掌編――あいつの誕生日
そういえば今日はあいつの誕生日だった。
壁の時計を見上げると、もう23時を回っている。
今から電話をかけたところで、機嫌を思いっきり損ねた彼女は聞く耳を持たないだろう。
ポケットのスマートフォンも今日は一度も震えない。
こちらからのバースデーメッセージを待って、そして来ないのに拗ねて沈黙しているのだろう。
「おつかれさまでした」
部下たちが口々にそういって退室していくのに片手を挙げ、ノートパソコンを閉じる。
「お疲れ、岡部」
同僚の中山が声をかけてきた。
「おう、お疲れ。そっちはなんとかなりそうか?」
帰り支度をしてかばんを手にした奴を見てそう判断する。いつも深夜の喫煙室で愚痴大会を繰り広げている仲だ。
「いや、納期を延ばしてもらったんでな。今日は久しぶりにガキの顔が見られそうだ。そっちは」
「まあ何とかなった。たまにはゆっくり飲みにいきたいんだがな」
「そうだな。今のヤマが終われば、少しは時間ができるだろう。そういえば聞いたか? 次のプロジェクトの話」
ノートパソコンを突っ込んだカバンを担ぎ上げ、部屋を出る。
「聞いたよ。火消し役に投入されるんだろ。カンベンしてほしいよな」
「納品からせめて一週間はゆっくりしたいよ。休暇じゃなくていいからさ」
「まったくだ。昔は納品後の対応で一ヶ月は他のプロジェクトに回されることはなかったんだがな。今じゃ終わったとたんに別のデスマーチだ」
「そのうちほんとに死人が出るぞ。そういや同期の渡辺、やめるんだってな」
エレベーターホールに出る。出入り口はすでにロックがかかっている時間だ。
「ああ、あいつはかみさんと離婚してから精神病んでたからな。田舎に帰るらしい。この間挨拶に来たよ」
切れる奴だった。俺や中山に比べて技術も知識も卓越してた。その分上司からは煙たがられていたが、あれは上司が悪い。技術に疎いくせにプライドだけ高い上司なんてな。
結局上司からデスマーチの火消しばかりに回されて、会社に泊まりこむことも増えて――。
「お前んとこは大丈夫か?」
「ん? ああ、うちは嫁さんも同業者だからな。理解してくれてるよ。渡辺のところは普通のお嬢さんだったからなあ。一人はつらかったんだろう。子供もいなかったし」
「そうか」
外へ出ると、少し肌寒かった。気がつけばもう秋の入り口か。
「お前はどうなんだ? 付き合ってる子がいるってのはうわさで聞いてるぞ。結婚は考えてるんだろう?」
「いや。それは」
言いよどむ。
「ま、そのうち紹介してくれ。暇になったらでいいからさ」
じゃ、と中山は去っていった。
ため息をつき、スマートフォンを出す。時刻表示はもう日が変わったことを示していた。
「やれやれ」
メッセージの着信を知らせる短い音が続く。
『昨日はどうして来てくれなかったの?』
――家に帰るまで待ってくれよ。
そう、心の中で毒づく。いや、もしかしたら声に出していたのかもしれない。
『料理作って待ってたのに』
『素敵な誕生日にしようって約束してくれたのに』
『うそつき』
『何にも言ってくれないんですね』
『もういいです。最低です』
『さよなら』
それきり、メッセージは届かなくなった。
『彼女の誕生日忘れてて』
『あー、そりゃ最悪だ。で、出てっちゃった?』
『はい、どうにかなりませんかね?』
『うーん、そりゃ無理だわ。そこだけは回避不可能なイベントにしてあるから。リアルでも彼女の誕生日忘れたりするのは致命的っしょ?』
『まあ、そうなんですけど』
そんなところまでリアルじゃなくていいよ。ストレスたまるったら。
『まあ、他の子を選ぶか、リセットするかしかないねえ。どうする?』
『じゃあ、リセットで』
『ほいほい。ってあんた、リセットこれで五回目かい。今回はずいぶん高くつくけど』
『構いません』
『ほいほいっと。毎度あり』
パソコンの画面が切り替わった。
愛しいあの子が美しくかつかわいい笑顔でこちらを見ている。
『はじめまして、ご主人様。私はアイ。何なりとお申し付けください』
「はじめまして、じゃないけどね」
今度こそうまくやらなくちゃ。
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