武門の棟梁
元亀四年(1576年) 八月下旬 山城国葛野郡 朽木基綱
酷いものだった。室町第は跡形も無く焼け落ちていた。義昭は事を起こすと室町第、そして伊勢氏の屋敷、細川氏の屋敷にそれぞれ火をかけたらしい。勝つまで此処に戻る事は無い、そういうつもりなのだろう。
「伊勢兵庫頭様がお見えでございます」
佐吉の言葉と共に伊勢兵庫頭が本陣に入って来た。戦支度をしている。表情が厳しかった。近付いて手を取った。
「御無事であられたか」
「御心配をおかけしました」
「何を言われる。さ、こちらへ」
兵庫頭に床几を勧め互いに正対した。
「伊勢守殿の事、残念でござった。心からお悔やみ申し上げる」
「丁重な御言葉、有難うございまする。少将様の御心遣いを無にするような形になりました事、心からお詫び申し上げまする」
あれ? 如何いう事だ? 詫びようと思ったんだが向こうが詫びてきた。重蔵、下野守も訝しげだ。
「折角事前に御報せを頂きながら……」
事前に報せが行った? 八門か?
「父は皆に逃げるように命ずると自分は屋敷に残ったのです。共に逃げるか、一緒に戦うか、そう言ったのですが……」
兵庫頭が首を横に振った。
「拒んだのですな」
俺の言葉に兵庫頭が頷いた。なるほど、報せは行ったが逃げなかったのか。小兵衛への報せは其処を省いて行われたらしい。伊勢、細川が殺された事で小兵衛も慌てて確認を怠ったか。
「自分は足利の臣、政所執事である。公方様に対し逃げる事も御手向いもせぬと。そして某に以後は少将様に御仕えせよと」
「某に?」
「はっ」
「足利氏より受けた御恩はこれでお返しする。返し足りぬ分は自分があの世で代々の公方様にお詫びすると……」
何時かはこの日が来ると覚悟の上か……。自分の代までは足利の臣、そういう事だな。御爺も俺には自由に生きろと言った。似た様な気持ちだったのかもしれん。足利は終わりだな、御爺や伊勢守のように自分までは足利の臣と見切りをつける人間が出てきた……。
「自分が最後の政所執事になるであろうと申しておりました」
「義昭様も愚かな……。伊勢守殿こそ真の足利の臣、それを自らの手で命を奪うとは……、愚かに過ぎる」
伊勢守は足利を守る事よりも幕府を守る事を優先した。義輝、義昭には不忠に見えたのだろう。だが伊勢守は幕府を守る事が足利を守る事になる、そう考えたのだと思う。そこに迷いは無かった……。
「父伊勢守より少将様への文を預かっておりまする」
そう言うと兵庫頭が文を俺に差し出した。受け取って中を確認すると綺麗な字で一行だけ書かれていた。
『御約束御守り頂きたく、伏してお願い申し上げ候』
約束か、足利の血を酷く扱うなという事だな。殺される時まで足利の行く末を案じたか……。鼻の奥がツンとした。
「何が書かれてあるか、御存知か?」
「はっ、存じておりまする」
「そうか……、では今一度ここで伊勢守殿の御霊に誓い申す。兵庫頭殿には証人になって頂きたい。宜しいな?」
「はっ」
兵庫頭が頭を下げた。
「仇は討てませぬぞ?」
「それが父の最後の願いでござれば不満は持ちませぬ」
有りませぬではなく持ちませぬか。これで伊勢氏は主殺しの汚名から逃れられるのだろうな。伊勢守が望んだのはそちらかな?
