戒め
天正二年(1578年) 十月中旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木堅綱
「親を殺す、兄弟で殺し合う、この乱世では必ずしも珍しい事ではない。俺はその事で宗麟を責めようとは思わぬ。織田殿は弟を殺して織田家を纏めた。毛利家も元就公が弟を殺して毛利家を纏めた。そして二人とも家を大きくした。家臣達は納得しているだろう。そうでなければ両家とも滅んでいたかもしれぬのだからな」
父上の言葉に皆が頷いた。
「宗麟も迷う事など無いのだ。ただ家を守り家臣を守り領民を守る為だけに心を砕けば良い。それが当主の仕事だ。だが宗麟は罪悪感から宗教に縋ったのだと思う。最初は禅、今は切支丹にだ。……弥五郎、良く覚えておけ。当主が心の弱さを見せてはならぬ、何かに縋っている姿を見せてはならぬ。敵だけではないぞ、坊主、商人、家臣、領民、皆にだ。弱さを見せれば必ず其処に付け込んで私利私欲を得ようとする者が現れる。大友を見ろ、伴天連共に付け込まれた」
父上が厳しい眼で私を見ている。当主の眼だと思った。
「父上は伴天連達に好意を持っているのだと思いました」
「違う、朽木の法に従う限り庇護を与えるだけだ。だから証意を庇護した。顕如が俺の前に現れて朽木の法に従うというなら顕如も庇護しよう。そういう事だ、覚えておけ」
「はい」
口調は変わらない。でも父上の視線が鋭くなったような気がした。この程度の事も理解していないのか、そう叱責している。頭を下げて謝罪すると微かに父上が頷くのが見えた。
「土佐の一条少将は?」
父上が問うと千賀地半蔵が既に日向に向かったと答えた。それにしても藤林長門守は眼を閉じたままだ。本当に起きているのか? 誰も咎めないが……。
「御屋形様、実は土佐の事で些か気になる事が」
「何だ、半蔵」
「公方様の使者が長宗我部に」
シンとした。声を出すのが憚られるような感じがする。
「手紙公方の本領発揮か」
父上が冷たく笑った。初めて見る父上の冷笑。家族の前では見せた事の無い父上の笑み。震えが出るほどに怖いと思った。
「半蔵、長宗我部だけか?」
半蔵が“いえ”と言って小兵衛をチラと見た。
「小兵衛殿の前で申し上げ難い事ですが毛利にも来ております、そして安芸の坊主共には顕如の使者が」
父上が小兵衛に視線を向けると小兵衛が頷いた。
「御屋形様、こちらでも同じ動きを掴んでおりまする」
「なるほどな。分かり易い御仁よ」
父上が私を見た。
「……弥五郎、毛利に文は書いたな?」
「はい」
「返事は?」
「毛利右馬頭殿、小早川左衛門佐からは丁重に会うのを楽しみにしていると。吉川駿河守よりは御話し出来るような事は無いと」
父上が声を上げて笑った。余り嬉しくない、吉川駿河守は明らかに私を馬鹿にしているのだ。そんなに笑わなくても……。
「木で鼻を括った様な返事だな。吉川駿河守、戦は強いようだが思慮は些か足りぬな。毛利は朽木に降伏したのだという事が身に沁みて分かっておらぬようだ」
違う! 父上が笑ったのは私ではない、吉川駿河守だ。
「大友は島津に負ける」
父上の言葉に皆が頷いた。私もそう思う、大友が勝つのは難しいだろう。如何見ても勝てそうにない。
「石山城の明智十兵衛に兵を増強しよう」
父上の言葉に皆が頷いた。
「毛利に文を書く。朽木は大友が島津に負けると想定している。その想定の基に準備をするとな。それと毛利に些か訝しい点が有る、次に戦になるときは朽木か、毛利か、どちらかが滅ぶ時だと書く。安芸の根切りも覚悟したとな。島津が大友に勝っても直ぐには九州を統一は出来ぬ。その前に毛利が滅ぶ事になるのだと理解するだろう」
島津が大友に勝てば反朽木の勢力が強くなる。だが父上はそれを利用して毛利を恫喝する御積もりだ。幸い吉川駿河守が不用意な返書を私に寄越した。それと公方様の使者を結び付けようとしている。毛利攻めの口実は既に揃った。文一つ、返事の仕方次第で家が潰れる事も有るのだ。今それを目の当りにしている。厳しいと思った。乱世も厳しいが父上も厳しい。私は父上の様になれるのだろうか……。
「土佐は如何なされます? 九州で負ければ少将様も損害を受けましょう。長宗我部が動き出しかねませぬが」
蔵人の曾祖叔父上が問い掛けた。
「捨て置く。長宗我部だけなら阿波の三好に任せれば良い。厄介なのは長宗我部と島津が組む事だが島津が四国に手を出すのは九州を制した後だろう。かなり先の事だ。その前に長宗我部が滅ぶ」
皆が頷いた。長宗我部、動くだろうか?
