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武略




天正三年(1579年)   十二月中旬      相模国足柄下郡小田原町 小田原城  酒井忠次




櫓台では殿がこちらに背を向け外を見ていた。

「殿、左衛門尉にございます。郷左衛門を連れて参りました」

「うむ、近う。遠慮はいらぬ」

富田郷左衛門を促し殿の後ろに控えた。主は未だ外を見ている。

「殿?」

「大きいのう、小田原の城は。見ていて飽きぬわ」

殿が嘆声を出した。声が明るい、時折ここにきて何度も小田原城の大きさに声を上げている。余程に嬉しいらしい。


殿がこちらを向かれた。

「郷左衛門か、北条、今川の残党はどうなった」

「はっ。どうやら海路、伊勢に向かったのではないかと思われまする」

郷左衛門の答えに殿が顔を顰めた。

「……朽木を頼るという事か、面白くないの。水軍が有れば一網打尽に出来たのだが……、甲斐の山国では致し方ないか」


「厄介な事に成りましょうか?」

問い掛けると殿が一度小首を傾げそして横に振った。

「直ぐには成るまい。徳川と朽木は領地を接してはおらぬ」

「しかし、朽木から織田、上杉へと報せが行きましょう」

「左衛門尉、徳川と朽木が争うとは限るまい」

「……」

殿が儂を見てニヤリと笑った。


「織田の三介、三七郎(ばかども)など恐るるに足らぬ。むしろこちらから喰ってやるわ。徳川が大きくなれば朽木も考える筈、織田よりも徳川と組むとな。上杉も代替わりして嘗ての武威は有るまい。小田原城が有れば十分に対抗出来よう。さすれば織田、朽木、上杉では無い。徳川、朽木、上杉になる」

「なるほど、となると如何に織田を喰うかでございますな」

殿が突然笑い出した。


「お市が上手くあの二人を騙してくれよう。北条、今川の残党が嘘をついて徳川、織田、上杉、朽木の間を裂こうとしていると文を書かせればあの二人は右往左往するであろうよ。織田が一つにならなければやり様は有る。いや、あの阿呆共なら一つでも恐れる必要は無いか」

「確かに、左様でございますな」

「良い嫁を貰ったものよ、感謝せねばなるまい」

儂も声を上げて笑った。一人郷左衛門だけが無言だ。だがそれも良い。富田郷左衛門は元は武田の透破、忍びが声を上げて笑うなど似合わぬ。


「郷左衛門、風魔の件はどうなった?」

「はっ、足柄山から姿を消したままにございまする。里を移したのかと思いまするが行方は分かりませぬ。風魔一党の動き、見えませぬ」

「動きが見えぬと申すか」

「はっ」

また殿が顔を顰められた。御気持ちは分かる。風魔が足柄山から消えた、徳川には従わぬという事であろう。


「可愛気の無い奴らよ。あくまで儂を拒否するか」

「……」

「郷左衛門、風魔の行方を追え。上杉か、或いは佐竹か……、まさかとは思うが朽木という事も有り得る。調べよ」

「はっ」

郷左衛門が下がろうとすると殿が“待て”と声をかけた。


「北条左京大夫の妻女の首を晒した、妻女が武田家の出である事は知っている。不満か?」

「そのような事は……」

「無いと申すか。ならば良いがの」

「……」

殿が冷たい目で郷左衛門を見ている。顔を伏せている郷左衛門には分かるまい。


「今のその方は徳川の忍び、その事を忘れるな」

「はっ」

「行け!」

郷左衛門が頭を下げると櫓台から下がった。じっとそれを見送った殿が儂に視線を向けた。


「詰まらぬ感傷など捨てねばこの乱世、生きては行けまい。そうであろう、左衛門尉」

「はっ」

殿が何を言いたいのか分かる。最初の奥方と御子達の事、そして三河の事であろう。切り捨てたからこそ今の徳川が有る。甲斐、相模の二カ国を領するまでになったと言いたいに違いない。