「伊勢守殿、決して足利の血を酷く扱う事は致さぬ」
「はっ、御言葉有り難く父に代わりまして御礼申し上げまする」
兵庫頭が深々と頭を下げた。肩が震えている、もしかすると泣いているのかもしれない。
「以後は伊勢守殿の遺言通り朽木に仕えられよ、宜しいな」
「はっ、有り難き幸せ」
「では命を下す。先ずは焼け跡を片付け治安を回復せよ。そして室町第の跡に朽木家の京における政の拠点となる舘を建てるのだ。費用はこちらで用意する。館が出来るまでは適当に代わりの場所を用意せよ。良いな?」
「はっ」
「兵庫頭は残った幕臣達を取り纏め俺の代理として京の施政を司れ。朽木に仕える意志の無い者は自由にさせよ、無理強いはならぬ」
「はっ、御指図の通りに」
「うむ、頼むぞ」
兵庫頭が下がるのを見ながら溜息が出そうになるのを堪えた。義昭はやる気満々、それなのに酷く扱うなと言われても……。困った約束をしてしまったよ。死者との約束は破れん、破れば誰に謝れば良いんだ? あの世まで抱えて行って謝るなんて御免だな。
佐吉が俺の前にするすると出てきた。
「御屋形様、関白殿下がお見えでございます」
「分かった」
関白殿下も流石に沈痛な表情をしていた。
「良いのか? 忙しいのなら出直すが」
「いえ、兵が集まるまであと二日は掛かります。それまでは……」
「暇か」
「はい」
今二万の兵が京に居る。だが三好、松永、内藤、畠山が敵に回れば二万では押さえ切れない。北近江、越前、丹波の兵が必要だ。ざっと二万は集まるだろう。四万なら十分だ。いずれは越後からも兵が戻る。焦る必要は無い、先ずは相手の動きを抑える、潰すのはその後だ。最初に攻撃するのは槇島城だな。義昭の近臣、真木島玄蕃頭昭光の城だ。義昭は此処に密かに千五百の兵を集め伊勢、細川の屋敷を攻撃したようだ。もう殆ど空だろう、義昭は河内の三好義継の所に向かったらしい。女子供は別行動の様だ。今八門が追っている。
床几に坐ると殿下が大きく息を吐いた。
「大樹も思い切った事をしたものよ、臆病で震えているだけの男かと思ったが……」
「某も正直驚きました。殿下が御無事で何よりでございます」
「朽木の者が報せてくれたのでな、内大臣、飛鳥井権大納言と共に内裏に逃げ込んだ」
「左様で」
なんだ、ちゃんと仕事をしてるじゃないか。重蔵がホッとした様な顔をしている。
「細川兵部大輔が殺されたのは痛いの」
最初に殺されたのが藤孝だった。藤孝が殺されたのは室町第だ。どうやら呼び出されて殺されたらしい。おそらくは不意打ちだろうな。新当流の使い手とはいっても油断しているところを突けば殺すのは難しくない。その後に義昭は槇島から兵を呼び寄せ細川邸を包囲し預かりとなっていた三淵大和守を解放した。そして伊勢邸を攻撃した。藤孝の家族は何とか逃げたようだ。藤孝の妻は沼田上野之助の妹だ。逃げ遅れていれば殺されたかもしれない。しかし、痛い? 殿下は親しかったのか?
「三条西大納言も大分力を落としておる。痛々しい程よ」
「……」
「どうやら知らぬようじゃの。兵部大輔は三条西大納言から古今集の伝授を受けている最中での」
「なるほど」
そうか、古今伝授か。そういうのが有ったな。
「麿の曾祖父の政家公も伝授を受けたと聞いているが今では代々三条西家に伝えられておる。だが大納言の子息は幼くての、必ず三条西家に還すという約束で兵部大輔に伝授する事になっておったのよ」
「左様でしたか」
「新たに伝授する者を捜さなくてはならんが……」
殿下が溜息を吐いた。
「どなたか良い御方が居られましょうか? 武家はなりませぬぞ、此度の事でも分かりますが武家は存亡が厳しい。古今の伝授は公家の方から選ばれた方が宜しいかと思います」
「そなたの言うとおりだが……、そなた、知っておるのか?」
殿下が俺の顔を覗き込んだ。何だ、一体。
「適任者がいるとすれば飛鳥井権大納言、息子の四位中将、西洞院右兵衛佐、あとは中院宰相中将だが」
「……」
「やはり知らなんだか」
知らんわ、そんなもん。四人の内三人が飛鳥井じゃないか。西洞院右兵衛佐は飛鳥井から西洞院に養子に行った俺の従兄弟だぞ。もっとも従兄弟共は俺を怖がって近寄らないが。昔伯父相手にブチ切れたからな、あれが尾を引いているらしい。
「書道に堪能だとは殿下に教えて頂きましたが」
殿下が“ほほほほ”と笑い声を上げた。
「飛鳥井の一族は多才での、書の他にも和歌、蹴鞠にも堪能じゃ」
書と蹴鞠は飛鳥井流という流派まで出来ているらしい。なんで俺はそっちの才能が無いんだろう。もうちょっと綾ママに甘えて教われば良かったかな。でもそんな暇無かったしなあ。
