余波
天正三年(1579年) 八月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 小山田信茂
武田を滅ぼした男が死んだ。嫡男の勘九郎信忠も死んだ。徳川が裏切ったらしい、その陰に武田の透破者の働きが有るようだ。織田家は混乱するだろう。これからどうなるのか……。正直に言えば武田の透破者には良くやったと言いたい気持ちが有る。だが今の俺は朽木家に仕える身、織田の混乱は朽木にも影響を及ぼす。それを思えば軽々には口に出せぬ。
何と皮肉な事か。また思った、これから天下は、そして朽木はどうなるのか……。朽木の御屋形様は我ら武田所縁の者を大切に扱って下さる。信玄公の事も良くご存じだ。そして力量も有る。我らにとって理想の主君と言って良い。御屋形様は忍びの者を決して卑しまぬ。透破者も御屋形様に仕えていれば誇りを持って仕える事が出来たであろうに……。
「小兵衛殿、織田は徳川と北条が繋がっている事に気付いていなかったのか?」
真田源五郎の問いかけに小兵衛が首を横に振った。
「おそらくは気付いていなかったものと思われます。気付いていれば徳川に何らかの監視を付けた筈。それらしきものは……」
「……」
無かったという事か。油断だな、或いは見くびったか。
「もっとも監視を付けても気付いたかどうか。我等もあの戦の場にて両者の繋がりに気付いた次第。言い訳するつもりは有りませぬが徳川も北条も周囲に気付かれぬ様に苦心していたのでしょう。してやられました」
口惜しげな口調だった。そうだろうな、繋がりは秘匿する事に意味が有った。だからこそ表では無く裏で繋がりを持ったのだろう。織田の油断とは言い切れぬか。
「そう嘆くな、小兵衛」
「ですが此度の事は……」
「してやられたのは事実だ。それは認めよう。だが大事なのはこれからであろう」
「……」
「徳川は織田殿の病の事を知っている事も秘匿した。織田を信じていなかったのだ。従属していてもいずれは決別すべき敵と見定めていたのだろう。鮮やかなものよ。徳川は手強い、油断するな」
皆が頷いた。その通りだ、徳川は手強い。
「御屋形様、織田ですがこれから如何なりましょう?」
進藤山城守の発言に皆の視線が御屋形様に向かった。
「そうだな、先ずは葬儀の喪主を誰にするかで揉めるだろう。場合によっては葬儀そのものも執り行えぬかもしれぬ」
彼方此方で失笑が起き掛けそして静まった。皆が顔を見合わせている。十分に有り得る事と思ったのだろう。
「御次男三介様、御三男三七郎様の間で跡目争いが起きると御屋形様は御考えなのですな?」
田沢又兵衛の問いに御屋形様が“うむ”と頷いた。
「しかし父上、此度の事、織田にとっては一大事の筈。跡目争いをしているような余裕は有りますまい」
嫡男弥五郎様の発言に今度は御屋形様が苦笑を漏らした。
「三介殿、三七郎殿がそう思えば良いがな。此度の一件を運が悪かった、織田殿の病の所為だと思うようなら跡目争いが起きる可能性は高いだろう。織田は徳川と北条の繋がりに気付いていない可能性が有る。小兵衛がそう言った筈だぞ」
「……」
「弥五郎、そなたは嫡男として育った。それゆえ三介殿、三七郎殿の思いが分からぬのだろう」
弥五郎様が困った様な表情をしている。次男、三男の気持ちか。分からぬでもない。俺も次男だった、本来家督を継ぐ立場では無かった。兄が死んだから跡目を継いだがそうでなければ……。
「良いか、織田家は美濃、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、それに徳川の治める甲斐を入れれば二百万石を越える領地を持つ。動かせる兵は六万を越えよう。織田の当主となればそれを自由に出来るのだ。だが当主になれなければ例え兄弟であろうとも精々二、三千から四、五千の兵を預けられて終わりだ。一家臣として一生を終えねばならぬ。豪い違いだな」
「……」