「儂の自立を阻んだ今川と武田は滅んだ。長年足蹴にしてくれた弾正忠も居らぬ。ようやく儂は、徳川は自由になったのじゃ。左衛門尉、これからよな、そうであろう」

「左様でございまする。御辛抱の甲斐がございました」

「うむ」

思わず涙が零れた。

「……何を泣いておる、左衛門尉らしくない。儂は笑うぞ、思いっ切り笑ってやる」

殿が大声で笑い出した。頬に涙を零しながら。




天正三年(1579年)   十二月中旬      近江国蒲生郡八幡町 八幡城  朽木基綱




「小田原城が落城し大勢の方が亡くなられましたな。乱世の習いとは言え辛い事であります。御胸中、お察し致す」

「御言葉、忝のうございまする。近江亜相様、この度は私共に格別のご厚情を賜りました事、心から御礼申し上げまする」

二人の女性が頭を下げた。


礼を言って頭を下げたのが北条氏康の娘で今川氏真夫人でもある春姫、黙って頭を下げたのは今川義元の娘で川中島で討ち死にした武田義信の正室だった嶺松院。元は美禰姫と言ったそうだが夫の死後は出家し嶺松院と名乗っている。朽木を頼ってきた人間は他にもいるんだがこの二人が北条、今川を代表して俺に挨拶をしている。ちなみに挨拶を受けているのは俺だけだ。介添えは恭がしている。あまりこういうのは大勢で受けては相手が惨めな思いをするだけだ。気を付けないと。


「良く当家を頼ってくれました。北条家、今川家の方々に頼って貰えるとは当家にとっても名誉な事と思っております。これ以後は某がそなた様達を庇護致しましょう。松姫、菊姫からもそなた様達に暖かい手を差し伸べて欲しいと頼まれております。それに北条家は元々伊勢家の流れでしたな。当家には伊勢家の者も居ります。もう心配は要りませぬぞ」

「有難うございまする」

今回も喋ったのは春姫だった。嶺松院は目を伏せている。やっぱりあれかな? 夫の義信が川中島で死んでいるから俺の事を恨んでいるのかな? あ、顔を上げた。


「ですが宜しいのでございますか? 朽木家は織田家、上杉家と盟約を結んでおりましょう。私達を受け入れては後々……」

「嶺松院殿、心配は無用にござる。織田家、上杉家には当家の庇護のもとに今川家、北条家の名跡を立てると伝えます。さすればこの後織田、上杉の両家にとってそなた様達が脅威になる事は有りますまい」

「……」

未だ納得していないようだ。


「織田弾正忠殿、勘九郎殿の事なれば戦場での事、已むを得ぬ事でござろう。戦で犠牲を払ったのは織田家だけではござらぬ。武田家、今川家、北条家も戦場では大切な方々を失い申した。領地、家も失い今ではそなた様達女子供しかおりませぬ。そなた様達は朽木に庇護を願っている者、敵ではない。違いますかな?」

二人とも哀しそうな顔で聞いている。酷い事を言ったかな、もう敵ではない。敵になる力も無いと言ったようなものだ。だがそれが事実だ。織田、上杉が何か言ってきてもそれで押し通す。彼らも無理強いは出来ない筈だ。いやさせない。


「ところで小田原城の事、伊豆での北条家の方々の事、お二人は詳しい事を御存知かな?」

「いえ、皆が討ち死にしたとしか聞いておりませぬ。私達は逃げるので精一杯で……」

答えたのは春姫だ。不安そうな細い声だった。

「左様か……、いずれは耳に入る筈。某からお伝え致そう。些か酷い事になっておる。お気を確かにもたれよ」

目に見えて二人が動揺した。気が重い、だが報せないわけには行かない。


「先ず小田原城だが関東公方足利義氏公、今川治部大輔殿、北条幻庵殿、北条安房守殿が討ち死にされた。そして北条左京大夫殿の御内室が自害された」

二人が身動ぎもせずに聞いている。まあここまでは想定出来ただろう。足利義氏は母親は北条氏康の妹、妻は氏康の娘という北条氏が擁立した公方だった。詰まり上杉から見れば敵方の神輿という事に成る。関東の足利氏も分裂して争い最後に残ったのが義氏だった。義氏の子は娘で未だ六歳だ。義氏が死んだ事で関東公方は途絶えた。これで関東では足利を頂点とする支配体制が崩壊したと言う事になる。


「小田原城を攻め落とした徳川は公方様以外の四人の首を晒したそうにござる」

二人の眼が大きく見開かれた。“なんと”、“酷い”と声が聞こえた。許せなかったんだろうな。徳川が桶狭間後に自立出来なかったのは一向一揆の所為だった。それを使嗾したのは今川と武田だ。史実では武田は徳川と組んで今川を分け獲りした。だがこの世界では協力して領地を守ろうとした。徳川には甲駿相の三国同盟に自立を潰されたという恨みが有るのだろう。北条はその恨みを軽視して敗れた。そして北条左京大夫氏政の妻は武田信玄の娘だ。その恨みは当然彼女にも向かった。


