急転
元亀四年(1576年) 八月中旬 播磨国飾東郡姫山 姫路城 黒田孝隆
隠居所の父を訪ねると先客がいた。叔父休夢斎が父と壺の話をしている。久し振りに増位山の地蔵院から出て来たらしい。面白そうだったのでちょっと廊下で立ち聞きさせて貰った。
「丹波焼というのは色が柔らかいの」
「そう言えば太兵衛が少将様から頂いた丹波焼の壺は織田焼、珠洲焼に比べれば柔らかい感じがしましたな」
叔父の声には納得の色が有る。
「うむ、あれは良い壺であった。儂も丹波焼で良い物を求めようとしたのだがどうも納得出来る物が無い。播磨には出回らぬようじゃ」
「やはり京、近江の方に行ってしまうのかもしれませぬな」
「そうよな、向こうで求めた方が良いのかもしれん」
なるほど、播磨よりも京、近江の方が物は売れる。壺も向こうに行くという事は十分に有り得る。
「丹波焼の爽やかな大人しさ、織田焼の赤みを帯びた褐色、珠洲焼の深みのある黒、それぞれに味わいが有る。太兵衛が羨ましいわ」
最近父は話し相手が太兵衛だけでは物足りなくなったらしい。頻りに叔父、善助、九郎右衛門に壺の良さを説明している。俺にも時々話をする事が有る。そのうち黒田家では壺が流行るかもしれない。そうなれば播磨にも壺が流れて来るようになるだろう。
「いっそ少将様に御願いしてみては如何でござる」
「休夢、良い事を言うの」
父の声が弾んでいる。いかん、そんな事をしたらこの城は壺だらけになる。
「父上、叔父上、御邪魔しますぞ」
声をかけて部屋に入った。
「官兵衛、客は帰ったのか?」
「御存知で?」
「休夢はそなたを訪ねて来たのだが来客中という事でこちらに来たのよ」
急用かと思ったが叔父の顔には笑みが有った。多分ご機嫌伺いだろう。ここしばらく来ていなかった。
「申し訳ない事をしました」
「いや、久しく来ていなかったのでな、寄らせて貰ったのだ。特に用が有ったわけではない。ま、兄上の壺の話も聞けた。なかなか楽しい」
やはりご機嫌伺いか、それにしても叔父もどうやら壺仲間になりつつあるようだ。
「客人は?」
「志方城の義兄上です」
「左京進殿か」
「はい」
父と叔父が顔を見合わせた。二人とも複雑そうな表情をしている。志方城の櫛橋豊後守伊定は先の戦いで毛利方に付いた。毛利方に付いた国人衆はその殆どが滅ぼされるか逃亡した。許されたのは櫛橋家だけと言って良い。俺の妻の実家である事が理由だった。だが降伏した後は豊後守は隠居し妻の兄、左京進政伊が当主となっている。
「許されはしましたが櫛橋家だけが許されました。やはり気に病んでいるようです」
「そうであろうな」
叔父上が頷いた。
「御着の明智殿は義兄上の事を我らと分け隔てなく扱っております。御屋形様も余り気にする様子は有りませんでしたが……」
「まあ、どこかで武功を上げれば気に病む事も無くなろう」
「休夢の申す通りよ。官兵衛、左京進殿が功を焦らぬ様に気を配れよ」
「はい」
義兄の鬱屈には他にも理由が有る。敵対した事で所領を削られる事は無かった。だが周囲は皆加増を受けている。別所孫右衛門、置塩殿、明石与四郎、そして黒田家。それぞれ一万石前後を加増された。それらの事も義兄の鬱屈の一因ではあろう。削られなかっただけまし、そう思えれば良いのだが疎外感を感じているように見えた。
一風変わった恩賞を受けたのは冷泉侍従だった。所領を与えては他の公卿達のやっかみを受けかねぬという事で所領の代わりに朽木家で歌道の指南役に任じられた。指南料は年間五百貫。それと従三位参議への昇進。冷泉侍従は領地を貰う事よりも朽木家の歌道指南役に任じられた事が嬉しいらしい。和歌を広められる事、朽木家と繋がりを持つ事が将来的にはより大きな利を生むと思っているようだ。
「ところで竹姫様の御輿入れの行列、三万人との事ですが真の様ですな。近江では見物人が溢れて前代未聞の騒ぎだったとか。それらの者を相手に宿や物売りの者達が大儲けしたと聞いております」
叔父が話を変えてくれた。あまり話したくない話題であったから正直助かった。父もホッとした様な表情をしている。