「あの二人は当主に成れる立場では無かった。これまでは諦めていただろう。だが勘九郎殿が亡くなった事で織田家の当主に成れる可能性が出てきたのだ。四、五千の兵を率いる家臣で終わるか、六万の兵を率いる当主になるか、争わずにはおられまい」
弥五郎様が小首を傾げている。
「それは分かりますが徳川が織田に反旗を翻したと知ってもでございますか? 北条と徳川が組めば厄介な事になると分かると思いまするが……」
御屋形様が顔を綻ばせた。
「報せるつもりか? 無駄だぞ。三国志の袁家の馬鹿息子達を思え。敵に攻められても身内で争ったではないか。それに跡目争いで負けた者は余程に運が良くなければ命を全う出来ぬ。良くて隠居、多くは殺される事になる。跡目争いは一旦火が点いたならば燃え尽きるまで消える事は無いのだ」
その通りだ、皆が頷いている。弥五郎様が二度、三度と頷いた。納得したのだろう。
弥五郎様か……。浅利彦次郎、甘利郷左衛門の話では御屋形様には及ばぬが愚かな方ではないとの事だった。確かに御屋形様に比べれば些か喰い足りぬ所は有る。だが懸命に学ぼうとしているようだ。御屋形様からどれだけ学び取れるか……。出来る事なら良い大将に育って欲しいものよ。
「御屋形様、織田に報せまするか?」
御倉奉行の荒川平九郎が尋ねた。御屋形様が考えている……。
「止めておこう、織田が知らぬ事だ、こちらが知っているなどと手の内を明かす事は無い」
「父上!」
弥五郎様が驚いて声を上げた。それを聞いて御屋形様が“落ち着け”と弥五郎様を制した。
「少し考えれば余程に愚かでもない限り何者かが北条に情報を流したのではないかと思う筈だ。本人が気付かなくても周囲の者が指摘するだろう」
「……」
「三介殿、三七郎殿が如何動くかな? 重視するか、軽視するか。跡目争いをするか、否か。そして跡目争いをするなら早急に終わらせるだけの力量が有るのか、否か」
御屋形様が問い掛けるかのように皆を見た。何人かが頷いた。
「父上は三介殿、三七郎殿を試すと仰られますか?」
「当然であろう。相手の事を知らなければこれから朽木が如何動くかを定められぬ」
「如何動くか、でございますか?」
弥五郎様が訝しげな声を出した。
「二百万石の当主としての力量が有るなら手を結ぼう。そうで無ければ潰して喰らう」
「父上」
声が震えている。それを聞いて御屋形様が低く笑った。
「力量の無い者に大領は任せられぬ。それにな、弥五郎。喰える物を喰う、躊躇わずに喰う、それが戦国の掟だ。朽木はそうやって大きくなった。そなたもその生き方を学ばなければならぬ、生き残りたければな。覚えておけ」
「……はい」
弥五郎様が答えると御屋形様が頷いた。
「今朽木は西では動けぬ。東で動くというのも一つの手だ。安芸の門徒共が如何するか。朽木が慌てていると見て動いてくれるのなら大いに結構、島津が北上する前に安芸の門徒共を根切りにしてくれる。それ以外にも手紙公方に躍らせられる阿呆が居ればそれも潰す」
また御屋形様が低く笑った。弥五郎様は蒼白だ。乱世の厳しさを改めて知ったという事か。それにしても御屋形様の厳しさ、そして頼もしさよ。流石に乱世を制しようとしているだけの事は有る。何処か信玄公に似ているやもしれぬ。
「徳川、北条は如何動きましょう?」
公事奉行の守山弥兵衛が呟くように疑問を呈した。
「先ずは伊豆、駿河を狙うのであろうが……」
「伊豆、駿河は徳川に任せ北条は関東に向かうのでは?」
「伊豆は北条が起こった土地、徳川に委ねはするまい」
彼方此方から声が上がった。確かに伊豆は北条にとっては大事な土地、そう簡単に徳川に与えはしないだろう。あそこは小さいが金山が有る。
「御屋形様は如何思われますか? 」
問い掛けると御屋形様が“ふむ”と鼻を鳴らした。
「分からぬな。だが小田原には今川治部大輔が居る筈。となれば今川家再興を名目に駿河に兵を出す事は十分に有り得よう。駿河の国人衆に調略もかけやすい筈だ」
なるほど、今川治部大輔が居たか。今川家再興は十分に有り得る話だ。皆が頷いた。
