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息子




天正四年(1580年)   六月下旬      近江国蒲生郡八幡町 八幡城  

真田 恭




「土佐の方は片付きましたとか」

「ええ、島津との交渉も終わりそうだと御屋形様より文が届きました。直に御戻りになられましょう」

御裏方様がにこやかに答えられた。御屋形様との間には御子が五人、しかも男子がお世継ぎ様を筆頭に四人、落ち着き、貫録、押しも押されもせぬ御裏方様よ。


「では次は京へ?」

「そうなりますね、一度はこちらにお戻りになるかもしれませぬが暫くは槇島城に御滞在になりましょう。こちらに戻られるのは譲位が終わってからでしょうね」

「御屋形様も難儀な。……御裏方様も御寂しゅうございましょう」

「已むを得ませぬ。御屋形様は天下を目指すのですから」

声は平静だったが笑みは寂しげだった。この御方にこれから北条と今川の事を話さなければならない。そして御裏方様の了承を得なければ。なんとも気の重い事……。


「実は今川家、北条家の方々の事でございますが」

御裏方様が頷かれた。

「話は御屋形様より伺っております。御屋形様の御側にどなたかを仕えさせたい、そういう事ですね」

「はい」

ホッとした。御屋形様は御裏方様に御話ししておられた。


「どなたを?」

「はい、今川家からは園姫様を、北条家からは桂姫様をと」

「恭、園姫は……」

御裏方様が形の良い眉を顰められた。

「はい、北条新九郎氏直様の御正室であられました。龍姫様という御子がおられます」

ホウッと息を吐かれた。


「御不快であられましょうか?」

問い掛けると御裏方様が“いいえ”と緩やかに首を振られた。

「私も女ですから心穏やかとは言えませぬ。ですが園姫も辛かろうと思ったのです。子の為、家の為と思ってでしょうが……」

「……」

その通りだと思う。今のままでは今川は根無し草、そして龍姫様は有力な身寄りの無い娘になってしまう。それを避けるには園姫様が御屋形様の寵を受けるしかない。


「御許し頂けましょうか?」

「……園姫は確か武田の血を引いてはいませんでしたか?」

「はい、信玄公の御嫡男太郎様の姫君にございます」

「大丈夫だと思いますか?」

御裏方様が不安そうな声を出した。御裏方様も川中島の事を案じている。朽木家が武田家と直接戦った事は無い。だが武田家の衰退から滅亡には朽木家が強く絡んでいるのも事実。どうしてもその事が両家の関係に影を落とす。


「御心配には及びませぬ。園姫様には幼い姫君がおいでです。その方の行末を託すのは御屋形様が一番だという事を理解しておられます。それに今川家には他にも元服前の若君、姫君が居るのです。園姫様はその方々の事も考えておられます」

「それならば良いのですが……」

御裏方様が軽く息を吐かれた。


悋気(りんき)では有りませぬよ、御屋形様に負担をかけたくないのです。大方様が辰と篠を御屋形様の側室に薦められた時、私も雪乃殿もそれに賛成しました。二人が御屋形様を慕っている事も有りましたが身寄りの無い辰と篠には御屋形様の御側の方が幸せになれるだろうと思ったからです」

温井殿、三宅殿と呼ばれているお二方はそれぞれに姫君を儲けられ幸せに暮らしている。御裏方様の判断は間違っていない。


「ですが今になって思えば御屋形様に重荷を背負わせてしまったのではないかと思う時が有ります。世間には御屋形様を厳しいお方、非情なお方と(そし)る者も居ると聞きます。でもそれは政に対してです、御屋形様の本当の姿では有りませぬ。私の知る御屋形様は大らかで闊達なお方です。そして情の厚いお方でも有るのです。側室を子を産ませる道具と割り切れる御方では有りませぬ。辰と篠の事も本当に大切に扱っています。表で御疲れになっているのに奥でも御疲れになってはと思うと……。その辺りの事を園姫、桂姫が分かってくれれば良いのですが……」

御裏方様の御気持ちは良く分かる。御屋形様は些かお優し過ぎる所が有る。


「幸いでございますが園姫様、桂姫様は御心映えの優れた方とお見受けしました。きっと御屋形様の御心を癒して下さいましょう」

「それなら良いのですが……。園姫、桂姫が御屋形様の御側に侍る事に異議は有りませぬ。公家の方々にも今川家、北条家の扱いには関心を持っておられる方が少なくないそうです。これからは朝廷との関係も重視しなければなりませぬから無視は出来ませぬ。出来るだけの事をして差し上げなければ……」

