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従五位下甲斐守




天正四年(1580年)   一月中旬    山城国葛野郡  近衛前久邸  

朽木基綱




白馬節会(あおうまのせちえ)も無事に終わったの。今年も良い年になって欲しいものよ」

「はい」

関白殿下と二人でお茶を飲む。冬の寒い日にはこれが一番だ。身体がじんわりと温まる。殿下が口にした白馬節会というのはちょっと変わった儀式だ。一月七日に帝が紫宸殿に出御して邪気を祓うとされる白馬を庭に引き出し、群臣らと宴を催す儀式だ。白馬を使うのに『あおうま』とはどういう事かと言うと殿下の説明では元々は普通の馬よりも青みを帯びた黒馬を使っていたらしい。それが醍醐天皇の頃から白馬または葦毛の馬を使う様になった様だ。だが儀式の呼び名だけは昔の儘、という事で白馬節会(あおうまのせちえ)になったらしい。


殿下が『今年も良い年』と言ってくれた。朝廷は少なくとも昨年は悪い年では無かったと見ているらしい。信長の死から大きな不安を受けていないようだ。まあ畿内の問題ではない、東海から関東にかけての問題だからな。それに畿内はここ数年安定している。余り危機感は無いという事だろう。御茶を一口飲んだ、美味しいわ。殿下もホウッなんて息を吐いている。


「今年の半ばには帝の御気持ちに添えそうだと正式にお伝えした」

「はい」

「その折の事だが帝が遅くとも今年の夏には譲位をと御気持ちをお漏らしになられた」

「異存有りませぬ」

六月には仙洞御所も出来上がると報告が来ている。問題は無い。


「良いかの、新帝による御大典も有るが……」

殿下が不安そうな顔をしている。なるほど、秋を過ぎてからなら御大典は来年か。金が掛かるからな。しかしな、何時かはやらなければならんのだ。先延ばししても仕方が無い。後にした方がむしろ厄介な事になりそうな気がする。

「宜しいかと思います」

俺が答えると殿下が満足そうに頷かれた。


新大典侍(しんおおすけ)の具合が良くないらしい。帝も大分御心を悩ませておる。譲位をという御気持ちにはその辺りの事も有るようじゃ」

「なるほど」

新大典侍というのは万里小路家出身の女性で現東宮誠仁親王の母親でもある。いわば帝にとっては第一夫人の様な女性だ。帝自身も万里小路家出身の女性を母親に持つのだから関係は深い。


「まあ随分と働いたからの、疲れもするわ」

「真に」

二人で顔を見合わせて軽く笑った。万里小路家と飛鳥井家は帝を支える二本の柱だ。万里小路家は家族の様なもので飛鳥井家は朽木家というパトロンを持っている。西園寺権大納言実益の所に永尊内親王が嫁いだのは万里小路家と飛鳥井家を結び付けるためだった。そして万里小路家には勧修寺家から養子が入っている。現東宮が帝になれば次の東宮には勧修寺家出身の阿茶局の産んだ皇子が成るだろう。新大典侍にしてみればやるべきことはやった、そんな気持ちだろうな。


「ところでの、麿の所に徳川から従五位下甲斐守への叙任をと願いが有った」

「……徳川が動きましたか。それで?」

殿下が首を横に振った。

「そなたの考えを聞いてからと思っての、未だ返答をしておらぬ」

「織田は絡んでおりませぬので?」

「おらぬ」

「なるほど」

殿下と顔を見合わせ互いに頷いた。織田を絡めず直接来た、織田との決別だな。領地を攻め取るのではなく官位か。そろりと牙を出した、そんな感じがする。


「実はの、徳川は以前にも叙位任官をと願ってきた事が有る。未だ三河に居る頃であった。かれこれ二十年ほど前の事に成ろう。従五位下三河守を望んだのじゃが国が収まらずにうやむやになったという経緯が有る」

「一向一揆でございますな」

「うむ、随分と酷かったらしいの」

「そのように聞いております」

うやむやになった、その後は織田に服属したため自らの意思で任官を願う事が出来なくなったのだ。今回の動きは織田が絡んでいない、自立だ。


「徳川は居を小田原城に移したと聞く。にも拘らず甲斐守とはの、ほほほほほほ」

殿下が楽しそうに笑い声を上げた。

「上杉を余り刺激したくないのでございましょう」

「そうよな、ほほほほほほ」

また笑った。


小田原城は相模国にある。新たに得た相模国を完全に支配しようとするなら相模守に任官する事で国人衆に権威を示した方が良い。だが家康が選んだのは甲斐守だ。理由は上杉を刺激したくないからだが何故相模守が上杉を刺激するかといえばその原因は鎌倉時代にまで遡る事になる。


