縁
天正三年(1579年) 八月下旬 陸奥国会津郡黒川町 黒川城 蘆名盛氏
「殿、右衛門大夫にございまする」
「うむ、近う寄れ」
「はっ」
金上右衛門大夫盛備が傍に寄った。
「お加減は如何で」
「うむ、悪くない。織田が死んだの、嫡男も死んだ」
「はっ、織田は暫くは動けますまい」
「そうよの」
右衛門大夫が儂を見ている。気遣うような表情だ、儂の身体の具合が心配らしい。正直に言えば脇息に身を預けるのも疲れる。だがそれを見せる事は出来ぬ。
「右衛門大夫、北条は持ち直すか?」
「さて、分かりませぬ」
右衛門大夫が首を横に振りながら答えた。
「では上杉は?」
「関東に兵を出しましょう」
今度は断言した。
「何故そう思う」
「理由は三つ有りまする」
「三つか、申してみよ」
右衛門大夫が一躙り、二躙りと近寄ってきた。
「はっ。一つ、関東管領である上杉は北条の復権を許す事は出来ませぬ。それを抑えるために必ず出兵致しまする」
「なるほど、二つ目は?」
「上杉弾正少弼は管領職こそ継ぎましたが家督は継いでおりませぬ。家督を継ぐ前に武勲を上げておきたいと考えている筈」
「……」
「三つ目でございますが死んだ織田の嫡子の妻は関東管領の妹でございます。義を重んじる上杉としては仇を討たねばなりますまい」
右衛門大夫が自信満々に儂を見ている。褒めて貰いたいようだ。
「もう一つ有るな、四つ目が」
「もう一つ? 四つ目?」
「関東管領も代替わりしたのだ。関東の諸将に顔見世をしなければならぬ。そうではないか? 右衛門大夫」
右衛門大夫が悔しそうな顔をした。五十を過ぎ六十に近いというのに幾つになっても可愛い奴よ。
「朽木の天下獲りも一頓挫じゃな。東が落ち着かねば西へは進めまい、特に攻め込むのが九州ではの」
咳が出た、右衛門大夫が近寄ろうとするが止めた。ただの咳よ、大した事は無い……。
「天下の行末は未だ分からぬの。朽木に傾きかけた様に見えたが如何なるか。朽木が有利である事は確かじゃ、しかし九州では島津が力を伸ばしてきた。分からぬのう、分からぬ。さて、蘆名は如何する?」
右衛門大夫に視線を向けると右衛門大夫が頷いた。
「当家としましては北条家に頑張って貰いたいものでございまする」
「そうよな」
北条が武蔵から下総に力を伸ばせば上野、下野、常陸が揺れる。それを利用して蘆名の力を関東北部に伸ばせるのだが……。
「儂があと十歳若ければの」
「殿!」
右衛門大夫が声を上げた。
「上杉の越山に合わせて越後に攻め入るのだが……、口惜しいのう」
「そのような御気の弱い事を申されるなど殿らしくありませぬ」
「気を遣わずとも良い、右衛門大夫」
「……」
「自分の身体じゃ、自分が一番良く分かる。儂はもう長くは無い、あと一年、二年か……」
右衛門大夫が項垂れた。起きているのも辛いと思う時が有る。もう潮時であろうな。
上杉は代替わりを無難に熟しておる。朽木の援けも有ったがそれなりの跡継ぎを得たという事であろう。さて、織田はどうなるか……。織田が揺れた時、それが関東、奥州にどう影響するのか……。いや、それ以前に蘆名は儂が死んだ後どうなるのか……。後を継ぐ左京亮盛隆は儂の血を引いておらぬ。果たして皆を率いて蘆名家を守って行けるのか……。残り短い命、天下の動向、関東の動向、奥州の動向をしっかりと見据え蘆名の進むべき道を探らねばならぬ。特に注意すべきは伊達よ、伊達が儂の死を如何捉えるかを見極めなければならぬ……。
天正三年(1579年) 九月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木奈津
「矢尾、姉上は、織田家はどうなるのでしょう?」
「……華様は上杉家の姫君、華様の御身に危険が及ぶような事は有りませぬ。安心なさいませ」
「ですが弥五郎様は姉上に出来るだけ早く織田家を離れるようにと……」
「奈津様、余り御気を揉まれますな。早うに老けまするぞ」
矢尾が笑顔で私をからかった。
越後から一緒に付いて来てくれた矢尾。もう四十を過ぎている。故郷を捨てるのは辛かったと思う。でも付いて来てくれた。若い頃に一度嫁いだけれど子が産まれる前に夫が戦で死んだのだという。姉上と一緒だ。矢尾は実家に戻り上田城に出仕した。再婚を勧められる事も有ったが断ったらしい。私と姉上の傍に何時も居た。
矢尾も実家に戻った事を考えれば姉上が上杉に戻るのもおかしな話ではない。子が無いのだから実家に戻り再婚だろう。でも早く戻るようにと弥五郎様は勧めている。姉上は危険なのだろうか?
