公武
天正四年(1580年) 二月中旬 越後国頸城郡春日村 春日山城 長尾 綾
「か、甲斐守か」
「はっ、相模守を避けましたのは関東には野心は無い、当家と事を構える意思は無いという事を表しているのだと思われまする」
「笑止、な事よ」
「真に、どうせなら相模守に任官した方が良かったと徳川は後々悔やみましょう」
夫の言葉に弟が片頬を歪めた。左半身が麻痺してから弟、上杉謙信は笑うとそういう表情をするようになった。
織田の敗北の陰には徳川の裏切りが有った。朽木家からそれを記した文が届いた時、驚きよりもやはりという想いが有った。北条が滅び徳川が甲斐、相模を領した時に感じた胸のもやもやしたものは徳川の裏切りを知った時、ストンと落ちた。
私だけではない、夫も同じ事を感じたという。全ての辻褄が合った、そんな感じだった。その徳川が従五位下、甲斐守に任官する。暗に上杉と事を構えるつもりは無い、関東に野心は無いという意思表示であろう。弟の言う通り、笑止としか言いようがない。
勘九郎信忠殿の死には徳川も関与している事が判明した以上、上杉としては徳川を放置する事は出来ない。放置しては徳川に上杉は御し易しと思われかねない。戦国の世でそのような事は決して許してはならないのだ。喜平次は徳川に何の断りを入れる事無く鎌倉で鶴岡八幡宮に参拝する事を決断した。果たして徳川が如何出るか……。
「喜、平次は、……鎌倉か」
「はっ、そろそろ厩橋城を出た頃にございましょう」
「うむ」
「徳川が如何出るか、関東の国人衆が果たして当家と徳川家のどちらに重きを置くか……」
夫の言葉に弟が声を上げて笑った。
「あ、案ずるな、越前」
「はっ」
「と、徳川は、根が浅い。関東の者達の信を、得て、おらぬ。味方する者は、殆どおるまい」
確かにそれは有る。関東の国人衆は徳川を良く知らない。徳川は関東では新参者なのだ。だが小田原を落としたという武名は有る。その辺りを関東の諸将がどう評価するか……。
「それよりも、問題は織田であろう」
弟が満足そうな表情を見せた、言葉をつっかえる事無く言えた事が嬉しいのだろう。焦る事無くゆっくりと話せばもどかしくは有ろうが余りつっかえる事は無いらしい。
「跡目が未だ決まりませぬ。華からの報せでは織田家中でも二人に愛想を尽かす者達が多かったと書いて有りましたが……」
「うむ、こ、このままでは、亜相が如何思うか」
「はい」
弟と夫が深刻な顔をしている。徳川が甲斐守に任官したという事は関東に関心が無いと言う事。となれば徳川が手を伸ばすのは東海、つまり織田領になる。だがそれを権大納言様が如何思われるか……。見過ごすとも思えない。朽木が織田領を喰らう事になる可能性は有る。乱世である以上、家を纏められない、己の足で立てない者は滅びても仕方が無いのだ。そして権大納言様にとっても朽木の力を東海地方に伸ばすには絶好の機会と言える……。
「喜平次が、も、戻ったら、家督を、譲る」
夫が不安そうな表情を見せると弟が片頬を歪めて笑った。
「鎌倉で、皆を集めれば、か、関東管領として、み、皆に認められたという事、問題は有るまい」
「はっ、畏れ入りまする」
夫が頭を下げたので私も下げた。夫は息子の一人立ちを望みつつも不安に思う気持ちを抑えられずにいる。夫だけではない、私も同じ想いを持っている。大丈夫だろうか?