「三万人か、武田が北条に嫁がせる時の行列が一万人であった。あの時も驚いた覚えが有るが……」
「兄上、武田の場合は甲斐から相模と短こうござるが朽木は近江から越後と長うござる。間には越前、加賀、越中が有りますぞ。一体どれほどの銭を要するのか……、見当も付きませぬな」
叔父の言う通りだ。どれほどの費用が発生するのか見当も付かぬ。そして朽木にはその費用を出す銭が有る。朽木に敵対する者にとっては三万の行列よりもその銭の方が脅威だろう。
「まあ銭もそうだが朽木は遠征には慣れているようだの。昔伊勢から能登、能登から伊勢と軍を往復させた事が有ったと覚えている」
「兵糧方という役が有りますからな」
父と叔父が俺を見た。
「平時から戦の為に兵糧、武器、火薬等を準備しておく役割を負っているようです。朽木家ではかなりの権限を持っておりますな。今播磨で街道を整備しておりますがあれも兵糧方の仕事です。朽木領内は兵糧方が整備した街道で移動が速やかに行えるようになっております」
父と叔父が溜息を吐いた。
「敵が攻めて来るとは考えぬらしい」
「まあ簡単に攻められる相手では有りませぬが……」
「明智殿に伺ったのですが河内、和泉、大和、紀伊の街道も整備されるようです」
“なんと”と叔父が声を上げ父と顔を見合わせた。
「受け入れるのか、それを」
「父上、畠山は管領職を返上したのです。今更拒絶は出来ませぬ。御屋形様は少しずつですが畿内での支配力を強めております」
また父と叔父が溜息を吐いた。兵を起こし和歌を求める、輿入れで三万の行列を作る。派手に周囲に見せておきながら目立たぬところでも徐々に抵抗する力を奪っていく。その歩みが止まる事は無い。
「官兵衛、幕府は、公方様は如何なる?」
「……」
父の問いに答える事は出来なかった。朽木の勢威が強くなる、それは足利の勢威が弱くなる事。足利は徐々に緩慢な死を迎えつつある。公方様はその死を受け入れられるのか、それとも……。
元亀四年(1576年) 八月下旬 近江国蒲生郡八幡町 八幡城 朽木基綱
「もう直ぐ八月も終わりでございますね」
「そうだな、もう直ぐ終わりだ」
雪乃が万千代をあやしている。初めての男の子で可愛くてならないらしい。過保護にならなければ良いのだが。
「今年の夏は涼しゅうございました」
「そうか、気付かなかったな」
いかんなあ、この時期に涼しいと言うのは冷夏という事だ。今年は米の出来は良くないかもしれん。全く気付かなかった、領主失格だ。
「竹の事が御気になりますか?」
雪乃が悪戯っぽい笑みを浮かべながら問い掛けてきた。
「当然だろう。そなたは気にならんのか?」
「気にしてもどうにもなりませぬ。そう思い定めております」
「まあ、それはそうだが……」
女は割り切りが早い。八月も終わりに近付いた、婚儀が無事に済んだのなら良いのだが……。
「大丈夫ですわ。あの子は御屋形様に似て大らかで物に拘らない性格ですから上杉家でも可愛がって貰えます」
「……」
俺は大らかでもないし物に拘らない性格でもない。当主として出来るだけ仕え易い当主を演じているだけだ。俺に似ている? 気休めにもならん。
「また溜息を、先程から御屋形様は溜息ばかり吐いておいでです」
「そうかな?」
雪乃が鶴に“そうよねえ”と同意を求めた。鶴がこくりと頷いて俺を見た。いかんなあ、全然気付かなかった。鶴の頭を撫でてやると鶴が嬉しそうな表情を見せた。竹が居なくなってから寂しいのか良く俺の傍に来るようになった。以前は竹と一緒に居る事が多かったんだが……。
「もう直ぐ重陽の節句だな」
「そうでございますね」
「今度の能興行は大森座か」
「演目はどのようになるのでしょう」
雪乃が浮き浮きと訊ねて来た。俺の心を弾ませようとしてかな。それとも本心か。朽木家の女達は能見物が大好きだ。あれの何処が良いかねえ、俺にはさっぱり分からん。
「良く分からんが脇能は鵜羽と言っていたな」
「まあ、宜しいのでございますか?」
「うん、何がだ?」
雪乃が驚いた様な顔をしている。鵜羽って何か有るのかな?