「一条家は如何なされます?」
喋ったのは藤林長門守だった。目は閉じたままだ。誰も驚いていない。父上が私を見て顔を綻ばせた。驚いた事が恥ずかしかった。
「負けたとなりますと無茶をしかねませぬが」
長門守の言葉に皆が顔を見合わせている。無茶?
「名誉挽回とばかりに長宗我部に戦を仕掛ける、或いは対島津戦にのめり込むか……」
重蔵の呟きに長門守が頷いた。
「御屋形様に援助をと言って来る可能性が有りますな」
下野守の言葉にまた長門守が頷いた。藤林長門守、かなり無口な男らしい。
「援助はせぬ。本来は長宗我部との和睦を機に内を固めるべきなのだ。九州に遠征などする阿呆に付き合う義理は無い」
父上が不愉快そうな表情をしている。
「いっそ九州で死んでくれれば良いのだがな」
「御屋形様、そのような事になれば土佐は混乱しますぞ」
「生きていても混乱する、違うか? 大叔父上」
曾祖叔父上が困った様な顔をしたが否定はしなかった。
「場合によっては一条家で内紛が起きるだろう。家臣達が俺に助けを求めてくるようになる。少将を何とかしてくれとな」
皆が頷いた。
「その場合は少将をこちらで引き取る事も考えねばならん。頭の痛い事だ。……弥五郎、一条の事、大友の事を良く見ておけ。酷い事になるだろう、色々と学ぶところが有る筈だ」
「はい」
答えると父上が頷かれた。学ぶところか、色々どころか全てが学ぶところだ……。
天正二年(1578年) 十一月上旬 安芸国高田郡吉田村 吉田郡山城 小早川隆景
兄、吉川駿河守元春と共に右馬頭の部屋に赴くとそこには右馬頭と安国寺恵瓊が居た。右馬頭の前に座り挨拶を済ませる。一体何が起きた? 年内に周防の高嶺城に移転を終わらせねばならぬ、決して暇ではない。それなのに兄弟で呼ばれた。恵瓊が居る所を見れば内部の問題ではない。おそらくは外が絡んだ問題の筈だが……。
「近江黄門様より文が届きました」
近江黄門、毛利を降した後近江中将は参議を経て権中納言に昇進した。また一歩天下に近付いたと言える。朝廷では毛利を降した事を重く見ているらしい。来年には権大納言、右近衛大将になるという話も有る。それが実現すれば更に天下に近付く。
「文の内容は?」
問い掛けると恵瓊が此方をじっと見た。
「その前に御伺いしたい事がございます。御二方に朽木の世子より文が届いた筈、如何様な返事をなされました?」
妙な事を聞く、大した内容ではなかった。正月に会って話を聞きたいという内容であったが……。
「正月に会って話を聞きたいという内容であったな。楽しみにしていると返事をした」
兄に視線を向けた。不愉快そうな顔をしている。
「話す事など何も無いと返書を認めた」
右馬頭と恵瓊が視線を交わしている。これか? 確かに大人げないと言えるが父親の権中納言が出張ってくる程のものではない。そして皆が集まる程のものでもない。何が有った?
