和睦交渉(1)
天正二年(1578年) 六月上旬 備中国賀陽郡高松村 石井山 朽木基綱
高松城が水に浸かっている。いや浮いている。屋敷は水没し完全に城だけが湖に浮いている。足守川の手前に置いた部隊は引き上げさせた。水の取り入れ口には兵を置いている。指揮官は官兵衛だ。官兵衛は機転が利く。この仕事には打って付けだろう。
雨乞いの踊りの効果は抜群だった。この踊り、雨乞いの百石踊りというものらしい。摂津国有馬郡上本庄村の駒宇佐八幡神社で毎年行われている。摂津と言っても播磨に近い所で官兵衛がこの踊りを見たようだ。官兵衛の記憶を頼りにやったのだが御利益有るわ、直ぐに雨が降った。
俺も踊ったんだが皆、大喜びだ。弥五郎にも踊らせた。楽しそうだったな。まあ戦場ではこういう余興は必要だ。毛利の連中も俺が雨乞いの踊りをしていると知ったら驚くだろう。後で留守番の五郎衛門と新次郎に文で教えてやろう。それと小夜にも文が必要だな、弥五郎は一生懸命務めていると書こう。喜んでくれる筈だ。
実際あの初陣以来一生懸命周囲に九州の事や関東、奥州の事を聞きまくっている。先ずは知識を付けようという事らしい。俺には近江の事を訊きに来た。目的が出来た事で変な焦りは無くなった様だ。もっと早く朽木の当主に必要な物を教えてやれば良かったのかもしれない。松千代の時には気を付けよう。
「御屋形様、毛利はこの後如何動きましょう」
主税が問い掛けてきた。二人で高松城を見ながら立小便をしている。なんか堤の中に小便を入れているような感じだ。昔は二人で良く連れションをやったよな、主税。
「さて、如何出るかな。まあ高松城の降伏を申し出て来るのではないかと思うが」
「御認めにはならぬのでしょう?」
「まあそうだ」
高松城の降伏は認めぬ。高松城の降伏を認めるのは毛利が降伏した時だけだ。良し、終わった。主税は未だ終わらない。昔からそうだった、こいつは容量がでかいのだろう。
この儘なら高松城は見殺しだ。だがそれをやれば毛利の威は失墜する。国人衆は毛利から逃げ出すだろう。大毛利家の崩壊が起きる事に成る。史実の武田がそうだった。勝頼が高天神城を見殺しにした。正確には降伏するようにと命じたらしいのだが攻城方の徳川がそれを受け入れなかった。信長がそれを命じたらしい。その所為で勝頼に対する国人衆の信頼は失墜、他にも要因は有ったが武田家は滅んだ。
このままでは毛利にも同じ事が起きるだろう。それを未然に防ぐには高松城を降伏させるしかない。だが俺が高松城の降伏を受け入れなかったら? 当然検討するだろう。その場合は毛利が降伏するしかない。その辺りは毛利側も理解している筈だが……。うん、主税も終わった。
山陰では鯰江の伯父が順調に伯耆を攻略している。流石に尼子の名は山陰では通りが良いらしい。旧尼子家臣が続々とこちらに付いている。その所為で毛利は統一的な抵抗が出来ずにいる。このままいけば高松城で身動きが出来ない間に山陰が切り取られる事に成る。
それも毛利にとっては降伏を促す要因の筈だ。特に山陰担当の吉川元春にとっては気が気ではないだろう。……だが反応が鈍い、右馬頭輝元かな? 決断出来ずにいるのかもしれん。或いは降伏そのものを検討する事を皆が拒んでいるのか? そっちの方が可能性は高そうだ。大毛利家が降伏、簡単には受け入れられないのだろう。
「毛利の尻を叩くためにもう一雨欲しいな、主税。城が見えなくなるほどに降って欲しいものだ」
「左様ですな」
「踊るか?」
「よろしいですな、某も一緒に」
「良し、決まりだ。上野之助に用意させよう」