御裏方様が一つ息を吐かれた。


「公家の方々と申されますと?」

意味が分からず問い掛けると御裏方様が微かに笑みを浮かべられた。

「今川家は公家の方々と強い結び付きを持っておられました。何人もの公家の方々が駿府へ下向し蹴鞠や歌会の催しに参加したそうです。それらの方々、その所縁の方々には朽木家と繋がりのある方もいらっしゃいます。山科様、葉室様、そして飛鳥井様等です。無碍には出来ませぬ」


「左様でございますね」

「そして北条家は伊勢家の一族です。伊勢家は政所執事を務めた家、当然ですが公家の方々とは繋がりが有る。こちらも無碍には出来ませぬ。そのような事をすれば伊勢兵庫頭殿の立場を弱める事になります」

「なるほど」

「恭、園姫、桂姫の事、御屋形様の事、頼みますよ」

「はい」

御屋形様が難儀ならば御裏方様も難儀な……。念のため、今一度園姫様、桂姫様の御心を確かめておいた方が良いかもしれない。




天正四年(1580年)   六月下旬      越後国頸城郡春日村  春日山城  長尾 綾




「父上、母上、御足労をおかけしました」

夫と共に息子の部屋に入ると息子が(ねぎら)ってくれた。関東から戻り上杉家の家督を継いだのがつい先日。それに伴い居を本丸に移し弟が二の丸に移った。今では息子が皆から御実城様と呼ばれ弟は御隠居様と呼ばれている。上杉家の当主という立場は決して楽ではないのだろう、今も難しい顔をしている。部屋には側近の樋口与六だけが控えて居た。


「織田の使者が来たと聞いたが?」

夫が問い掛けると喜平次がこくりと頷き“与六”と声をかけた。

「はっ。越前守様、御方様。某から説明させていただきまする。御存知の通り織田家では三介様が家督を継がれる事になりました。織田家では家督争いも終わったので華姫様に御戻り頂きたいと申しております。間もなく弾正忠様、勘九郎様の一周忌が行われます。その前に御戻り頂きたいと」

矢張りそれか……。夫が顔を顰めている。


「筋から言えば華を戻すべきであろう。一周忌の法要も出ぬようでは皆から(そし)られる事になる。しかし……、それだけか? 使者は他に何か言っておらなんだか?」

夫が喜平次と与六を交互に見た。

「御実城様の御話しでは織田家では華姫様にはそのまま織田家に御留まり頂き時期を見て三介様の御内室にと考えているようにございます」


おかしな話ではない。華が織田家に嫁いだのは織田と上杉の絆を強めるため、勘九郎様が亡くなられた以上次の三介様に嫁がせ絆を維持しようと考えるのは当然といえる。年回りもおかしくは無い。普通なら喜べる話では有る、織田家ほどの婚家は朽木家を除けば存在しない。だが素直には喜ぶ事は出来ない。夫の表情が益々渋いものになった。


「徳川の事を考えれば織田と結ぶのが一番ではある」

「ですが華は三介様を厭うております」

「そういう問題ではないのだ、綾。乱世なのだ、結ぶべき相手を間違えれば上杉家といえど滅ぶ事になりかねぬ。ここは御家にとって何が最善かを見極めなければならぬ……」

夫の言葉に喜平次が頷いた。


「戻すのは反対はせぬ。いや一周忌に出るために戻さねばなるまいが織田家に留め置くのは止めた方が良かろう。直ぐにこちらに戻した方が良い。三介様は華を妻に迎える事で己の立場を固めようとされているのであろうがどうにも頼りない。このままでは上杉の名を利用されるだけであろうな。それでは万一の場合華の身にも危険が及びかねぬ」

三介様で織田家は大丈夫なのか? 誰もがそれを不安視している。


「当家も御隠居様が御倒れになられた時は似た様な状況になった。三介様が当家を頼ろうとする御気持ちは良く分かる。我等とて権大納言様を頼る事しか(すべ)は無かった。幸い権大納言様は竹姫様をそなたに嫁がせてくれたが今思えば真に頭が下がる。余程の御覚悟であっただろう」

その御覚悟が三万人の行列になった。近衛家との養子縁組になった。亜相様は竹姫を嫁がせるために万全を期したと言える。


「当家に同じ事が出来るかと言われれば難しかろう。何より三介様の御立場が危う過ぎる。それに何処まで信じて良いか……。三介様が今少し御立場を確かなものに出来れば……。その時は改めて絆を深める手段を考えれば良いと儂は思う」