「まあ宰相中将が三条西大納言の甥にあたる故そちらに伝授するのではないかと思うが中将は未だ若い、どうなるか……」
「……」
「少将が我らの家業を保護、支援したいと言った時はやはり飛鳥井の血を引く者と思った。少将はそちらは嗜まぬが関心は有るのだとな」
殿下が“ほほほほ”と笑い声を上げた。嬉しいのかな、俺が半分くらいは自分達と同類だと感じているのかもしれない。まあそういう事にしておこう。関心というよりも務めだと思うんだよな、こういうのは。殿下が表情を改めた。
「ところで如何する? 大樹の征夷大将軍職だが解任するか?」
「……」
「そなたがそれを望むなら手続きを取る。帝も此度の事については大層な御立腹じゃ」
「帝が?」
驚いて殿下を見ると殿下が頷いた。
「此度の婚儀、天下から戦を無くすためだと朝廷では理解している。それをあの阿呆が関東管領職の継承を認めぬだの聞いておらぬだのと虚けた事をぬかす。ようやく畿内から戦が無くなり朝廷も貧しさに怯えずに済むようになった。それなのにまた畿内で戦を起こそうとする! あれが征夷大将軍のする事か! 朝廷を守らずして何の武家! 何の幕府か!」
「殿下」
俺が声をかけると激高した事を恥じるかのように顔を背けた。
「応仁、文明の乱以降幕府は力を失った。ただ混乱するばかりで何の役にも立たぬ。三好も威を振るったとはいえ天下を纏めるには程遠かった。麿が関東に下向したのは関東の兵を率いて天下を正さんとしたが故じゃ。輝虎となら出来ると思った。だが簡単な事ではないと知っただけであった……」
「……」
「正直絶望した。このまま世は乱れ朝廷は衰微し続けるのかと思った、滅ぶのではないかと。そんな時に少将、そなたが頭角を現した。そなたの力によって畿内は安定した、朝廷はかつての平穏を取り戻しつつある。そなたこそが朝廷を守護しておる。麿だけではないぞ、皆がそう思っているのじゃ。忘れないでくれよ……」
元亀四年(1576年) 八月下旬 河内国讃良郡北条村 飯盛山城 三好義継
飯盛山城の大手門の前に千五百程の兵が集っていた。そしてその先頭には義兄、足利義昭公と上野中務少輔、大館伊予守等の側近達が居た。いずれも甲冑姿だ。
「左京大夫、出迎えご苦労。兵を休ませたい、中へ入れさせてくれ」
「公方様、これは一体如何いう事でございます?」
いや、聞かなくても分かっている。兵を挙げたのであろう。この軍勢を城に入れる事は出来ぬ。それを許せば自分も挙兵に同調した事になってしまう。
義兄が笑い声を上げた。
「如何いう事? 決まっておろう、兵を挙げたのよ」
「何という事を……」
分かっていた事ではあるが声が震えた。自分の背後でざわめきが起きた。家臣達も分かっていた筈だ、だが驚いている。自分と同じだ。そうであって欲しくないと思っていたのだ。
「もう朽木の好きにはさせぬ」
「御止めなされませ、今直ぐ京にお戻りになるのです。ここで兵を挙げる事に意味は有りませぬぞ」
義兄が笑い声を上げた。何処かに嘲りを感じる笑い声……。
「予に従うのだ、左京大夫。畠山修理亮は既に予の味方に付く事を誓った。毛利も予の味方だ。そして朽木は三万の兵が越後に有る。今なら勝てる!」
「朽木は十万の兵を動かすのですぞ、三万など何程の事も有りませぬ。それに三万の兵は失ったわけでは有りませぬ。一月も有れば戻ってまいります」
「その前に朽木を叩くのだ! さすれば織田も味方に付く! 上杉とて朽木を見限ろう!」
高揚している。幕臣達も勝てると口々に叫んだ。夢だ、夢に酔っている。織田が味方に付く? 武田、北条を敵にしている今、織田に朽木を相手にする余裕は有るまい。片手間に戦える相手ではないのだ。播磨を一月ほどで制した力を侮る事は出来ぬ。
「無理でございます。毛利は備中の混乱を抑えるのに手一杯、まして宇喜多の動向が読めぬ今、当てにはなりませぬ。毛利の狙いは備中を抑えるまで畿内を混乱させ朽木の足止めを図る事にございましょう。騙されてはなりませぬ」
義兄が近寄り私の肩を掴んだ。
「そなたが起てば松永、内藤も起つ。さすれば兵力は畠山も入れれば三万にはなる。持久の体制を採りつつ毛利を待つのじゃ。毛利が来れば他にも味方に付く者が現れる。勝てるのだ!」
身体を揺す振られたが揺す振られる程に心が醒めた。
「出来ませぬ。某にも家臣がございます。その者達を無駄に死なせる事は出来ませぬ」
霜台、備前守は私が起てば付いて来てくれるだろう。なればこそ軽率な事は出来ぬ。あの者達の忠義に甘える事は出来ぬ。
「予を見捨てるのか?」
義兄がじっと私を見た。
