母の悩み
元亀四年(1576年) 十一月上旬 越後国頸城郡春日村 春日山城 長尾 綾
竹姫が持って来た荷の中に不思議な鼓が有った。新しい物ではない、それなりに使い込まれている。平凡で飾り気のない質素な鼓。嫁入り道具にも若い娘の持ち物にも相応しいとは言えない。何かの間違いで紛れ込んだとしか思えない品。絢爛たる嫁入り道具に飾られた竹姫の部屋でその鼓は質素さゆえに存在を主張している。普通なら捨ててしまうだろう。しかし持ち主の竹姫は大事そうに扱っている。一日に必ず一度はその鼓を打つ。未だ拙いがそこに遊び心は無い、真剣に打っている。
「竹姫様は鼓がお好きですか? 大層大事に扱っておいでですが」
問い掛けると竹姫が嬉しそうに笑みを浮かべた。
「父上に頂いたのです、義母上様」
「中将様に」
「はい」
近江中将様に頂いた? 益々分からない。この何処と言って取り柄の無い鼓を? 息子の喜平次は無表情ではあるが鼓を見ている。それなりに関心が有るのであろう。
「本当は御歌が欲しかったのです。屏風に載せて頂いて毎日父上の御歌を見たかった。でも父上は自分は歌が下手だと仰られて……。代わりに鼓を打ってくださいました。とっても凄かったのです。竹も父上の様に上手になりたいと思って鼓を頂いたのです」
「まあ、ではその鼓は中将様の」
驚いて問うと竹姫がこくりと頷いた。
「これは普段に使う品だからもっと良い綺麗な鼓を遣わそうと言って下されたのですが如何してもこれを竹に下さいとお願いしたのです」
なるほど、近江中将様の練習用の鼓らしい。しかし竹姫にとっては父、中将様の愛用の品に見えたのであろう。大切な頂きものに違いない。中将様も娘に強請られてさぞかしお困りであっただろう。近隣に武威を振るう中将様も娘には甘い父親でしかないと思うと可笑しかった。そう言えば我が家の夫も娘には甘い。何処の家でも父親とはそういうものらしい。喜平次は……、少しは楽しそうな顔をしなさい!
「喜平次様、喜平次様は雷獣を御存知ですか?」
「雷獣?」
「はい、雷を落とす妖怪です」
「……聞いた事が有る様な……」
「凄い、越後にも雷獣は居るのですね」
興奮気味の竹姫に問われ息子が無表情に頷いている。竹姫は妖怪の話が好きだ。竹姫の話では朽木家には妖怪を調べる事を仕事にしている者が居るとか。伊勢の北畠の者らしい。伊勢は神事に縁の深い国。その関係かもしれない。
「喜平次様、近江には雷獣を祀る神社が有るのですよ」
「ほう」
「その神社が有る村は雷がとても落ちるので困っていたそうなのです。或る時その村を通った山伏がそれは村に雷獣が住み着いている所為だと言って村人達に罠を仕掛けさせ捕まえて雷獣を退治したのです。雷獣は嘴が有って鋭い爪を持つ山犬のような姿をしていたとか。おお怖い」
竹姫が身を震わせると喜平次が“うむ”と頷いた。頭が痛い……。幼い娘が怖いと言っているのに頷いて如何するのです! “自分が付いているから怖くは無いぞ”と何故言えないのですか! この役立たずの唐変木!
女中が近付いて来て夫と直江大和守が呼んでいる、夫の部屋に来て欲しいと耳元で囁いた。喜平次が此方を見ている。表情には明らかにホッとした様な色が有った。逃がしませぬぞ、喜平次殿。
「それからは村に雷は無くなったので村人達は雷獣を捕らえた場所に神社を造ったのです。富士神社と言って八幡城の近くにあるのですよ」
「なるほど」
一生懸命話す竹姫を相手に喜平次は上の空……。
「竹姫様、喜平次殿。私は用が出来ましたので失礼しますよ」
「はい、義母上様」
「母上……」
「喜平次殿、竹姫様を頼みますね」
「……はい」
腰を浮かしかけた喜平次が座りなおした。全く、妻を相手におろおろして如何するのです! 相手は未だ八歳だというのに……。話し相手ぐらい勤めなさい!
