変わった初陣
天正二年(1578年) 四月下旬 備中国賀陽郡高松村 龍王山 朽木基綱
「なるほど、これは厄介な」
朽木主税基安が呟くと弥五郎、与一郎、吉兵衛が頷いた。重蔵、下野守は無言だ。主税ももう三十歳を超えた。毛利攻めが終ったら軍略方から外して俺の直属の指揮官にしよう。兵糧方でも軍略方でも特に問題は無かった。決して切れるタイプではないが安定した手堅い仕事をする男と言うのが主税に対する周囲の評価だ。
俺が陣を布いた龍王山は高松城から半里程の所にある。高松城が良く見えるのだがここから見ても攻め辛いのが分かった。高松城は足守川の横に広がる平野部に有る。平野部の中に有る細長く延びている小高い丘、その丘に高松城の本丸、二の丸、三の丸が有った。その背後に家臣達の屋敷らしい建物が有る。そのまた背後に足守川が有って屋敷らしい建物を守る形になっている。つまり背後から攻めるのは難しい。
そして城の周辺は明らかに湿地帯だ。沼、池が幾つか有る。これじゃ大軍は展開出来ない。多分、地盤もかなり柔らかいだろう。鎧の重みで一足毎にズブズブ沈む所も有るんじゃないかと思う。十兵衛は大手門の道は一本で騎馬が一騎駆け出来る程度と言っていたがそこまで行くのが大変だな。弓矢の攻撃でもかなりの損害が出そうだ。夏は蚊が出て大変だろうな。ついでに言えば夜は蛙の鳴き声が煩いに違いない。蛇だって一杯いるだろう。湿気で物は腐り易いだろうし生活環境は決して良くは無い城だ。
俺だったら絶対に住みたくない。しかし主税が厄介なと評価したのは控えめに言っても妥当だ。これは攻め辛いわ。軍事的には間違いなく難攻不落で頼りになる城だろう。史実では秀吉は清水宗治に備中、備後を与えるから寝返れと言っている。これ一時凌ぎじゃなくて本気だったんじゃないかと思うほどだ。この城を放置して先には進めないんだから。
「御屋形様、如何なされますか?」
主税が問い掛けてきた。
「さて如何するかな、無理攻めは良く無いと思うが……」
「間もなく御味方が残りの城を落としてここに集まりましょう。その上で一度降伏を促しては?」
「そうだな、使者を出そう」
先ず上手くはいかんだろう。だが手順としては敵を孤立させて大軍で威圧するのが常道だ。但馬では上手く行ったのだから主税の提案は間違っていない。だから弥五郎、そのように不満そうな顔をするな。重蔵も下野守も表情を変えていないぞ。攻め落とすのも降伏させるのも変わりは無いのだ。大事なのはどの城を攻めて周囲に威を示すかだ。そこを間違わなければ良い。
「しかしな、主税。上手く行くと思うか? この城、相当に堅固だ。敵はその事に自信を持っているだろう。そう簡単に降伏はするまい」
「まあ、そうでしょうな。敵将清水長左衛門は城を枕に討ち死にすると小早川左衛門佐に誓ったと聞き及びます」
安心したよ、主税。お前が敵を甘く見ない男だと確認出来て。
「父上、攻めなければ高松城は落ちませぬ。それとも兵糧攻めになさるのですか?」
「まあ思うところは有るが皆が揃ってからだな」
弥五郎が不満そうだ。与一郎、吉兵衛、十五郎はそれほどでもない。弥五郎は感情が顔に出易いようだな。
「弥五郎」
「はい」
「もう少し感情を抑えよ。それでは皆に簡単に心を読まれてしまう。操られてしまうぞ」
「はい」
弥五郎が顔を赤くした。少しずつだ、教えて行かなければ……。
全軍が揃ったのは十日後の事だった。早速沼田上野之助、真田源五郎を使者に出して降伏を促したがものの見事に失敗した。条件は本領安堵に五万石加増だったんだけどな、駄目だった。ケチだとは思わない。むしろ五万石加増の方が反故にされる可能性は少ない、信じて良さそうだと思える筈なんだが……。やはり清水宗治はやる気だな。
「如何すべきだと思うか?」
皆答えない。そうだよな、使者になった沼田上野之助、真田源五郎が極めて攻め辛そうですと報告したばかりなのだから。
「やはり大筒で攻めた方が……」
日置左門の言葉に彼方此方で同意する声が上がった。
「御屋形様、お気に召しませぬか?」
「分かるか、半兵衛」
「それはもう、長い付き合いでございますれば」
