信長死す
天正三年(1579年) 七月下旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木綾
「綾、この度の婚儀、真に目出度いの」
「左様、真に目出度い。次は跡取りかな」
二人の僧侶が弥五郎の婚儀を祝ってくれた。一人は兄の堯慧、もう一人は姉婿の経範。兄は伊勢の専修寺で浄土真宗高田派を率い義兄の経範は京の佛光寺で浄土真宗佛光寺派を率いている。本願寺派から仏敵と罵られる事も多い息子は実は浄土真宗と密接に繋がっている。
「有難うございます。目出度い事ですけれども跡取りは……。曾祖母様とは未だ呼ばれたくは有りませぬ」
私が答えると二人が声を上げて笑った。
「子孫繁栄で目出度い事ではないか。権大納言様は子沢山、これから益々曾孫が生まれよう」
「その通りですな。此度も姫が二人生まれたと聞いた。今から慣れておかなくては」
「まあ」
三人で声を合わせて笑った。
弥五郎の婚儀の前後にそれぞれ娘が生まれた。先に生まれた雪乃の娘が幸、後から生まれた辰の娘が福。雪乃も辰も生まれたのが男子でない事を残念がっていたけれど息子は無事に子が生まれた事を素直に喜んでいる。そして次に男を産めば良いと声をかけていた。ホッとした。息子は生まれてきた子を愛おしんでいる。男女の違いで差別する事は無いらしい。雪乃も辰も男子でない事は残念でも夫が喜んでくれる事は嬉しいだろう。
暫く雑談を交わした後、焙じ茶で喉を湿した。兄が話しかけてきた。
「今年の初め、権大納言様が叡山の者達とお会いになったと聞いた」
「はい、叡山再興を願って訪ねて来たのですが珍しく会うと言って……」
叡山を焼き討ちしてからもう十五年が経った。そろそろ再興を許すのかと思ったが……。
「叡山の者が叡山から様々な宗派が生まれた。叡山の再興は全ての僧の願いだと言ったとか。それに対して権大納言様がそれらの宗派を排斥したのも叡山だと仰られたと聞いた」
「はい」
息子が叡山の僧と会ったのは孫の弥五郎のためだったようだ。弥五郎に神や仏に頼るなと諭した。廃嫡という厳しい言葉も出たと聞いている。
「それを聞いた時思った」
「何をでしょう、兄上」
「何故叡山から様々な宗派が生まれたのか? 何故叡山はそれを敵視したのか? 分かるかな?」
「さあ、何故でしょうな」
兄の言葉に経範義兄が小首を傾げた。兄がそれを見て微かに笑みを浮かべた。はて……。
「世の中が乱れたからだと思う。それ故人々が仏に救いを求めた。だが今の仏の教えでは人々を救えないと思った僧が居た。その僧が新たな教えを広めたのだと思う。救いを求めた人々がその教えに縋った」
経範義兄が大きく頷いた。
「なるほど、叡山はそれを自分達への否定、挑戦と受け取ったと。義兄上はそう思うのですな」
兄が頷いた。
「己の説く教えこそが人を救うのだと思った。それを阻む者を敵だと思った。何時しか宗門同士での戦いが起きるようになった。人を救う筈の教えが人を攻撃し殺す教えになったのだと思う」
「そうですな、浄土の教えを説く者達でも争う。考えてみれば愚かしい事だと思います」
高田派も佛光寺派も本願寺派とは激しく争った。特に佛光寺派は百年程前に本願寺派に多くの寺を奪われ大きな打撃を受けたと聞いている。だが今では本願寺派の寺はその多くが息子によって潰されるかそれを避けて高田派、佛光寺派等に改宗したと聞く。息子は浄土の教えを否定してはいない。門徒を唆す様な事をしないのであれば存続を許されるのだ。そして高田派、佛光寺派はそれに従い朽木領内で教えを広めている。
「権大納言様は領内で僧が領民の心を操る事を許さぬ。その所為で随分と苦労をされた。最初は不思議であった。宗門と敵対するのは不利であるのに何故それを行うのかと」
義兄が頷いた。確かに苦労した。酷い事もした。悪評も浴びた。でも息子はそれに屈しなかった。
「だが今なら分かる様な気がする。天下は統一へと動き出している。京では戦乱が無くなり来年には帝の譲位も行われるとか。天下の混乱が治まろうとしているのだと思う。であれば人々が救いを求めて仏に縋る事も徐々に無くなるのであろう。宗門が争う事も無くなるのやもしれぬ。我ら坊主は人々に寄り添いながら存続する事に成るのであろう」