如何してこうも無口で無愛想で無表情な息子になってしまったのか。ぺらぺら喋るお調子者よりはましでも物事には限度というものが有る。あの様なあしらいを受けては気の弱い娘なら嫌われていると思い実家に帰りたいと騒ぐであろう。幸い竹姫は大らかな娘で直ぐにこの城に慣れてくれたというのに……。特別な事はせずとも普通にしてくれれば……。
竹姫の部屋を出て夫の部屋に向かうと部屋には夫と直江大和守の他に直江津の商人、越後屋蔵田五郎左衛門が居た。五郎左衛門は弟の命を受け上方の様子を探りに行っていた筈、戻って来たとみえる。なるほど、私を此処に呼んだのは共に五郎左衛門から上方の状況を聞こうという事らしい。
「御苦労でしたな、五郎左衛門。何時お戻りか?」
「今日戻りました」
「おやまあ。疲れているでしょうに早速に城に来てくれた事、感謝しますよ」
「畏れ入りまする」
五郎左衛門が深々と一礼した。
「早速だが京の様子は?」
夫が訊ねると五郎左衛門が穏やかな笑みを浮かべた。
「変わりは有りませぬなあ。公卿の皆様方は何事も無かったかの様に過ごしておられます。地下人も同様で」
「ほう、変わりは無いか」
「はい」
五郎左衛門がゆっくりと頷いた。夫が大和守と私に視線を向けた。足利は京での居場所を失ったらしい。
「元々朝廷も公卿の皆様方も公方様よりも中将様に親しんでおいででした。こうなってむしろ喜んでおられるようです。要らぬ気を遣わずに済むと」
「そうか」
「公方様は毛利を頼られたようですが公卿の方はどなた様も同行されなかったようです。二条様も今回ばかりは中将様に御挨拶をされておりましたな」
誰も同行せぬとは公方様が京に戻るとは思っていないという事。前関白二条様は公方様とは昵懇で有られた筈。その二条様も公方様を見限った。
「越後屋、公方様が毛利家の力を借りて京に戻る事は無いか?」
「大和守様、それは少々……」
五郎左衛門が首を横に振った。
「戦では難しかろう。だが交渉ではどうか? 毛利は朝廷に石見の銀山を御料所として献呈しておる。それなりに影響力は有る筈。朝廷に頼んで中将様を説得する可能性は?」
大和守の問いに五郎左衛門がまた首を横に振った。
「難しゅうございましょう。三好左京大夫様の事がございます。戻れば松永、内藤が公方様の御命を狙いましょう。そうなれば京で騒乱が起きまする。そのような事、朝廷が望むとは思えませぬ」
「……」
「それに近江中将様は禁裏御料、宮家領、公家領、門跡領の実情を調べておられます」
「それは如何いう事かな」
夫が問うと五郎左衛門がニヤリと笑った。
「越前守様も御存知かと思いますが京の皆様は困窮しておられます。中将様は新たに所領を進呈する事で援助しようと御考えのようです」
「……」
夫、大和守と顔を見合わせた。二人の顔にははっきりと驚きが有った。
「新領の給付と所領の安堵、これまでは公方様の権限で行っていた事でございますな。それを中将様が行う、意味はお分かりになりましょう」
「公方様の代わり、いや公方様はもはや不要という事か……。事実上武家の棟梁は中将様であるという事だな」
大和守の言葉に五郎左衛門が頷いた。
「所領は山城国で宛がう様にございます」
「山城?」
「はい、足利氏から押収した領地を基に行うのでございましょう」
「では」
「はい、公方様が戻られる事など誰も望みますまい。領地を返せ等と言われては困りますからな」
夫が“なるほど”と言うと大和守が大きく息を吐いた。
