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渡り風の犬、ジロー

作者:うみのまぐろ
 このお話は、ぼくの最後を語るお話だ。ぼくがこの世界に生まれ落ちたことを知ってから、そして最後のときを迎えるまでの物語。ちっぽけなぼくの、どこにでもある、ありきたりな人生――いや、犬生譚である。

 でも、この物語を聞いたあなたには理解してほしいのだ。ぼくの生きた一生は、ほかのみんながそうであるように、確かに平坦なものではなかったかもしれないけれど、不思議なほどに幸せで、零れ落ちてなお余りあるほどのきらめきに満ちたものだったっていうことを。

 最後のときは、ぼくの最初の記憶と同じように、ひらひらと舞い散る満開の桜の下だった。闇の奥から、風に乗って懐かしい香りがする。きみの匂いだ。

 願わくば、ぼくと同じように、きみの人生が幸せで溢れますように。




『ジロー、あなた、捨てられたのよ。そんなこともわからないの?』

 猫のミイヤさんは、しょうがなさそうにため息をついた。不機嫌そうにひげをごしごしと撫でて、そうして尻尾がぱしぱしと動いて、あからさまに虫の居所が悪いようだ。
 色とりどりの紅葉のじゅうたんが敷き詰められた、秋も深まるころだった。

 ミイヤさんは長毛種の三毛猫で、目つきが鋭く尻尾が長い。まるで女ギャングみたいな猫である。

『そんなこと、あるわけないじゃないか。祐一くんがそんなこと』

 そんな恐ろしいミイヤさんに、ぼくは意見を申し上げた。祐一くんがぼくを捨てるなんて、そんなことはあり得ないからである。祐一くんはまだ小さかったぼくを拾ってくれた恩人で、そして飼い主でもあった。ぼくが拾われてから、半年になる。祐一くんは小学一年生だけれど、でもぼくを捨てるような人じゃない。首筋に三つの黒子がある、優しいひとだ。


 ぼくを拾ってくれたとき、祐一君は言った。

『ぼくの名前は、祐一。だから、君の名前はジロー。ぼくと君は、仲良しの兄弟さ』


 そんな祐一君がぼくを捨てるはずなんてなかった。


『あなたのかわいい飼い主がそうだとしても、その親はわからないのよ。人間なんて、簡単な都合で動物を捨てる。あたしだってそうだったもの。あなたここに来るとき、かわいい飼い主が一緒だった? その子の両親だけだったんでしょう? もしそうなら今頃あなたはいなくなったってことにされて、素直なあなたの飼い主が泣くのを両親が慰めているところでしょうね』



 ぼくはびくりと尾を震わせた。そういえば、普段と違って夜中、ぼくは祐一くんのお父さんに連れ出された。病院に行くのかなと思って気が進まなかったけれど、知らないすごく長い道のりを車に揺られて、ぼくはついうとうとと寝入ってしまった。気づいたときにはぼくは専用のキャリーバッグごとこの近くの、大きな紅葉の木の下に置かれていて、そのときにはもうお父さんの姿は見当たらなかった。

 不安になって何度か吠えてみたけれど、誰も答えてくれない。夜が明けていく中、はらはらと視界の先を振り落ちる紅葉がかすめて、ぼくは思わず手を伸ばしてみた。すると、いつもは自分では開けることができなかったはずの、キャリーバッグの扉が、きい、と音を立てて開いたのだ。

 ぼくは真っ赤な朝焼けの紅葉の森を走り抜け、そして疲れ果てて一本の木の下にへたり込んだ。ぐう、とおなかがなっていた。そこで、ミイヤさんと出会ったのだった。




『あなた、やっぱり捨てられたのね。かわいそうに』

 ミイヤさんは、ため息をつくようにして言った。確かにあのとき、お父さんだけで祐一くんはいなかった。そして、うとうととして定まらない曖昧な記憶の中で、お父さんはたしかに『ごめんよ』とつぶやいた気がした。

 もしかすると、ぼくは本当に捨てられたのかもしれない。思えば、ここがどこかさえ判別がつかず、いつもの散歩道とは似ても似つかない野山である。風のにおいも、土のにおいも知らない場所だ。そう気づいたとき、ぼくは突然怖くなった。ぶるぶると体はひとりでに疼きだし、いつの間にか大きな震えになっていた。この森の中で、ぼくは一匹ぼっちであるように思えた。

『あなた、まだ子供なのね』

 ミイヤさんは、再びため息をついた。そして、ぷい、とぼくに背を向けた。

『ついてきて。あなたに生きるすべを教えてあげる。猫のだから、犬のあなたには不向きかもしれないけれど』



 ミイヤさんは、ぼくに一人で生きる術を教えてくれた。エサの探し方、狩りの仕方、安全な寝床の探し方、野山の走り方に、地形の見分け方、四季のことについて。足音の消し方、威嚇の仕方、喧嘩の仕方に、不意のつき方、猫の天敵、犬と闘う方法から、人間からの隠れ方、冷蔵庫や戸棚、障子の開け方、木登りまで。

 ミイヤさんは、一匹で何でもできる猫だった。いや、きっと自分が一匹だけで生きていくために足りるだけの知識や技術で構成された猫だったのだ。ぼくがミイヤさんの指導を受けている最中、ミイヤさんに言い寄る猫たちはたくさんいたけれど、そのすべてをミイヤさんは相手にしなかったし、しつこく迫るオス猫には恐ろしい剣幕と鉄拳を持って制裁した。