鎌倉時代、幕府の実権は執権職を務めた北条氏が握った。執権に就任した者が任官したのが相模守、武蔵守、左京大夫だった。要するに当時の幕府内部では相模、武蔵を支配する事が関東の武士団を押さえる事であるという認識が有ったのだろう。左京大夫は京域に関わる行政、司法、警察を統括した職だ。武家としては名誉な職と言える。これも執権には相応しい。


これを踏襲したのが早雲以降の伊勢氏だった。関東制覇を目指す伊勢氏は姓を北条氏に変え相模守と左京大夫を名乗る。それによって関東の武士達に自分こそが関東の支配者なのだから自分に従えと言ったわけだ。上杉と北条の戦いは関東管領と執権の戦いと言える。これじゃどちらも退けないわ。史実では上杉と北条が同盟して武田に対抗しようとしたが直ぐに壊れた。当然だと思う。


「それで、如何(どう)する? 拒否した方が良いか?」

「銭は用意しているのでございましょう?」

「まあの」

「ならば宜しいのでは有りませぬか」

叙位任官は朝廷にとって大事な収入源だ。断る事は無いさ。それに甲斐守に任官を願うという事は上杉との対立は避けようとしているという事だ。徳川の狙いは織田領だ。先ずは駿河、伊豆だろう。


「良いのか?」

「構いませぬ。北条、今川から逃げてきた者達が居ります。徳川が何をしたかは明白。織田、上杉には教えました。さてどうなるか……」

織田がどうなるかは分からない。何と言っても内部分裂しているのだ。だが上杉が徳川を放置する事は無いだろう。つまり徳川は上杉対策に忙殺されると言う事だ。西へ進むのは容易ではない筈だ。


「上杉と北条の争いから上杉と徳川の争いか。上杉も代替わりしておる、お互い簡単には退けぬの」

「はい」

史実でもそうだったがこの世界でも上杉と徳川は争うようだ。史実では家康は野戦の名人と言われたがこの世界では城攻めの名人と言われ始めている。如何いう結果になるか……。


「そこに織田が絡み亜相も絡むか。当分目が離せぬの」

まあ見ている方は楽しいだろうが当事者は生き残りをかけての戦いになる。誰が生き残るかだ。徳川は手強いし油断は出来ない。織田は混乱して如何動くか見えない。俺も気を引き締めなければならん。




天正四年(1580年)   一月中旬    尾張国春日井郡 清州村 清州城  丹羽長秀




林佐渡守秀貞、佐久間右衛門尉信盛、柴田権六勝家、そして俺。四人で書院にて待った。タンタンタンタンと足音が聞こえる。急いでいる所為か足音が少し高い。亡き殿に良く似ていると思った。書院に入って来たのは三介信意様だった。書院を見渡し満足そうに頷くと上座にお座りになられた。直ぐにまた足音が聞こえた。こちらもタンタンタンタンと近付いて来る。似ているとまた思った。