「それに亡くなられた三好左京大夫様の御嫡男千熊丸様に中将様の御息女百合姫様をというお話が上がっているそうにございます。そして阿波三好家と河内三好家の和解を中将様が勧めているとか。狙いは毛利であり毛利の元に居る公方様でございましょう」
夫、大和守と三人で顔を見合わせた。畿内は中将様を中心に纏まりつつある、そこに公方様が入る余地は無い。京に戻る事さえ許されまい。
「では喜平次に関東管領職をと公方様に願い出るのは難しいと?」
私が問うと五郎左衛門が頷いた。
「御止めになられた方が宜しいかと。朝廷も中将様も公方様の権威を消し去ろうと努めておられます。今関東管領職の継承を公方様に願い出るのは公方様の権威を認めるという事。中将様、朝廷との関係を徒に損ねるだけでございましょう」
思わず溜息が出た。夫、大和守も息を吐いている。上方の動きはこちらが思う以上に速い。
「畏れながら弾正少弼様の御立場は如何なものでございましょう」
五郎左衛門が躊躇いながらに訊ねてきた。
「以前に比べれば格段に良い。露骨な拒否、蔑みは無くなったように見える。しかし盤石とは言えぬ。出来れば関東管領職の継承を認められた後、家督相続への運びとしたかったのだが……」
大和守が溜息を吐いた。
喜平次の足元を固める。それが上杉家にとっての急務。それゆえに朽木家から無理に頼んで嫁を迎え入れた。それなのにあれは……。ここで竹姫との間が険悪等と噂が立てば喜平次を認めたがらぬ者達が何を言い出すか分からぬでもあるまいに。太刀の手入れよりも竹姫と貝合わせでもしてくれれば……。竹姫が喜平次を慕ってくれればそれが喜平次の力になるのに……。
「如何でございましょう、上洛なされては」
「上洛?」
大和守の問いに五郎左衛門が頷いた。
「従五位下、弾正少弼の官位を頂いたのでございます。上洛して帝に拝謁し御礼を申し上げるのはおかしな事ではございませぬ。その上で帝から御言葉を頂くのでございます」
夫、そして大和守と顔を見合わせた。
「悪くない。そうは思われませぬか、越前守殿」
「うむ、御実城様も最初の上洛の折、帝に拝謁し御剣と天盃を頂いている」
「そうで有りましたな。確か敵を討伐せよとの勅命も頂いたのでは有りませぬか」
夫と大和守が頷いている。公方様に頼れぬ以上朝廷を頼るしかない。上洛、悪くない。頷いていると五郎左衛門が“実は”と切り出した。
「来年は帝の在位が二十年目という節目の年なのだそうで」
「ほう、もうそんなにもなるか」
「今年は永尊皇女の内親王宣下、そして権典侍が男皇子を御産みになられました。どちら様も飛鳥井家を通して朽木家に縁の方でございます。中将様はこれまでの御厚恩に応えるべく正月の行事は盛大に行うとか」
「……」
五郎左衛門がニヤリと笑った。
「お分かりでございましょう。公方様の居ない京で朽木の力で祝う。朝廷の庇護者は誰か、朝廷が頼りにしているのは誰か。中将様はそれをはっきりと形に示そうとされております」
「京を捨てた公方様に武家の棟梁の資格は無い、そういう事ですね」
私が問うと五郎左衛門が“はい”と言って頷いた。
「つまり喜平次が上洛するという事は中将様を武家の棟梁として認めるという事か」
「そういう事になりましょう、越前守様」
夫が異存は無いかという様に私を見た。異存は無い、既に関東管領である弟もそれを認めている。頷き返す事で答えた。大和守も何も言わない。
「となると上洛の時期を何時にするかだが……」
「正月は越後で家臣達の年賀の挨拶を受けて頂かなくてはなりますまい」
大和守の言葉に皆が頷いた。喜平次が上杉家の家督を継ぐ者だと示す機会を逃すわけにはいかない。
「となると雪が融けてから、四月か」
