を兼任し源氏の長者になられるようにと」
「……」
「これまでは久我氏、或いは足利氏が源氏の長者でありました。ですが父上が天下を目指すのであれば源氏の長者になるべきであると」
「なるほどな」
源氏の氏の長者か。足利では無く朽木が長者になる。譲位、内大臣就任、氏の長者。先に進めと言っている。
「殿下は他に何か仰っていたか?」
「楽しみだと」
「……楽しみか」
「はい、何処まで行くのか先を見届けたいと」
「そうか。……重いな、また一つ重荷を背負う事に成った」
「父上……」
弥五郎が心配そうに俺を見ている。
「大丈夫だ、弥五郎。そのような顔をするな」
「申し訳ありませぬ」
「天下は簡単に獲れるものではない。苦労するのは当たり前の事だ。そうだろう?」
「はい」
「譲位を無事に終わらせ東へと向かう。その方にも手伝ってもらうぞ」
「はい!」
弥五郎が力強く頷いた。頼もしくなってきたな。
天正四年(1580年) 八月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城
朽木基綱
近江に戻り暦の間で皆の挨拶を受けていると大事が起きたと小兵衛が駆け込んできた。酷く緊張している、余程の大事が起きたらしい。畿内は忙しいな、土佐の青い空が懐かしいよ。
「小兵衛、何が起きた」
「はっ、稲葉山城の織田三十郎殿が西美濃三人衆を討ち果たしました」
シンとした。皆が顔を見合わせている。帰って来るなりこれか、頬を引っ叩かれたような気がする。
「小兵衛、今少し詳しく頼む」
「申し訳ありませぬ。ここ最近、織田家では織田三十郎を三介様の後見にという意見が上がる一方で織田三十郎が西美濃三人衆と共に自立を図っているという噂が流れておりました」
まあ、あれだな。三十郎が邪魔だから噂を流して追い詰めたわけだ。その辺りは報告を受けている。
「織田家では徳川を討つべしという意見が強かったのですが三介様が兵を出さなかった理由の一つに織田三十郎への疑念が有ったからでございます。織田家中ではその事に不満を持つ者もおりました」
良いんじゃないの、叔父が信じられなくて兵が出せないなんて最高だ。家臣達もうんざりしただろう、このグズを担いで乱世を生き残るなんて無理だと。もっとも出兵して実際に謀反が起きたら、そして尾張を獲られたら皆我先に三介を見離しただろうな。三介は近くの寺で腹を切る事になった筈だ。なんて可哀想なんだろう。でも織田家にとってはその方がベストだろうな。
「織田三十郎は三介様の疑念を理解しておいででした。そして自分が危険だとも理解していたようです。今後の事を相談したいと西美濃三人衆を何度か稲葉山城に呼び出しました。そして討ち果たした……」
「迷ったという事でしょうか。そして謀反を諦め三人衆を討ち果たした」
弥五郎が小首を傾げている。
「それなら良いがな」
「父上?」
弥五郎が訝しげに俺を見た。
「最初から殺すつもりだったのかもしれん。迷った振りをして三人衆に希望を与えた。そして彼らの心の隙を突いた。自らの身の潔白を証明するとともに美濃の不安定要因である三人衆を取り除いたのだとしたら?」
「まさか」
「そのまさかよ、国人衆に対しては恫喝であろうな。織田を裏切ればどうなるか、良く見ておけと。怖いものよな」
弥五郎が蒼白になった。
「父上、それでは某は……」
「三十郎を追い詰め排除するつもりが上手く利用されたという事だ。織田三十郎、やりおるわ。……そんな顔をするな、弥五郎。まだ終わってはおらぬ」
弥五郎は泣き出しそうな顔をしている。嵌めたつもりが上手く利用された、屈辱を感じているのだろう。
「確かに三十郎は上手く切り抜けた。織田家中では三十郎に対する評価と信頼が強まるだろう。織田弾正忠殿が生きていれば三十郎は安泰であろうな。だが三介殿は弾正忠殿では無い。三十郎を畏れ不快に思うだろう。今まで以上に三十郎を排除したいと思う筈。そして美濃の国人衆は間違いなく三十郎に不信を持った。分かるか? 三十郎には新たな隙が生じた。今まで以上に調略をかけやすい状況になったのだ」
「……」
弥五郎は周囲が頷いている姿を見て何とか自分を納得させようとしているようだ。調略というのは簡単には成功しない、何度も諦めずに仕掛け続ける事が大事なのだという事を教えなければならん。
「これからだ、弥五郎」
「はい」
「諦めてはならん。一の矢が外れれば二の矢、二の矢が外れれば三の矢を放て。矢を射続けるのだ、相手を斃すまで」
「はい」
ようやく血の気が戻ってきたか。素直なのは良いが淡白ではいかん。少ししぶとさを憶えなければな……。調略とは一撃で仕留めるのではない、少しずつ追い詰めて動けなくするものなのだ。そう、蛇が獲物に絡みつき四肢の自由を奪いゆっくりと絞め殺すように……。