肥前の熊
天正四年(1580年) 六月上旬 肥前国杵島郡堤村 須古城 鍋島信生
「殿、孫四郎にございまする。お呼びと伺いましたが?」
「うむ、呼んだ。そこでは遠い。もそっと近う」
主、龍造寺山城守隆信様が扇子で手招きした。少し前に出た。
「もそっと。孫四郎、遠慮は要らぬ」
「はっ」
殿の傍近くまで進んだ。殿は扇子で掌を叩き満足そうにしている。最近の主は我ら家臣が畏まる様な素振りを見せぬと不機嫌になる。大領の主に相応しい威儀を整えようという事らしい。注意せねばならん。
「島津が慌てておるの」
「左様でございますか」
「安芸の一向門徒だが起ち上がったは良いが先が見えておる。もう直ぐ根切りじゃな」
「はて、安芸の一揆勢は総勢二万、吉田郡山城を奪い立て籠もったと聞き及びます。朽木権大納言様が土佐に居る以上そう簡単に一揆勢が片付くとは思えませぬが……」
首を傾げると殿が満足そうに笑い声を上げた。
「孫四郎は知らぬと見える。あれは朽木がわざと取らせたのよ。一揆の者共、あの城に籠れば朽木を慌てさせる事が出来ると考えたらしい。なかなか堅固な城らしいからの、尼子の攻撃も凌いだと聞く」
「某もそのように聞いております」
殿がまた笑い声を上げた。
「だが朽木の方が一枚上手よ。城には兵糧が無かった。今頃門徒共は空きっ腹を抱えていよう。いや抱えているのは頭かな?」
「なんと! 一揆勢は兵糧が無い事に気付かなかったので」
知っていたが知らぬ振りをすると殿が三度声を上げて笑った。眼の下に弛みが有る、それに目が充血している。最近酒と女が過ぎると聞いている。多少胴回りも太くなったような……。
「米俵は有ったそうだが中に入っていたのは土くれだった。門徒共は騙されたのよ」
「それは……」
絶句する振りをすると殿がまた御笑いになった。上機嫌だ、可笑しいのは島津の苦衷か、それとも安芸の一向門徒の間抜けさか、或いは私の驚いた顔か。
満足そうな顔をしている。最近の殿は猜疑心が強くなったような気がする。身を保つためには多少疎い所を見せておかねば……。有能ではあるが抜けたところのある男。危険を感じる事の無い男。欲が少なく無防備な男、殺すよりも傍に置いて使った方が得だと思える男、そうならなければならん。そうでなければ……、危うい、危うい。
「兵糧の無い城に二万もの一揆勢が立て籠もっておる。その城を朽木勢五万が隙間無く囲んでいるわ。朽木勢はこれから更に増え一揆勢は日に日に痩せ細って行く。朽木は一向門徒に厳しいからの、まして一揆勢は朽木を騙したのだ、容赦はするまい。あの者共は地獄の苦しみを味わう事になる。飢え殺しじゃ、怖いものよ」
上機嫌であった殿が真顔になった。殿も朽木の怖さを実感したのであろう。
「真に。殿の仰られる通り朽木は一揆に容赦しませぬ。島津も当てが外れましたな」
「うむ」
今頃顕如は顔を強張らせ、蒼褪めているだろう。一揆勢二万、その中には女子供もいる。吉田郡山城内は殿の申された通り、飢餓地獄になる。
「毛利は如何で。あそこも門徒が多いと聞きます。一揆勢が助けを求める、或いは苦境を見兼ねて動くと言う事は有りませぬか」
「無かろう、動けば滅ぶだけだ。それが分からぬとも思えぬ」
確かにその通りだ。朽木は周到に準備していた。当然だが毛利に対しても油断は有るまい。毛利もその辺りは理解していよう。今、朽木の恐ろしさをひしひしと感じているのは島津よりも毛利かもしれぬ。
「では為す術無しという事で?」
「うむ、土佐の宿毛湾には朽木の水軍が続々と集まっていると聞く。直に島津も音を上げようの」
朽木の動きに合わせて大友が日向方面に兵を展開し龍造寺は御嫡男太郎四郎様が肥後方面に兵を出している。島津は三方から囲まれた。
「如何いう形で収まりましょう?」