竹中半兵衛がおっとりと笑う、何人かが半兵衛を咎めたが俺が止めた。半兵衛に笑われても腹が立たんな。それにしても俺って結構感情が表に出易いのかな? だとしたら弥五郎を責められん。
「何か御考えが御有りなのでございますな?」
「有る」
半兵衛の問いに答えると皆が俺を見た。視線が痛いわ。
「正直に言う、途方もない攻略法だ。皆俺の頭がおかしくなったのではないかと疑うだろう。それに銭が掛かる。馬鹿みたいに掛かる。キチガイ沙汰だな。だが上手く行けば毛利の度肝を抜けるだろうし、毛利に服属する国人衆の心を折ることも出来るだろう」
皆が黙り込んだ。そして俺をじっと見ている。小僧、その先を言え、そんな感じだ。
「高松城を水攻めにする」
「……」
あれ、あんまり感動が無いな……。
「高松城を水没させるのだ」
「……」
俺、日本語話してるよな。何で皆表情を変えないの、少しは反対意見とか出ても良い筈なんだけど……。
天正二年(1578年) 五月上旬 備中国賀陽郡高松村 龍王山 小山田信茂
「水攻めか……、如何思う?」
問い掛けると浅利彦次郎昌種、甘利郷左衛門信康の二人が困った様な表情をした。
「分かりませぬな、水攻めと言っても水の手を切るのではない、城を水で埋めるとなると……」
「彦次郎殿の言う通りでござる。分かりませぬな、唐土にはそのような例が有るとは聞き及びますが……」
二人とも歯切れが悪い。上手く行くのか行かぬのか判断が付きかねるというところであろう。だがこの龍王山からは高松城を水没させるべく普請作業が進められているのが見える。
「蛙ヶ鼻から長さ二十六町、高さ四間の堤を造る……。一体どれほどの銭を必要とするのか」
「土嚢一俵で銭二十文を与えるそうですが……」
「土嚢は六百万俵は要ると聞いた。銭は十万貫を越えよう。途方もない話よな」
溜息が出た。
武田とは全てが違う。高が城一つに此処まで大がかりな事をするとは……。武田なら城を包囲し兵糧攻めをするのが精一杯であろう。或る程度こちらの武威を示してから調略を仕掛けるか降伏を促す。だが朽木は違う。銭を使い人を動かし堤を造ろうとしている。眼下には土嚢を持って来る百姓が次から次へと大勢集まっている。戦場と言うよりも普請場に近い。これが戦だろうか? 攻撃する我らが疑問を感じているのだ。城将の清水長左衛門は我ら以上に困惑しているだろう。
「しかし恐ろしいのは朽木家の人間が御屋形様の申される事を何の躊躇いも無く受け入れた事にござろう」
「如何にも、某も驚き申した」
確かにその通りだ。皆、さほどに驚く事も無く受け入れた。銭が掛かる事を思えば反対しても良さそうなものだが……。天下第一の富強というのは嘘ではないのだ。我らとは感覚が違う。それに皆銭勘定に明るい。銭に慣れ親しんでいるのが分かる。
「銭も有るのであろうが御屋形様に心服しているのであろうな。何と言っても朽木家を近江の一国人衆から天下最大の大名にしたのだ」
二人が頷いた。信玄公がそうであった。甲斐一国から信濃をほぼ制圧するところまで行った。我らは皆信玄公に従い戦場に赴いた……。あの敗戦が無ければ……。
「堤が出来ても水が溜まりますかな?」
彦次郎が小首を傾げた。
「足守川の水が入れば水は溜まらずとも泥濘になるのではないか。間もなく毛利勢がやってこよう。毛利と戦う時に背後から襲われる可能性はかなり小さくなる」
「なるほど」
俺が答えると郷左衛門が頷いた。
「彦次郎殿、郷左衛門殿、水が溜まるかどうかは天候次第だろうな」
二人が空を見上げた。
「雨が降るかどうか、それ次第という事ですか」
「運ですな」
そう、運だ。事を謀るは人に有り、事を成すは天に有る。御屋形様に天運が有るかどうか……。
天正二年(1578年) 五月下旬 備中国賀陽郡高松村 龍王山 朽木堅綱
「御屋形様、毛利軍が間もなく当地へ、十日もすれば現れましょう」
「ほう、そうか」
黒野小兵衛の報告に父上が頷いた。そして立ち上がり陣幕の外に出た。皆がそれに従う。高松城が見える、堤に囲まれた高松城。だが堤の中に水は溜まっていない……。
「十日の内に雨が降ってくれれば良いのだが」
父上が空を見上げると皆も見上げた。快晴、雨が降りそうな気配は無い。十日の内に雨が降るのだろうか?