夫の考えを聞いて喜平次と与六が顔を見合わせた。

「父上、奈津から文が届いております。それによれば近江の舅殿は織田家を攻め滅ぼす御積もりではないかと」

「なんと……」

思わず夫と顔を見合わせた。夫も驚いている。


「権大納言様は土佐に兵を出しておられるが……」

「……」

「真か?」

「奈津の文にはそのように記されておりました。今手の者を美濃、尾張に走らせております」

夫が“うーむ”と唸り声を上げた。


「確かに西はあらかた片付いた。残っているのは九州のみ。東に目を向けてもおかしくは無いか。……となるとやはり軽々(けいけい)に織田とは縁を結べぬ」

「或いはでございますが権大納言様は織田では徳川に対抗出来ぬと見た可能性もございましょう。このままでは掻き回されるだけ、いずれ織田は徳川に滅ぼされると」

与六の言葉に夫が腕を組んで“有り得る事よ”と頷いた。


「如何かな、一周忌に華を参列させる。その際近江に寄らせて華を奈津に会わせては。色々と朽木家の内情が分かるやもしれぬ。それに織田家の内情も探れよう」

「しかし父上、織田家が華を帰すとは限りませぬぞ。三介殿が舅殿の動きに気付いていれば華を人質として押さえる事も有り得ましょう」

喜平次も与六も落ち着いている。既に夫の提案は想定済みだったのかもしれない。


「そうだな、無理に引き留める事も有り得るか……、尾張に出すのは危険やもしれぬ」

「出さぬ方が良いのではありませぬか。織田家には病と言いましょう。それなら角は立ちませぬ」

「まあ待て」

「ですが」

「落ち着け。病などと言っても誰も信じぬ。そんな嘘を吐いても意味が無い」

夫の言葉に喜平次と与六が頷いた。


「喜平次、いや御実城様。権大納言様が織田家を切り捨てにかかったとすれば御実城様は如何なされる。織田家を切り捨てるか、それともこれまで通り誼を維持して朽木家と敵対するか。或いは織田と朽木家の間を仲裁するか。伺いとうござる」

夫がぐっと身を乗り出して答えを迫った。父親としてではなく家臣として喜平次の当主としての覚悟を問い質している。


「織田は頼り無し、そして朽木家と敵対する事は出来ませぬ」

「ならば華の身の安全は朽木家に頼みましょう。朽木家の口添えが有れば三介様も無茶はされますまい。それに本当に危うければ朽木家が止める筈、それを理由に一周忌への出席を止めましょう」

喜平次が頷いた。

「良き御思案かと思いまする。では父上、母上、華の説得をお願いいたしまする。お二人の説得なら華も尾張へ行くことを嫌とは言いますまい」

あらあら、何時の間にやら随分と……。




天正四年(1580年)   七月上旬      近江国蒲生郡八幡町 八幡城  

朽木 奈津




暦の間から夫が戻ってきた。坐ると軽く肩を回す仕草をした。大分疲れているらしい。

「御疲れの様でございますね、麦湯は如何ですか?」

「ああ、貰おうか。丁度喉が渇いたところだ」

「はい、では直ぐに」

矢尾に麦湯を用意させ渡すと弥五郎様が一口飲んでホウッと息を吐いた。


「難しい問題が起きましたか?」

「難しいというより厄介な問題が起きた」

「と言いますと?」

「譲位の後、宮中、仙洞御所でそれぞれに能興行を行う。宮中の能興行は大和の猿楽に任せ仙洞御所の能興行は近江の猿楽、敏満寺座、大森座、酒人座に任せようと思っていた。だが同じ近江の山階座、下坂座、比叡座が自分達にも演じさせて欲しいと願い出てきたのだ」

また一口弥五郎様が麦湯を飲んだ。


近江は猿楽の盛んなところ、そして朽木家は能興行を積極的に行う事で猿楽座を庇護していると聞く。でも山階座、下坂座、比叡座? 聞いた事が無い……。矢尾に視線を向けたが矢尾も訝しそうな顔をしている。訝しんでいる私達を見て弥五郎様が軽く御笑いになった。