上野之助を呼ぼうとしたら上野之助の方から近付いて来た。急いでいる、さて何が起きた?上野之助が片膝を着いた。
「上野之助、如何した?」
「毛利から使者が」
「来たか」
上野之助が頷いた。主税と顔を見合わせた。主税も頷いた。
「名前は?」
「安国寺恵瓊と」
恵瓊か、他の奴なら余程の大物でもない限り追い返したが恵瓊なら問題無い。毛利に降伏を勧告しても受け入れるだけの判断力は有る筈だ。
本陣の陣幕の中で恵瓊と会った。当然だが弥五郎達にも同席させた。
「初めて御意を得まする。安国寺恵瓊と申しまする。主、毛利右馬頭輝元の使いとして参上いたしました」
恵瓊が頭を下げた。大きな頭だ。脳味噌が一杯詰まっていそうだな。なんか見ていて楽しくなってきた。ツルツルでピカピカしているんだ。多分恵瓊は自分で磨いているんだろう。俺にも磨かせてくれないかな。
「御苦労だな、恵瓊。して、使者の趣は?」
「はっ、高松城の事にございまする」
「……」
「高松城の清水長左衛門、降伏し城を明け渡しまする。それと引き換えに城主清水長左衛門と将兵の助命を願いまする」
恵瓊が頭を下げた。さてここからだな。
「残念だが恵瓊、降伏は認められぬな」
「……」
恵瓊は答えない、俺をじっと見ている。ある程度想定はしてきただろう。だが毛利内部で何処まで検討したか? 毛利の降伏まで検討したのか……。
「理由は分かるな?」
「……毛利を潰そうと御考えで?」
低い声だ。そして目を逸らそうとしない。気合負けは出来ん、下腹に力を入れた。
「潰そうとは思わぬ。だが屈服させようとは思っている」
「……毛利に降伏せよと?」
「毛利が天下を望むなら潰すしかない。だが天下を望まぬのなら朽木に対して膝を折る事が出来る筈だ」
「なるほど」
恵瓊が頷いた。この世界でも元就は天下を望むなと言った。それは言葉を変えれば天下人に従えという事だろう。そして今天下を収めつつあるのは俺なのだ。
「条件は?」
「それを言う前に降伏の意思が有るのかを確認しよう、如何なのだ?」
「条件次第かと思いまする」
「それでは駄目だ。降伏するというなら条件を言おう」
「しかし、それでは」
「恵瓊、毛利を潰しても良いのだぞ」
「……」
恵瓊の口元に力が入った。苦渋、だろうな。
「戻って右馬頭殿の肚を固めては如何だ。御坊ではこれ以上は話を纏められまい」
「確かにそのようでございます」
「一つ忠告しておこう。その気になれば朽木は大筒を使って毛利の本陣を攻撃出来る。それを避けようとすれば毛利は陣を下げざるを得ぬ。それが何を意味するかは分かるな?」
「……」
恵瓊が俺を睨んだ。結構負けん気が強い。頭が切れるだけではないな。
「高松城は見捨てられたと思うだろう。毛利に参陣している国人衆も同じ事を思う筈だ。毛利は頼りにならぬとな。そうなれば毛利は終わりだ。雨が降るか、俺が攻撃をするか、その前に決断すべきだと思うぞ。山陰道からも朽木が攻め込んでいる事を忘れるな」
「……」
恵瓊が無言で一礼して去った。少し疲れた、一合戦終わったような感じだ。
「父上」
「何だ、弥五郎」
「父上が条件を伝えなかったのは毛利にとって条件が厳しいと御考えになったからですか?」
興味津々だな。だが悪くない、無関心よりは遥かにましだ。
「そうではない、条件次第で降伏するという形を取りたくなかっただけだ。朽木には敵わぬ、だから降伏する、そういう形を取る事で天下に朽木の武威を示す。降伏の条件は同じでも交渉の仕方で意味が変わってくる事が有る。その辺りは気を付けねばならぬ」
「なるほど」
弥五郎が頷いた。まあこの辺は経験が大きい。その内分かるようになる。