三七郎信孝様が姿を現した。

「遅いぞ、三七郎」

三介様がせせら笑う様に言うと“フン”と鼻を鳴らして三介様の隣に座られた。

「一体何用だ、儂と兄上を呼び付けるとは。まさかとは思うが織田の跡目を兄上にというのでは有るまいな。兄上には到底務まらぬぞ」

「何を言うか! 弟の分際で!」

言い合いが始まった。何時もの事では有るが溜息が出そうになって慌てて堪えた。


「お待ちくださいませ、三介様、三七郎様」

佐渡守殿の言葉に二人が渋々言い合いを止めた。

「朽木家より文が届きました。容易ならぬ事が書いてあります」

「待て、その文は誰に宛てて来たのだ?」

三七郎様が咎めるように問い掛けてきた。

「御方様にございます」

「鷺山殿か……」

詰まらなさそうに言った。朽木家の文が三介様に届いたのかと疑ったらしい。三介様も面白くなさそうだ。何故自分に文を寄越さなかったのかと思っているのだろう。


「して、何と言って来たのだ?」

三介様の言葉に右衛門尉殿、権六、俺の視線が佐渡守殿に向かった。佐渡守殿が幾分迷惑そうな顔をしたが筆頭家老なのだ、それなりに務めを果たして貰わなければ……。

「されば昨年の小田原での敗北、北条家に亡き殿の病の事を教えたのは徳川家だと記してありました」


「馬鹿な、徳川は味方ではないか!」

「三七郎の言う通りだ、叔母上が嫁いでおる!」

佐渡守殿の言葉に三介様、三七郎様が声を荒げた。

「朽木家には北条、今川家の生き残りの者が逃げ延びております。その者達からの情報にございましょう」

「しかし北条は徳川に滅ぼされた!」

「辻褄が合わぬではないか!」

三介様、三七郎様、共に首を横に振った。


「出鱈目じゃ、徳川と織田の仲を裂こうとしての出鱈目であろう」

三七郎様が我ら四人の顔を見渡した。

「そうかもしれませぬ。ですが三七郎様、何者かが北条に織田家の内情を報せたのは間違いない所でございます。それが徳川家であったとしても不思議では有りませぬ。我ら四人はそう考えております」

「しかし右衛門尉、徳川は北条を……」

何処まで徳川を信じるのか!


「畏れながら申し上げまする。徳川殿が北条を滅ぼしたからと言って信じられるとは限りませぬぞ」

俺の言葉に二人が面白くなさそうな顔をした。愚かな、親兄弟でも争うのが戦国の世であろう。現に自分達は刀に手をかける程に争っているではないか。何故徳川が信じられると言うのか。


如何(どう)すれば良い?」

「また兄上の如何すれば良いが始まったわ」

「儂は皆の意見を聞こうと言うのだ! その方の様に人の意見を聞かぬ愚か者とは違う! だから短慮、思慮が足りぬと言われるのよ!」

「兄上は意見を聞いても決められぬではないか! 聞くだけ無駄よ!」

また始まった。どちらもどちらよ。もう何度も繰り返している。ウンザリするわ。


「三介様、三七郎様、御静まり頂きとうございまする」

権六の制止に二人が面白くなさそうな表情をしたが諍いを止めた。

「……朽木に使者を出し事実を確かめねばなるまい」

三介様がチラチラと三七郎様を見た。不承不承といった様子で三七郎様が頷くと三介様が満足そうに頷かれた。


「使者を出すのでございますか?」

佐渡守殿が問うと二人が不機嫌そうな顔をした。問い返された事が不満らしい。亡き殿にも似たようなところが有った。だがそれはこちらの理解が遅いためでも有った。だがこの二人は何も分かっておらぬ。権大納言様に使者を出す、つまり権大納言様が嘘を吐いているのではないかと疑うと言う事であろう。そこに気が付かぬとは……。下手な者は送れぬな。


「では木下を送りましょう」

提案すると三介様、三七郎様が面白くなさそうな顔をした。この二人は藤吉郎を成り上がり者と蔑んでいる。

「木下は心利いたる者です。使者として適任かと思いまする」

佐渡守殿、右衛門尉殿が頷き権六も渋々頷いた。まあ藤吉郎なら上手くやってくれよう……。




天正四年(1580年)   一月下旬      近江国蒲生郡八幡町 八幡城  

朽木基綱




「お初に御目にかかりまする。織田家臣、木下藤吉郎秀吉と申しまする。近江亜相様におかれましては姫君御誕生との事、真にお目出とうございまする」

木下藤吉郎が顔をクシャクシャにして祝ってくれた。三日前、篠が女の子を産んだ、名前は寿(ひさ)。篠は男の子でない事を残念がっているが俺は無事に生まれた事で十分に満足だ。

「祝ってくれるか、嬉しい事だ」

「某、何も知らず祝いの品一つ持参しませなんだ。不調法をお許し頂きたく伏してお願い致しまする」

藤吉郎が頭を下げた。


「なんの、生まれたのがつい先日、知らぬのは当然の事よ、気にするな」

「ははっ、有難うございまする」

藤吉郎が頭を下げた。

「それと先日は美濃の件、御報せ頂き真に有難うございまする」

「その方は知っていたのであろう。礼には及ばぬ、むしろ余計な事をしたかと思っている」

「とんでもございませぬ」

藤吉郎が慌てたように手を振った。


「真に、有難く思っております」

「そう思って貰えれば嬉しい事だ」

藤吉郎がまた顔をクシャクシャにした。なるほどなあ、猿面とは言うが確かに似ている。ハゲ鼠も似ているだろう。だが何とも笑顔に愛嬌が有る。醜男なんだが香気が有るんだ。これは簡単に()らされるな、男も女も。同席している下野守、重蔵、五郎衛門、新次郎も楽しそうな顔をしている。