 ミイヤさんのふさふさとした毛の下には、無数の傷が隠されている。ミイヤさんは、きっとお金持ちのおうちの飼い猫だったに違いない。それはきちんとイエネコ生活を送っていたのなら、つくはずもない傷だった。ぼくがミイヤさんと出会って半年と少し経つころ、ミイヤさんは言った。


『あたしたちは、結局のところ、一匹で生きていかなければいけないわ』
『なら、どうしてぼくに生き方を教えたの?』

 ぼくが、猫の妙技と呼ばれる秘伝を伝授された日のこと。別れの日の朝である。
 いつもはことばでは教えてくれないミイヤさんが、そのときは一つだけ答えたのだ。


『生き物は、夢を見るのよ。いい夢も、悪い夢も』


 そのときのぼくには、ミイヤさんがなぜそんなことを言っていたのか分からなかったけれど、ミイヤさんは、そのまま新緑の森の木々を駆け上がり、枝に登ってぼくを見つめた。金の虹彩に、少しだけ細くなった静かな瞳。出合ったときと同じ朝焼けだった。


『ジロー、あなたはもう立派な成犬になった。もう、あたしに教えることは何もないわ。行くのでしょう?』
『うん』


 ぼくは森の木々の合間を縫うように駆け出した。ミイヤさんが教えてくれた、走り方、地形の見方、身のこなし、その全てを見せるように、ぼくは駆けた。風に乗ったミイヤさんのにおいが遠くなっていく。もうミイヤさんには会えないかもしれない。振り返らないで、ぼくは走った。もしも振り返ってしまったら、ずっと山で暮らしていくのも、悪くないと思ってしまうだろうからだ。




 そうしてぼくは、いくつかの山を越えて、潮のにおいに誘われるように海沿いの街にたどり着いた。この街はどうやら、寂れた港町のようだった。ぼくの記憶の中にある、祐一くんがいる街に海はなかったけれど、おそらくはぼくの帰巣本能というものが、この街を通って東へ向かうように告げている。
 海沿いの街は、ちょうどツバメたちがわたってくる季節である。

『薄汚れた犬がおりますぜ! 宿なしの野良犬でさぁ! あっしらはきちんと巣を作るのに!』

 チィチュロリ、チュリチュリ、ツバメたちはぼくの上をからかうように旋回した。確かに、しばらく走り続けたぼくの毛並みはぼさぼさで、お世辞にも綺麗とは言えなかった。
 ツバメたちは、ぼくの上をくるくると旋回しながら、ぽとぽととフンを落とした。

『きみたち、いじわるはよしてくれよ』

 ぼくがすんでのところでそれをよけると、笑いながらどこかへ飛び去ってしまった。


 ぼくが民家のごみ箱から食べかけのパンを拝借し、胃袋を満たしていると、再び、頭上をたくさんのツバメが飛び過ぎていく。彼らはいったいどこへ行くのだろう、と不思議に思って街をついていってみると、ツピー、ツピーという鳴き声を聞いた。ぼくがそちらの方に駆けつけると、舟屋のひさし、巣のすぐわきにとまった一羽の親鳥が甲高く声をあげており、地面には、ジジジ、と声をあげながら、慌てふためく雛鳥がいた。巣から雛が落ちてしまったのだ。

 ぼくの接近に気づくと、親鳥はさらに甲高い声を出し、ぼくの周りを飛び回り始めた。しかしながら確かにこのまま雛を放置していては、野良猫に食べられてしまうかもしれないという懸念もあった。
 ぼくはひさしの高さと、近くの塀の高さを目算し、雛を咥えて距離を取った。助走をつけ、手飛び上がり、さらに壁を蹴って跳躍する。そして首を伸ばし、咥えていた雛を巣の中に戻した。
 これできっともう大丈夫だ。ぼくはくるりと空中一回転し、地面に着地した。

 ミイヤさんには甘いと言われるだろう。獲物を食べないなんてどうかしていると。でもぼくの胃袋はさっき食べた食べかけのパンでおなかいっぱいだったのだ。食事も済んだし、旅を急ごう。ぼくが舟屋をあとにしようとしたときだった。


『チィチュロリ、チュリチュリ、待っておくんなせい、山犬の旦那』


 ぼくの周りをくるくると旋回しながら、のどの赤いツバメが囀った。ぼくが立ち止まり見上げると、ツバメはぴょんとぼくの鼻先に降り立った。


『旦那、おみそれしやした。あの身のこなしはまるで猫――いいや、猿飛佐助そのものでござんした。あっしは渡りツバメの徳之助と申しやす。徳と呼んでくだせえ』
『ぼくはジロー。帰る家を探して旅をしているんだ』

 それから、ぼくたちはしばらくの間言葉を交わした。からかってしまったことへの謝罪や、ぼくはおそらく捨てられて、けれど帰る家を探して旅をしていること。今までの経緯を話し合っていると、突然徳さんが泣きだした。


『なんてこった。恩人の笑顔のために何としてでも家に帰ろうだなんて、泣ける話じゃあねえか旦那。そんな義理犬情に厚い犬をからかったなんて、あっしは自分が恥ずかしい』
『気にしないでよ。山中では、それこそ鳥を狩ったりして生き延びてきたのだから』

『いいや、ジローの旦那、あっしは決めました。あっしらは、全国津々浦々を渡りやす。だからね、その先々で、ジローの旦那の帰る家を探しやす。なあに、こう見えてもあっしら、飛ぶのには自信がありやすから』
『そんな。悪いよ』