「朽木からの文には毛利に公方様の使者が来ている事、顕如の使者が龍原山仏護寺の唯順の元に来ている事を知っていると書かれてありました。その事で右馬頭様より何の報せも無いのを訝しんでいると。そして嫡男の文に駿河守様がそっけない返書を認めた。これは如何いう事なのかと」
恵瓊が口を閉じた。こちらを見ている。
「馬鹿な! 我らは今高嶺城への移転で大忙しなのだ。朽木と戦うような余裕など無い。大体戦うなら高嶺城への移動などせん。この場で籠城の準備でもするわ! 言い掛かりも大概にして欲しいものよ!」
兄が吐き捨てた。恵瓊が頷いた。
「如何にも言い掛かり、難癖にございます。しかし隙を見せたのは毛利、朽木に口実を与えてしまったのは事実にございましょう」
「しかし」
抗弁しようとした兄を恵瓊が“暫く”と手を上げて制した。恵瓊が兄をじっと見る。
「駿河守様、これまで毛利が一度も言い掛かり、難癖を付けた事が無かったと言われまするか? 毛利も同じ様に言い掛かり、難癖を付け相手を脅し服従させてきた筈。立場が代わっただけでございましょう」
「……」
兄が口を噤んだ。不愉快では有るが理は恵瓊に有る。毛利は朽木に口実を与えた。
公方様から使者が来たのは事実。勿論誘いは断った。今の毛利に朽木と戦うだけの力は無い。だが朽木に報せる事はしなかった。何処かで反発が有ったのかもしれぬ。顕如の使者が龍原山仏護寺に来ているのも知っていた。だが咎めれば却って厄介な問題になりかねなかった。安芸は朽木に引き渡す事を考慮すれば知らぬ振りをするのが現実的と考えた。混乱すれば年内に安芸を引き渡す事さえ出来なくなる。そう思ったのだが……。
「恵瓊、他にも有ろう」
右馬頭の言葉に恵瓊が頷いた。
「朽木は安芸での根切りを覚悟したと書かれてありました。備前の石山城に居る明智の兵を増強するとの事、三万は越えましょう」
「根切りとは言うが我らに対する脅しであろう」
兄の言葉に恵瓊が首を横に振った。
「かもしれませぬ。ですがそれだけとは言えませぬ。近江黄門様の文には九州の事も書かれてありました」
「……」
「日向での大友と島津の戦い、朽木は大友が敗れると考えております。それによって何が起きるか」
恵瓊が兄を、私を見た。
「大友が敗れるか、……島津の勢力が北上するな」
兄が低い声で吐いた。恵瓊が頷く。
「それを前提に朽木の文を考えますと……」
恵瓊が“分かるだろう”というような表情をした。溜息が出た。隣で兄が唸っている。
「一概に言い掛かり、難癖とは言えぬか……」
私の言葉に皆が頷いた。大友が負ける。島津の勢いが北上する。毛利と島津が組んで大友を挟み討てば九州から山陰山陽にかけて大きな勢力が誕生する可能性が見えてくる……。顕如が安芸で一向門徒を扇動し朽木の足止めをすればそれを可能とするだけの時を稼げるだろう……。
「叔父上方、今一度此処で確認したい」
「と申されますと?」
「毛利の行く末を朽木に賭けるか、それとも公方様に賭けるか」
驚いて右馬頭を見た。昏い眼をしている、本気か? 兄を見た、兄も驚いている。我らが来る前に右馬頭と恵瓊はこの問題を話し合っているのは間違いない。一体どんな結論を出した?