人々に寄り添いながら……。息子が願う事でも有る。
「そのような時が来るのでしょうか?」
問い掛けると二人が顔を見合わせた。
「天下が統一されれば、のう」
「左様ですな」
天下が統一……。武家だけではなく僧もそれが間近だと思い始めた。本当にその日が来ようとしている。その日まで生き続け見届けなければならない……。それが舅との約束なのだから……。
天正三年(1579年) 八月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木奈津
夫になった朽木弥五郎堅綱という殿方は至って生真面目な方だった。今も自室で書物を読んでいる。
「何を御覧になっていらっしゃるのです」
部屋に入り声をかけると夫は穏やかな笑みを浮かべて私を見た。舅の御屋形様に良く似た笑みだ。兄の喜平次とはこの辺りが違う。兄はぶすっとしているだけ、全く可愛げがない。竹姫は一体あんな兄の何処が良いのか。兄だから多少は頼りがいが有ると思えるが夫では刀の手入ればかりしている詰まらない退屈な男でしかないだろうに……。
「奈津か、朽木仮名目録だ。そなたも聞いた事があろう」
「ええ、御屋形様が御作りになったと伺っております」
「父上はこれを丁度今の私と同じ年の頃に作ったそうだ。今川仮名目録を基に作ったと聞いている。信じられぬ事だ」
「……」
夫は御屋形様を尊敬している。そして御屋形様は夫の事をとても心配している。私にも夫を支えてやってほしいと頼んできた。世評では恐ろしい人、厳しい人と言われているがその様には見えない。
「半兵衛はそれを知って朽木に仕える気になったのだと言っている。戦上手なだけではなく政にも熱心だから安心して仕えられると思ったのだそうだ」
「まあ」
傳役の半兵衛殿が? 朽木の譜代家臣ではないの? 世継ぎの傳役を任せられるとは余程に信頼されているらしい。
「今、元の今川仮名目録との違いがどのあたりに有るのか確認しながら見ている。……そう言えば奈津、上杉家にはどのような式目が有るのかな? 聞いた事が無いが」
心許なさそうに夫が訊ねてきた。自分が物知らずだという怖れが有るのかもしれない。
「上杉家には式目は有りませぬ」
「なんと、では如何やって国を治めているのだ?」
目を丸くしている。幼い感じがして少しおかしかった。
「政における決め事は個別に条目の形で発布されるのです。永禄三年の十一ヵ条の条目等と呼ばれております」
「ほう、良く分からぬな。不便ではないのか?」
「さあ、如何なのでしょう。もうずっとそれでやっていますから……」
不便なのだろうか? 言われてみればそのような気もする。今度はこちらが心許なくなった。後で兄に文を送ってみようかしら。
「そうそう、来月には武田の松姫、菊姫が婿を取って武田の名跡を立てる。そなたも知っての通り当家には武田に所縁の有る者が多い。あの二人を無碍には扱えぬ。分かるな?」
「はい」
私が頷くと夫も頷いた。
朽木家に来て驚いたのが武田家所縁の家臣達が多い事だった。信濃、甲斐を離れて朽木家に仕えている者が多いのだ。家臣達の中に聞き覚えのある姓が数多有る。そして朽木家では武田家に仕えていたという事は何の瑕瑾にもならない。武田の姫達が武田家滅亡後、朽木家を頼ったのは当然と言える。夫の側にも甘利、浅利の武田旧臣が仕えている。
「それに婿になるのは朽木家の親族であり重臣の者の息子だ。そういう意味でも粗略には出来ぬ。私とそなたから祝いの品を贈る。近日中に城下より商人を呼ぶ、そなたも何が良いか、考えて欲しい」
「分かりました」
頷くと夫が顔を綻ばせた。私が嫌がるとでも危惧したのかもしれない。
「少しは慣れたか?」
「はい」
「朽木は賑やかなので驚いたであろう」
「はい、驚きました」
朽木家は賑やかだ。夫の下には弟が四人、妹が竹姫を除いて四人居る。年内にはもう一人増えるだろう。
「若殿」
声のした方を見ると入口に近習の明智十五郎が控えていた。
「如何した、十五郎」
「御屋形様がこちらに」
「父上が?」
二人で顔を見合わせた。確かに足音が聞こえる。慌てて下座に控えた。
「お出でなさいませ」
二人で御屋形様に挨拶をする。御屋形様が上座に座られた。表情が硬い。何か良くない事が有った?