逃げれば良かったんだがな。だが城主の妻として逃げる事は出来ないと留まったそうだ。そして息子達を落とした。

「伊豆の方も酷い、織田軍と戦った北条家の方々は皆討ち死に成された。織田もその首を晒したそうでござる」

氏真夫人春姫がワッと泣き出した。夫、そして兄弟、甥を殺されたのだ。辛いだろう。嶺松院も静かに涙を流している。


三介信意、三七郎信孝、二人とも首を晒す事で織田の武威を上げる事が出来ると考えたらしい。肝心の戦が捗々(はかばか)しくなかったからな、こういう形で織田領国内の国人衆を恫喝したのだろう。だが如何かな、伊豆、相模は北条が長く治めた土地だ。領民達が徳川、織田の遣り様を如何思ったか……。


二人が泣き止むのを待ってから北条と徳川との関係を尋ねた。二人によると北条と徳川の協力体制は北条から持ちかけたのだという。しかも時期は今川が滅ぶ前の事だ。これは今川氏真の発案だったらしい。氏真は長く織田、徳川連合と戦ってきた。その所為で織田、徳川連合が必ずしも盤石ではないと見抜いていたようだ。氏真は自分や武田の誘いでは徳川は応じないかもしれないが北条の誘いなら応じるのではないかと考えたらしい。


徳川は誘いには応じなかった。試みは失敗に終わった。そして今川、武田が滅び徳川が甲斐に入った。徳川から北条に協力しないかと密かに誘いが有ったのは徳川が甲斐に入ってかららしい。当然だが北条は驚き訝しんだ。何故今になって? そう思ったのだ。今川、武田が滅んだ今、徳川と北条で織田に勝てる可能性は低い、北条は徳川の真意を訝しんだ。


それに対する徳川の回答は甲斐に封じられた事でこのままでは徳川家の先が無いと思った事、そして信長が飲水病に罹っているという事だった。信長は長くない、その後は当然混乱する、それまでの辛抱だと伝えたらしい。北条は信長の病の事を知って驚いた。そして当然だが裏を取った。真実なら徳川を信じられる、そう思ったのだ。北条配下の風魔が信長の身辺を探った。そして飲水病が事実だと判明した。時を稼げば滅亡を免れる事が出来るかもしれない、そう思った。


そこから生き残るために徳川との密かな交流が始まった。だがなかなか上手く行かなかった。織田は伊豆を攻め獲り小田原に攻め寄せた。もう駄目かと思った時、その時に信長が意識不明の重体と徳川が報せて来た。想定外の事では有ったが北条は迷わなかった。いや、迷うような余裕は無かった言う方が正しいだろう。


徳川の手引きに寄り風魔が織田本陣を急襲し、それに合わせて北条勢が攻撃をかけた。徳川が兵を退きそれに連られて織田勢に参加していた国人衆が崩れ織田も退却した。信長だけでなく勘九郎信忠も死んだ事が分かった時、小田原城は歓喜よりも安堵の涙を流す者が多かったらしい。徐々に徐々に追い込まれて絶望していたのだろう。


「徳川家とはその後も協力する約束が出来ていました。織田家は当分跡目争いで身動きが出来ぬ筈、北条が伊豆を獲り駿河は西半分を徳川、東半分を今川が獲ると。ですが北条が伊豆を獲ろうとすると織田が動きました。その時に徳川から改めて申し出が有ったのです。徳川が織田の背後を討つと、それ故伊豆に出て織田軍を引き付けて欲しいと……。織田が崩れれば徳川は西に進んで遠江から三河へ、故郷を目指す。だから北条は関東へという申し出でした。それなのに……」


春姫の言葉が途切れ二人がまた涙を流した。騙された事の悔しさと皆を失った事の悲しさ、どちらが強いのだろう。泣き止むのを待って今川家、北条家にはそれぞれ館を与えると伝えた。それと今川家、北条家にそれぞれ五千石を与える事も伝えた。北条氏政の遺児、安王丸と千寿丸は俺の近習として扱う事にした。いずれはこの二人が北条の名跡を立てる。今川は長男の龍王丸が同じく近習になる。下に弟が二人いるが未だ幼い。一番下の三男は今年の春に生まれたばかりだ。乳飲み子抱えて逃げてきた、辛かっただろうな……。