「先ず、某の短慮をお詫び致しまする。申し訳ありませぬ」
兄が頭を下げた。右馬頭が頷く。兄が頭を上げ姿勢を正した。
「某は朽木を頼むべきだと思いまする。朽木は既に大友の敗戦を想定しております。島津と組んでも次の瞬間には朽木に潰されるのは目に見えておりまする。安芸で一揆が起きても根切りで皆殺しになるだけでございましょう」
「某も兄に同意致しまする。島津が大友に勝ってもすぐさま九州を制覇とは行きますまい。それには時間がかかりましょう。手を組んで朽木に抗するなど不可能にござる。島津の九州制覇のために毛利が時間を稼いで潰される事に成りましょう」
右馬頭が頷いた。
「ならば叔父上方、戦の準備を」
「右馬頭様、朽木とは」
言い募ろうとすると右馬頭が首を横に振った。
「さに非ず、唯順に二度と顕如に従って戦を起こすなと命じる。逆らえば根切りに処すると」
根切り? 我らが?
「恵瓊! これはその方の進言か!」
兄が声を荒げると恵瓊が首を横に振った。
「愚僧では有りませぬぞ、駿河守様。右馬頭様の御発案にござる」
「なんと……」
驚いて右馬頭を見た。昏い眼だ、理由はこれか……。
「恵瓊には近江に行って貰う。毛利に二心は無いと申し開きをさせる。だが毛利を信じて貰うには百の言葉よりも一つの行いであろう。朽木の法に従うしかあるまい」
「一揆が起きれば年内に移転など出来ませぬぞ」
兄が問うと右馬頭が頷いた。
「それも恵瓊から説明させる。安芸は毛利の手で清めてから朽木に渡す」
「家中にも一揆に与する者が現れる筈、毛利は割れましょう。その事を軽く見てはなりませぬ。御再考を!」
説得しようとしたが右馬頭は首を横に振った。
「皆に毛利は朽木に降伏したのだという事を理解させねばならぬ。それを徹底させなかったが故に今回のような事が起きた。違うか?」
「……」
「私も、叔父上方も、恵瓊も、公方様から文が来た事を軽く見た。これまでの様に毛利だけで判断して良い事だと思った。その甘さを捨てねばならぬ。毛利は主君を持つ身なのだ」
確かにその通りだが……。
「恵瓊、その方は如何思うのだ?」
兄が問うと恵瓊が首を横に振った。
「愚僧も反対にございまする。右馬頭様の御考えは良く分かりまする。なれどそれを行えば家中に大きな亀裂が生じましょう。朽木は安芸での根切りを覚悟しております。安芸の門徒は朽木に任せ毛利は家中の一向門徒を抑える事に専念すべきかと思いまする」
その通りだ、それが朽木との約束の筈だ。だが右馬頭は何の反応も見せなかった。
「叔父上方、恵瓊は此度の文が警告であろうと言っている。朽木に毛利を潰すつもりは無い。ただ毛利に朽木に降伏したのだという事を改めて理解させるためにこのような文を寄越したのであろうと」
「……」
「私もそう思う」
「ならば……」
言葉を続けようとすると右馬頭が“叔父上”と言って遮った。
「これは警告なのだ。次は無い。それとも二度も警告を出すほど朽木は甘いのか?」
「……」
「毛利は朽木の信を得なければならぬ。朽木の家臣なのだという事を行動で示さねば此度の警告を無にする事に成ろう。来る九州攻めでは毛利は位置的に先陣を務める立場にある。信頼されなければ使い捨てにされよう」
思わず溜息が出た。右馬頭は思い詰めている。考えてみれば右馬頭は他人に仕えた事が無かった。朽木の臣下になったという事を必要以上に重く感じている。いやそれとも妥当なのか?
「駿河守様、左衛門佐様。戦の準備を」
「……」
「愚僧が近江に赴き権中納言様に右馬頭様の御覚悟の程をお伝え致しましょう。一向門徒の屈服を優先するか、安芸の接収を優先するか、その辺りを権中納言様に伺いまする。一向門徒の屈服を優先する場合には毛利家が責任を持って行う。安芸の接収を優先する場合には周防の高嶺城に速やかに移転する。如何でございましょうや」
恵瓊が我らに、右馬頭に視線を向けた。右馬頭が少し考えてから頷いた。容易ならぬ事に成った。戦の準備をせねばなるまい……。