「これまで朽木家は敏満寺座、大森座、酒人座とは繋がりが有ったが山階座、下坂座、比叡座とは無かった。何故か分かるか?」


「いえ、分かりませぬ。それに山階座、下坂座、比叡座の事は聞いた事がございませぬ。不思議な事でございますね、朽木家は能興行を積極的に行っておりますのに」

「比叡山を焼いた所為だ」

「まあ」

声を上げると弥五郎様が頷いた。


「私が生まれる前の事だがな、比叡山を焼き討ちした時に日吉大社も焼いた。山階座、下坂座、比叡座は日吉大社の庇護を受けていたのだ。だから父上が能興行を行うと言っても彼らはそれに応えなかった。応えたのは敏満寺座、大森座、酒人座だ。彼らはそれぞれ年に二回、城に来て能を舞う。そういう形で父上の庇護を受けている。もう七年ほど続いているだろう」

「そのような事が……」

「そなたが知らぬのも無理は無い。私も最近それを知った」


「御屋形様は山階座、下坂座、比叡座の事を御不快には思われなかったのでしょうか?」

領主の誘いを断る、無礼と咎められても可笑しくは無い。まして相手は御屋形様。私が問うと弥五郎様は少し首を傾げた。

「如何であろう、私は父上が彼らに対して処罰や嫌がらせをしたとは聞いておらぬ。父上は政に対しては厳しいがこの手の事には余り拘らぬからな。好きにしろ、そんな風に思ったかもしれぬ」

「まあ」

「格別に能がお好きとも思えぬし……」


急に可笑しくなって笑ってしまった。

「お分かりになるのでございますか?」

「勿論だ、父上がお好きなのは政、皆を豊かにする事だ。淡海乃海を沢山の船が動いているのを満足そうに見ておられる。もしかすると父上は商人に成りたかったのではないかと思う時が有る」

「御屋形様が商人?」

可笑しい、本当に可笑しい。笑いが止まらない、弥五郎様も笑い出した。


「朽木が畿内を押さえた事で畿内での戦が無くなり京も賑わいだした。朝廷もかつてのような困窮から解放され様々な催し物を行えるようなった。その中には能興行も有る。畿内で猿楽と言えば大和猿楽と近江猿楽だ。足利将軍家は大和猿楽を贔屓にした。だからかつては大和猿楽の勢いが強かった。だが今は朽木が京を押さえている。そのため近江猿楽が勢いを延ばしている」

「御屋形様に遠慮しているのですね?」

弥五郎様が“そうだろうな”と言って頷かれた。


「父上は以前大和猿楽を使って不愉快な思いをされたらしい。二度とあの者達は使わぬと仰せられたとか。そういう経緯(いきさつ)を皆が知っている。父上はそれ以上の事は何もしていない。京の伊勢も何もしていない。だが朽木に対しての遠慮は当然あると思う。周囲は大和猿楽は父上の不興を買った、使えば父上が不快に思うと見て避けているのだ」


「では今回宮中での能興行を大和猿楽に任せるというのは……」

弥五郎様が頷かれた。

「そうだ、朽木は大和猿楽に含む所は無いと周囲に知らしめるためだ。大和猿楽の者達が謝罪してきた。今回の譲位で能興行に呼ばれなければ存続も危うくなると不安に思っているのだ。父上もお許しになられた。驚いておられるようであったな、自分一人の不快で伝統ある大和猿楽を潰すつもりはないと土佐からの文には有った。大和猿楽の者達は喜んでいる」

思わず息を吐いた。そんな事にまで配慮しなければならないとは……。夫が疲れるのも無理は無いと思った。


「では山階座、下坂座、比叡座の者達が願い出てきたというのは……」

「大和猿楽と同じだ、焦っているのだ。今では近江の猿楽と言えば敏満寺座、大森座、酒人座の名前を皆が上げる。山階座、下坂座、比叡座はその後だ。このままでは存続すら危うくなるのではないかと不安を感じている。だから今回の能興行に何としても参加したいのだ。そして朽木家との関係も改善したいと考えている」

「……如何なさいますの?」

弥五郎様が息を吐いた。


「仙洞御所の能興行は十三番行われる。その内六番を山階座、下坂座、比叡座に任せる。残りの七番は敏満寺座、大森座、酒人座に演じさせようと思っている。敏満寺座達の方が一番多い、それで納得してもらおう。それと朽木の節句の能興行はこれまで通り敏満寺座、大森座、酒人座に任せる。山階座達がそこに加わりたいというなら私では無く父上にこれまでの事を謝罪した上で願い出るのが筋だ」

「……左様でございますね」

「うん」

こくりと頷く顔は幼く見えた。本当に大変、譲位に織田の事迄……。無理をしなければ良いのだけれど……。





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