子探し
野原の真ん中。
廃棄され、放置されてある冷蔵庫。
その上には、仔猫が三匹たわむれている。時刻は真夜中、草木も眠る丑三つ時。不気味な風が漂ってきて、その風に反応するように、三匹仔猫は時計回りに三度回り。「にゃあ、にゃあ、にゃあ」と三回鳴いた。それから、今度は反対回り。三度回って、また三回。声を揃えて、「にゃあ、にゃあ、にゃあ」。ゆっくりと後を振り返る。
野原の真ん中。廃棄されある冷蔵庫。その先には真っ暗な森。三匹仔猫は、その先を見据える。
その先にある森は、通常では辿り着けない別世界。オバケが住んでるオバケの森。今、仔猫たちによって道が開かれたのだ。
私は仔猫たちに「ありがとう」と、お礼を言って、鰹節を一山お皿に盛って渡した。仔猫たちは「にゃあ、にゃあ」言いながら、それをその場で食べ始めた。
私はそれを見て可愛いなとそう思う。しばらくその光景を眺めてから、少し目を瞑った。それから、決意を固めると、オバケの森をキッと睨んだ。
子供を取り戻さなくちゃいけない。
オバケの森は暗かった。用心しながら、私はその暗い森を行く。なかなか、懐かしいじゃありませんか。
しばらく進むと、ポケットで携帯機がピカッと光った。旦那だ。「何よ」と言うと、声が漏れた。
「大丈夫か?」
「大丈夫よ」、と私は答える。なにしろ、ここは、かつて私が幼い日を過ごした場所なんだから。
旦那はなんだか、ポータブル。私はオバケに育てられた過去を持つ人間の女で、なんでオバケの森を歩いているのかといえば、子供がオバケに連れ去られてしまったからだ。だから三匹仔猫に頼んで、オバケの森への道を開けてもらったのだ。
子供を連れて行ったのは、多分私のママだと思う。根拠はないけど、私にはなんとなくの確信があった。でも、子供を連れ去られる隙を作ってしまったのは、或いは私なのかもしれない。そう思ってもいる。母性。きっとそれは、それに関わる何かだ。
「そんなに気にする必要もないよ」
ポケットが光って旦那がそう言った。私が悔やんでいるのを察したらしい。ポータブルな癖に敏感だ。私がそれに応えず、無言のままでいたからだろう。旦那はその沈黙の重圧に耐え切れなくなったのか、続けて誤魔化すようにこう言った。
「しかし、どうしてまた、僕はこんな姿にならなくちゃいけないのだろう」
「何言っているのよ。ここに来れただけでも、ありがたく思わなくちゃ」
普通の人間は、ここには来られない。だから旦那はポータブルになっている。私がこの森への入り方を知っていて、生身で何の苦労もなく入れているのは、私が幼い日に、ここでオバケに育てられたからだ。迷子になったか、捨てられたのだったか、とにかく、私は人間の両親の顔を知らない。オバケのママの許で育ったのだ。
別にそれを悲しいと思った事はない。オバケのママは優しかった。
ただ、こうして成長して人間社会の一員となり、人の親となってみてふと思うコトもある。
私がオバケの森に迷った時、両親は私を探さなかったのだろうか。どんなに必死に探しても見つからなくて、それで諦めるしかなかったのだろうか。
それとも……。
その時、またポータブルな旦那が光った。
「母性を人間にとって、普遍的なものじゃないという人が、時々いる。子供を大切にする母親という像が作られたのは、実は近年に入ってからの事だというのだな。つまり、文化によって作り出された幻だと。
そういう人達は、こんな例をその証拠として挙げる場合がある。その昔は、子供の価値は小さかった。だから子捨ても普通に行われていたし、売られるような事もよくあった。そもそも、抵抗力のない子供は死んで当たり前のものでもあった。人間として扱われなかった時代すらもある。
さて。君はこれをどう思う?」
よく喋る旦那だと、私はそう思った。
「電池がなくなるわよ」と、だから忠告してやった。
「あと、十時間以上はもつよ。質問に答えてくれ。君は、これをどう思う?」
「言い過ぎだと思うわよ。人間どころか、子供を産み育てるという性質を持つ、哺乳類には母性が本能的に備わっている。