「卑怯であろう、左京大夫! 主殺しの汚名を負い世の非難を一身に浴びていたのは誰だ? 一乗院から予を連れだし予を担ぐ事でその汚名から逃れたのは誰だ? 予を将軍と仰ぐ事で三好豊前守、安宅摂津守と対等の立場に立った事を忘れたとは言わせぬ。己の身が安全になった途端に予を見捨てるのか? 卑怯であろう!」
「……」
思わず一歩下がろうとしたが義兄の手がそれを許さなかった。肩を痛いほどに掴んでくる。義兄の顔が近付いた。
「予を見捨てる等許さぬ。見捨てるくらいなら最初から一乗院に打ち捨てておけば良かったのだ。予を還俗させ将軍へと誘ったのはその方ぞ。忘れたとは言わさぬ。予を将軍として崇めよ! 予の命に従え! その方が予の命に逆らうなど許さぬ! 朽木を討つのだ!」
「……大樹」
この方を担ぐ事で義輝公殺害の汚名を免れようとしたのは事実。だがやはりあの汚名からは逃れられぬのか……。この方と共に死ぬ事があの汚名を雪ぐ唯一の手段なのか……。済まぬ、霜台、備前守。あの時死ぬべきであった。その勇気が無かったばかりにその方達まで道連れにしてしまう。
「……大樹、某は……」
「なりませぬぞ! 殿」
「詩……」
振り返ると直ぐ後ろに詩が居た。
「流されてはなりませぬ。お気をしっかりとお持ちくださいませ!」
「邪魔するな! 詩!」
義兄が詩を叱責したが詩は怯まなかった。一歩前に出て私の横に並ぶと義兄が私から手を離し詩と向き合った。
「兄上、もう御止めなされませ。このまま京へお戻りになるのです」
「何を言うか! 予は退かぬ!」
「伊勢守を頼られませ。伊勢守なら兄上を守ってくれます」
義兄が頭を仰け反らして笑い声を上げた。
「伊勢守だと? 朽木に尻尾を振るあの裏切り者がか? 予を守る? そなたは面白い事を言うの。ホホホホホホ」
「嘘ではありませぬ。伊勢守は少将様から足利の血を酷く扱わぬという御約束を頂いております」
思わず詩の顔を見た。皆がざわめいている。
「……そなたが頼んだのか? 詩」
「はい、兄上。私が伊勢守に頼みました」
「……」
「兄上を、足利を守るためでございます」
義兄がまた笑い声を上げた。狂ったように笑う、何度も、何度も詩の顔を指さしながら笑い続けた。何処かおかしい。詩が“兄上”と呟くと義兄がようやく笑うのを止めた。だが義兄の顔には未だ笑みが有った。
「伊勢守は死んだ、予が殺した」
詩が“ひっ”と小さく悲鳴を上げた。
「何という事を、それは真でございまするか」
「真だ、左京大夫。伊勢守だけではないぞ、細川兵部大輔も殺した。一色式部少輔は毛利が始末してくれよう。あの裏切者共、予に仕えながら朽木の為に働いておった」
また義兄が声を上げて笑った。背後で家臣達のざわめきが聞こえる。もうどうにもならぬ、京に戻る事は出来まい……。
「残念であったな、そなたの試みは無に帰した」
義兄が詩を揶揄した。
「何故、何故そのような事を。……足利にはもう天下を治める力は有りませぬ。何故それを受け入れぬのです。徒に天下を乱して何とするのです」
義兄がまた笑った。真に可笑しそうに笑っている。
「詩よ、そなたが何を考えたか、予が当ててみせよう」
「……」
「征夷大将軍職を辞し阿波の義助のように程々の官位を得て過ごせというのであろう。違うか?」
「そうでございます。武家の名門として……」
「名門? そなたは何も分かっておらぬ」
「兄上……」
義兄の顔から笑みが消えた。
「そなたの申す通り、足利は力を失った。今では誰も足利の命に従おうとせぬ。征夷大将軍、足利義昭か。滑稽な存在よな、笑えるわ」
義兄が苦笑を漏らした。
「今のこの状況で将軍職を返上すれば如何なる? 予は、いや足利は侮蔑の対象でしかあるまい。違うか?」
「……」
自分も、詩も答える事が、いや否定する事が出来ない。
「予も仏門に在る頃は兄の事をなんと愚かなと思った。そなたと同じ事も考えた。程々の名門、それで良いではないかと」
「ならば……」
詩が言いかけると義兄が首を横に振った。
「だがこの地位に就いて兄の、いや代々の将軍の気持ちが分かった。足利家は武門の棟梁なのだ。侮蔑の対象になどしてはならぬ。その為に戦う、例え相手が誰であろうとだ。予は諦めぬぞ、天下の諸大名を糾合し朽木を倒す。そして足利の権威を今一度天下に輝かせる!」
この方は……。妄執に、足利氏の妄執に囚われておいでだ。
「大樹、そのためになら天下を混乱に落としても構わぬと?」
「そうだ、武門の棟梁が蔑まれてはならぬ! そのために戦う。それが足利に生まれた者の、将軍になった者の務めなのだ!」
「兄上、御許しを!」
「戯け!」
詩が懐剣を抜いて斬りかかり義兄が太刀に手をかけた!
「ならぬ! 詩! 大樹!」