 徳さんは、ぴょんと飛び上がると、ひさしの下の巣にとまって言った。徳さんの声は震えていた。

『この雛は、あっしのせがれなんです。初めてできた子なんです。この子が無事で、本当によかった。旦那、本当にありがとうございやした』



 海沿いの港町を後にして、ぼくはまた再び旅を続けた。
 太陽の熱が人間の作ったアスファルトの道路を焼く季節となり、昼間はやけどをしてしまうので、夜に移動することにした。
 人里の方が食べ物を入手しやすいので、人間の住むところの近くの山や藪をたどりながらの旅だった。夏の日差しがやや弱まりかけた季節、月の綺麗な晩のことだ。

 ぼくは里と里との合間に、大きな山を越えることとなった。木々の深く茂る、人の住まぬ山中である。遠くの空に覗いた月明かりの下、日が落ちて温度が下がった茂みの中を歩いていた。
 夏の夜は、獣も活発になる時期でもある。特に月に綺麗な晩であればなおさらだ。ワオーン、と遠くで犬の遠吠えがした。この山に入ってから、どうも様子がおかしいことに気づいた。獣の争った匂いが、そこかしこに充満しているのだ。それは、普段は匂いに敏感な獣たちが、戦い傷つき消せなくなった、争いの匂い――。

 あたりには、そんな匂いが充満していて、めまいがした。一刻も早く、この山は通り過ぎたほうがいい。そう思った、その時であった。
 風上から、獣の匂いがした。犬の匂いだ。

 ミイヤさんに教えてもらっていた。相手が見えないとき、進むときは風上に進め、と。なぜなら、ぼくたち犬は鼻が利く。風上から漂ってくる匂いから、行く手の危険を判別できるからだ。
 しかし、様子がおかしい。風上から漂うのは、獣の匂いに混じった、隠し切れない鉄さびの香り。足元、ぼくでない足跡に残る黒い痕。これは――。


 ガウッ!!

 そのとき、走るスピードを緩めていたぼくへ、背後からとびかかってくる黒い影があった。完璧な奇襲だったけれど、ぼくはミイヤさん仕込みの軟体術でひらりと身をかわすと、くるりと回転しながら地面を跳ね距離を取った。

 ミイヤさんは言っていた。逃げるときは、風下に逃げろ。そうすれば、鼻の曲がるような犬の匂いに、追手が気づかずに済むからと。

 つけられていた?

 ぼくは、強襲者と一飛びの間合いで対峙する。

 イングリッシュマスティフ。隈取りに耳の垂れた大型犬だった。いぎりすという海外の国の、闘犬だったこともある犬種である。大人しい性格ではあるものの、体格はぼくより格段にたくましいため、正面から戦えば負けるわよ、とぼくの師匠は教えてくれた気がする。ちなみにミイヤさんにぼくの犬種を尋ねると、『ただの雑種』とため息をついていた。

とにかく、力では勝ち目のない相手である。地の利も相手にあるだろう。ただ、ぼくにはミイヤさん仕込みの描術もある。逃げ切ること自体はそう難しいことではないかもしれないが。

 ぼくは、怯むことなく一吠えすると、イングリッシュマスティフに向けて突撃をした。自分と大きい相手と闘うとき。一番大事なものは気迫であるとミイヤさんは言っていた。そして次に大事なものは初撃である。ぼくは体制を低く取り、にらみ合いが続くと思っていたであろうイングリッシュマスティフのやや側面に潜り込むと、そこから全体重をかけて体当たりを敢行した。巨体が宙に浮き、草の上を転がる。そこに隙があった。ぼくはそのまま置いてけぼりになった尻尾にがぶりと噛みついた。

 ギャイン!

 心の中では、何度もごめんと謝った。イングリッシュマスティフはそのまま、来た方向の藪の中に逃げ帰っていく。これで決着がつけば、そう思ったとき、風が巻いて風向きが変わった。ぼくの進もうとする方向に向けての、追い風である。

 そこでぼくは、犬の大群が迫っていることを知った。殺気をみなぎらせたたくさんの犬たちが、こちらに向かって迫ってくる。イングリッシュマスティフ一匹ではなかったのだ。けれどもこちらは風下で、逃げるには好機。ぼくの匂いを追うことは相手にはできないだろう。けれど。

 けれどぼくは、その場にたたずむと、その殺意たちが迫るのを待った。がさ、と音がして、彼らが藪から扉してぼくの姿を認めた途端、跳ねるように飛び上がり、ミイヤさん仕込みの三角飛びと爪のひっかけ方と体重移動で、近くの大きな木によじ登った。あらん限りの声を上げて、犬たちを威嚇する。
 先ほどのイングリッシュマスティフ、ドーベルマン、ゴールデンレトリバー、体格のいい犬たちを含めたたくさんの野犬たちが、樹上で吠えるぼくを認め、吠え返してくる。この数相手に勝つのは難しい。ぼくは籠城戦を決め込むことにした。

 びゃうびゃう! びゃうびゃう!