「確かにそうですが今でもかなり土地はぬかるんでいるとか。毛利と戦になっても簡単に城を出て加勢をとはいきますまい」
祖父の言葉に父上が頷いた。でも必ずしも納得はしていないようだ。不満そうに見える。
「そうだな、舅殿。だが出来れば最低でもあの家臣達の住まいは沈めたい。そうなれば皆が高松城に入る事になる。兵糧の問題も有るが受け入れが大変な筈だ、かなり苦しかろう。心が折れ易くなる」
皆が頷いた。なるほど、そういう事か。
水攻めをすれば敵は出撃は出来ない。そして城の中に大勢の人を入れてしまえばその分だけ兵糧は早く無くなる。降伏が早くなる。なるほどと思った。城の中に人が多ければその分だけ抵抗は激しくなる。力攻めは損害が大きくなる。しかし人が多くなれば兵糧は早くなくなる。包囲して時を稼ぐのも有効な攻略法か。
父上がまた空を見上げた。
「これから雨が多くなる時期だと思うんだが……」
「左様ですな」
「雨が降れば足守川の水も増水する。一気に堤の中は水が満ちる筈なんだが……。運だなあ、俺には運が無いのかな?」
父上の慨嘆に皆が笑い出した。
「中将様、中将様が運が無い等と申されましては天下に運の有る男など居りませぬぞ」
内藤備前守が笑いながら言うと父上が困った様な表情を見せた。
「そうかな、運が悪いとは言わないが運が良いとも余り言えぬと思うのだが……。しかし大将が運が無い等と嘆くというのは良くないな。運が有ると信じよう。うん、雨は必ず降る!」
また皆が笑った、父上も笑っている。
「弥五郎」
「はい」
「ここで黙って見ているだけでは詰まらぬだろう。戦がしたいか?」
「はい!」
父上が笑みを浮かべている。いよいよ初陣か。でもどこの城を?
「良かろう、初陣を飾らせてやろう」
彼方此方から声が上がった。皆が顔を綻ばせている。半兵衛、新太郎も喜んでくれている。
「して、何処の城を?」
「城攻めではないぞ、半兵衛。弥五郎は朽木家の跡取り、それなりの戦をさせる」
皆が押し黙った。父上も笑みを消している。
「弥五郎、朽木家の当主の仕事は様々にある。だが戦に関して言えば何時、誰と、何処で戦うかを決めるのが先ずある。そしてどのように戦を終わらせるかも決めねばならぬ。これは家臣には任せられぬ、当主の務めだ」
「……」
「父はこの高松城攻めで毛利を降伏させようと考えている。銭のかかる水攻めを選んだのはそのためだ。毛利の見ている前で高松城を水に沈める。毛利の心を撃ち砕く、そのためなら十万貫など安いものよ」
ざわめきが起こった。皆が顔を見合わせている。
「その方なら毛利との戦、如何終わらせる。それを考えて見よ。攻め滅ぼすというならそれも良い。だが毛利攻めの後は九州も有るという事を忘れるな。その上で攻め滅ぼすか、和議を結ぶか。和議を結ぶのなら条件は如何するか、考えよ」
「……はい」
答えると父上が頷いた。これが初陣? 毛利を潰す? 和議? それを考える? 如何する? 誰かに聞くしか……。
「誰も弥五郎に助言をしてはならぬ。弥五郎が相談して良いのは十五郎、与一郎、吉兵衛だけだ。四人で考えよ」
「はい」
声が掠れた。十五郎、与一郎、吉兵衛も顔が強張っている。我らだけでそれを考える? そんな事出来るわけが……。
「その方に与える日時は二日だ。纏まったら父に報告せよ」
「……」
「和議の条件は軍略方に検討はさせたが最終的には父が判断を下す。それが当主の仕事だからな。和議か、潰すか、その方の進言に見るべきものが有れば取り入れる。励め」
「はい」
私の意見が取り入れられる? 分からない、如何すれば良いのだろう、とんでもない事に成った……。
天正二年(1578年) 五月下旬 備中国賀陽郡高松村 龍王山 朽木基綱
「随分と変わった初陣でございますな」
弥五郎達が宿題を片付けるために離れると明智十兵衛がニコニコしながら話しかけてきた。
「おかしいか?」
「いえ、御屋形様らしい壮大な初陣かと。水攻めを成されたのもそれが理由の一つでございましょう。いや、若殿も生涯忘れる事は有りますまい。良き初陣にございまする」
十兵衛が笑うと皆が笑った。
「十五郎にも良い経験になろう」
「はい、有難うございます」
十兵衛が頭を下げた。官兵衛、上野之助も頭を下げた。
「しかしどのような案を出してくるか、楽しみですな」
「願わくば御屋形様が取り入れられるような案だと良いが」
重蔵、下野守の言葉に皆がまた楽しげに笑った。
「ま、無理だろうな。戦の終わらせ方などこれまで考えた事も有るまい。今頃は戸惑っていよう」
あらら、楽しげな雰囲気が消えてしまった。
「宜しいのでございますか? 誰も助けずとも」
半兵衛が不安そうな表情を見せた。
「良いのだ、半兵衛。人それぞれに思う事、考える事は違う。正しい答えなど有って無い様なものだ。考えて考えて考え抜く。自分の出した答えに自信が持てずに悩んで悩んで悩み抜く。それが当主の仕事、宿命だ。弥五郎が身を持ってそれを知ってくれれば良い。敵の首を獲る事よりも余程に役にたつ」
皆が頷いた。
首を獲る、敵を討ち果たすなどと言う仕事は家臣達に任せて良いのだ。朽木家の後継者ならば朽木の家をどのような方向に進めるか、それを常に意識しながら決断する事を求められる。それを理解してもらう。それが出来るようになれば知恵は家臣達から借りても良いのだ。俺だって皆から知恵を借りた。頑張れよ。