夫の口調が苦い。四月、妥当では有るが京での正月の祝いから随分と日が経ってしまう。些か間延びした感が有る。夫の口調が苦いのもその所為だろう。その事を提起すると五郎左衛門が笑いながら心配は要らないと言った。
「朝廷に帝の在位二十年を祝って何かを贈りましょう。その上で春に上洛して叙位任官の御礼を申し上げたいと伝えるのです。中将様にも上洛の事を伝え正月の行事に使って欲しいと適当な物を送ります。それならばおかしくは有りますまい」
「なるほど、良き思案です。では正月の家臣達の年賀の挨拶の時に上洛の事を発表いたしましょう」
皆が頷いた。後は弟に説明し喜平次に伝えなければ……。
元亀四年(1576年) 十一月上旬 大和国添上郡法蓮村 多聞山城 内藤宗勝
「四十九日も過ぎ、ようやく落ち着いたの」
兄がぼそぼそと独り言のように言った。
「真に。バタバタと日が過ぎ申した。しかしもう年の瀬が其処まで迫っております。また慌ただしくなりましょう」
「そうだの」
兄は背を丸めて茶を啜っている。年を取った、兄だけではない、自分も歳を取ったと思う。兄の手にも私の手にも甲にはシミが有った……。
「兄上、阿波三好家との和解でござるが」
「ま、心配は要るまい。中将様が仲立ちをされるのじゃ。あちらも嫌とは言わぬ筈」
「……兄上の御気持ちは? それで宜しゅうござるのか?」
ちらっと兄が私を見た。そして直ぐに視線を逸らせた。
「正直に言えばあの者達に憤りは有る。あの者達が左京大夫様の元に一つに纏まってくれていれば、三好が京を追われる事も今回の様な事も無かった筈じゃ……。だがのう、今となっては詮無い事よ、先ずは千熊丸様の事を考えなければの……」
兄がホウッと息を吐いた。
「千熊丸様と百合姫様の婚姻が成れば先ずは三好家も安泰でござろう」
「そうよの、朽木の世になっても三好本家が軽んじられる事は無い。相婿には上杉じゃ、それも悪くない」
「真に」
百合姫様は御正室腹、跡取りの竹若丸様とは同母兄妹。その事も好都合と言える。最悪の凶事では有ったが三好家は凶を乗り越え何とか吉を掴みつつある、凶を払いのけつつあると言えよう。
「阿波との和解も悪くない。何時までも海を隔てて睨み合うわけにもいくまい。千熊丸様に生まれる前の遺恨を引き摺らせる事が正しいとも思えぬ」
「そうですな」
「千熊丸様の元服まであと十年はかかろう、長いのう」
「なに、過ぎてみればあっという間でござろう」
「そうよな、あっという間よな」
兄が笑い出し自分も笑った。あと十年、あっという間であろう。だがその十年を生きられるだろうか……。考えても詮無い事よ、人の寿命など誰にも分からぬ。
「こうなると三好本家よりも畠山の方が哀れよな」
「そうですな」
中将様は畠山を滅ぼすと宣言されたが兵を動かす気配は無い。今は朝廷との関係を密にする事を優先されておいでだ。畠山は必死に防戦の準備を整えているようだが味方が集まらずどうにもならぬ状況だと聞く。降伏も許されず毛利が播磨に攻め込むのを待つぐらいしか手が無い状況だが……。
「兄上、中将様に敵対する者は皆毛利に行きますが毛利右馬頭、当てになりますかな?」
兄が笑い出した。
「なるまい。その証拠に中将様は毛利など放り出して朝廷の事を優先しておいでだ。毛利はそれに対して何も出来ずにおる。図体はでかいが頼りない事よ、見切られておるの」
「そうですな」
「中将様は北近江半国の身代でも何を仕出かすか分からぬ怖さが有った。毛利にはそれが無い、当てにならぬの」
全く同感だ。当てにならぬ者を頼る、頼った者も頼られた者も碌な事にはならんだろう。