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忘却炉
作:冴島岐之


 何かを無くしたとか、何かを忘れたとか、本当はそんなこと、ひとつもないのかもしれない。

 自分から逃げ出したくてしょうがなくて、夜十時を過ぎてから家を出た。父親には『手紙を出してくる』といってある。嘘はついていない。高校時代の友人に書いた手紙、本当は出そうか迷っている、あと数十メートルで郵便ポストに着くのに、未だにこの手紙の行く末は決まらない。

「さみぃ……」

 今は、十月だったか。長袖一枚の体は風が吹いてくるとふるえあがってしまう。腕を組んで擦り合わせながら歩くと、急に強い風が前から吹いてきた。「うわっ」小さな悲鳴と共に、反射的に腕を掴み目を閉じる。紙の揺れる独特のパサパサという音がして、片目だけを開けて右手に持っていた手紙の様子をうかがう。
 強風はしばらく止まず、次第にとても前へ踏み出せない程に強くなった。もちろん目だって開けていられない。手紙はバサリバサリと揺れ、しわくちゃになっていく。けれどそれをどうにもできなかった。風から庇えば、庇って抱き締めた分だけしわになるだろうことはすぐにわかったからだ。ただ飛ばされないよう、強く手紙の端を掴む、それしかできなかった。

「くっ、マジ勘弁。風止めよ!」

 半ば自棄になり、悪態をつく。だが吐いた言葉すら風に押し返され自分の元へ返ってくる、あるいは押し流されるようで、さらにイライラした。
 仕方なく黙って耐えていると、風は吹き始めた時と同じようにぴたりと止んだ。なんだったんだ、そう思い意味もなく前方を睨み付ける。赤いポストはもう視界に入っている。もしかして、出さない方が良いと止められているのかもしれない。
 それでも、向き合うと決めた。自己満足だ、ただの。嘲笑われてもしょうがないだろう。今さらだ、なんになる。そんなこと、自分の方がよくわかっている。これは自分なりの罪滅ぼしなんだ。

 もう一度、話してみたいと思った。ずっと気にかかっていた。
 負けなかった理由を教えて欲しい。

 赤いポスト、あの日見た血の色に比べたらなんて現実味のない色だろう。
 右手にしっかりと掴んだ、というより握った、すでにぐちゃぐちゃになってしまった手紙を見つめる。それからそっと、投函口に差し込む。カタン、小さな音と共に、手紙はなくなった。

 全ては自分に還ってくる。今、まさにそれを体感している。

 結局、忘れることも、なくすこともないのだろう。他人にしたことも、なくしたものも、いつか別の形で還ってくるから。
 昔みたいに戻りたい。
 最後に書いた一文を思い返して、何故だか涙が溢れた。それから一台の車が通り過ぎるまで、ずっと赤いポストの投函口を見つめていた。

=END=







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