 下で、野犬たちの吠える声がする。ぼくの上った大樹を包囲するようにあたりを回りながら、ぼくを執拗に吠えまわす。その数は、いち、に、さん……八頭ほどであった。

 びゃうびゃう! びゃうびゃう!(『腰抜けめ! 降りてこい!』)

 野犬たちは吠え続けている。確かに、彼らの牙はぼくに届かないけれど、けれどぼくとしてもここから動くことはできない。ぼくは威嚇をしながら、根競べをする覚悟であった。

 そのときだ。



 ガウッ。



 月の光を切り裂くように、銀色の光が一声とともにひらめくと、次々にぼくを包囲する犬たちを食い散らした。その銀色の光に続くように、次々と茂みから飛び立だした犬たちは、ぼくを包囲していた犬たちを吠えたてていく。樹上に気を取られていた犬たちは、敵の接近に気づけず、新手の出現に総崩れとなった。ほうほうの体で逃げ出していった野犬たちの群れを見届けて、ぼくは地上にぴょんと飛び降りる。そこでは、まるでオオカミみたいな銀色の毛の大きな犬が、金色の瞳でぼくを見ていた。

 ずい、と、割って入るようにブルドッグが言った。

『おう坊主、見ねえ顔だが、お前、まさかデンデン組の密偵じゃないだろうな? 犬のくせに木に登るなんて怪しいやつ――』
『丸、やめろ』

 遮るように、銀のオオカミは言った。

『この若者は恩人だ。娘をかばって、あいつらを足止めしてくれたのよ――』

 がさ、と音がして、藪から銀色の、小柄なメスの犬が現れた。その前足に虎ばさみがかかっており、銀の体毛には血がにじんでいた。

『父さん』
『お嬢、こいつはいけねえ。いますぐ俺っちが罠を外して――』
『力任せじゃ傷が広がってしまうよ。貸して』

 めいいっぱい虎ばさみの横の棒を踏み込むと、がちゃん、と音立てて虎ばさみは外れた。これもミイヤさんに仕込まれた罠の外し方だったけれど、歯がついていない虎ばさみで本当に良かったと思う。もし歯のついた虎ばさみが錆でもしていたなら、破傷風になってしまうかもしれないからだ。

『こいつはすげえや。まるでライさんみてぇな魔法だ』

 ブルドックの丸さんは、そう言ってしげしげと開いた虎ばさみを眺めている。ライと呼ばれた銀のオオカミはフン、と鼻を鳴らすと、ぼくをまっすぐに見ていった。

『すまないな。若者よ。わしの名はラインハルト。この山を抜けるにはまだかかる。わしらの群れは、ある程度貯えもある。しばらく、休んでいくといい』

 そうして、ぼくはラインハルトという老犬の群れに、しばらく厄介になることになった。



 ラインハルトさんは、とても賢い犬だった。おそらくミイヤさんにも負けずとも劣らない手練れだろう。しかし薬草の知識には疎かったため、うっ血や切り傷に聞くアオキの葉をすりつぶし、彼の娘だというハルさんの治療を行うこととした。

 ぼくは薬師としてこの群れにしばらく滞在することにした。最初は邪険にされたけれど、仲良くなると気のいい犬たちで、群れとしての規律やこの山のいろはを教えてくれた。思えば、ぼくは生まれてから、犬の群れというものに入ったことはなかったように思う。

 ラインハルトさんは、この山を治める野犬の棟梁だった。もとは捨て犬だったそうだが、人の目や手を離れこの山奥に縄張りを作り、やはり捨てられた犬たちを受け入れながら、約二十頭ほどの群れを作っているのだった。最近までは、この山も平和だったのだという。

 しかしながら、最近のこと、群れのナンバー2であったグレートデンのデンが反旗を翻した。理由は単純で、自分を捨てた人間たちへの復讐であった。デンは同じように自分を捨てた人間たちに恨みを持った仲間を率いて、この群れを出ていき、そしてラインハルトさんへ里へ下り、人間を相手に暴れまわる計画への協力を迫った。ラインハルトさんが拒否すると、この山を二分する争いに発展してしまったのだ。

『ハルは、デンを説得に行ったのだ。追い返され逃げるうちに、人間の罠に食いつかれてしまったのだよ。君を巻き込んだのはわしらだ。勝手な行動だったとはいえ、もしあのまま奴らにつかまっていたら、娘はどうなっていたかわからない。君は娘を助けてくれた、恩人だ』

 月の光に照らされながら、山が見渡せる大岩の上で、ラインハルトさんは言った。


『ジロー、君は、人間が憎くないのか』

 ラインハルトさんは静かに続けた。まるで、その感情の正しさを知っているかのような静かさだった。

『わからない。そのころのぼくはまだ小さかったんだ』

 それが、正直なところのぼくの気持ちだった。ぼくは、祐一くんのことを恨んでいるだろうか。お父さんやお母さんのことを恨んでいるだろうか。ひげを引っ張ったり伸ばしたり、鼻をうずめて考えてみても、やっぱりその答えは出なかった。その問いが正しいものであるのかさえ、わからなかった。

『この群れは、妻と作った群れだ。賢いメスだった。病で亡くなってしまったが、わしらはきっと幸せだった。ハルは、妻によく似ている。わしは、この群れを守りたいのだ。妻の生きた証である、この群れを』

 そう言って、ラインハルトさんはまっすぐに月を見上げていた。ラインハルトさんは、賢い犬だ。そして、ぼくとは違う、守るべきものを持った犬だった。



 その日は、朝から天気が悪く、いつの間にか大雨になっていた。山の天気は変わりやすい。しばらくすると、大きな地鳴りがして、ぼくらの住処のすぐ裏手の山が崩れた。群れの面々はその大きな音におびえ切ってしまって、水場であった川と背後の土砂崩れに挟まれた群れは恐慌状態に陥ってしまった。