次に使者が来るのは何時かな? 結構揉める筈だ。吉川元春は強硬だが小早川隆景は理性的、そして輝元は憂柔不断。恵瓊が何処まで踏ん張れるかで決まる様な気がする。いや、決めるのは雨かもしれないな。さてと、城の前の兵を退かせるか。
天正二年(1578年) 六月上旬 備中国賀陽郡高松村 小早川隆景
「我らに降伏しろと言うのか」
降伏を突き付けられたという恵瓊の言葉に兄が目を剥いた。
「如何にも、高松城の降伏は受け入れぬと」
恵瓊が答えると兄が唸り声を上げた。やはりこうなったか、朽木の狙いはこの高松城での決着の様だ。
「条件は?」
問い掛けると恵瓊が首を横に振った。
「如何いう事だ?」
「左衛門佐様。近江中将様は先ずは毛利家が降伏の意思を固めるのが先だと申されました。条件はその後で伝えると」
兄がまた唸り声を上げた。陣幕の中で武将達がざわめく。右馬頭は顔を蒼白にしていた。頼りない事だ、やはり和を結ぶ、いや請わざるを得ぬ。
「馬鹿な! 我等を愚弄する気か」
「条件を伝えぬとは、恵瓊殿、お主それで使者の役目を果たしていると言えるのか!」
「その通りだ! 雨乞いの踊りなどとふざけおって」
「傲慢にも程が有る! 我らに言うとおりしろと言うのか」
宍戸左衛門尉、吉見式部少輔、口羽下野守、熊谷二郎三郎が口々に憤懣を漏らした。
「ならば高松城を救えますかな?」
「……」
恵瓊の言葉に皆が口籠った。
「救えるというのなら朽木の申し出を撥ね退ける事が出来ましょう。愚僧は坊主なれば戦の事は分かりませぬ。その手立てを愚僧に御教授願いたい。如何?」
恵瓊が皆を見回した。
「それは……、しかし無礼であろう」
熊谷二郎三郎が言い募ったが恵瓊は全く動じなかった。
「駿河守様、左衛門佐様、如何でございましょうや? 御考えを伺いたく存じまする」
兄は答えない。
「私には高松城を救う方策は見当たらぬ。このままでは毛利は高松城を見殺しにしたと言われかねぬ。なればこそ高松城の清水長左衛門も降伏に同意したのだ」
ジロリと兄が私を見たが何も言わなかった。恵瓊が軽く一礼した。
「朽木はこのまま何もせずとも良いのです。雨が降るのが三日後か、十日後か、雨乞いの踊りでもして遊び呆けましょうな。その間我らは此処で釘付け。朽木の別働隊が山陰を好きに奪いましょう」
恵瓊の言葉に彼方此方から呻き声が上がった。
「それに朽木は大筒を持って来たそうです。この本陣を攻撃しようと思えば出来るのだとか」
“馬鹿な”、“真か”等という声が上がった。恵瓊が頷く。
「攻撃を避けるためには陣を下げるしかありますまい。そうなれば我らは高松城を見捨てたと思われかねませぬ。それが何を引き起こすか、皆様方もお分かりでござろう。降伏は已むを得ぬ事にござる」
恵瓊の声が途絶えるとシンとした。皆、項垂れている。
「右馬頭様。近江中将様はこう申されました。毛利を潰すつもりはないと。だが屈服させようと思っていると」
「それは、真か?」
右馬頭の声が掠れている。
「はい。そしてこうも申されました。毛利が天下を望むなら潰すしかない。だが天下を望まぬのなら朽木に対して膝を折る事が出来る筈だと」
「……天下を望まぬのならか……、叔父上方、如何思われる?」
天下を望まぬのは父の遺言であったな。おそらくはそれを踏まえての発言であろう。
「日頼様の御遺言により毛利家は天下を望まぬのが決まり。その御遺言に従うべきかと思いまする」
右馬頭が兄に視線を向けた。
「……已むを得ぬ事かと思いまする」
武断派の兄が苦渋に満ちた口調で降伏を受け入れる事を口にすると彼方此方から啜り泣く音が聞こえた。後は最低限守らねばならぬ和睦の条件を固めなければ……
