キス
「おはようごさいます。例の男はどうしたんですか?」一人で出勤してきた亜美をみるなり杉田は問いただしました。
「彼は家に置いて来たわ、事務所にいても邪魔でしょう。」
「え!?一人で置いてきたんですか?」
「大丈夫よ、甥っ子に見張りを頼んだから。」
「あの大学生の甥っ子さんで大丈夫ですか?」
亜美からみれば、甥も杉田も同じような頼りないオトコノコなのですが。
「それから、本社には余計なことは言わなくていいからね。特に副社長様には。」亜美は、全員を見回しながら、おどけたように少し肩を上げて言いました。
亜美のこととなると、いつもの冷静、冷徹な副社長が微妙に人間味を出すので、社内の冗談のネタとして、楽しく語られるのです。
そして、亜美も、その冗談の輪に入って大笑いしているのです。
今回の件もネタにされるだろうと、亜美は一人で可笑しくなって自然と笑顔がこぼれてしまいました。
「まゆさん、痛みはなくなりましたか?」病院のベットで目が覚めたまゆに向かって春人は小さい声で話かけました。
「秋本さん。ママは?」
「家に戻ってから会社に行くって言ってましたよ」
「そうですか。」まゆが寂しそうに言いました。
「私が問題を持ち込んでいるので忙しのでしょう。申し訳ありません。」春人は黙っていられなくて、まゆに言いました。
「ハルジンさん。」済まなそうな春人を見てまゆは言いました。
不思議そうな顔をする春人を見て、まゆはもう一度言いました。
「アキモト ハルジンさん」
「ハルヒトです。」春人は笑いながら怒った口調で言いました。
「ハルヒトはいいずらいので、ハルにしよう」まゆは一人で合点がいったように言いました。
「なんでもいいですよ。」春人は、今まで高校生と話をする機会などなかったので、新鮮な楽しさを憶えました。
「ハルさん、昨日はありがとう。お陰でお腹を切らずに済みました。」まゆは改めて昨日の春人の素早い行動に感謝しました。
「大事にならなくて良かったですね。」
「格好良かったですよ昨日のハルさん。初めてアパートの隙間から見た人とは別人でしたよ。」
「お恥ずかしい。昨日はただただ必死だっただけですよ。あんなに必死になったのは、久しぶりかもしれません。」
「なんだか、お腹は死ぬほど痛かったけど嬉しかった。心配されるのって気持ちいいですね。」
「いつも心配してますよ。亜美さんも、会社の人達も。だから、あの事務所は心地いいんですね。天国という所があるとすれば、あの事務所のように皆が暖かくて楽しそうに働いている場所なんでしょうね。」春人は、昨日まで軟禁されていた事務所の空気を吸い込むように、深く呼吸をしました。
まゆは、東京に引っ越して来て、知り合いも友達も居なくて心細くて、つい亜美の会社に行ってしまった日のこと。皆が暖かく迎えてくれた日のこと。
あの日から、あの場所がまゆの一番居心地の良い場所になりました。
恋の相談にのってくれるのは一番若い女子社員の
「さえちゃん」。
勉強を教えてくれるのは、最近、お父さんになった
「小林」さん。
時々叱ってくれるのが、ママが一番頼りにしている
「石田さん」
しょげてると、必ず美味しいお菓子をくれる
「時子さん」。
お兄さんぶって仕事の解説をしてくれる
「杉兄イ」。
まゆは、亜美や会社の人達の顔を思い出して涙でグチャグチャになった顔で笑いました。
「ハルさん、キスして下さい」
まゆは、ハルの腕を引き寄せて目をつぶりました。春人は、まゆの小さい両肩を軽く握り、まゆの顔に唇を近付けました。
|