砕いた希望と、眠れなかった夜の時間を、返してほしい。
そうしたら、もう少し幸せだったろうから。
***
「なめてよ」
そういわれたのは今からほんの十分前のこと。
奴は下着とキャミソール一枚の私にそういった。濡れるのが好き、だから、なめろっていうらしい。唇、首、胸、場所はいろいろ。
なめるときは舌を出せと怒る。
「もういい、ベロ」
体中なめてまわる私に、奴は微笑む。私はベッドに腰かけていた奴の足の骨を辿るようになめていたけれど、膝立ちになった。
私は奴の顔の前で舌を出す。観察するようにじっと、舌と、目を見られて、包み込むようにねっとりとなめまわされた。
こんなキスは、普通じゃないと思う。私はキスだと思えない。前の人はそれだけで体が熱くなってベッドに誘いこまれたけど、こんなにじっと見られたりしなかった。だけど奴はじっと、獲物を狩る肉食獣のようにじっと、なめる。だから私もじっと見つめ返して、なめる。
味わうっていうのは、こういうことをいうのかもしれない。満足したのか、奴は私から離れた。濡れるのは好きでも、触れ合うのは嫌い、抱き合うのも嫌い。変わってると思う。
こんなに裸に近い状態で見つめあっても、セックスする訳じゃない。
「昨日も探しに来てたよ、彼氏」
「……なんて、いってた?」
「返せだって、お前を。バカだよな、どうせ捨てるつもりなのに」
にやりと嘲笑う。その姿にぞっとした以前の私を思い出して、私も嘲笑った。
「お前は誰にもやらないよ。ずっと、ここにいればいい。逃がしはしない」
わかる? そう問うように首を傾げ、笑みを浮かべた。
砕いた希望と、眠れなかった夜の時間を返してほしい。
そうしたら、もう少し幸せだったろうから。
「にげないよ。心配なら首輪でもつける?」
「そうだね、考えとく」
前の人は、キスが上手。とろけて、熱くなって、涙が出るくらい幸せで、絶対この人と結婚するんだって思ってた。
私よりも前に、そう思って現実にした人がいることは、この部屋に逃げ込んだ日に知った。
愛してるっていった。ただ、それをいう相手がもうひとりいただけだ。
「すき、」
「……」
「あいしてる」
私がそういうと、奴はものすごく嫌そうな顔をした。私はもう、何も思わない。暗い部屋の中で黒く光る瞳をただ見つめ返す。
「もう、いうな」
「なんで?」
「……軽いから。俺は、そんなもんいらねー」
温もりのない部屋と、閉じてしまった私。
出会う前に戻れないだろうか。何も壊れていなかった世界へ。
戻れたらいい。そうしたら私は『彼女がいますか』と『結婚してますか』という質問を忘れたりしない。
戻れたらいい。そうしたら私はこの部屋には来ない。帰る場所がなくとも、雨に濡れても、倒れようとも、奴には拾われない。
「……かんでもいい?」
ぼそりと呟いた。奴は嘲笑う。私は泣きながら、奴の首に噛み付いた。
痕が残ればいい、そう思った。
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