Grandpa
覗き込んでみれば、それは確かにおじいちゃんの顔だった。
それは突然の事だった。お母さんからの電話に慌てながらも、車で一時間半と掛かる病院へと駆けつけた。受付へと走っている最中に色々な事が頭をよぎり、もう気が気じゃなかった。院内を歩く老人の後姿を見るたびに、おじいちゃんの顔を浮かび色んな思いが溢れかえる。
だって、そうだ。この前まで元気だったんだから。
そう思ってしまうのも無理がない。ほんの一週間前にはじいちゃんの家へと行き、一緒に昼食を食べたのだから。おじいちゃんのシワシワの手の甲に、自分の少し肉の付いた手を重ね、耳の遠いおじいちゃんに顔を近づけ話もした。そんなおじいちゃんが倒れたなんて。
受付の前には既にお母さんが立っていて、私を探すようにキョロキョロと辺りを見渡していた。私と目が合うと、こっちこっちと手招きをする。
「おじいちゃんは? どうだったの?」
息も整わず呼吸が苦しかったけれど、そんなことどうでもよかった。おじいちゃんの容態の方が大切だった。一秒でも早く会いたい。おじいちゃんの元へと行きたい。
「胃にね、癌があるみたいなの」
不安が込み上げそれを聞くのがやっとだった。病室へと向かう廊下の途中で母がゆっくりと口を開く。おじいちゃんはお母さんが駆けつけた時に、蹲りお腹の周りに何枚も湿布を貼っていたという。
「今日はもう遅いから、病院には行かないって言うのよ。迷惑がかかるからって。病院へ連れて行くまでに1時間も説得したの」
僅かだけれど、お母さんの声は震えていたとう思う。真っ赤になっているその目は先程までずっと泣いていたことを物語っている。次の言葉を聞くのが恐かった。もう答えがわかっている気がして。
「……おじいちゃん。治るんでしょう?」
いくら癌とは言え、今はちゃんと治療をすれば完治する病気なのだ。それにおじいちゃんは毎月病院へ通っていたのに、何故、今になって癌が発症しているのだろう? 静かな廊下にはパタパタと走る音とひっそりと話す私達の声が時折響いていた。
エレベーターまであと少しの距離なのにとても遠くに感じる。歩いても歩いても、距離が縮まらず気持ちばかりが焦ってしまう。お母さんの答えはまだ返ってこないことが余計に気持ちを逸らせた。
「……もって半年だろうって」
「う、嘘!」
まさかと足を止めてしまうとそこは丁度エレベーターの前で、点滴をぶら下げた患者さんがまだか、まだかとエレベーターの階数が表示されている部分を見ていた。私はお母さんを正面から見直すともう一度同じ事を聞いた。
「治るんでしょう?」
お母さんは何も言わなかった。私と目を合わせることをせずにただゆっくりと首を横に振った。これまでにない絶望感が私を襲う。足下はフラフラと揺れるように意識が遠のきそうだった。
「末期だって言われたの」
チン、と音を立てドアが開いたエレベーターへ、お母さんは私の手を引いて乗った。一緒に同乗している患者さんは、私達の話を聞いているのかいないのか、それとも空気の重さに耐えられなかったのか目を合わせようとはしない。お母さんは三階のボタンを押すと、私の背中を優しくさすり口を開いた。
「ねぇ明海。じいちゃん明海が来る事は知っているけど、自分の病気の事は何も知らないから。いつも通り上手く笑ってくれるかなぁ?」
おじいちゃんには告知をしないことに決めたらしい。持病以外にどこも悪いと思っていないじいちゃんにこれ以上、不安を募らせるような事をしたくないと、お母さんは言った。
「……わかった。どうゆうことになってるの?」
「胃潰瘍って事になってる」
今、この瞬間にも泣き出しそうだと言うのに。おじいちゃんを見て私は笑えるんだろうか? この前と同じようにじいちゃんと手を重ね合えても、私は一人違う事を考えてしまうのだ。何も知らないおじいちゃんに、私も何も知らない振りをしなくちゃならないんだ。
三階へ着くとナースセンターの真向いの部屋におじいちゃんは居るとお母さんは言った。何かあった時にすぐに、医師や看護士が駆けつけれるようにする為だろう。