ただ、ある一面から言うのなら、文化的な幻というのは、正しくもあると思う……」
「つまり?」
「つまり、その“母性”という本能は、働かない事もあるのよ。だけど、働いていない場合も、社会が決めた文化の方で後押しして、母親の役割を遂行させようとする。
あ、断っておくけど、“母親の役割”は、何も女ばかりが担う訳じゃないからね」
「分かっているよ。僕だって、子供を可愛く感じるからね。つまりは、男にだって母性は存在するんだ。生理的な意味でも。文化的な意味でも」
「子供を育てる倫理観が徹底されていなかった時代には、酷い目に遭っていた子供はかなりたくさんいたのだと思う。子供の価値が低いから、子供がいなくなる事件だって普通に起こっていたはず。
そして、子供が連れ去られ、いなくなる事にリアリティがあったその時代。“子供をさらう何か”の存在は、活発に活躍していた。
私のママは、そんな時代のものなの。そして、そんな時代のものが、なんでか今に蘇って私の子供をさらってしまった。それは、つまり、私に問題があるからだと思う……。何故、あの子の中で、そんなものがリアリティを持ってしまったのだろう」
「それが気にしすぎだと僕は思うんだ」
ポータブルな旦那は、少し激しく光りながらそう言った。多分、旦那なりに気を遣っているのだろうけど、少々やかましくもある。私は考えに集中したいんだ。と、ちょうどそう思った時だった。綺麗な満月が見えた。少し開けた場所に出たのだ。
まだ喋ろうとしている旦那に「ちょっと待ってて」と言うと、私は視線を下に向けた。すると、そこにも丸い月が。暗い水面に揺れる月。月がなければ気が付かなかった。ここには、少し大きな池があるのだ。そして私は思い出した。この場所には見覚えがある。確か、ここには水のオバケが住んでいるはず。
旦那がまた何かを語り出そうとするのを「待って」とまた止めて、私は小石を軽く池に向かって投げ入れた。そして、「もしもし、もしもし、少し顔を見せてくれない」と、そう小声で言ってみた。ここのオバケは気が小さい。
すると、一瞬の間の後に、水のうねる気配があって、それからゴポポと何かが水面に顔を出した。
水のオバケだ。
「なんで、人間がこんな処にいるんだい?」
怯えた口調。水に深く浸かって、自分の安全を確保したまま、水のオバケはそう言った。私はそれにこう返す。
「そんなに怯えないで。私はあなたに何もしないわ。そんなに遠くにいないで、もっと近くで話さない?」
すると、水のオバケはバチャバチャと音を発てて、首を横に振った。
「嫌だね、嫌だ。人間は、そういってぼくらを油断させて、取って食べるのだもの。そうに決まっているんだ。猫とか、犬とか、牛や馬に豚。人間はそういうのを食べてしまうんだ。ちゃんと知っているんだから」
私はそれを聞くと数度頷く。
「そうね。その通り。人間は、そういうものを食べたりする場合もある。でも、あなたは少し誤解している。場所によっては、そういうのを食べるのを禁忌としている事だってあるのよ。なんでだと思う?」
それを聞くと、水のオバケはバチャバチャと音を発てた。
「知らないよ、知らないな。そんな話」
「あら、そんなに難しく考えなくて良いのよ。とっても簡単な話だから。答を言っちゃうとね。人間は、そういう動物と友達になる場合があるのよ。そういう人間達は、その動物達を食べたりしないの。友達だからね。当たり前でしょう?」
宗教的な理由以外でも、ある特定の動物を食べるのを暗黙の了解、或いは、法律などによって禁止している場合がある。例えば、狩猟民族では、犬は重要な狩りのパートナーだから、犬食文化を否定する傾向にある。騎馬民族でもこの話は同じで、また猫や犬を愛玩動物とするのが定着している文化でも同じく似たような傾向にある。
これは逆を言えば、自分達にとって重要な存在だけを食べないで、護ろうとする傾向が人間にあるという事だ。つまりは、利他行動でありながら、それはエゴなのだ。
ちょっとの間の後で、水のオバケはこう言って来た。