「み、帝が譲位され新たな帝が即位される。祝いはき、喜平次の名前でするが良かろう」
「はっ」
「これからは、亜相と、喜平次の時代よ。儂は竹姫と城攻めの遊びでもするとしよう。なかなか、筋が良い」
そういうと弟が声を上げて笑った。困ったもの、女子に兵法など教えて如何するつもりなのか……。夫も困ったような顔をしていた。
天正四年(1580年) 二月下旬 播磨国飾東郡姫山 姫路城 黒田孝隆
近江から届いた文を読んでいると栗山善助、井上九郎右衛門、母里太兵衛の三人がどやどやと入って来た。
「殿、近江から文が届いたと聞きましたが?」
「うむ」
「休夢様にございますか? それとも若殿で?」
「御屋形様だ、善助」
俺が答えると三人が顔を見合わせた。
吉兵衛が弥五郎様の傍近くに仕え叔父上が御屋形様の御三男、亀千代様の傅役になった事で黒田家は朽木家と密接に繋がる事に成った。吉兵衛、叔父上からは頻繁に文が届く。東海、関東がざわめき土佐でも混乱が起きた。昨今、近江から届く文は朽木家の、御屋形様の動向を報せてくれる重要な物になっている。それらの文からは御屋形様は迷っている様に思えたのだが……。
「御屋形様は何と?」
九郎右衛門が声を弾ませた。
「土佐に兵を出すと書いてある」
「土佐? では長宗我部を」
「うむ、その上で一条家の混乱を治めるおつもりの様だ」
三人がまた顔を見合わせた。
「公方様の文が頻繁に長宗我部に届いていると聞いております、御屋形様はこれ以上の放置は出来ぬと御考えなのですな」
「所詮は土佐半国、一条家が混乱していなければ長宗我部を放置も出来たであろうが……」
「九郎右衛門殿、一条家の混乱は随分と酷いと聞きますぞ。自力では解決出来ぬと言う事でしょう。放置すれば長宗我部に喰われかねませぬ」
「殿、では我らにも出兵の御下知が来たのですな、腕が鳴りまする」
太兵衛が逞しい腕をぐるりと回した。
「慌てるな、太兵衛。戦の準備はする。だが戦になるかどうかは分からぬ。土佐に出向くかどうかもな」
「と申されますと?」
「太兵衛、御屋形様は土佐から島津に対して圧力をかけるおつもりだ。となれば安芸の門徒達が動くやもしれぬ。我らはそれに備える。万一の場合は明智殿の後詰となって門徒達と戦う事に成ろう」
三人が頷いた。口々に“なるほど”、“そちらが有りましたな”等と言っている。
「もしやすると島津に圧力をかけると言うのはそれが狙いで?」
善助が問い掛けてきた。
「おそらくはそうではないかと俺は思う。いずれは九州攻めを行う、となれば安芸の門徒は放置出来ぬ。この際暴発させ膿を取り除こうと御屋形様は御考えなのではないかな。多分混乱は毛利家中にも及ぶ筈。安芸、周防、長門、石見、だが毛利もここで膿を取り除けば九州攻めに不安は有るまい」
三人が大きく頷いた。
九州攻めの前に毛利家中を綺麗にしておく。或いは九州攻めだけを御考えではないのかもしれん。東がぐらついている。御屋形様がそれを見据えているのは間違いない。となれば東へ動くためにも安芸の門徒は邪魔になる。長宗我部、安芸門徒、土佐一条、一つ一つは決して大きいとは言えない、だが御屋形様にとって何かと面倒な存在ではあった。どうやら御屋形様は大戦の前に一気に片付けようと御考えらしい。
天正四年(1580年) 三月上旬 山城国葛野郡 近衛前久邸
九条兼孝
関白殿下の屋敷に四人の男が集まった。屋敷の主である関白近衛前久、左大臣である私、右大臣一条内基、内大臣二条昭実。私と昭実は先年亡くなった二条晴良の息子だ。弟が二条家を継ぎ私は九条家の養子となった。
「宮中ではちと話し辛い問題が起きての、麿の屋敷に来てもらった」
話し辛い問題? 右府は表情を変えていない。内容を知っているようだ。となれば近江亜相が絡んでいる?