 ラインハルトさんたちが狩りの遠征に出て、群れに不在だったことも災いした。犬たちはきゅーんきゅーんと不安げに鳴き、ひたすらにこの雨がおさまるのを待った。
 しかし、運悪く、いやタイミング悪くデンたちの襲撃があったのである。デンたちは、川を渡ってぼくたちのベースに討ち入ってきた。

 恐慌状態であった群れは総崩れになった。デンの群れは十頭ほど、戦える犬たちがほぼ総出だ。ぼくは客人扱いだったし、逃げてもよかったのかもしれない。ミイヤさんの猫術も、巨大な相手を正面から迎え撃つのには不向きである。けれどぼくはなんとか戦える状態を保っていた数匹と応戦に出た。勝機はある。そう言い聞かせての戦だった。

 激しい雨は匂いを洗い流し、視界を奪う。それでもぼくたちは戦線を川岸まで押し上げた。必ずラインハルトさんたちが助けに来てくれる。濡れ鼠になりながら、ぼくたちは戦い続けていたけれど、やはり多勢に無勢、ぼくたちは押し込まれつつあった。そのときであった。

『ジローさん、私も戦います!』

 そのとき、傷ついた仲間をかばうように、ハルさんが戦線に躍り出た。女子供は後ろに控えるように言っていたのに、仲間を救うため彼女は飛び出してきたのだった。しかし、それは逆効果だった。

『ラインハルトの娘だ! あいつを狙え!』

 デンたちはいっせいに、ハルさんに向けて襲い掛かった。虚をつかれたハルさんは微動だにできず、デンたちの牙が彼女へと迫った。そのとき、じりじりとした地鳴りがした。ぼくは。

『ジローさん……?』

『みんな、今だ! 土砂崩れに向かって、全力で走れ!』


 ハルさんを突き飛ばし、デンたちの牙に食らいつかれながら、ぼくはあらん限りの声で叫んだ。その直後、激しい鉄砲水があたりを包み、ぼくとデンの群れを飲み込んでいった。




 ぼくは夢を見た。

 祐一君に拾われた日、泥だらけだったぼくはすぐにお風呂に入れられた。ぼくはお風呂が大嫌い。泡だらけになったり、ずぶぬれになったり、まったくいいことがない。わしゃわしゃと泡を立てられ、雑にお湯をかけられ、ごしごしとタオルで拭かれ、くったりとなったぼくにドライヤーをかけながら、祐一君は言った。祐一君の首筋には、三つの並びのほくろが覗いている。

『これから、ジローはぼくたちの家族になるんだ』

 ぼくにはそのとき、祐一君の言葉の意味が分からなかった。でもね、祐一君。今なら理解できるよ。家族。仲間。それはとても、大切なものなんだってこと。




『……さん……ジローさん……!』

 誰かの呼ぶ声がして、ぼくはどこかから引き戻されるとうっすらと目を開いた。そこにはもう泣きだしているハルさんがいて、ずぶ濡れのラインハルトさんがいた。心配そうに見つめる仲間たちがいた。

『ジローさん、よかった……』

 ぺろぺろと、ぼくの傷口を舐めながら、ハルさんは泣いてくれていた。ねえ、ミイヤさん。ぼくたちは一匹で生きていくのだと言っていたけれど、あれはまったくの嘘だったね。ミイヤさんの嘘ぐらい、ぼくはすぐわかるんだ。その証拠に、ぼくにはこんなに素敵な仲間たちがいるんだから。




 デンたちにやられた傷の回復には、しばらく時間がかかったけれど、それでもみんなが、特にハルさんが、かいがいしく世話をしてくれたおかげで、ぼくの体力は回復し、元のように動けるようになった。雪の散る、静かな月の夜だった。ぼくはラインハルトさんに呼び出され、あの森が見渡せる大岩の上にいた。そこには、静かにたたずむハルさんもいた。

『ジロー。お前に、この群れを任せたいと思うのだ』

 ラインハルトさんは言った。

『わしももう老いた。またデンたちのようなことがあれば、次はどうなるかわからない。ジロー。君は、若く、賢く、勇敢で、そして恩人だ。どうかここにとどまり、わしの代わりに、群れを守ってはくれまいか』

 それは他ならならない、ラインハルトさんからの頼みだった。彼はまるで、自分の死期を悟っているかのようだった。そんな彼に寄り添うように、ハルさんは続けた。

『ジローさん、私と、夫婦になってはくれませんか。私、初めてジローさんが助けてくれたときから、ジローさんのことが好きなんです。私、ジローさんに迷惑をかけてばかりだけど、ジローさんのことが好き。ずっとここにいては、くれませんか……?』

 それは、とても暖かな言葉で、何物にも代えがたいものだった。ぼくもきっと、ハルさんのまっすぐなところにひかれていた。リハビリにハルさんと一緒にこの山を駆け巡ったとき、彼女のことが好きなのだとぼくも確信した。

 けれど、たとえそうだったとしても。


『ごめんなさい。それでも、ぼくは、行かなきゃいけないんです――』


 ぼくはどうしても、この旅の終わりを見てみたかった。それがどんなものであったとしても、ぼくは最後までやりとげたかったのだ。
 ハルさんは、仕方なさそうに困ったように笑った。

『ふふ。本当はわかっていたの。あなたの目は、私でない、もっと遠くを見ているってこと。でもね、ジローさん、私、もっともっと幸せになるわ。あなたが悔しがるぐらい、あなたに負けないくらいに強く、幸せになってみせるわね』