天正二年(1578年) 六月上旬 備中国賀陽郡高松村 石井山 朽木基綱
降伏を通告した翌日、恵瓊が再度陣を訪ねて来た。
「御苦労だな、恵瓊。して、肚は固まったかな?」
「はっ、毛利家は朽木家に降伏致しまする」
周囲からどよめきが起こったが手を上げてそれを抑えた。ここまでは想定通りだ。毛利が余程に馬鹿共揃いでもなければ降伏を選択する。
「では条件だな?」
「はっ」
恵瓊がこちらを強い眼で見ている。中々簡単には行かないかもしれない。
「先ず領地の問題だな。毛利家は朽木家に対して備中、備後、伯耆、出雲、隠岐、そして安芸を引き渡す」
「安芸もと仰せられまするか!」
「石見は毛利領とする。但し銀山は朽木の所有とする」
「それは……」
恵瓊が大きく息を吐いた。直ぐには噛み付かない。
「それでは降伏したくても出来ませぬ。父祖伝来の地を奪われ銀山も奪われては……、中将様は毛利を潰すつもりは無いと仰せられましたな。毛利を弄るおつもりか?」
「潰すつもりは無い、弄るつもりもな。さればこそ安芸をこちらに寄越せと言っている」
恵瓊が眉を寄せた。
「分からぬか? 安芸は一向門徒の力が強い。このままでは朽木に不満を持つ一向門徒の巣窟になりかねんぞ。門徒が暴発して毛利家が巻き込まれても良いのか?」
恵瓊の顔が歪んだ。これまでは朽木に敵対していたから問題は無かった。だが今後は朽木に従うのだ。一向門徒の扱いは難しくなる。おまけに門徒は家臣の中にも居る。
「朽木家は坊主共に政への介入は許さぬ。信者を唆す様な行為をすれば寺を焼き坊主は殺す、根切りも辞さぬ。毛利にそれが出来るか? 家臣達にも一向門徒は居よう。三河の様に内乱になりかねんぞ。徳川の様になりたいのか? それを危惧すれば何も出来まい」
「……」
「放置してこの後九州攻略時に安芸で一向門徒が一揆を起こしてみろ。俺は九州攻略を切り上げなければなるまい。当然敵から追撃を受けて損害も出るだろうな。毛利はその責めを負わねばならんがその覚悟が有るのか? 責めを恐れて一揆に同調しないと言えるのか?」
恵瓊が唇を噛み締め朽木の家臣達は彼方此方で頷いた。
「顕如上人を朽木家に引き取って頂く事は出来ませぬか?」
「顕如が朽木の法の下で生きて行くと言うなら引き取ろう。それが出来ぬと言うなら朽木の領外で生きて行くしかない。毛利は朽木に降伏する以上、顕如を領内に入れる事は許さぬ」
「……」
「それにだ、顕如を朽木に引き渡して安芸の信徒共が納得するのか? 朽木の命令だと言うのかもしれんが領内で一揆が起きるぞ」
「……」
「安芸は朽木に渡した方が良い。安芸の信徒達は朽木が抑える。毛利は家臣の信徒を抑えろ。安芸の替えの地は石見だ」
「しかし、銀山が無いのでは」
「元々毛利の物では有るまい。奪い取って今は朝廷の御料所の筈、違うか? 朝廷から銀山の管理は朽木に任せると言って貰っても良いぞ」
恵瓊が息を吐いた。
「……九州は如何なりましょう」
「そのままで良い」
中国地方の領地は納得したようだ。それにしてもこの時期に毛利は九州に領地が有るんだよな。俺の記憶じゃ大友に叩き出されたと思ったんだがどうも違う。何でと思ったけど尼子の復興軍がこの世界では活躍していない。それが影響しているらしい。山陰で騒動が無かった分だけ九州に集中出来たようだ。
「しかし大友は宜しいので?」
「構わぬ。毛利は朽木に下った以上毛利に敵対する事は朽木に敵対する事を意味する。大友にそんな余力は有るまい」
「確かに」
恵瓊が頷いた。一番厄介な領土問題は片付いたかな。後は毛利がそれを受け入れられるか否かだ。恵瓊の力量に期待だな。