「譲位の事でございまするか? 何ぞ不都合が?」
「いやいや、内府。譲位の事は関係ない。譲位は予定通り夏に執り行う。もう三月じゃ、あっという間であろうの」
「後花園の帝以来の事に成ります。いろいろと分からぬ事が出ましょうな」
「うむ。まあその辺りは記録を調べれば良かろう」
右府と殿下の遣り取りに私と弟が頷いた。後花園の帝か、ざっと百年程は譲位が執り行えなかった事になる。
「今日集まって貰ったのは琉球の事での」
「琉球?」
思わず問い返すと殿下が“うむ”と頷かれた。琉球? 九州のさらに南の島だがそれが? 弟をチラと見ると弟も訝しそうな表情をしている。ふむ、弟も心当たりが無いらしい。
「近江亜相が琉球に交易船を出しておる。それによって砂糖、香木等が伊勢の海に届き京にも運ばれている。その辺りは分かっていよう」
弟が頷く姿が見えた。朽木は交易に熱心だ。砂糖や香木だけではない、北からは昆布を中心に海産物が多く運ばれている。そのいずれもが淡海乃海を通って京に流れている。正月の祝いの儀式にも供ぜられた。
「その琉球を島津が押さえようとしているらしい」
「押さえようとは?」
問い返すと殿下がこちらをじっと見た。
「島津以外と交易してはならぬ、島津が許した相手以外と交易してはならぬと言う事よ。まあ島津のいう事を聞け、逆らうな。そんなところかの。いずれは兵を出して攻め獲るという事も有り得よう」
琉球を攻める? 思わず殿下の顔をまじまじと見てしまった。殿下の表情は変わらない、嘘を吐いているようには見えぬ。
「しかし、そんな事が可能なので?」
弟が問うと殿下が“うむ”と頷かれた。
「元々島津は九州の南で琉球に一番近い。それに日向の伊東が滅び大友は敗れた。九州では島津の勢いが強うなっておる。琉球もなかなか抗し切れぬというところかの」
確かに九州南部で島津が勢いを強めていると言う話は聞いている。
「なるほど、島津には大樹が身を寄せておられましたな」
弟の暢気な言葉に殿下が微かに不快気な表情を見せた。この思慮の足りぬ愚か者! 殿下を不快にさせて如何する! 歳が若いからと言って許される事では無いぞ。殿下と大樹は犬猿の仲、その大樹と組んで殿下を追い落とそうとしたのが我らの父であった事を忘れたか。殿下は京を追われ近江に逃げなければならなかった。殿下が戻られた後は我らが京を追われてもおかしくは無かった。殿下も近江亜相もそのような事はなさらなかったが……。
「それで殿下、琉球の事は?」
「亜相が琉球を入朝させては如何かと言うのじゃ。その上で琉球王に官位を授けては如何かとな」
琉球王に官位を授ける? 他国の王に?
「しかし琉球は明に朝貢し冊封を受けていると聞きましたが?」
弟が問うと殿下が頷かれた。
「その通りよ。亜相の話では琉球は土地が豊かではないそうじゃ、交易をする事で繁栄しているのだとか。明から冊封を受けているのも約めて言えば銭の為であろう。だが明からの冊封は島津の圧力の前には何の役にも立たぬ。それ故日本に入朝し位階を授かる事で島津の圧力を避けては如何かと説得してみようと言うのよ」
「しかし上手く行きましょうか?」
問い掛けると殿下と右府が顔を見合わせた。
「島津を押さえ付けるという点では武力が要る。亜相はもう直ぐ土佐に出兵する。長宗我部を討伐し一条家の混乱を治めるためにな。その後で土佐から九州を窺う。その際には大友、龍造寺と力を合わせる事に成ろう。その上で琉球への干渉を止めさせる事になる」
なるほど、此処で土佐が絡んでくるか。大友、龍造寺と組めば島津は北と東から攻められる形になる。亜相の狙いは有利な体制を築いて交渉で島津を抑える事か。今すぐ島津を攻める事は考えておらぬらしい。やはり東海、関東が心配か……。
「島津を抑える事は出来るやもしれませぬ。ですが琉球が入朝しましょうか? 位階を授かるという事は朝廷の臣になるという事にございましょう、明から冊封を受けている琉球が素直に受けるとも思えませぬ」
私の問いに殿下、右府、弟が頷いた。
「左府の申される事は尤もだと思う。私と殿下もその事を亜相に言った。亜相もそれは理解している。それ故亜相も上手く行くかどうかは分からぬと言っている。宮中で話せぬのはそれが理由だ」
右府の言葉になるほどと思った。そういう事か、あやふやで表には出せぬと言う事か。
「しかしな、左府。亜相はこうも言っている。琉球にとって自由な交易は死活問題の筈だと。亜相は琉球の交易を制限するつもりはない。これまで通り明に朝貢し島津と交易し亜相と交易すれば良い。朝廷が琉球王に位階を授け、その際に自由な交易を保証する。さればそれを侵す者は朝敵、亜相が討伐する事になろう。琉球にとっては旨味の有る話よな」
右府の言葉に皆が頷いた。
「なんとも悩ましい話で」
弟の言葉に殿下と右府が軽く笑い声を上げた。この阿呆! 悩ましい等と呆けている場合か!