「分かるよ。分かる。その話は。でも、それと今の状況とが、どう関係あるってのさ」
その台詞に私は笑った。そう水のオバケが言ってくるのを待っていたのだ。
「あら。忘れちゃった? 私はここのオバケと友達なのよ。ずっと昔に、この森に住んでいた事があるの。あなたとだって、一緒になって遊んでいたわよ」
それを聞くと水のオバケはバチャバチャと、大きく音を発てて騒ぎ出した。目を大きくして。
「おー、おー、覚えているよ。君か、君か。随分と大きくなって」
少し興奮したのか、それから辺りをクルクルと泳ぎ始めた。そして、クルクルと泳ぎながら、機嫌良さそうにして。
「懐かしい。懐かしいな。その後、どうしている? また、ここに戻ってきたのか? また、ここで一緒に住むのか?」
このオバケは、とっても臆病だけど、好奇心が豊かで、上手く話に乗せるとこんな感じで簡単に心を許してくれたりもするのだ。
「違うの。それはできないの。私はもう人間社会のものになっちゃったから。実はね。私の子供がこの森で迷子になっちゃったの。だから、迎えきたのよ。それで、最近、この森に迷い込んできた人間の子供を、あなたが知らないかと思って、あなたを呼び出したって訳」
それを聞くと水のオバケは、泳ぐのピタリと止めて私をじっと見つめた。かなり傍まで寄って来ている。
「自分の子供がいないのか?」
「そう。いないの」
「寂しい?」
「寂しい」
私がそう言うとトプンと水のオバケは水の中に一度沈み込んだ。それから、少し離れた場所に浮かび上がってくる。
「うん。……うん。信じる。信じるよ。子供がいなくなるのは寂しいものな。それじゃなければ、こんな所まで来たりはしないものな」
その場所で、水のオバケは数度頷く。それから少しの間の後でこう言った。
「ボク自身は人間の子を知らない。でも、君のママなら、ここから北に進んだ先にいる、木人たちと一緒にいたよ。君は多分、君のママを探しているのだろう? 君は、君のママが自分の子供をさらったと思っているから」
私はそれを聞いて少し驚いた。どうして、そんな事が分かったんだろう。でも、直ぐに思い直す。ここの森のオバケたちなら、そんな事くらい分かって当たり前だから。ここの森のオバケたちなら。
去り際に、水のオバケは私に向けてこう言った。
「忘れちゃ駄目だよ。君は、君の親にされたのと同じ事を、君は君の子供にしようとしてしまうんだ。それから逃れる為には、君は自分自身を子供に押し付けちゃいけない。なぞっちゃいけない。怖がっちゃいけない。抱きしめてあげて……」
私はその言葉を聞くと、「ありがとう」とそう言って、北に向かった。しばらく歩くと、旦那がまた話しかけてきた。
「さっきの話の続きだけどね」
「何よ」
流石にこれ以上、無視する訳にもいかないので私はそう返した。すると、旦那はこんな話をし始めた。
「君は気にしすぎだと思うんだ。あの子がいなくなったのは、君に母性がないからじゃないよ。君は可愛いものが大好きだ。ここに入る前に見た三匹仔猫たちの事だって、あんなに愛おしそうに見つめていたじゃないか。
それに、さっきの君の話でもあったけど、人間は愛玩動物を食べようとしない。それは一部は母性による。君は仔猫を食べたりできないだろう? それは君自身に充分、母性があるからだと思うよ。あの子だって、それをきっと分かっていたはずだ」
聞き終わると、私は「電池の無駄」とそう言った。旦那はビクリと反応する。それから私はこう言う。
「そんなの分かっているわよ」
ちゃんと分かっている。
私はそう言った後で、少し冷たくし過ぎたかと反省をした。
「……ごめん。ありがとう。心配をしてくれて。
でも、多分、あの子が去ってしまったのはそういう事だけじゃないの。私には母性が充分にあったのかも知れない。でも、それでもあの子は私の母性に関わる何かで、オバケの世界を呼び出してしまったのじゃないかと思うの。さっきの水のオバケの話を思い出してみてね。