「多少は争うだろうが織田、上杉の事を考えれば手を結ぶ筈だ。如何いう取り決めをするかだな……。俺なら今川に駿河の東半分を与え徳川に西半分を持たせる。そして北条が伊豆を獲る。北条は背後を今川に任せ関東に出る。徳川は織田に対して駿河西半分を獲ったのは今川、北条を抑えるためだと弁明する。自分が防いでいる間に跡目問題を解決しろと言ってな。そうする事で駿河の領有を織田に認めさせる」
彼方此方から“なるほど”と同意する声が上がった。
「今川が大きくなる場が無いが一度は国を失ったのだ、文句は言えまい。いずれ織田が徳川に駿河の返還を求めようがそれが何時になるか、それまでに徳川、今川、北条がどれだけ戦の準備を整えられるかが勝負の分かれ目だな。甲斐、駿河、伊豆、相模。ざっと七十万石程か。織田が美濃、尾張、三河、遠江で百五十万石程。全く戦えぬというわけでもあるまい。あとは遠江の国人衆をどれだけ切り崩せるか、三河に残った徳川所縁の者をどれだけ上手く使えるかだろう」
皆が唸っている。武田に代わって徳川が入る新たな三国同盟か。織田、上杉に対抗するには確かにそれしかない。
「父上、徳川には織田様の妹姫が嫁いだ筈ですが」
弥五郎様が訊ねると御屋形様は軽く首を横に振った。
「徳川に留め置くだろうな。三介殿、三七郎殿を欺き油断させるためにも徳川は甲斐に留める筈だ。或いは織田家を裏切った事を伝えておらぬかもしれぬ」
「……」
その可能性は高い。いや、徳川家でも知っている人間は一部かもしれぬ。徳川は何もせずに撤退したのだ。裏切ったという自覚の有る人間は少なかろう。
「例え知っても戻りたがらぬという事も有り得よう。跡目争いが起きかねないと思えばな。捲き込まれれば危険だという事は分かる筈だ。それに織田家から貰った正室というのは徳川家にとってまだまだ利用価値が有る。大事にされる筈だ」
弥五郎様が大きく息を吐いた。戦国の厳しさが心に沁みたのだろう。
「上杉に使者を送らねばならん。山城守、次郎左衛門尉、越後に行ってくれるか」
「はっ。この場での事、話すのですな?」
「それについては後程指示を出す。その方達は大評定の後、此処に残れ」
「はっ」
進藤山城守、目賀田次郎左衛門尉が畏まった。はて、何やら格別の指示が有りそうだが……。
「織田にも使者を出さねばなるまい。五郎衛門、新次郎、その方達に頼む。その方達も此処に残れ」
「はっ」
「弥五郎、兵庫頭、左兵衛尉、小兵衛、半蔵も残れ。話す事が有る」
「はっ」
俺に? さては甲斐の事か、それとも北条か。一体どのような……。
天正三年(1579年) 八月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 進藤賢盛
大評定が終わり弥五郎様、日置五郎衛門殿、宮川新次郎殿、蒲生下野守殿、黒野重蔵殿、伊勢兵庫頭殿、目賀田次郎左衛門尉殿、小山田左兵衛尉殿、黒野小兵衛殿、千賀地半蔵殿と私が残った。下野守殿と重蔵殿は御屋形様より名を呼ばれなかった事で下がろうとしたが御屋形様が止められた。
“相談役は俺が席を外せと言わぬ限り傍に居よ”
御信任の厚さに下野守殿と重蔵殿は酷く恐縮している。羨ましい事だ。
「山城守、次郎左衛門尉。済まぬな、暑い中での遠出になる。気を付けて行ってくれ」
「はっ、お気遣い有難うございまする」
「上杉様には先程の事をお伝えすれば宜しゅうございまするか?」
次郎左衛門尉殿が問うと御屋形様が首を横に振った。
「先ずは向こうが如何考えているかを探ってくれ。織田と縁組して一年、どの程度織田の事を押さえているかを知りたい」
なるほど、弾正少弼様の御器量の程を探ろうという事か。
「こちらの話は跡目争いが起きるのではないかと心配していると伝えてくれればよい。肝心なのは華姫の事だ」
「華姫? 勘九郎様御内室のでございますか?」
次郎左衛門尉殿が問いながらこちらを見た。訝しんでいる。
「そうだ。出来るだけ早く上杉に戻した方が良い。織田に残しておいては跡目争いに巻き込まれかねぬ。その事を伝えてくれ」
なるほど、それが有ったか。皆も頷いている。