「まあ朽木の狙いは琉球だからな、そちらの方は島津を押さえ付けよう。だが他はあまり厳しくはなるまい。精々龍造寺、大友、島津の三家で和睦と言ったところであろう。悪くない、龍造寺は大友、島津と対等と言う事よ。和睦が成れば皆の龍造寺を見る目も変わろう」
「真に」
朽木の斡旋での和睦、つまり中央は龍造寺、大友、島津を対等と見ていると言う事。肥前の一国人領主に過ぎなかった龍造寺が大友、島津と肩を並べるのだ。これは大きい。
「大友も不満は有ろうが時を稼げるのだ、納得する筈。ただ、和睦は長続きはするまいな」
その通りだ、長続きはせぬ。二年か、三年か……。だが劣勢の大友にとっては大きな恵みであろう。
「大友が態勢を立て直すのは面白くない。だが簡単には行くまい。いざとなれば調略で掻き回す事も出来る。あそこは内の纏まりが悪いからの。それよりも島津の勢いに歯止めをかける事が出来るのが大きい。朽木がぴしゃりと抑えてくれよう」
殿が扇子で叩くような仕種をした。
「少しは大人しくなろうよ。これを機にこちらも内を固めぬとな。大きくなる事にかまけ過ぎて些か内を固める事を疎かにしたわ」
「はい」
「先ずは柳川を何とかせねばならん」
殿が目を細められ扇子で掌を打ち始めた。柳川城の蒲池民部大輔か。島津に近付く気配を見せているが此度の事で思い直すかもしれんな……。
天正四年(1580年) 六月中旬 土佐国幡多郡中村 太平寺
朽木基綱
「島津修理大夫義久が家臣、伊集院掃部助忠棟にございまする」
大柄な男が平伏している。男は薩摩弁を使わなかった。ゆっくりとだが普通の言葉を使った。他国と交渉する事が多いのかもしれない。伊集院掃部助、三十代後半から四十代前半くらいか。働き盛りだな。島津家で重臣として重んじられている男らしい。目、鼻、口が大きい、大振りな顔立ちの男だ。朽木の家臣達も列席しているが薩摩の人間を見るのは初めてだ。皆興味津々といった様子で掃部助を見ている。
「うむ、御苦労だな、掃部助。朽木権大納言基綱だ。用件は何かな?」
「はっ。主、修理大夫は権大納言様が島津に攻めかかるのではないかと懸念を抱いております。当家と朽木家はこれまで格別の友誼は有りませぬが諍いも有りませぬ。これは如何した事か、何か誤解が有るのではないかと」
「ほう、修理大夫殿には心当たりがないか」
「はっ、これは良からぬ者が当家と権大納言様を争わせようとしているのではないかと懸念しておりまする」
要するに島津は悪い事をしていません。何で朽木は攻めて来るの? 誰か悪い奴に騙されているんじゃないの? そんなところか。島津は俺が琉球を重視していると知らないのかな? 或いは知っていても出兵の名目は大友救援と見たのかもしれん。となると悪い奴と言うのは大友だな。俺が大友を援けるためと言えば大友は神社仏閣を壊す悪い奴だから信じてはいけません、長宗我部を唆したのは義昭で島津は知りませんとでも言うのだろう。わざわざその手に乗る事は無いな。
「訳が有ってこうして兵を集めている。修理大夫殿は琉球に随分と無理難題を言っているそうだな」
「琉球でござおいもすか?」
おいおい、薩摩弁になっているぞ。おまけにアクセントもちょっと変だ。主税や源五郎は初めて聞くのだろう。目をぱちくりしている。掃部助がバツの悪そうな様子を見せた。
「失礼をば致しました。琉球は島津家が幕府より領有を認められた国でございます。これは島津の領内の事、権大納言様には御口出しは御控え頂きとうございまする」
「受け入れられんな、そんなものは」
睨んでも無駄だぞ。
「薩摩は九州の片隅に有るからな、修理大夫殿は知らんのだろう。幕府等という物は存在せぬぞ。幕府より領有を認められたと言うがその幕府が無いのだ、理由にならん。琉球が島津の物だと言うなら天下人にそれを訴えて認めさせるしかあるまい」