 ハルさんは、涙を流しながら笑っていた。ぼくのこころの波紋を鎮めるように、ラインハルトさんが金の瞳で静かに見つめた。


『行くがいい。渡り風のジローよ。君の行く手が、どこまでも幸せで溢れますように』




 雪を巻き上げながら、ぼくは野山を駆けた。ブナの林を抜けて、杉の並木を抜けて。見送ってくれるのは、ラインハルトさんとハルさんだけかと思ったけれど、ワオーンワオーンと、次々と遠くからみんなの声がした。もうすぐ縄張りを抜ける、その明け方が近づいたとき、ぼくもひとつワオーンと応えるように遠吠えをした。渡り風のジロー。ねえ、祐一君。ぼくはきっと新しい、名前を仲間からもらったんだ。



 寒い木枯らしの中を、ぼくは進んだ。冬の嵐の日もあれば、冷たい雨が降る日もあった。静かに雪の舞う日もあった。ぼくは山を抜け、都会になっていく街並みを抜けて旅をした。ぼくの帰巣本能というものが、こっちだ、こっちだと強く語りかけてくる。遠くから吹く風に、ぼくの記憶の底にある故郷のにおいが混じるようになっていた。一歩進むたびに、心臓の鼓動が高まるのがわかり、足取りは自然と軽くなった。もうすぐ会えるよ。祐一君。ぼくは、長い旅の末にちゃんと戻ってきたんだ。名犬だって呼ばれたって不思議じゃない。たくさん褒めてもらえるに違いない。

 そうしてやっと、桜の花が咲くころに、遠い記憶と一致する街にたどり着いた。桜の並木道は五分咲きで、まるで桜の花が花開く音が聞こえるようだった。つられるようにぼくの気持ちは高ぶって、四足で跳ねるように歩き、尻尾もおのずと左右に動く。あんまり好きではないけれど、身だしなみに毛並みもきれいに整えた。祐一君に会う準備は万全だ。

 そうして思い出深い道をたどり、ぼくは祐一君の家にたどり着いた。ぼくは家の玄関の脇で、祐一君が現れるのを待つことにした。
 尻尾を一振り、二振り。楽しみでたまらない。いくつもの山を越えて目の前まで来たのに、早く会えるのが待ち遠しい。祐一君、早く! ぼくは今にも飛び上がりそうだった。

「ママ、大きな犬がいるよ」
「まあ、ほんと。どこの犬かしら」

 聞きなれない声がして振り向けば、祐一君より年上の女の子と、そのお母さんと思しき女性がいた。怪訝そうな顔でぼくを見ている。何かおかしい。そう思った瞬間に、ぼくの尻尾は途端に元気を失った。

「ここは、犬さんのうちじゃないよ」

 女の子と母親はそう言って、祐一君が入っていくはずの玄関を開き入り、閉まってしまった扉の向こうで大きく「ただいま」と言った。ぼくはその一連の流れを、ぼくはまるで駒送りを見るように微動だにせず眺めていた。

 この家は、ぼくの家じゃない?
 この家は、祐一君の家じゃない?

 ぼくは何も考えられないまま、玄関から小さな庭の方に移動した。この小さな坪庭はとてもよく覚えている。この家は、確かに祐一君の住んでいた家だった。庭を望む壁には大きな窓と気持ちだけの縁側があり、そこからリビングの様子を望むことができる。そこには見知らぬハンサムな男性、おそらく先ほどの女の子の父親が見知らぬソファに座ってテレビを見ており、女の子はあたたかそうな見知らぬ毛の長いラグの上で『注文の多い料理店』を読んでいた。キッチンの奥の方では、先ほどの女性、おそらく母親が、買ってきた品々の荷解きをし、冷蔵庫へしまっているところだった。

 ぼくは、くんくん、とにおいをかいだ。

 そして、やっと理解した。この街は懐かしいにおいがする。この家は懐かしい家である。でも、悲しいかな祐一君のにおいはしなくて、確かなのは、おそらくもうこの街には、祐一君はいないのだということだった。



 ぼくはあてもなく街を歩いた。あてもなく、あてもなく、ただたださ迷い歩いて、そうして歩き疲れた後に、街が見渡せる丘の、一本の大きな桜の木の下へとたどり着いた。ひどく懐かしいにおいがした。祐一君のにおいはしないけれど、そこはぼくの初めての記憶。祐一君と、ぼくが出会った場所だった。

 あのときは満開の桜がひらひらと、静かに散る音を奏でていたように思う。けれども今この桜は五分咲きで、どっちつかずな半月の、冷ややかな光に照らされて闇に青く浮かんでいる。


 呆然としたぼくは、その桜の下にそっと腰を下ろした。


 ぼくが探し求めたもの。それはこの街にはなくって、そしてたった一つの手がかりさえ、失ってしまったのだと知った。では、ぼくはどこに行けばいいだろう。ぼくが追い求めていたものは、きっと本当に無駄だったのかもしれなかった。どうしようもなく都合のいい幻想で、どうしようもなく頭の悪い雑種の思い込みなのかもしれなかった。
 ぼくは何のために旅をしてきたのか。その明確な答えは闇に沈んでいる。ねぇ、それなら、きっと帰ることだってできるはずだ。ミイヤさんのもとへ。徳さんのもとへ。ラインハルトさんの、ハルさんのもとへ。足取り重く彼らのもとへ帰っても、きっとみんなは受け入れてくれるだろう。