水のオバケは、私が自分の母親…… 人間の母親にされたのと同じ事をしてしまうと言っていた。きっと、重要なのはその点なのよ。だから、私と同じ様に、あの子はオバケの森にさらわれたのかもしれない」
それを聞いても旦那は何も答えなかった。気配で、なんとなく何かを考え始めているのじゃないかと察した。何を考えているのだろう? その間に何となくの居心地の悪さを感じた私は、それを誤魔化す為に木人の話をし始めた。少し自分らしくもない、と思いつつも。
「ママが木人たちの所にいるというのは、もしかしたら少し厄介かもしれない。彼らは思考パターンが特殊なのよ。集団と個人の意思を分けないというかなんと言うか。
きっと、植物だけあって、どこかで皆が繋がり合っているからそうなってしまうのじゃないかと思うのだけど。集団の制度に関わるような事でも、同じ様に個人を責めるの。それが正しいと思っているのね。私達なら、社会が悪いで済ませる事も、彼らには通じなかったりする訳」
そう言い終えても、旦那は何も返さなかった。私は少し不安になる。もしかしたら、怒っているのかもしれない。しばらく歩き続けてから、私は旦那に向けてこう言った。
「ねぇ、何とか言ったら? まだ、電池はもつはずよ」
木人たちの居る場所までは、まだ少し距離があった。それまで、こんな嫌な沈黙が続くなんて耐え切れない。それを聞くと、旦那は慌てて反応をした。
「いやいや、ごめん。ちょっと考え事をしていたものだから」
それは分かっていたけれど。
いつも通りの旦那の様子。怒っているような素振りはない。私はそれに安心をする。そして、こんな事を思う。分かっていたのに、それでも不安に耐え切れなかったのは、私が人間関係を怖れているからなのかもしれない、と。
「どんな考え事をしていたのよ?」
「進化の話を思い出していたんだ。進化が必ずしも遺伝子によってのみ行われるのじゃないという話を」
「なんで?」
「ほら、さっきの話さ」
「さっきの?」
「親が、自分が子供の頃にされていたのと同じ事を、子供にしてしまうという話。実は、幼児虐待された事のある人が、親になって自分の親と同じ様に幼児虐待してしまうという現象が、実際に起こっているらしいんだ。水のオバケの話は、もしかしたら、それだったのじゃないかと思ってね」
「ちょっと待って、分からないわ。それがどう進化の話と結び付くの?」
そう私が言うと、旦那は少しばかり激しく光りながらこう答えた。
「ネズミの行動の遺伝が何によって行われるかを試した実験があるんだ。その実験では、幼い頃に熱心に世話をされて育ったネズミは、親になってから熱心に子供の世話をするという結果が見られたらしい。遺伝子に関係なくね。行動の学習によって、遺伝が起こっていると捉えられるけど、僕はこれを幼児虐待の話と結び付けられないかと思ったんだ。
幼児虐待された経験を持つその人は、自分ではそんな事をしたくないのに、刻印されたその行動を自分でも行ってしまう。もちろん、自分自身をコントロールできている人なら話は別なんだろうけど、“弱さ”を克服できていない人だと……」
そこまでを聞いて、旦那が何が言いたいのか分かった気がした。
「つまり、動物に備わった、経験した行動を反復するという性質で、親は子供に同じ事をしてしまう、と。なら、私もそれと同じかもしれないのかしら」
「そうは言ってないよ。
ただ、そういう話もあるって事さ。それに、後天的特性の遺伝は、何も個人の行動反復によってのみ行われるものでもないからね。環境自体が遺伝要因にもなる。例えば、この社会自体が人間をそのように変える。これは、後天的特性が遺伝しているとも捉えられる。僕らは日本語を話すけど、これは社会によってもたらされた“遺伝”だろう?」
社会によって、行われる遺伝。
私はそれを聞いて、考える。今の時代は、共働きが当たり前に見られるようになってから随分と経つのじゃないだろうか。正確には分からないけど、その世代に育った子供たちは、多分きっと既に大人になっている。そして、人の親にもなっているはずだ。
なら。
その世代の人間達は、自分達の経験をどう子供に伝えてしまうのだろう?