「今の所、動きは収まったようだな?」

「はっ、北条家が滅びました故……、もっとも火種は残っていると思いまする。状況次第でまた動き出すのではないかと思っておりまする」

「残り火の様なものか」

「はい」

先ずは跡目を決めるのが優先か、だがその跡目が決まらぬ状況が続いている。


「ところで、今日は何の用かな? 遊びに来たと言うのでも構わんが」

問い掛けると藤吉郎が表情を改めた。

「畏れながら徳川家の事にございまする。権大納言様から報せを受け織田家は混乱致しております。何と言っても徳川家は縁戚、権大納言様を疑うわけでは有りませぬが今少し詳しく伺ってまいれと」

「なるほどな」


要するに三介信意と三七郎信孝では如何して良いか決断出来ないと言う事だろう。でもなあ、俺に訊く事か? 本当は自分の所で調べるべき物だろう。そんな事は織田家中の人間も分かっている筈だ。それなのに使者を送って来た。三介と三七郎が命じたのだろうが周囲はそれを止めようとしない。勝手にやれとでも思っているのかもしれん。だとすると三介と三七郎は織田の重臣達から見放されているのだ。小兵衛からそういう報告を受けているが実際に確認するとちょっと複雑だわ。相談役達もいささか呆れ気味だ。


「詳しくと言ってもな、俺も小田原城から落ちてきた者達に聞いただけだ。それを信じるか否かの問題だろう」

「証拠の様な物はございませぬか。例えば徳川と北条での文の遣り取りなどでございますが」

「確認はしてみるが難しかろう。逃げるので精一杯で有った筈だ」

「左様でございますか……」

藤吉郎は余り残念そうな表情をしていない。藤吉郎も証拠など難しいと見ているのだ。


「もっとも織田殿が倒れられてからの一連の動きをみると徳川と北条が繋がっていたと言うのはおかしな話ではない、違うかな?」

「某にもそのように見えまする」

藤吉郎が頷いた。

「三介殿と三七郎殿はそう見ていない様だが、……頼り無い事よ。そうではないか?」

覗き込むと藤吉郎が表情を消した。答えられないらしい。


「なあ藤吉郎、これから織田家は如何(どう)するのだ?」

「如何と申されましても先ずは跡目を……」

「そうではない、何処へ進むかと言う事よ」

「……」

藤吉郎は俺が何を言おうとしているのか分かっているようだ。目を伏せているのがその証拠だろう。


「織田は周囲を朽木、上杉、徳川に囲まれた。何処にも伸びる事が出来ぬ。そうではないか?」

「……」

「俺なら今回の一件、真実など如何でも良いわ。それを理由に迷わずに徳川を潰して関東に出るがな。亡き織田殿もそうしたであろう。三介殿、三七郎殿が頼り無いと言うのは其処よ」

「……」

下野守が大きく、そして他の三人は小さく頷いた。


「藤吉郎、徳川は動いているぞ」

「と申されますと?」

「従五位下、甲斐守だ」

「まさか、官位を?」

藤吉郎が驚いている。そうだよな、織田に断り無しで任官というのは有り得ない事なのだ。


「そのまさかだ。朝廷に任官を願い出ている。遅くとも三月に入れば甲斐守に任じられるだろう」

「……」

「分かるだろう、このままでは織田は滅ぶぞ。東は徳川、西では美濃三人衆に良い様にやられて混乱する。そうなれば俺も動かざるを得ぬ。東が混乱しては西に進めぬのだ。朽木の兵が東に動く事に成る。そうなった時、そなたも決断しなければなるまい。織田に殉じるか、それとも新たな道を選ぶか……」

藤吉郎が顔を強張らせている。俺の言っている事は織田を見捨てて朽木に付けと言っている様なものだからな。小者から取り立てられた藤吉郎にとっては流石に重いのだろう。或いは俺が織田を潰す気だと理解した事が原因かな。


「俺は藤吉郎が好きだ。今日初めて会ったが好きになった。以前から気になってはいたのだ。嘘ではないぞ、俺が織田殿に伝えた美濃攻めの案、墨俣に城を築いたのはその方と丹羽五郎左衛門であったな。やりおると思ったものよ。だからな、困った事が有れば何時でも頼ってくれば良い。何時でも力になるからな」

「はっ、御言葉有難うございまする」

藤吉郎が頭を下げた。さて、徳川と織田、そして藤吉郎。如何なるかな。






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