「御料人様、御裏方様がお見えでございます」
部屋の外から女中の声がした。慌てて矢尾と共に下座に控えると御裏方様が部屋に入って来た。
「いらせられませ」
「御邪魔しますよ」
御裏方様が上座に座った。御裏方様は御屋形様との間に弥五郎様を筆頭に五人の御子を儲けられている。しかも四人が男子。夫婦仲は円満なのだろう。弥五郎様は御裏方様を厳しい御方というけれどそのようには見えない。優しげな方だ。
「御声をかけて頂ければ私の方から伺いましたものを……」
「良いのですよ、未だ動くのを億劫がる歳でも無いのですから」
「まあ」
二人で声を併せて笑った。
「ようやく笑いましたね、心配していたのです。随分と思い悩んでいると弥五郎が案じていました」
「弥五郎様が……」
「ええ」
御裏方様が頷かれた。どうやら弥五郎様は私を心配して御裏方様に相談したらしい。
「姉がどうなるかと思うと……」
心配している事を伝えると御裏方様が分かっているという様に頷かれた。
「御屋形様の御話では織田家の重臣に華殿の事を頼んだそうです。丹羽、木下という者ですが先ず信頼して良いだろうと。ただ念のため亡くなられた織田様の御正室、鷺山殿にも華殿の事を頼んでおこうと仰られていました」
「有難うございます」
有り難いと思った。朽木家の方々は私と姉上の事を心配してくれている。矢尾に視線を向けると矢尾がニコリと笑った。
「油断は出来ませぬよ。織田家は未だ跡目が決まっておりませぬ。私は今年で三十二に成りますが跡目争いで傾いた家を幾つか見ました。とんでもない騒動が起きるのです。それに巻き込まれない様にしなければ……」
「はい」
「百カ日の法要が過ぎればこちらへ移れます。それまで何事も無ければ、いえそれまでに跡目が決まれば良いのですが……」
御裏方様の表情は暗い。楽観は禁物だという事らしい。
「織田家の跡目はどうなるのでしょう」
姉上の文には三介様、三七郎様のどちらにも期待は出来ないと書かれていた。
「さあどうなるのか、御屋形様の元に三介様、三七郎様より自分を織田家の当主と認めて欲しいとそれぞれに文を持った使者が来たそうです」
「まあ」
思わず声が出た。御裏方様が頷かれた。
「御屋形様も驚いていました。織田家の重臣達もどちらにするか決めかねているのでしょう。それに焦れて使者を寄越したのだと思います。もしかすると上杉家にも使者が行ったかもしれませぬ」
「……」
そうかもしれない。だがこちらの御屋形様に比べれば兄の力は数段落ちる。使者が来たのだろうか?
