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火種

元亀四年(1576年)  五月中旬      近江国蒲生郡八幡町 八幡城  朽木基綱




「御苦労であったな、次郎左衛門尉」

「はっ」

「越後の方々に変わりは無かったかな?」

「いえ、特にはございませぬ。皆々様、御屋形様によしなにとの事でございました。また謙信公、喜平次様、越前守殿、大和守殿より播磨平定の祝いの言葉を頂きました」

「そうか、重ね重ね、御苦労であった」

俺が労うと目賀田次郎左衛門尉が“有り難きお言葉”と言って頭を下げた。うん、もう朽木の重臣だな。


「越前守殿に例の物、渡してくれたか?」

「はっ、お渡し致しました。越前守殿は大層恐縮しておいででした」

「うむ」

越前守の奥方に贈り物をした。櫛、簪、扇子、それに明の絹織物。竹の姑になる人だからな、それなりに手当しないと。それなのに小夜と雪乃は俺が外に女を作ったと疑って露骨に胡散臭そうな目で俺を見るんだから……。あの二人の考えでは外でこそこそするのは駄目という事らしい。要するに自分達の許可を得てからにしろと。相手は五十過ぎの小母さんだと言うと更に疑わしそうな顔をした。俺は年増に甘いそうだ。真田の未亡人に弾正が亡くなって寂しいと文を書いたのがその根拠らしい。馬鹿馬鹿しくてやってられん。


暦の間には俺と次郎左衛門尉の他に蒲生下野守、黒野重蔵、進藤山城守、伊勢与十郎貞知、伊勢因幡守貞常、伊勢上総介貞良が居た。伊勢家は礼法の家だ、次郎左衛門尉と山城守は何かと伊勢の三人に相談しているらしい。婚儀の事は山城守と次郎左衛門尉が奉行だが伊勢の三人はその相談役のような立場になっている。


「喜平次殿への官位の件、如何であった」

「はっ、是非にもお願いしたいと。これは謙信公から御屋形様への書状にございまする」

次郎左衛門尉が俺に書状箱を差し出した。受け取って中の書状を読んだ。筆跡には震えが無い、代筆だな。内容はこちらの心遣いに対する感謝と是非にも進めて頂きたいというものだった。


「良し、早速にも頼もう」

関白殿下、一条内大臣、飛鳥井の伯父に話をしよう。六月に直接会って話すがその前に文を書いておいた方が良いな。

「次郎左衛門尉殿、官位を望むという事は喜平次様の御立場は余り良くないのかな?」

下野守が問うと次郎左衛門尉が困った様な表情をした。


「良く無いというよりも以前と変わりが無いというべきでござろう。謙信公の御養子とは認められており申すが跡継ぎと認められているかというと……、その点については納得しかねている者が居るらしい」

「……」

「もっともはっきりと反対をする者も居らぬとか。徐々に受け入れられるのではないかと某は考えている……」

誰かが押し殺したような息を吐いた。多分伊勢の三人の誰かだろう。


「御屋形様、あまりに急いではその者達の反発を買いませぬか? それでは却って……」

下野守が心配そうな顔をしている。皆も似た様な表情だ。同じ懸念を抱いているのだろう。

「下野守の懸念は尤もだ。俺も無理は余りしたくない。だがな、謙信公の御身体は万全とは言えぬ。次に発作が起きれば御命を失う事も考えざるを得ぬ。そしてその発作はいつ起きるか分からぬのだ。今のままでは混乱が生じよう。多少強引でも急がざるを得ぬ」

俺の言葉に皆が渋い表情で頷いた。


「それに謙信公もこの話には積極的だ。或いは謙信公御自身が御身体に不安を御持ちなのかもしれぬ」

また皆が頷いた。今度は深刻そうな表情だ。

「案ずるな、上杉の家督問題にこれ以上深入りするつもりはない。後は喜平次殿が自らの力で勝ち取るべき物だろう。俺に出来るのは精々竹の婚礼を華やかな物にしてやる事だけだ。行列の事、話したか?」