「妙な男よな、天下統一の前に銭の事、交易の事を考える。逆ではないかと思うのだが亜相に言わせれば天下を統一しても皆が豊かにならなければ平和は長く保たぬと言いおる。ま、そうよな。腹が満ちれば気性の荒い山犬も昼寝を貪ろうというものよ」
殿下が笑い出した。自らの言い様を酷い例えだと思ったのだろう。
「しかし、後々明と我が国との間で揉める事になりませぬか?」
問い掛けると殿下が頷かれた。
「明は国内が纏まっておらぬらしい。今すぐは揉める事は有るまいと言うのが亜相の見方だ。だがいずれはそういう事も有ろう。明が滅び新たな国が興った時よな。お互いに琉球の帰属を巡って争う事になるかもしれぬ。なればこそ、我が国は琉球の領地と交易を保証する。琉球に我等と手を結んだ方が利になると思わせる事が肝要、そう考えているようだ」
「なるほど」
明の次の国か。明が滅ぶ? そのような事が有るのだろうか? 亜相はそれを視野に入れている。何年先の事なのか……。
「明が滅ぶ、そのような事が有るのでございましょうか?」
弟が困惑した様な顔をしている。分からぬでもない、私も困惑している。それを考える亜相は何者なのか。いや、武家なら当然の事なのか。幾つもの名門、大大名が滅んでいるのだ。
「まあ信じられぬ事では有る。だが唐土では幾つもの国が興り滅んだ。明が滅んだとしてもおかしな話ではない」
「では我が国も……」
「内府! 口を慎め!」
この馬鹿! 一体何を言い出すのか。弟が“申し訳ありませぬ”と蒼白になって頭を下げた。悪気は無いのだろうが発言には気を付けねばならぬというのに……。殿下が声を上げて笑われた。
「左府、そう内府を責められるな」
「しかし」
「まあ麿も右府も似た様な事を考えた。左府も同じではないかな?」
「……多少は……」
また殿下が笑われ右府も笑った。
「亜相が面白い事を言っておった。明が滅んでも武家が滅んでも帝は滅びぬと」
「それは……」
「源氏も北条も滅びた。足利も征夷大将軍とはいえ力は無い。武家の棟梁とは言えぬ。権力を振るう者は使い方を誤れば何時しか権力を失い没落する」
「……」
「なれど帝は違う。帝は権力を持たず権威を持つ。されば権力を得た武家は帝の持つ権威を利用して政を為そうとする。それ故武家が滅んでも帝は滅びぬと」
シンとした。皆顔を見交わしている。今天下で最も大きな力を持つ男が武家は滅んでも帝は滅びぬと言ったとは……。
「醒めておりますな」
私の言葉に皆が頷いた。
「さればこそ安心と言えよう。亜相が自ら権威を求めるようになれば帝と衝突する事に成る。そのような事は有ってはならぬ事だからな」
殿下の言葉に皆が頷いた。新たな武家の実力者が現れた時には必ずと言って良い程朝廷と武家の間で軋轢が生じる。それは武家が帝の権威を侵そうとするから、或いは帝が自ら権力を欲するからであろう。そのような事は有ってはならぬ……。
この先、殿下が関白を辞すれば私、右府、弟が関白として朝廷の中心に座る事になる。その時に注意しなければならぬのが亜相と朝廷の関係であろう。亜相は今は朝廷を尊崇する姿勢を見せている。だが亜相の権力が強まればどうなるか……。亜相が醒めた男であればこそ今後に注意しなければなるまい。我らと協力した方が利が有ると思わせる……。琉球の件は賛成だな。上手く行けば琉球、亜相に利が、朝廷も権威が一段と上がろう。上手く行って欲しいものよ。