「あれは悪御所と言われた義教公が赤松様に暗殺された際に上演されていたものでございますよ。余り縁起の良い演目ではございませぬ。忌み嫌う方もおられます」
なるほど、足利義教か。赤松満祐が自邸で義教を歓待している最中に殺した嘉吉の乱だな。あの時鵜羽を演じていたのか。これってどうなんだろう、俺に対する嫌がらせとか有るんだろうか? 待てよ、義教って第六天魔王とか言われてなかったかな。比叡山とも抗争してたような気がする。似ているなあ、俺に対する嫌がらせ、いや呪詛かな。
雪乃が心配そうな顔をしている。俺と同じ事を考えたのかな。敢えて明るく行こう。
「気にする事は無い」
「そうでございますか?」
「そうだとも」
気にしない事にしよう。面倒だ。変に騒ぐと問題になる。俺は能興行を楽しめば良いのだ。だが終わったら一言言った方が良いな、義教の事は知っているぞと。俺は気にしていないと。
「御屋形様」
押し殺したような声がした。小兵衛だ。部屋の入り口で身を屈めている。近寄って同じように身を屈め“如何した”と問い掛けた。
「京で動きが」
「兵を起こしたか?」
小兵衛が頷いた。お互い小声だ、雪乃や鶴には聞こえまい。
待っていた、ようやく動いたか。気配は有ったが中々動かないのでイライラしていた。
「伊勢伊勢守様、細川兵部大輔様が」
「如何した?」
「公方様に殺されました」
「殺された?」
問い返すと小兵衛が頷いた。如何いう事だ?
「馬鹿な、事を起こす前に逃がせと言っていた筈だ。彼らも了承していた筈。式部少輔は如何した、報せは無かったのか?」
如何いう事だ? 京で動きが有るのは分かっていた。だが伊勢守や藤孝を殺すなどという動きは無かった筈だ。そんな動きが有れば式部少輔が報せた筈だ。如何なっている?
小兵衛が俺をじっと見た。
「御屋形様、式部少輔様は毛利への使者に」
「毛利? ……何時の事だ?」
「事の起きる前日にございます。それまでの報告に危険を感じさせるものは有りませぬ」
前日? その時は伊勢、細川の殺害は決まっていなかったのか? 急に決まった? だが伊勢、細川を殺すとなるとそれなりに準備、手筈を整える必要が有った筈だ。簡単に出来るものか? おかしい、如何なっている?