俺が問うと次郎左衛門尉“はっ”と言った。ちょっと困った様な表情をしている。


「驚いておいででした」

次郎左衛門尉の答えに皆が顔を綻ばせた。

「驚いていたか、異存はないのだな?」

「はっ」

「ならば良い。婚礼なのだ、賑々しく行こうではないか。山城守、次郎左衛門尉、花火師の手配を頼む。直江津で花火を上げさせよう。皆の心を明るくするのだ、乱世を忘れる程にな」

山城守が“良き御思案”と言うと皆がそれに同意した。俺に出来る事はそのくらいだな。


「他に何か有るか?」

俺が問うと次郎左衛門尉が“御屋形様”と改まった声を出した。あらら、何か有るようだ。皆も次郎左衛門尉に注目している。

「公方様より越後に文が届いたそうにございます」

「……」

「自分の許しを得ずに朽木との縁談を進めるとは如何いう事かと」

うんざりするな、俺だけじゃない、皆がうんざりしている。


「関東管領の任命権は自分に有ると書いて有ったそうにございます」

思わず溜息が出た。

「上杉の内情をまるで分かっておらぬようでございますな。この縁談を取り止めれば喜平次様の御立場は益々不安定なものになりましょう。上杉は混乱致しますぞ」

重蔵の言葉に皆が頷いた。


重蔵の言うとおりだ。何も分かっていないんだな、義昭は。竹と喜平次景勝の縁談は上杉の混乱を抑え朽木、上杉の協力体制を維持しようという事なんだ。そして朽木と上杉が安定していれば織田だって協力体制を取らざるを得ない。つまり朽木、上杉、織田が協力する事で畿内、北陸、東海、上手く行けば関東まで安定する。戦国ではない時代が見えてくる。


俺が義昭ならそこに乗る、そこに幕府の生きる道を探す。朽木、上杉、織田の利害調停者として生きるのだ。そうする事で足利の権威、幕府の権威を保とうとする。竹と喜平次景勝の婚儀も幕府主導で行う。……でも義昭の考える事は朽木を小さくする事だけだ。だから朽木と結ぶ事で安定を図る上杉が混乱するような事しかしない。周囲の信を得られない。


上杉が崩れたら誰が関東管領職を継ぐのだ? 関東管領職は一度消滅しかかった経緯が有る。それを謙信が引き継いで再興した。謙信だから出来た事だろう。その上杉が崩れたら如何なる? 義昭の我儘で潰れたのだ、誰だって関東管領職から距離を置くだろう。つまり関東の纏め役は居なくなるという事、足利の権威が崩壊するという事だ。そういう事がまるで分っていない。


「次郎左衛門尉殿、上杉家の方々は何と?」

「気にしてはおられぬ。婚儀を進める事に不安は無い」

「しかし喜平次様の家督継承に不満を持つ者はそれを言い立てましょう。喜平次様の御立場は不安定なままとなり申す」

「その懼れが有る事は否定出来ぬ」

「余計な事を」

皆の言う事を聞いて全くだと思った。余計な事だけは達者だな。さて、如何するか……。


謙信と景勝は何処まで肚を括ったかな。関東管領職を捨てる覚悟が有るのか、それともいずれは義昭が折れると見たのか……。俺にとっては足利の権威が崩壊するのは願ったり叶ったりだ。だが景勝の事を考えると、上杉家中の事を考えると関東管領職を捨てるのは厳しい。景勝の立場を強化するには関東管領職が有った方が良い。となると……。


「御所巻でもやるか」

俺が提案すると皆が顔を引き攣らせた。

「お、御屋形様」

「駄目か? 重蔵」

重蔵が激しく頷いた。皆も頷いている。そうだよな、駄目だろうな。俺も気が進まない。


御所巻、まあなんて言うか一種の監禁、脅迫行為だな。謀反ではないが謀反一歩手前の行為だ。家臣が主君の邸を取り囲み俺達の要求を呑まないと命の保証はしないと脅す。この御所巻、鎌倉時代には無いし江戸時代にもそれらしいものは無い。室町時代にだけ現れる。これが最初に将軍に対して行われたのが足利尊氏に対して高師直、師泰兄弟が行ったものだから室町幕府の創成と共に発生したと言って良いだろう。この時の高兄弟の要求は尊氏の弟、政敵である直義の身柄の引き渡しだった。渡せば殺されたかもしれない。尊氏は直義を出家引退させる事で高兄弟を抑えている。