ぶあっと強い風が私の頬に当たる。非常階段の近くの窓が全開のせいだろう。まるでこの高ぶった感情を冷静にさせるかのようにも思えた。私はおじいちゃんの病室の前で足を止め、お母さんを見る。
「おじいちゃんは、今起きてるの?」
「ううん。寝てるよ」
正直、少しだけほっとした。上手に笑える自信がないのだ。明海、と名前を呼ばれでもしたら堪えている涙や、言葉、全てが溢れてしまいそうだから。
「明海。これで帰りにキャンディでも買って帰りなさい」
おじいちゃんの家へ行くと、帰宅時には必ずそう言って、私に千円札を差し出す。お小遣いを貰う程の歳でもないのだ。
今時キャンディにそんなお金なんてかかるわけないのに。私お小遣いをくれるのであれば、晩御飯のお魚でも買えばいいのにと、申し訳なさそうに言うと
「じゃあジュースも一緒に買いなさい。お母さんの分もね」
下がり眉をさらに下げて、笑顔で言う。持病の事など関係なく、家の前まで出てきては、私達が角を曲がるまで見送って、家に着けば電話が入る。とても優しい人なのだ。自分よりも他の人を考えてくれる、そうゆう人なのだ。
寝ていると分かっていながらも、私は部屋を二度ほどノックして様子を伺うように、部屋の奥に置かれたベッドをそうっと覗いた。
「おじいちゃん。明海だよ」
真っ白な病室の中には、膝下くらいまでの高さしかない小さな冷蔵庫付の棚と、それに乗ったテレビ、そして衣類を収納できる細身のタンス。そしておじいちゃんが寝ているベッドと、隣には二つほど丸椅子が置かれているだけで、とても窮屈だった。
「おじいちゃん」
腕には点滴の針が刺さり、何種類もの点滴がぶら下がっていた。顔には酸素マスクが付き、病院の寝巻きを着せられたその体にはどれがどれの線だかわからないモニターと、下半身にはカテーテルを入れられ、変わり果てた姿だった。
「……っ」
私はまだ顔をちゃんと見れないでいた。想像を超えたその姿に先日までのおじいちゃんの姿など微塵もない。シュー、シューと聴こえる酸素の流れる音にも、ピッ、ピッと鳴るモニターの音にも耳を塞いでしまいたかった。
「耳元で言わないと聴こえないから」
お母さんは私の腕をトン、トンと叩きながら言う。そんなの分かってる。おじいちゃんとの話し方は私が一番良く知っている。あの距離で、あの温もりで今までずっと過ごしてきたんだ。
ベッドの手すりに腕をかけ、私はおじいちゃんに近づいた。
覗き込むと、それはおじいちゃんの顔なんかじゃなかった。
どこか痛いのか眉間に皺を寄せ、口角が下がり少し苦しそうだった。すやすやと眠っているとは到底思えず、痛みから逃れるために無理やり眠っているようだった。腕には、何度か失敗したのか絆創膏が数枚貼られていた。
私の方が肉がついてたはずなのに、おじいちゃんのシワシワの手はむくんでいた。そっと手を乗せ耳元に顔を近づけ、いつものように少し大きい声で名前を呼ぶ。
「おじいちゃん、おじいちゃん。明海だよ」
うん、と声を出しこっちを向いたおじいちゃんを、私はどんな顔で見ていたかなんて分からない。もしかしたら、これでもないくらい不自然な笑顔だったかもしれない。おじいちゃんは私に気付くと、枕の下から何かを取り出した。
手に持っていたのは、いつも帰りに渡す千円札だった。私の手のひらにそれを乗せると、おじいちゃんは笑った。
「明海。遠いのにわざわざ来てくれてありがとうねぇ。帰りにキャンディ買っていきなさい」
まさかの言葉に私は驚き、私は思わず顔を背け、おじいちゃんに背中を向けてしまった。我慢をしていたはずの涙がポロポロと溢れ止まらない。どうしてこんな状況で、おじいちゃん。その止まらない涙を何度も何度も拭い、私は振り向いて笑う。
「おじいちゃん。キャンディはそんなに高くないんだよ。でも、ありがとぉね」
覗き込んでみれば、それは確かに私が見てきたおじいちゃんの顔だった。
おじいちゃんは、もう一度、笑った。あの優しい顔で。