「如何なされました、父上」
弥五郎様が御屋形様に問い掛けた。声が硬い、私と同じ事を考えたらしい。
「……少々厄介な事が起きたかもしれぬ」
「と仰られますと?」
「小田原城を囲んでいた織田軍が敗れたという報せが入った」
「まさか」
弥五郎様が呆然としている。私も信じられない、織田軍が負けた? 北条はもう滅びる寸前だと……。
「俺もまさかとは思うがな、八門が報せてきた。織田勢が撤退しているのは間違いないだろう」
「……」
「奈津、落ち着いて聞いて欲しい。はっきりはしないのだが勘九郎殿が負傷したという報せも有る」
「そんな……」
声が出た。姉上は……。
「父上、織田の嫡子である勘九郎殿が手傷を負ったという事は……」
弥五郎様の問いに御屋形様が首を横に振った。
「分からぬ。おっつけ八門から第二報、第三報が届くだろう。そうなればもう少し詳しい事が分かるだろう」
「父上、まさかとは思いますが織田様が……」
「弥五郎」
弥五郎様の言葉を御屋形様が首を横に振って止めた。あの事だろうか、織田様の病、飲水病……。
「何が起きたのか、これから何が起きるのか分からんが少し騒がしくなって来たようだ。その方達も覚悟はしておけ」
「はっ」
「はい」
私達が答えると御屋形様は頷かれて去って行った。一体どうなるのか……。
天正三年(1579年) 八月上旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
「織田軍は退却し兵を尾張へと戻しておりまする」
小兵衛の報告に評定の間の彼方此方から溜息が聞こえた。彼らを責める気にもなれん、俺も溜息を吐きたい気分なのだ。何でこうなった? 余りにも酷過ぎる。評定の間は憂欝な空気に包まれていた。頭が痛いわ。これからどうなるんだろう?
信長が死んだ。享年四十六。史実よりも三年早い。まあ史実は自害、こっちは病死だからかなり違うな。嫡男の勘九郎信忠も死んだとなると死因は別でも織田家は史実同様の状態だ。
「織田の退却は已むを得ぬか。それで、誰が織田軍の指揮を執っているのだ? 殿は?」
まさか秀吉じゃないだろうな。
「はっ、柴田権六が全軍を纏め、佐久間右衛門尉が殿を」
かかれ柴田に退き佐久間か。まあ妥当な所だ。しかし……。
「軍には勘九郎殿の他に織田殿の子は居ないのか?」
「いえ、御次男三介信意様、御三男三七郎信孝様が居られます。なれど敗戦の混乱で……」
「遁走したか」
俺の言葉に小兵衛が“はっ”と答えた。皆の表情が渋い。頼りにならぬと思ったのだろう。その通りだ、あの二人は全く頼りにならない。織田家の混乱は必至だ。
信長の死因は謙信同様卒中だったらしい。陣の見回りの最中に発作を起こして倒れたのだという。しかし拙い時に倒れたわ。陣の見回りの最中では兵達の目の前で倒れた事になる。こういうのは幾ら口止めしても自然と広まる。あっという間に陣中に信長が倒れたと広まったらしい。寝ている時に発作を起こして朝になったら冷たくなっていたという方が余程にましだったと思う。かなりの時間を稼げたはずだ。
最悪なのは信長がその場では死ななかった事だ。昏睡状態になった所為で動かせなくなった。小田原城を囲んだ織田軍五万の兵は二進も三進も行かなくなった事になる。そこを北条に突かれた。夜中にいきなり織田の本陣が風魔の襲撃に有った。本陣は大混乱になった、この時に勘九郎信忠が重傷を負ったらしい。これで織田の当主と嫡男が指示を出せなくなった。そして風魔の襲撃と時を同じくして北条が本陣を狙う様に織田に攻撃をかけた。