もっともこの御所巻、そう簡単には出来ない。将軍に無理矢理自分の要求を呑ませるのだ、呑まされた将軍は当然屈辱を感じ報復に出る。高一族の殆どが直義派の武将に殺されたがそれの許可を出したのは尊氏だったと言われている。重蔵が顔を引き攣らせる筈だよ。重蔵にしてみれば自分達の没落の原因が御所巻だった。史実での義輝殺害も御所巻の可能性が有る。交渉で埒が明かず殺してしまったというわけだ。やる方もやられる方も命懸けだ。ギリギリの駆け引きを要求される。


「御屋形様、公方様から和歌を頂いては?」

皆が山城守に視線を向けた。

「和歌を頂く事で御許しを得るという事か?」

「はい」

正面から朽木、上杉の婚姻の許しを得ようとするよりこっちの方が当たりは柔らかいか。その分だけ抵抗は少ないだろう。しかしなあ、素直には作らんだろう。重蔵、下野守も簡単には和歌を作らんだろうと言って首を振っている。工夫が要るな。


「戦の準備をさせよう」

皆が俺を見た。

「兵力は四万とする。戦の準備が整い次第兵を率いて京に向け進発する。和歌を頂きたいと願い出るのはその直前だな」

皆が顔を見合わせた。


「脅すのでございますな?」

下野守が確認してきた。

「人聞きの悪い事を。脅すのではない、勝手に向こうが怯えるだけだ。高が和歌一つではないか、さて如何なるか……」

皆が顔を見合わせている。


「飛鳥井の伯父上からの報せでは三好、松永、内藤は和歌を送って来たそうだ。彼らにも京に集まって貰おう、兵を率いてな」

義昭の周囲に頼りになる味方は居ない。何処まで意地を張れるか……。ギリギリのところで細川藤孝に和歌を書くようにと義昭を説得させよう。事前に手紙で打ち合わせておいた方が良いな。


あとは畠山か。三好、松永、内藤は和歌を送って来たが畠山は和歌を送ってこなかった。俺を敵に回すという事だな、上等だ。これまでは河内、和泉、大和の壁が有ったから俺を怖れずに済んだのだろう。だがもうその壁は無いという事を理解させてやる。九鬼に海上から紀伊を攻めさせる準備をさせる。真田、長野にも伊勢から紀伊に攻め込む態勢をとらせる。伊勢方面の攻勢は形だけだな、実際に攻め込むのは難しい。だが畠山は無視は出来ない筈だ。そして京には朽木、三好、松永、内藤が集結している。播磨攻めの後だ、効果は有ると思うんだが……。




元亀四年(1576年)   五月中旬     近江国蒲生郡八幡町    黒野影久




下城して屋敷に戻ると小酒井秀介が出迎えてくれた。

「頭領」

「秀介、その頭領は止せ。俺はもう八門の長ではないぞ」

窘めたが秀介は一向に気にする様子が無い。これで何度目だろう?

「頭領を訪ねて珍しい御客人がお見えですぞ」

「客人?」

「はい」

誰かと訊ねてもニヤニヤ笑うだけで答えない。着替えもそこそこに客間に向かうと確かにそこには珍しい人物がいた。


「これは御珍しい」

「真、久しいな。重蔵殿」

客間に居たのは駿河の商人中島金衛門、かつては佐々木越中と名乗った男だった。正面に坐り改めて久闊を叙した。かつて武士であった事が信じられぬ程に商人の姿が似合っている。時の流れを感じた。