「奈津殿、その際ですが三介様、三七郎様が華殿を自分の室にと申し入れる可能性が有ります」
「まさか……」
御裏方様が首を横に振られた。
「有り得ない事では有りませぬ。華殿は未だ御若い、このまま一生を終えるのは本意では有りますまい。上杉家でも華殿の処遇には悩む筈です。三介様、三七郎様はその辺りを理解しておいででしょう。となれば上杉家に恩を売り自分は織田家の当主に成れる、どちらにとっても利の有る話と考えるかもしれませぬ。十分に有り得る事です」
溜息が出た。姉上は三介様、三七郎様を嫌悪している。そんな相手に嫁ぐなど……。
「越後の兄は如何考えるのでしょう。姉に相応しい縁だと思うのでしょうか?」
「さあ、それは分かりませぬ。弾正少弼様が如何考えられるか……」
「姉は三介様、三七郎様に嫁ぐ事を望みはしますまい。ですが一度織田家に嫁いだ以上、再婚すると言っても……」
相応しい家は然う然う無い。それに似合いの年頃の殿方が居るだろうか? 例えば朽木家、此処には姉上よりもずっと年下の殿方しかいない。
「奈津殿、縁などという物は何処に転がっているか分かりませぬよ」
「御裏方様」
御裏方様はニコニコと笑っている。
「気休めでは有りませぬよ。私は再婚で朽木家に嫁いだのです」
「まあ」
思わず声を上げると御裏方様が可笑しそうにお笑いになった。
「当時私の実家の平井家は六角家に属していました。私は六角家の養女となって北近江三郡を治めていた浅井家に嫁いだのです。知らないでしょうね、浅井家の事など。小谷城を居城として北近江で二十万石を領していたのですが奈津殿が生まれる前に滅んだのですから……」
「……」
声が出ない、そんな事が? 浅井家の事は何度か聞いた覚えが有るけど二十万石も領していたの? 御裏方様が一度嫁いだ?
「浅井家は六角家に従属していたのですが私が嫁いだ直後に六角家と縁を切り、私を六角家に返したのです」
「……」
「辛い想いをしました。私の力不足で浅井家を六角家に繋ぎとめられなかったと……、私一人の問題ではないのですけれど当時の私は一途にそう思いこんだのです。本当に苦しかった……」
“若かったのですね”と御裏方様が懐かしむように呟かれた。
「浅井家を倒すために六角家が目を付けたのが朽木家でした。協力して浅井家を攻める中でより両家の結び付きを強めるために私が朽木家に嫁ぐ事に成ったのです。朽木家は当時十万石程の小大名で浅井家よりも小さかった。当然ですが六角家の要請を断る事は出来ませんでした」
「……」
朽木家が小さな国人領主から天下を制するところまで来たのは知っている。でも御裏方様からお話を聞くとその実感が湧いた。
「でも色々と条件は付けられると思いました。何と言っても嫁ぐのは二度目なのですから。朽木家から見れば厄介者を押付けられる、そう考えてもおかしくは無かったのです。私自身、六角家が私の扱いに困っている、そう思っていました」
「……」
姉上もそうなるのかもしれない。どのような条件を付けられたのだろう? 訊きたいと思ったけど失礼になるかもしれないと思うと訊けなかった。そんな私の気持ちが分かったのかもしれない。御裏方様が“どんな条件か、知りたいでしょう?”と仰られた。
「何も有りませんでした」
「え?」
「何も無かったのです。御屋形様は私に浅井への想いさえなければ喜んで妻に迎えたいと仰って下さいました」
「まあ」
驚くと御裏方様が御笑いになった。本当に楽しそうに。
「有り得ない事でした。それだけに嬉しかった。私は自分が幸せになれると信じて朽木家に嫁ぎましたしこれまでずっと幸せでした。もしこれが夢で目覚めたら十万石の小大名の妻に戻っていても何の不満も無いと思います。多分御屋形様にこんな夢を見ましたと話すでしょうね。御屋形様はそれは大層な夢を見たなと言って笑って下さると思います。私も一緒に笑ったでしょう」
楽しそうに話す御裏方様が羨ましかった。
「奈津殿、縁という物は何処に転がっているか分かりませんし幸せという物も何処に有るか分からない物だと思いますよ。だから人の一生は面白いのでしょう。悪い方へ、悪い方へと気に病んではいけませんよ。今は先ず華殿を無事に朽木に迎える事だけを考えましょう。後の事は後の事です」