北条勢は織田軍に襲い掛かるまでは無言だったが攻撃をかけてからは“信長が死んだ!”と声を上げながら攻めかかったらしい。つまり信長の発病は北条に知られていたという事に成る。織田軍は混乱した、本陣から指示が来ないのだから余計だ。決定的だったのは参陣していた徳川勢が陣を退いた事だった。逃げる奴が出れば同調する奴は必ず出る。徳川同様参陣していた駿河、遠江の国人衆があっという間に逃げた。已むを得ずに織田も敗走した。信長はこの最中に再度の発作を起こしたらしい。そして息が絶えた……。勘九郎信忠も敗走中に死んだ。
「それにしても北条の手際が良過ぎますな。織田様の病を逃さずに風魔を使って本陣に夜襲とは。病の事を知っていたという事でしょうが些か腑に落ちませぬ」
新次郎が首を傾げながら疑問を呈すると何人かが頷いた。そうだよな、俺も疑問に思う。
「手引きした者がおります」
「誰だ?」
「徳川配下の忍び衆」
シンとした。皆が顔を見合わせあっている。
「徳川と北条が繋がっていたというのか?」
弥五郎が信じられないというような口調で問い掛けた。小兵衛が頷く。俺は納得したし腑に落ちた。道理で徳川が簡単に陣を退いたわけだよ。織田の混乱を助長するためだろう。賤ヶ岳の前田利家と同じだ。戦わずに逃げる事で織田を崩した。やるな、家康。流石は狸だ。
「徳川は甲斐に入った後、武田の忍び衆である透破者を召し抱えております。この者達、北条配下の風魔衆と密かに繋がりを持っているようで」
なるほど、武田と北条は対織田で協力していた。透破と風魔が繋がりを持っていても不思議では無い。
「つまりだ、徳川は表向きは織田に従属しながら裏では忍びを使って北条と繋がっていたという事だな?」
俺が問うと小兵衛が頷いた。徳川に仕えてからもその繋がりは断たなかった。いや、家康が何かに使えると見て維持させたのだろう。或いは目的が出来て復活させたか、その目的というのは……。
「小兵衛、徳川は織田殿の病を知っていた。そういう事だな?」
「おそらくは」
此方で調べた限りではそれを匂わせる様な物は無かった。八門からも伊賀からも……。服部半蔵との接触を任せた千賀地半蔵は顔を歪めている。伊賀の面目は丸潰れだ。そんな事を思っているだろう。
「北条にもそれを流した、そうだな?」
「おそらくは」
知ったのは松姫、菊姫が朽木に来た後だろう。
北条は後が無い、徳川も甲斐に移された事で織田への不信を感じたのだろう。何時かは潰される、そう思ったのかもしれない。そして信長の病気を知った。飲水病だ、下半身に痺れが起きる。落馬という事も十分にあり得る。源頼朝の死は落馬からの負傷が原因だったと言われている。徳川は密かに北条に報せた。最後まで諦めるな、頑張れとでも言ったのだろう。北条が健在な間は徳川も生き残れる、そう思ったのだ。北条も状況次第で徳川が自分の味方になると思った。希望が生まれた……。
「北条も徳川も千載一遇の機会を待ったわけだ。そしてその機会が遂に来た……」
あとは躊躇わずに動いたという事だ。徳川と北条が手を結んだ。そして織田は信長と信忠が死んだ。後継者問題が勃発するだろう。織田は間違いなく混乱する。東海から関東が揺れるな。少々どころかとんでもない厄介事になったようだ……。