「天下人とは」
分かっているだろう。
「俺だ」
「しかし征夷大将軍は足利義昭公でございます」
「その気になれば何時でも解任出来るな」
「……」
掃部助が押し黙った。この男も分かっている筈だ、義昭に有るのは征夷大将軍と言う名前だけで実は無い事を。島津はその名前だけを利用している。そして俺は天下人の実を持っているのだ。
「なあ掃部助。今回大友と龍造寺が和を結んだ。斡旋したのは俺だ。義昭公は頻りに龍造寺を口説いていたようだが龍造寺はそれには従わなかった。分かるか? 龍造寺は義昭公よりも俺を重く見たのだ」
「……」
「夏には帝が位を譲られ上皇となられる。その準備をするのは朽木だ。京を押さえ帝を御守りし朝廷を支えるのは朽木なのだ、足利では無い。天下は統一されていないが天下人に限りなく近いのが俺なのだ。俺が認めぬ以上、修理大夫が何を言おうと何の意味も無いぞ。まして足利の権威に縋るなど笑止でしかない。俺は足利の権威など認めておらぬのだ。俺だけではない、朝廷も認めておらぬ」
「島津家の琉球領有を認めぬと仰せられますか?」
その睨むような目付きは止めろ。不愉快だぞ。
「認めぬ。不都合は有るまい、現実に琉球を領有しているわけでは無いのだ。違うか?」
「しかし」
「掃部助、島津が服属する国人衆に如何いう仕置きをするかは島津の自由だ。それにまでけちを付けるような事はせぬ。だが琉球は島津の物ではない、弁えろと言っている」
掃部助が一旦目を伏せ気味にしてから顔を上げた。
「某の一存では」
「答えられぬか? だが時は無いぞ」
「それは……」
「その方が薩摩に戻り此処に還って来るまでに安芸の門徒が一人残らず飢え死にする」
掃部助の顔が歪んだ。
「吉田郡山城の中で何が起きているか知っているか?」
「飢えに苦しんでいるとは聞いておりまする」
「甘いわ」
掃部助がむっとした。
「怒ったか? だが怒る前に俺の話を聞け。門徒共は飢え死にした者の屍を奪い合っている、喰う為にな」
「何と、そげんこっが……」
声が震えている。嫌悪か、恐怖か。朽木の家臣達は無表情だ。薩摩弁にも興味を示さない。
「飢えを堪えて抵抗している等と思うなよ。門徒共は何度も降伏を申し出て来たのだ。だが許す事は出来ぬ、拒否している」
「……」
「今は屍を奪い合うだけだがな、その内殺して喰うようになるだろう。喰われたくなければ、死にたくなければ殺して喰うしかないのだ。門徒共の間で殺し合いが始まる事に成る。そうなれば喰う事よりも殺す事が主になるだろう、生き残るためにな」
「なんと……」
シンとした。天気は良いのに寒いわ。
「何故降伏を受け入れませぬので?」
つっかえながら掃部助が問い掛けてきた。俺を見る目には明らかに非難の色が有る。
「二度と政に関わり合わぬとあの者共は誓ったのだ。その誓いを破った、裏切ったのだ。一度裏切った者が二度裏切らぬと言う保証は無い。その方は二万もの裏切り者共を領内に抱える事が出来るか? その勇気が有るか?」
「……」
「答えよ、掃部助。出来るか?」
掃部助が“出来ませぬ”と小さい声で答えた。分かったか? 非難するなら俺じゃなく誓いを破った門徒共と唆した顕如を非難しろ。
「あの者共が死に絶えれば山陽道を朽木、毛利の大軍が九州に進撃出来る事に成る。そうなれば三好も遅れじと軍を発するであろう。今も三好からは文が来ておる。大友、龍造寺も島津領に攻め込む事に成る。島津は耐えられるか? 北上すれば土佐から俺が攻め込むぞ」
掃部助が顔を強張らせた。はったりだけど効果は覿面だ。今直ぐ中国方面で軍を動かす事は無理だ。毛利家中はざわついている。輝元、元春、隆景の三人は懸命に押さえている。だがそこまでだ、出兵は難しいだろう。時間が必要だ。これが終ったら東海方面に専念しよう、そのためにも安芸の門徒を無力化しなければならん。