「三介様、三七郎様が華姫様を己の陣営に取り込もうとすると御屋形様は御思いなのですな?」
確認すると御屋形様が首を横に振られた。違ったか。
「それだけなら良いがな。頭に血が上って華姫を自分の物に、そうすれば上杉も朽木も自分を跡取りと認めるだろう等と考えられては堪らぬ」
皆が顔を見合わせた。
「父上、幾らなんでもそれは……」
「甘いぞ、弥五郎。命を失うか、二百万石の当主に成るかだ。追い詰められれば有り得ぬと言えるか?」
「それは……」
御屋形様が厳しい視線を弥五郎様に向けた。絶句している。
「下野守、山城守、次郎左衛門尉の前で話すのは気が引けるが六角家では親兄弟で殺し合いになった。六角右衛門督は父親と弟を殺した。六角家は織田家よりもずっと小さかったのだぞ」
弥五郎様が“申し訳ありませぬ”と頭を下げた。
「場合によっては織田の混乱が落ち着くまで当家で御預かりしても良いと伝えてくれ」
「はっ」
頭を下げた。有り得ぬ話ではない。六角家だけではない、美濃の一色家も親兄弟で殺し合った。右衛門督様が承禎入道様、御舎弟次郎左衛門尉様を弑したのはそれに影響を受けたのやもしれぬ。何処の家でも跡目争いは容赦の無い争いになる。華姫は危ない。華姫を押さえれば上杉と朽木を押さえる事が出来る。両家から兵の援助を得られれば競争相手を圧倒出来ると三介様、三七郎様が考える可能性は十分に有る。御屋形様の危惧は杞憂とは言えない。皆もそう思っているのだろう、頷いている者も居る。
「五郎衛門、新次郎」
「はっ」
「尾張には弔問の使者として行ってくれ。越後よりは近いが海が使えぬ。陸路は老体には堪えるだろうが頼む」
「何の、大した事ではござらぬ」
「左様、隠居したとは申せ余りに年寄り扱いをされては迷惑にござる」
五郎衛門殿、新次郎殿が顔を綻ばせている。御屋形様が“頼もしいぞ”と言うと皆から笑い声が上がった。
「三介殿、三七郎殿がその方等に会おうとする筈だ。自分に味方しろと迫るだろうが言質は取らせるな。隠居であるその方等を送るのもそれ故だ。適当に煽てておけ。それと二人の器量の程、確と見届けよ、人望の程もな」
「必ずや」
「織田の重臣に華姫の事を相談しろ。家督争いに巻き込ませるなと。相手は丹羽五郎左衛門が良かろう」
「仰せの通りに」
「それと鈴村八郎衛門を連れて行け。八郎衛門は尾張の出だ。織田家中に知り合いも居よう。八郎衛門には織田家中での三介殿、三七郎殿の評判を調べさせよ」
「はっ」
二人が畏まると御屋形様が頷かれた。
「弥五郎、奈津に文を書かせよ」
「華姫に宛てでございますか?」
「そうだ、織田の家督争いに巻き込まれるなとな。その文を五郎衛門と新次郎に持たせる。二人はそれを華姫に渡せ」
「はっ」
矢継ぎ早に御屋形様が指示を出す。迷いが無い、御屋形様は織田の家督争いは酷い事になると想定しておられるようだ。
「左兵衛尉」
「はっ」
御屋形様の呼びかけに小山田左兵衛尉殿が畏まった。
「武田の松姫、菊姫の婚儀は予定通り秋に行う。その方は武田家とは血が繋がっていたな?」
「はっ、信玄公の叔母が某の祖母に成りまする」
「良し、真田の恭と共に二人の親代わりとして婚儀を差配せよ。兵庫頭、鯰江満介と取り計らえ」
左兵衛尉殿と兵庫頭殿が揃って頭を下げた。
「今のところ織田の跡目争いに介入する事は考えておらぬ。だが徳川が朽木を警戒する可能性は有る。となれば武田の旧臣に手を伸ばすは必定。俺が武田家を粗略に扱っている等と思われては徳川の仕事を遣り易くするだけだ。そんな事はさせぬ。二人の婚儀だが費用は俺が持つ、新郎の分もな。遠慮は要らぬ、派手にやれ」
二人がまた頭を下げた。
「半蔵、東で混乱が起きれば必ず九州の公方様が燥ぐ筈だ、監視を怠るな」
「はっ」
「大友からは飛鳥井を通して救援の要請が有ったが今は動けぬと断った。大友は土佐一条にも声をかけるだろう。土佐の動きからも目を離すな」
「その事でございますが」
半蔵殿が御屋形様に何かを言いたそうにした。御屋形様の表情が厳しくなった。どうやら土佐で動きが有ったようだ。