「はい、お気遣い有難うございます」
御裏方様が穏やかな笑みを浮かべながら頷かれた。
天正三年(1579年) 九月上旬 越後国頸城郡春日村 春日山城 長尾 綾
「では喜平次の出兵が正式に決まったのですね」
「うむ、取り入れが終わったら出兵だ。以前から関東管領職を継いだら関東に出兵をという話は有った。そなたも知っていよう」
「はい」
「此度の織田の敗戦、些か訝しい。織田様が倒れるとともに北条が攻撃をかけた。おそらく織田に味方した国人衆の中に北条に通じている者が居るのだろう。このままでは小田原の北条が勢いを取り戻しかねぬ。その前に出兵し喜平次の権威を関東に打ち立てなければならん」
夫が思い定めるような口調で語った。
「貴方様も出兵を?」
夫が首を横に振った。
「いや、儂は留守を預かる事になった」
「……喜平次は大丈夫でしょうか?」
夫は出兵しない。皆は年若く経験の少ない喜平次を支えてくれるだろうか? 夫は腕組みをして厳しい表情をしている。
「大丈夫と断言は出来ぬ。だがな、綾。此度の出兵の意味は皆が分かっている。上杉家は関東管領を職とする家なのだ。北条の横暴を許す事は出来ぬ。北条を潰す事は出来ずとも関東の諸将に上杉の武威をしっかりと見せこちらに引き寄せなければ……。喜平次にとっても上杉家にとっても大事な出兵だ」
喜平次個人の戦ではない、それを皆が何処まで理解してくれるか……。
「此度の出兵には他にも意味が有る」
「と申されますと」
「伏齅の眼を外に向けなければならぬ」
外に? 訝しんでいると夫が頷いた。
「近年、御実城様が御倒れになってから上杉家は内を固めざるを得なかった。それ故に伏齅の眼は内に向いた、外への注意が薄れてしまった。その事が結果的に伏齅の弱体化に繋がったようだ」
「……」
夫の表情は厳しい。
「先日の織田の敗戦だが当初、我等には織田様が病に倒れられた事、その混乱で織田軍が敗れた事、織田様が亡くなられ勘九郎殿が負傷された事が報せとしてもたらされた。その二日後には朽木家から使者が来た。使者は進藤、目賀田の二人であったが彼らは勘九郎殿が亡くなられた事、織田家で跡目争いが起きかねぬ事、華の身が危険である事を報せてきた」
夫が太い息を吐いた。
「あれには驚きました。朽木の凄みを知った様な気がします」
私の言葉に夫が頷いた。
「速いわ、驚くほどに速い。それに正確だ。伏齅は小田原から武蔵、上野を経て越後に報せをもたらした。朽木の手の者は小田原から東海道を駆け抜け近江へ、そして権大納言様はすぐさま越後へと使者を送って来た。我らが不正確な情報を基に織田家は多少混乱するであろうが体制を立て直すであろう、勘九郎殿が当主となればむしろ好都合と楽観していた時に朽木は正確な報せを基に手を打っていたのだ」
「……」
また夫が太い息を吐いた。
「朽木家は関東には直接関わろうとはせぬ。だがしっかりと眼配りはしている。朽木家が畿内、北陸、山陽、山陰で大きくなったのは戦で勝ったからだがそれを支えたのが八門、伊賀の存在よ。天下を獲るという事を彼らも理解しているのであろうな。戦が無い時も緩む事無く眼を見開き聞耳を立てている。改めて眼と耳の大切さが分かった」
夫は娘達を可愛がっていた。その娘の危機を知ることが出来なかった。夫にとっては我慢出来ない程の屈辱だろう。
「上杉も後れを取る事は許されぬ、そういう事ですね」
「そうだ。上杉はもう内を固める時は過ぎた。これ以降は外へと出向く。伏齅にも戦いに身を投じて貰う。緩む事は許されぬ、何より喜平次がこの件を重視している。このままでは戦えぬとな」
「喜平次が?」
問い掛けると夫が頷いた。
「これまでは朽木にずっと援けられてきた。この辺りで自分の力だけで立ちたいと思っている様だ。悪くない、上杉家の当主になるのであればそう考えるべきだからな。少しは自覚が出てきたのだろう」
夫が喜平次を認めるかのような事を言った。珍しい事、それに何処となく楽しそうでも有る。子供だと思っていた喜平次が、無口で何を考えているのか分からない息子が何時の間にか大人としての顔を見せ始めている。それが嬉しいのかもしれない。