「島津は琉球に対して何の権利も所有しない。琉球に対して一切圧力をかけるような事はしない。生き残りたければそれを誓うしかない」
「某に主を説き伏せろと」
「そうだな」
「……承知仕りました、必ずや」
睨むように俺を見ている。気に入らん、だが言った以上説得はするだろう。信用は出来そうだ。
「安芸の門徒共も引き取って貰う」
「それは」
「あの者共は島津のために起ち上がったのだぞ、島津が引き取らなければこのまま死なせる事に成る。見殺しにするのか? 天下にそう公表しても良いのか? 言っておくが俺は退かぬぞ。非難されるのは俺よりも島津になる。良いのか?」
どちらでも良い。見殺しなら島津は面目を失う。受け入れれば島津は領内に顕如を頂点とする一向門徒衆を抱える事に成る。顕如の力が増大し島津はそれを常に頭に入れて行動しなければならない。爆弾を抱えるようなものだ。
「……安芸の門徒を島津で引き取りまする」
「良し、ならば薩摩に戻り修理大夫殿の起請文を持って参れ。安芸の門徒には多少の米を与えるようにする。急げよ、引き延ばしていると判断すれば米の提供は打ち切る」
掃部助が“はっ”と言って畏まった。
「畏れながら島津、大友、龍造寺の和睦の儀は如何なりましょう」
「島津が望むなら斡旋しても良い。三者が侵さず侵されず、そういう話でよければだが」
「お願い致しまする」
「分かった」
掃部助が一礼して下がった。ほっとした。これで安芸の門徒共を殺さずに済む。俺だけじゃない、皆も安堵の表情だ。十兵衛達もほっとするだろう。
「御屋形様」
「何だ、左兵衛尉」
「島津が和睦を求めて参りましたが?」
小山田左兵衛尉信茂が小首を傾げている。
「門徒を受け入れれば混乱する。ここは一旦和睦した方が良いと考えたのであろう」
「では、あの男の一存で?」
「そうなるだろうな」
左兵衛尉が頷いた。元々島津が和睦を望んでいたとは思えない。余計な口出しをすると思っていただろう。だが状況が変わった、和睦を受け入れるべきだと判断したのだ。気に入らないがなかなか出来る男だ。
「あの男、島津修理大夫に疎まれましょうな」
だろうな。他人に好かれるタイプには見えなかった。
「琉球の事は受け入れ門徒の事は自分では決められぬと言った方が良かった」
「そうだな。薩摩に戻り修理大夫を説得してから受け入れる。此処に戻る頃には門徒達もかなり減っていよう。それほど脅威にはならぬ筈」
真田源五郎、長沼陣八郎、長左兵衛の会話に皆が頷いた。時間稼ぎをして口減らしか。俺の所の人間は怖い事ばかり考えるよ。
「御屋形様も御人が悪い。あの男を嵌めましたな」
主税がニヤニヤしている。
「人聞きの悪い事を言うな、主税」
「はて、間違っておりましょうか?」
「嵌めたわけでは無い。だが確かにやり過ぎるな。自分に自信が有るのか、或いは修理大夫の信頼を得ていると自負が有るのか。周囲からは疎まれよう」
伊集院掃部助忠棟か。島津家での火種になるかもしれん。伊賀衆に詳しく調べさせよう。
取り敢えず土佐、安芸の問題は片付いたか。琉球には今年出す交易船で使者を送らねばならん。日本に対して使節を送り琉球王が入朝する事を勧める。返事が来るのが来年、上手く行けば良いのだが……。琉球のトップが現実を見る目が有れば良いのだがな。そうであればこちらの申し出を受ける筈だ。理解してくれよ、こっちの思いを。
七月には大体終わるだろう。となると八月の頭には京に戻れるな。譲位に間に合うかな? ぎりぎりと言ったところか。俺だけ先行して戻るか、それが良いかもしれん。取り敢えず弥五郎、関白殿下にこちらの状況を文で報せよう。後はあの二人で調整だな。