私。
私は、もしかしたら……。
そんな事を思っていると、不意に目の前の木が動いた。
「痛い」
鈍く、そんな声が響く。見ると、私はその木の根を思いっきり踏んでいた。
「ごめんなさい」
そう言って、慌てて足を上げる。いつの間にかに、木人たちが居る場所まで辿り着いていたんだ。
木人は私を見ると、ゆっくりとした口調でこう言った。
「これは驚いた。久しぶりだな」
どうやら私を覚えてくれていたよう。これなら話は早い。
「お久しぶり、木人さんたち。よく私だっと分かったわね。こんなに姿が変わっているのに」
私がそう返すと、別の場所で声がした。
「分かるさ。我々は、長い時間をかけて色々なモノを観てきたからね。何がどう変化してきたのか、その痕跡を拾い上げるのが巧いんだ」
顔を向けると、木に目が生えて、私を見ているのが分かった。それを受けて、私は声を弾ませた。
「実はね…、私がここに来たのはっ」
子供を探しに来たと、そう言うつもりだった。しかし、別の声がそれを遮ってしまった。
「我々は色々な事が分かる。お前の子供がここに来たのも分かった。我々は、特徴を捉えるのが巧いんだ」
え?と、それを聞いて私は思う。
するとまた別の木人が。
「我々は色々な事が分かる。お前の子供が、お前と同じ理由でここに来たのも分かった」
そして、また別の木人が。
「我々は色々な事が分かる。お前の子供が、オバケのママを呼び出したのだ。お前がそうしたように」
私はその声に戸惑った。
「何処に? 何処に、私の子供はいるの?」
そう叫ぶと、笑い声がした。
「既にここにいるさ」
「お前には分からないだけ」
「お前が見ていないだけ」
私が見ていないだけ?
「我々は色々な事が分かる。お前が、子供を取り戻しに来たという事も分かった。だが、しかし……」
だが、しかし?