 ああ。でも。



『旦那の帰る家を探しやすよ』

 徳さんは、胸を張ってそう言った。

『君の行く手に、幸せがあふれますように』

 ラインハルトさんはそうぼくの背中を押した。

『生き物は、夢を見るのよ』

 ミイヤさんの、金の虹彩が見つめている。



 ああ。そうだね。

 ぼくは、ひとひらの風に吹き散らされた、まだ咲き始めたばかりの花びらの一片が通り過ぎるのを、そっと鼻先で撫でたのだ。


 ねぇ、きっと、やっとここまで来たけれど。ぼくの旅は、きっと始まったばかりなのだ。何のためかもわからない。こんなふうに、いやこれ以上につらいこともあるだろう。でもたとえばもしどこにいても、ぼくの旅が続くのだとしたら、それならいっそのことどこまでもどこまでも遠くへ、そしてようやっと行き着いた先に、きっと分かりうるものがあるんじゃないか。


 それなら、この世界のすべてを見に行こう。
 ぼくの名前は、渡り風のジロー。



 それからぼくは、とても長いこと旅をした。

 港の街や、森の街、田舎の田畑や、都会のビルの合間、川沿いの集落、谷間の里、山頂の山小屋、どこにでもある民家へ。

 春の桜、菜の花畑、紫陽花の里、白百合の海岸線、ヒマワリの丘、彼岸花の野、ススキの河原に、紅葉の森、薄雪のもみの木林、御神渡りの湖、どこまでも続く雪渓に、つくしの覗く野原を。

 春の花を、夏の光を、秋の月を、冬の雪を。

 春の嵐を、夏の長雨を、秋の稲妻を、冬の星空を。

 追いかけて、追いかけて、ぼくはどこまでも旅をした。そこでは、いろんなことがあった。子供たちと仲良くなったり、野良猫の抗争に巻き込まれたり、幽霊と遊んだり、猿の化け物を退治したり、穴知らずの熊を退けたり。最近では伏見稲荷の稲荷山に住まうお稲荷様、仙狐のヨーコさんと仲良くなって、宝玉取りの勝負に勝ったとき、願い事を一つだけかなえてくれることになったのだ。

 九つのふさふさとした尻尾を揺らして、仙狐のヨーコさんは言った。仙狐とは、千年以上生きた狐のことなのだという。顔の広いヨーコさんは、ミイヤさんとも知り合いのようだった。実はミイヤさんは西の地の、立派な猫又なのだそうだ。

『人探しなら、人に化ける術を授けたるで。長いこと生きたいなら、霊獣になる方法でもええな。なんならオオカミを祀る秩父の眷属に口をきいてやってもええ。仲はようないけどな』

 悪い話じゃないやろ、とヨーコさんは笑った。ヨーコさんは試しにと、綺麗な金髪の女性に変化をしていた。

『いらないよ』

 それはきっと、正直な気持ちだった。おそらく、必要なものなんてそんなになくて、それならぼくはもう持っていたからだ。

『じゃあ、せめて一つだけ。ぼくがまたここにきたときに、また来たな、と笑っておくれ。そうすれば、きっとぼくは嬉しくなるだろうから』




 どこまでもどこまでも旅をして、老いとともにぼくの体はほとんど限界を迎えていた。思うように体が動かず、休まなければならないことも多くなった。そうして、もう数え切れないほどの春の季節が廻り来たころ、一羽のツバメがぼくの頭上を旋回した。ツバメはチィチュロリ、チュリチュリと一つ鳴き、ぼくの鼻先に降り立った。桜の花がつぼみをつける、春である。

『旦那、旦那を探しておりやした。渡り風のジローの旦那でございましょう?』

 ぼくは、このツバメによく似たツバメを知っていた。

『徳さん……? 久しぶりだね』

『徳之助は、あっしのひいひい爺さんにござんすよ。あっしら一族は、ずうっと旦那の飼い主様を探していたんでやんすよ。首筋に三つの並びほくろ。あっしの目に曇りはございやせん。南へ山を二十と三越えた街に、その方はおられますよ』

 その言葉を聞いて、ぼくは思わず老体に鞭打って立ち上がっていた。もう長く旅をして、ぼくの身体は老いさらばえ、これが最後の手がかりかもしれなかった。

『そうなんだ。ありがとう。徳さんは、ずっと一族で探してくれていたんだね。お礼が言いたいな。徳さんは今』

『徳之助ひいひい爺さんは、先の夏に亡くなってしまったんでやんす。でも、最後まで旦那のことを思っておりやした。旦那がぴょぴょんとひいひい爺さんの巣まではねた、あの初夏の日のことを。あっしはね、そのときの雛の孫の、その子供なんでやんす。だから、あのとき旦那がひい爺さんを助けてくれなかったら、あっしはここにはいないんでやんす』

 あれから、徳さんとは何度もあったけれど、先に逝ってしまったのは徳さんだったのか。徳さんとはよく旅の話をした。徳さんの行ったところへぼくは行ってみたいと思って、ぼくの立ち寄ったところへは、徳さんは必ず行くと息巻いていた。

 徳さん、君は義理堅いやつで、本当にぼくのことを思っていてくれたんだね。

 ぼくはよろよろと老体を起こし、一つありがとうと言った。そして、二十と三向こうの、南の街へ向けて旅に出た。おそらくそれが最後の旅になるだろうと、ぼくの中に静かな確信があった。