「何時こちらへ?」

「今日だ」

「駿河を引き払ったと聞きましたが?」

「織田には伊藤惣十郎を始めとして津島の商人が付いているからな。これまでの様に今川、武田、北条を相手にしていた者はどうしても割を食う。見切りをつけた」

穏やかな表情だ。姿かたちだけではない、表情にも武士の頃の険しさは見えない。


「それにしても大胆な、この近江には昔を知る者も多い。素性を知られては騒ぎになりましょう」

金衛門が声を上げて笑った。

「浅井も無ければ六角も無い。もはや佐々木越中の生死等誰も気にするまい。違うかな?」

「なるほど、そうかもしれませぬな」

「随分と世の中も変わった。この十年、まるで百年にも感じる程だ」

金衛門が嘆息を漏らした。確かにそうかもしれぬ。今の世を十年前に予見出来た者が居るとも思えぬ。


「この後はどちらへ」

「うむ、小兵衛殿とも相談したのだが長門に行こうかと」

「毛利ですな?」

金衛門が笑みを浮かべて頷いた。

「あそこなら毛利、大友、三好を相手に面白い商売が出来よう」

「確かに」

八門と陰で協力しつつ商売に励むか。


「毛利には世鬼一族が居ります。御用心が肝要かと」

「分かっている。力の配分は商売に九、そちらへの協力は一だ。世鬼も気付くまい」

「それなら宜しいのですが」

まあ大丈夫か。今川、武田、北条を欺いて動いて来た。それも十五年以上……。


「少しは役に立ったかな?」

「少しどころでは有りませぬ。何度も貴重な報せを頂いた事、感謝しております」

金衛門が首を横に振った。

「本来なら父の仇として殺されてもおかしくは無かった、それを思えば何程の事も無い。そうか、多少は役に立てたか……」

「十分過ぎる程にござる」

金衛門が満足そうに頷いた。


「次に会う事が有るかな?」

「さて、分かりませぬな、こればかりは」

「そうよな」

「御屋形様にお会いなさりますか?」

少し考えて首を横に振った。

「……止めておこう。私にとっては不思議な御仁であった。そのままで良い、不思議な御仁のままでな」

不思議な御仁か、確かにその通りだ。俺から見ても不思議な方としか言えぬ。


「重蔵殿、小兵衛殿にも話したのだが毛利も容易な相手ではないが東海道の事、目を離さぬ様にした方が良いぞ」

「と言いますと?」

「妙な話だが武士を捨ててから武士の事が分かるようになった。織田と徳川の間には時折齟齬が生じるようだ。今は目立たぬがな」

「……」

気が付けば金衛門の表情が引き締まった物に代わっていた。


「西三河の徳川は百姓兵だが織田は銭で雇った兵だ。だが戦場では三河兵の勇猛さは群を抜いている。織田は戦場に徳川を連れて行きたい、つまり徳川に配慮しなければならぬ。それがもどかしい」

「なるほど」

頷くと金衛門も頷いた。


「織田はこれから甲斐、伊豆、相模に攻め込む。本来なら本拠地を遠江あたりに置きたい筈。やろうと思えば出来る。朽木と上杉は味方なのだからな。だがそれをやれば織田の本拠地である尾張、美濃との間に徳川が居る事になる。もし徳川が妙な事を考えれば織田は三河を境に分断される事になろう。忽ち武田、北条は息を吹き返す筈」

「徳川にそのような動きが有ると?」

金衛門が首を横に振った。


「今は無い。だが徳川にも苛立ちは有る。周りを織田に囲まれているのだ。自力ではもう大きくなれぬ。大きくなるには織田から恩賞を貰うほかは無い。だが織田から恩賞を貰うと言う事は織田はそれ以上に領地を得ていると言う事だ。徐々に身動きが出来なくなる」

「三河の一向一揆、今川の脅威から身を守るために織田に従属しましたが……」

「一向一揆も今川ももういない」

徳川を脅かす敵が居なくなり苛立ちだけが残ったか……。


「織田も徳川も今は我慢している。だがどちらかの我慢が利かなくなれば……」

「利かなくなれば?」

「織田は徳川を潰すだろう。そして徳川は何処かと結ぼうとする筈」

金衛門がこちらをじっと見た。そういう事か……。


「朽木ですな?」

「そうなるな。朽木が近江から美濃、伊勢から尾張に攻め込めば……」

「徳川は生き返る事になる……」

どうやら上杉だけではない、織田にも火種が有る様だ。まだまだ乱世の終結には時間がかかるらしい。




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