私はその言葉に不安を覚えた。その時、白い風がビューッと流れた。その白い風には、一番の思い出があった。
ママだ。
木人が言葉を続ける。
「だが、しかし、お前に子供を取り戻す資格があるかどうかまでは分からない」
ママの風に吹かれて、私は遠い昔を思い出した。
誰もいない部屋。
寂しい、寂しい、夕焼け空。急速に暗くなっていく世界。私は、独りぼっち。お母さんはいなかった。
私は涙を流していた。
そう。
だから私は、ママを呼び出したんだ。
オバケの森のママを。
オバケの森の暗い空。ママが広がっているのが分かった。半透明。空気みたい。白いママが広がっている。
私はそのママに向けて言った。
「お願いママ。私の子供を返して」
ママはニコニコと笑っていた。子供の頃のように優しく温かい。
でも、
でも、何も返してはくれなかった。
「労働力不足」
ポケットの中で、ポータブルな旦那が光って言った。
「女性の社会進出は、その需要とも一致して確実に拡がったようにも思える。しかし、それは同時に少子化問題を加速させた。子供の世話にかかる費用の膨大さ。
そして、兄弟もいない、母親もいない、独りぼっちの子供。学校が終わり、家に戻るとそこには誰もいない。
親が帰ってくるまでの間、その世界には自分一人しかいない。まるで、見捨てられたかのような気分になる。
恐らく、その場所。その世界こそが」
――つまりは、オバケの森。
木人たちが言った。
「お前は、子供を見捨てた」
一斉に。
「違う」
私は答える。
それは時代の流れ。共稼ぎにしなければ、子供を抱えての生活は維持できない。だから。
「違わない」
木人たちは答える。
そう。木人たちには、この社会が悪いという言い訳は通じない。
ポータブルな旦那がまた光った。
「豊かになると、子供を大事にする文化は社会全体に定着していった。子供の、見捨てられるかもしれないという恐怖は、もう過去のものになったかに思えた。だけど、社会はこんな形でその“子供が見捨てられる”世界を復活させてしまったんだ。しかも、ある意味では、よりリアルに当たり前の日常の中に」
私はママを見上げてみた。
相変わらずに、ニコニコと笑っている。ママ。優しいママ。
「独りの世界。隔たったその世界に育った子供。どんなに子供を可愛く思っても、お前とその子供の世界はずれていく。
お前の子供なら、そこにいるぞ。
ほら、お前のママに護られている。見えないのか?」
木人の一人がそう言った。
よく見てみると、確かにママの足元に何かの存在があった。小さくか弱い者。でも、それはどう見ても私の子供には見えなかった。オバケの子供だ。
私がその姿を認めたのを察したのだろう。木人の一人がまた言った。
「お前が、“あれ”を連れて帰りたいのなら、そうするがいい。お前のママだって、それを止めはしない。しかし、自分は悪くないと思っているお前に、それができるか? 例え、連れて帰っても、お前とお前の子供の距離が隔たっていれば、本当に連れて帰った事にはならないのだぞ。
お前の子供は、存在しない親に育てられたオバケの子供だ」
私は、オバケの子供になってしまった私の可愛い子供に近付いていった。近付いても、それはオバケにしか見えない。
爬虫類のような肌。無機質な視線を私に向け、そして私を怖がっている。
大丈夫。
私は自分に言い聞かせる。
この子は、私の子供だ。オバケの世界の存在じゃない。
「大丈夫」
その時、旦那が言った。
「この子は、僕たちの子供だ。オバケの世界の存在じゃない」
――水のオバケの話を思い出すんだ。
「抱きしめてあげて」
私はそう呟いた。
そう。抱きしめてあげないと。
私は子供の手を引いた。抱き寄せる。この子を他の世界に追いやってしまったのは私自身なんだ。恐らく、私が拒絶した。だから、この子は私を怖れた。だから私は、この子を抱きしめてやらないといけない。
ぎゅっ
その時、ママが空からゆっくりと降って来た。そして私を、私の子供と共に包み込んでいく。
そうか。と、私は思い出す。
これは、まだ私がとても小さい頃に体験した世界。お母さんに抱きしめられて眠った、あの安心すべき世界。
木人たちの声が聞こえた。
「そうだ。それだけでいい。物理的に、単純に触れ合う事。誰にでもできる。それだけの行為。
お前は、たったそれだけの行為を忘れていたんだ……」
光りの中に、やがてオバケの森は溶けていった。もう、木人たちの姿も見えない。光りの向こうに、星空が見えた。街並み。当たり前の日常の世界。
私は子供の手を握る。子供が私を見上げた。不思議そうな顔をして。私はその顔が可愛くてしかたなくて、また思いっきり抱きしめた。
私は大好きだ。この子の事が。
ポータブルな旦那が言った。
「さて、戻ろうか。
君もかもしれないが、明日も仕事なんだ。少しでも寝ておかないと」
それを聞くと私は言った。
「あら、私は休むわよ」
微笑む。
「それくらいの時間を作るのは、何でもない事だしね」
私は子供の手を握っていた。
力強く。