 一夜一夜、南へ歩くに従って、春の暖かな空気にほだされ、桜の花が一つ、また一つと咲き始めた。ぼくの足取りは軽くなり、まるでずっとこんなふうに歩いてきたかのようだった。二十と三、その山を越えた向こうにあった先は、あの懐かしい街であった。それは春先の、街中に満開の桜が溢れる頃であった。

 青い桜の香りを感じながら、ぼくは三度目の街を歩いた。川沿いの並木値は、もうずっと遠い昔に祐一君と歩いた道であった。思い出をたどるように何日も、古いなじみの街をめぐって、そうしてやっと、ここには祐一君の匂いが存在することに気が付いた。祐一君も、きっとこの街に戻ってきたのだろう。

 老いたぼくに、君は気づいてくれるだろうか。ぼくはきみの匂いがいっとう残る、桜並木の下で、きみが現れるのを待つことにした。晴れた日の、うららかな春の午後である。それは人の暦で、にちようび、と呼ばれる休日のことであった。

 太陽から、優しい金の雫が散っていた。その光の向こうにかすみながら、懐かしいにおいを連れて、大きな影が現れる。金の光は逆光である。

 昔とは、背丈も全然変わってしまっていて、すらりと伸びた長い手足に、センスの良い服。昔のきみとはまるで似ても似つかないけれど、首筋の三つ並びのほくろと、変わらないにおいはまさしく祐一君のものだった。祐一君は、もう立派な大人に、青年に成長していた。その祐一君が桜並木を歩いている。リードの先に、一頭のゴールデンレトリバーを連れて。

 祐一君は、楽しそうに笑うと、そのゴールデンレトリバーのことを「ジロー」と呼んだ。ジローと呼ばれた犬は、嬉しそうに尻尾を振ると、くるくると祐一君の周りを回り、においをつけた。その焼き付くような金の雫の振る一幕を見ながら、ぼくはそっと、昔祐一君と一緒によく散歩をした、この並木道をあとにしたのだった。




 宵闇が来た。
 天宙には銀色の月が座していて、零れ落ちた銀の雫はこの街を見渡すことのできる、大桜の満開の花びらに落ち、吹き散らされた花びらは見晴るかす彼方まで広がりゆくかのよう。
 ぼくはその銀の雫をたたえた花びらの行く先を、ただひたすらに見つめていた。

 二十と三の山々を一気に越えることは、もう年老いて死にぞこないだったぼくの身体には難題すぎた。ぼくの身体は鉛のように重く軋みを上げて、もはやミイヤさんに教わった、得意の木登りを披露することもできない。

 ひらひらと、桜の花びらが散っている。


 ぼくはここにきてようやっと、祐一君を一目認めることができた。祐一君は大人になって、そして連れていた若い、きれいな犬のことを『ジロー』と呼んだ。それはつまり、ぼくが祐一君と離れてから、祐一君がずっとぼくのことを覚えておいてくれたという証明だった。


 ぼくはさみしいのか。ぼくは悲しいのか。ぼくは泣きたいのか。

 ううん。そんなことはないと心から言える。
 きっとぼくには幼かったあのときから、大人になる今までの間、きみのこころの中にぼくがいたという、きっとそれだけで十分なのだ。
 だから、会わない。こんなぼくの姿を見たら、きっときみは泣いてしまうだろうから。きみはきみの人生の中で、もっと幸せになれるはずなのだ。

 もしもぼくがきみにただ一つだけ、祈ることがあるとするならば、次に飼う犬に、『ジロー』と名をつけるのはよしておくれ。そんなカルマを続けるよりももっと、きみだけがつけることのできる、夢を体現したすてきな名前が、きっとあるはずなのだから。



 ぼくは、花びらの行く先を見上げ、 ぼくの犬生は、いったいどのようであっただろうと考える。


 祐一君に拾われて、『ジロー』という名前をもらった。
 ミイヤさんや、徳さんや、ラインハルトさんにハルさん。たくさんの仲間たちと出会って、いろんなところを冒険した。この世界のすべてを見てみたいと思った。

 君からもらった始まりの名前は、確かに『ジロー』だったけれど、いつの間にかぼくはそこから離れて、みんなからすこしずついろんなものをもらって、ぼくだけのぼくになったのだ。振り返ればぼくの歩いてきた道がある。その犬生はまばゆいほどのきらめきに満ちている。





 薄れゆく視界の中で、最後に、あの日のことを思い出す。ぼくが初めて自由を手にした日のことを。





 初めての、夜明けの紅葉の森である。


 ぼくは恐る恐る、キャリーバッグの中から一歩を踏み出した。

 夜も明けやらぬ紅葉の園であった。一面の赤色、ふかふかのじゅうたんの上に、ぼくはただ一匹まっすぐに立った。どこまでも続くきらめくような緋色、その先の森を抜けた空の色が変わっていく。朝焼けである。

 ぼくは、一人で見たその朝焼けを、けっして忘れないだろう。息をのむような風景に呆然としていたけれど、しばらくしてその朝焼けに手を伸ばすように紅葉の森の中を撥ね、飛び上がり、駆け回っていた。真っ赤な森に、鉄さびの香り。この美しい世界の、そのすべてがぼくのだけものになったかのよう。

 ぼくは長い間、思うがままに走り回り、そして疲れを感じて一本の紅葉の木の下に座り込んだ。我に返り、ふと見上げた鼻先をかすめた風、その風に、きっとぼくはなる。ぼくの名前は、渡り風のジロー。




 そうしたら、次はどこへ行こうか。


 読んで下さって、本当にありがとうございました。
 またどこかで、お会いしましょう。

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