いや急に決まったのではない、既に決まっていたとしたら……。式部少輔は裏切ったのか? そうは思えん、だとすると……。
「いかん、式部少輔は殺される! してやられたぞ! 小兵衛!」
気が付けば大声になっていた。鶴が怯えた様な表情をし万千代が火が付いた様に泣き始めた。“御屋形様”と強い声で咎める雪乃に“済まぬ”と謝って部屋を出た。
「出陣だ! 触れを出せ!」
大声で喚いた。それを受けて控えていた小姓達が口々に出陣だと声を上げながら動き出した。良し、これで皆が動き始める。
「御屋形様、申し訳ありませぬ」
「言うな、小兵衛。抜かったのは俺だ。婚儀に気を取られてあの手紙公方を甘く見た! してやられた!」
怒鳴りながら自室に戻ると石田佐吉、加藤孫六の二人が鎧を用意して待っていた。騒ぎを聞き付けたのだろう、蒲生下野守、黒野重蔵もやってきた。
「如何なされました」
「手紙公方が兵を起こした。伊勢伊勢守、細川兵部大輔が殺された」
「小兵衛!」
重蔵が叱責すると小兵衛が“申し訳ありませぬ”と頭を下げた。
「重蔵、小兵衛を責めるな」
「なれど」
「油断したのは俺だ。うまうまと出し抜かれた!」
孫六と佐吉に手伝って貰いながら鎧を着ける。もどかしい程に手間がかかった。
「一色式部少輔様は?」
「前日に毛利への使者として安芸に向かったそうだ。俺が思うに書状にはこの男朽木の犬なれば処分願いたしとでも書かれているだろう。残念だがもう間に合わん、今頃は船の上だ」
俺が答えると下野守が“なんと”と呟いた。史実の黒田官兵衛と一緒だ。何処かで義昭に疑いを抱かれたのだ。そして疑いは確信に変わった。官兵衛は殺されなかった、荒木と面識があったからな。だが式部少輔は難しいだろう。
「婚儀に夢中になる余り注意が散漫になった。そこを突かれた。それにしても鮮やかなものよ。重蔵、小兵衛を責めるな。今回は向こうがこちらの上を行ったわ」
「御屋形様」
重蔵が唇を噛み締めている。自分の失態以上に辛いに違いない。
「こうなると三好、松永、内藤、畠山の服属も怪しいものだ。すぐさま京を押さえ連中の動きを制する必要が有る。その方等も急げ!」
重蔵と下野守が“はっ”と頭を下げて出て行った。
「御屋形様」
小兵衛が腹でも切りそうな顔をしていた。困った奴。
「小兵衛、戦だ。図りに図っても裏をかかれる事は有る。だが負けたわけではないぞ、勝負はこれからよ。その方も仕度を急げ! 腹を切るなら朽木が滅んでからにしろ、俺の介錯をするのは八門であるその方の役目ぞ!」
「はっ」
小兵衛が一礼して出て行った。腹なんぞ簡単には切らせぬ。無駄死にさせる程俺は優しくないのだ。生き恥晒してでも俺のために働いて貰う。
「御屋形様!」
「弥五郎殿」
小夜と雪乃、綾ママが入って来た。
「火急の用が出来しました、京に向かいます。小夜、湯漬けを頼む」
「はい」
小夜が答えると直ぐに三人が去った。あの三人、湯漬け作るのに張り合ってるんじゃないだろうな。
義昭め、伊勢、細川を殺し式部少輔の始末を毛利にさせようとは余程の覚悟だな。ずっと機会を狙っていたのだろう。うまうまと騙された。それにしても伊勢、細川はともかく式部少輔までこちらの手の者と見破っている。思ったよりも鋭い。……あの目だな、俺をじっと見ていたあの目。おそらくあの目で自分の周囲を見ていたのだろう。
三好、松永、内藤、畠山、当然声はかけている筈だ。何処まで義昭に同調する? 何処までじゃない、最悪を想定しろ! 紀伊、大和が敵になったとすれば伊勢、伊賀の兵は動かせんな。それと南近江の兵も動かすのは拙い。となるとこの緊急時に直ぐ動かせるのは北近江、越前、丹波か。急いで国人衆に使者を出そう。京に集結させる。それと舅殿と十兵衛にも使者を出さねばならん。俺が京に入り摂津、播磨が安定していれば河内、和泉、大和も動く事は出来ん。畿内の混乱はそれほどでもない筈だ。急がねばならん……。