さて、これから大評定だ。皆に北条滅亡の顛末を伝えなければならん。それと徳川の怖さも。




天正三年(1579年)   十二月中旬      近江国蒲生郡八幡町 八幡城  蒲生定秀




評定の間に御屋形様が入って来られた。皆で頭を下げて迎える。サッ、サッと歩く音が速い。直ぐに上段の間に着き座ったのが分かった。頭を上げた。普段着で北条、今川の者達に会われたか。権大納言の地位に就かれても少しも変わらぬ。詰まらぬ虚飾など無用という事だ、嬉しい事よ。


「待たせたようだな、済まぬ」

「いえ、そのような事は。如何でございました?」

「……」

五郎衛門殿が尋ねても御屋形様は直ぐには答えなかった。

「御屋形様?」

「……手強いな、徳川は手強い。いや恐ろしいと言うべきか」

彼方此方で頷く姿が有った。


「北条を上手く使って織田を退け織田を利用して北条を潰したわ。生き残るためとはいえ怖い事を考えるものよ」

「……」

「織田を背後から討つと言ったそうだ。そして駿河、遠江、三河を目指すと。西へ向かうという事は場合によっては朽木、上杉を敵に回すという事、有り得ぬ事よ。だが北条は徳川の故郷を目指すという言葉を信じた。北条は伊豆を目指したからな、信じたのだろう。織田殿が居らぬ事で気が緩んだのかもしれぬ。或いは信じたかったのかな。織田を退ければ危機が去る、そう思ったのかもしれぬ」

御屋形様が弥五郎様に視線を向けた。


「弥五郎、徳川を卑怯だと思うか?」

「卑怯だと思いまする。そして油断のならぬ人物でありましょう。梟雄というべきでしょうか」

御屋形様が顔を綻ばせた。

「卑怯なのではない、それが武略というものだ」

若殿が“武略”と呟いた。


「北条を騙し小田原城を奪った。そして邪魔になった北条を織田を使って潰した。見事な武略ではないか。小田原城は謙信公も落とせなかった難攻不落の堅城、それを徳川は落とした。恐るべき武略よ、油断は出来ぬ」

また若殿が“武略”と呟いた。御屋形様の言う通りだ。これまで織田の下で良いように使われていたが信長公の死後、人が変わった様な動きを見せている。油断は出来ぬ。


「梟雄というのも当たらぬな。国一つ獲る、綺麗事では獲れぬ。大を成した武将達は皆梟雄と言える。父もその一人だ」

「……」

「弥五郎、油断せぬだけでは駄目だ。徳川を利用しろ」

「利用でございますか?」

「そうだ、徳川を朽木のために利用する。それこそが武略よ」

若殿が“なるほど”と頷かれた。まだまだお若い。御屋形様と比べれば強かさが足りぬ。


「しかし北条が滅んだとなると上杉も困っておりましょう」

「さよう、上杉は徳川が北条と通じていた事を知らぬ筈、振り上げた拳の下ろし先が無い」

「まあ此度は関東の諸将との顔見世で終わりですかな。しかしこの先はどうなるか、徳川が関東に勢威を伸ばせば当然上杉とぶつかる筈、仲良くとは行きますまい」

評定衆、奉行衆から声が上がった。確かに上杉にとっては面白くない状況では有る。いずれはぶつかるとしても今は敵ではない。


「上杉と織田に北条と徳川が繋がっていた事を伝えよう。此度、北条、今川から女子供が落ちて来た事で証言が取れた。織田も上杉も信じるであろう。特に織田は家督争いが収まらぬ。徳川との戦の結末で家督を決めるとなれば面白い事に成る」

「なるほど、その戦の結末次第では美濃の自立の動きも一気に高まりましょう」

「うむ」

重蔵殿の言葉に御屋形様が満足そうに頷かれた。


美濃が揺らいでいる。信長公の死後、織田家の跡目が決まらぬ事で美濃の国人衆が自立の動きを見せ始めた。北条が滅んだ事で止まっているが徳川と戦となれば当然動きは出よう。それに乗じて朽木が美濃に食い込む。既に手は打っている。さて、如何なるか……。






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― 新着の感想 ―
[一言] こう見るとこの世界の徳川は哀れですね。一向一揆に苦戦したことで織田に吸収されてこき使われてやっと独立したと思えば主人公に滅ぼされる...
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